目の前に差し出された皿の上には、真っ赤な肉が少しの野菜と共に添えられていた。最近になって新しい趣味を見つけたのだそうだ。きっと彼のことだから、また短期間で突き詰めてしまって、来週くらいには素っ気なく、興味を持てなくなりましたとでも言うのだろう。にしても、この皿に盛り付けられた肉の生々しさに不安を覚える。人は火の通っていない肉を口にすることは滅多にない。人に害をなす寄生虫やらが潜んでいる恐れがあるからだ。一番分かりやすい例としては、生魚に寄生するアニサキスという寄生虫がいる。充分に加熱しなかった生魚の身から体内に侵入し、胃を食い破るのだとか。それらを体内に入れてしまったが最後、激痛を伴い、例え病院に運ばれようともその苦しさからは容易に逃れられないと。一瞬にしてそのようなことが頭を駆け回るほどに、目の前の皿の肉を恐れていた。
 物事を突き詰める傾向にある彼が何故、そんな初歩的なところでつまづいたのか、理解出来なかった。それとも、こう見えてしっかりと下処理が施されており、ほぼ生で食せる工夫がしてあるのだろうか。分からない。分からないが故に皿の傍に置かれたフォークに手を伸ばせない。すると、今度は真っ赤な飲み物が入れられた水差しを傾け、コップに中身を注ぎ入れる。彼のこだわりが見て取れた。

「驚かれるのも無理はありません。どう見たってその肉は生にしか見えませんからね」

 彼の言う通りだ。冒頭の真っ赤な肉に一切の焼き目が見られなかったのだ。専門店では生に近い焼き加減で肉を提供する場があるらしいが、彼はその道のプロではない。昨日、今日で料理を始めた素人なのだ。

「僕は過去に美味しい生肉をいただいたことがありました。それは舌の上でほろほろと崩れていくような柔らかさと、強く惹き込まれるほどのしっかりとした肉の味がするんです」
「もしかして、荒井くんが食べたのってこれなの?」
「ええ、幸いなことにあの時の生肉を入手することが出来ましてね。この肉の美味さを共に分かち合いたいと思ったのですよ」
「ふうん」

 まるで血で満たされたようなグラスが差し出され、グラスの中でそれが一度だけ大きく揺れては緩やかに収まっていく。彼の説明を聞いて少しだけ納得出来た部分があった。けれど、やはり恐怖は拭えない。この二人きりの食卓に並ぶのはどれも赤い、血を連想させるようなものばかりだ。緊張感に誘われて、辺りの物音の少なさに不気味さを思う。まだ明るい時間であると言うのに、その静寂がやけに恐ろしいのだ。窓の外は平和そのものだと言うのに。やけに部屋の薄暗がりがどこまでも続く深いものに感じられ、明暗の狭間に取り残されている。

「だから、是非召し上がってください」

 二人きりの食卓、清潔であるはずのテーブルクロスが冷たい印象に変わる。皿は一枚、勿論彼の前にそれはない。自分の目の前に差し出されたまま、置き去りにされている。つい先程、切り取られたかのように真っ赤な肉。いつまでも手を付けないわけにはいかない。折角、招いてくれたのだから。折角、自分の為に彼が作ってくれたのだから。ナイフとフォークをそれぞれ両手に取り、柔らかなそれを切り込んでいく。音を鳴らさぬよう、極力気をつけながらまずは一口分の肉がフォークに突き刺さったまま、宙で静止している。

「みょうじさんは菜食主義者ではなかったと思いますが」

 穏やかな口調であるのに、こちらを見る眼差しは冷ややかだ。薄い唇、色素の薄い肌、鬱蒼とした表情、向けられた懇意。親切であるはずが、その親切に強いられている。拒むことを許されていない。ならば、取るべき行動はただ一つ。食べる他にない。恐る恐るフォークの先端を食む。舌先に乗った肉をやんわりと咀嚼すれば、一瞬ぎらりと彼の目が光った気がした。見間違いだろうか。

「どうですか、美味しいでしょう」

 彼の言葉に誘われるように、世界が一変する。たった一枚の薄い肉からほとばしる旨味に声が出なかった。血なまぐさいと勝手に思い込んでいた自分が愚かに思えるほどに、その肉は美味しいものだったのだ。一口では足りないと次を欲張った。今度はナイフでカットすることさえせずに、まるまる一枚口の中に収めてしまえば、口の中一面に広がる旨味に生きる喜びを実感した。ほしい、次が欲しいと浅ましく彼を見た。とても満ち足りた顔で食事風景を眺めている。

「おいしいですか、みょうじさん」
「す、すごく美味しい。このお肉ってどこのお肉なの……?」
「それは言えません」
「荒井くんはこのお肉を他所で食べたことがあるって言ってたよね……?そのお店の場所は……?」

 次が欲しくてたまらないのだ。次があることを約束したい、ただその一心だった。けれど、彼は首を横に振るばかりで詳細を話そうとはしなかった。

「随分と昔の話ですよ、それは」

 次が約束されない、こんなに残酷なことがあるだろうか。まだ口内にはあの肉の存在感や舌触りが余韻として残っている。手にしたフォークやナイフを手放せないのは、この一枚に未練があるからだ。けれど、諦めなければならないとそれらを皿にまとめて置いたところで気付く。辺りの異様な静けさに。そう言えば、この家に上がった時から違和感を感じていた。家と言うのは、生活の場所だ。家族と言う集団が、各々が生活すべきテリトリーであると言うのに。
 しかし、どうだろう。通されたリビングからは生活感がしないのだ。まだ明るい時間なのだから、家人が仕事に出ているだけだと思うのが普通だ。けれど、それすらも有り得ないような気にさせられるほどに、誰かの生活の痕跡が感じられない。

「僕はずっと待っていたんです」

 何を?と聞くよりも先に浮かぶ場面がある。それは先程、自分が肉を口にしている時の彼の表情だ。無表情を貫きつつも、ギラギラと好奇心に光る瞳。口にした肉をきちんと咀嚼し、きちんと飲み込んだかどうかを確かめている眼差し。そして、何かをやり遂げたと言わんばかりの僅かな笑み。嫌な予感がする。

「八百比丘尼の話はご存知ですか」
「やおびくに?」
「ええ。昔、人魚の肉を食べて不老不死になった尼の話です」
「ううん、知らない。でも、どうして今その、八百比丘尼の話になるの」
「僕は待っていたと同時に確かめてみたいことがあったんですよ」
「確かめてみたいこと?」

 すると、彼は自分の昔話をし始めた。未だに分からない、会話に出てきたばかりの八百比丘尼や人魚の話が彼の話にどう繋がるのか。彼は、荒井昭二は語った。遠い昔の夏のこと、彼は友人に誘われ、青森の牧場を訪ねたと。そして、偶然にもその地で人魚と遭遇したという話を。しかし、だ。彼の話には疑問点がいくつもあった。この現代に人魚なんて空想上の生き物が本当に存在するのだろうか。それに何故、その牧場は人魚を匿っていたのか。話を聞いていると、人魚は伝説の通りに不死身で、何度その身を切り取られようとも再生するのだとか。
 けれど、その肉を食すことに一体何の意味があるのだろうか。自分ならば、そのような非現実的な存在と遭遇したら真っ先に然るべき場所へと提供してしまうだろう。いつまでも付き合っていい存在ではない。ならば、今後の人類の発展の為に貢献してもらうべきだと思っている。仮に、その肉を食べることで同様に不老不死になるのならば話は別だが。それに今は昔ほど食糧に困る時代でもない。珍しく彼にしてはあまりにも説得力がなかった。なさすぎる。こうして、食事に誘って貰えたのはとてもありがたいが、突飛すぎる話題にはついていけそうになかった。

「それで荒井くんは何を確かめたかったの」
「僕はね、その青森の牧場で人魚の肉を口にしているんです」
「じゃあ、荒井くんは不老不死なの?」

 ──── ええ、そのようです。
 何気なく叩いた軽口だった。本当に他愛もない、ただ間を繋ぐだけの相打ちと何ら変わらないほどの、軽い返事だった。彼は物事に夢中になると、周りが見えなくなってしまう節がある。それは前から知っていることだったが、恐らく今回もそうなのだろう。駄目だ、付き合う気になれない。彼の話を聞いている間にも、内心口にした肉のことばかりを考えていた。あの舌先に乗った瞬間の、味覚に染み渡る肉の旨味が忘れられない。ああ、こんなことならもっと大切に、一口一口食べればよかったと密かにため息を逃がす。

「信じられないでしょうね。それに、みょうじさんは僕の話より、まだあの肉のことを考えているように見える」
「えっと、ごめん。そんなつもりは、」

 容易く見透かされていることに驚く。本当に申し訳ないと心から謝罪すると、彼自体も怒っているのではなく、目の前の現実をどこか吟味しているように見えた。彼はずっと一体何を見ているのだろうか。あの視線が一時たりとも自分から外れたことはない。

「みょうじさんが先程から心を奪われている、あの肉ですが、」

 ──── あれはね、ぼくのにくなのですよ。
 感情の欠落した表情が僅かに口角の上がった微笑みへと変わっていく。ぼくのにく?この世のものとは思えないほどの極上の旨味を持つ、あの肉が?そもそも、どうして彼はあの肉を自分の体の肉だと言い張るのだろうか。明らかにおかしな言い分であると分かっていたが、不思議と彼の言葉に信憑性があり、否定出来ないでいる。もし、本当に自分が彼の、荒井昭二の肉を口にしたとして、何故彼は自分の肉を他者に食べさせようと思い立ったのか。

「そういうの、面白くないよ。荒井くんだって、分かってるじゃない」
「嘘だと思われても仕方ありません。僕でさえ、今が嘘か誠か見抜けずにいるのですから」
「……ねえ、今日の荒井くん変だよ」
「変、ですか。そうでしょうね、でもこれからはみょうじさんも変になるかもしれない」
「だから、」

 そんなよく分からないことを言うのはやめて、と言い切るつもりだった。しかし、次の瞬間に目に入ってきた光景に絶句する。彼は自分が置いたばかりのナイフを手に持ち、好奇心に塗れた瞳でこちらを見ていたのだから。

「僕が確かめたかったのは、みょうじさんにも伝染したかどうかですよ」

 静かに席を立ち、後ろ手にナイフを隠し持ち、こちらへと近寄る。伝染?一体何のことだ、彼は何をしようとしているのだろうか。椅子から立ち上がって逃げればいいだけの事だった。しかし、彼の発する突き刺すような殺意に体は愚かにも硬直し、逃げることを許さなかったのだ。そして、自分の正面にやって来た彼は後ろ手に隠していたナイフを持ち替え、真っ直ぐ一直線に突き刺した。鈍く突き破られる感触。めりめりと肉と骨にくい込もうがお構いなしに、ただ単純に力で押し込んでいくのだ。所詮は食器のナイフだ、本物のそれとは切れ味が格段に違う。使い勝手も悪いそれが無理やり押し込まれた先にあった、大切に切っ先が触れ、意識が遠のいていく。
 彼の静かな一撃を受け入れると共に死をも受け入れてしまったのだ。咄嗟に逃げ出せなかった自分を恨みながら、遠のく意識を留めておくことも出来ずに椅子から転げ落ちた。傷口は熱くて痛くて辛くて、残りの命を全て引きずり出されたような痛みが絶望を実感させた。そして、事の終わりと言うように彼はこの胸に突き立てたナイフを抜き、血飛沫を浴びても顔色一つ変えずに黙って床に転がる死体を見下ろしている。

「では、またあとで」

 この瞬間、また一つ世界に呪いが産み落とされた。少年の好奇心のせいで歪な生き物が生まれてしまった。図らずも実ってしまった呪いに、数時間後に目覚めることとなる彼女はもう二度と幸せにはなれないと残酷な現実を突きつけられるのである。



| Folie à deux |


back