手が、ふるえている。わなわなと、ぶるぶると誰がどう見ても酷い手の震え方をしている。新聞部の部室には、彼と自分以外に姿はなく、重苦しい静寂の中で押し潰されそうになっていた。ひとつ、ふたつ、自分の行いを省みる。そのどれもが彼の気にそぐわなかったのではないかと、恐れている。余裕のない自分とは違い、鉄のパイプ椅子に腰掛ける彼は至って涼しい顔をしていた。けれど、あの胸の内は激情に塗れており、間もなくそれが自分に向けられるだろう。

「みょうじ、どうした。顔色が悪いぞ」
「そ、そんなことは、」
「じゃあ、どうして怯えているんだ?」
「……ごめんなさい」
「いや、謝ってほしいんじゃない。本当に大丈夫か?」

 優しい声音で、優しく追い詰められていく。目の前にいるのは、誰もが知る日野貞夫本人だ。しかし、なまえに問いかける日野は誰もが知る日野貞夫ではない。
 みょうじなまえは失敗を犯した。決して犯してはならぬ失敗だ。だから、その失敗を咎めるのがこの日野で、なまえは彼の考える罰が自分の想像するものと全くの別であってほしいと願っていた。真綿で首を絞める、日野貞夫にとっては容易いことだった。

「お前、しくじっただろう」

 もう既にこの首には真綿が巻き付けられていた。彼は新聞部の副部長であるが、自分は新聞部の一員ではない。ならば、この関係性は何なのだろうかと疑問に思うだろう。日野貞夫には裏の顔がある。非合法且つ危険な部活動を営んでいる、恐ろしい裏の顔が。それは殺人クラブと言った。そのクラブに属すると、自分の気に食わない相手をメンバー全員で報復を果たすことが出来る。尊厳を踏みにじってもいい、身体的に痛めつけてもいい。更には精神的に追い詰め、異常をきたすまで好きにして構わない。ただ、最後には必ず死が待っているのだから、生きている内は思う存分に命を粗末に扱っていいのだ。

「あの時、アイツまだ生きてたぞ。虫の息だったけどな」
「そ、そんな、」
「言ってるだろう?事が済んだら、死んだかどうか確かめろってな」
「わたし、ちゃんと、ちゃんと、……刺したのに、」
「どうしてアイツを選んだんだ。それに、どうして俺の見ていないところで殺そうとしたんだ」

 動機は、とてもシンプルなものだった。『アイツ』と呼ばれる彼が、日野を貶めるような発言をしたからだ。軽い気持ちだったのかもしれない、軽い冗談のつもりで。けれど、例えどんなに軽率であったと詫びられたところで、日野貞夫を貶めた事実には変わりない。許せなかった。みょうじなまえにとって、日野貞夫は命と同等の価値を持つ存在だった。
 日野貞夫がいなければ、今ここに自分はいない。自分を物同然の扱いをしていた彼女は既に亡くなっている。殺人クラブの獲物になってしまったが故に。彼女が獲物になったのは、恐らく偶然である。だが、傍観してばかりの周囲より、図らずも手を差し伸べてくれた日野貞夫こそが救いだった。だからこそ、なまえは殺人クラブのもう一人のメンバーとして、日野の傍にいることを選んだのだ。

「言えないってことは、かなり私情的な理由か」
「だ、だって、彼、日野様のことを、」
「悪く言ってたからか?でも、そんなの気にしちゃいないさ」
「ごめんなさい、また迷惑をかけて、」

 ごめんなさい。と呟けば呟くほど、罪悪感に苛まれた。殺人を犯したことに対してではなく、また日野の迷惑になってしまったことに対して、だ。自分は他のメンバーに比べて、役立たずだ。上手く相手を殺せた試しがなく、いつも足を引っ張ってばかりの役立たずだ。けれど、日野はそんな自分を見捨てずに傍に置いてくれる。それだけがなまえの生きる理由だった。

「みょうじ、ここに来てくれ」

 日野に誘われるがまま、パイプ椅子の正面で足を止める。そして、ゆっくりと床に膝をつき、日野の膝下から彼を見上げた。嬉しそうに笑みを浮かべて、恍惚の表情でこちらを見下ろしている。優越感に浸っているのだろう、人を容易く支配出来るこの状況下でしか感じることの出来ない愉悦に。日野は前屈みになると、肘を膝に乗せて持て余した指先を互いに組み合わせていた。その手の内に自分の心臓を隠し持たれている気がする。

「お前が俺の為に手を汚そうとしてくれたのは、嬉しいさ。でも、それでこのクラブの存在が皆に知れ渡ったらどうする気だったんだ」

 ──── 俺たちの生き甲斐を、お前の気まぐれで台無しにしないでほしいんだ。
 ゆっくりと戒めが、罰が、罪が、鼓膜から体に染み込んでいく。自分のとった行動は結局のところ、迷惑であった。自分の粗末な行いのせいで、一番大切にすべきものを蔑ろにしてしまうところだった。その恐ろしさに涙がこぼれた。高校生にもなってみっともないくらいに、大きな塊の涙をこぼしていた。狼狽える唇で言い訳を唱えてはならない。霞む瞳で赦しを乞うてはならない。愚かな手のひらで祈りを捧げてはならない。歯を食いしばり、己の無知を嘆いてはならない。何も赦されてなどいないのだから。
 絶望は冷たく冷ややかな無味である。日野貞夫は自分に無色透明の絶望を注ぎ続けている。抗うことより受け入れることを選ぶ。決して一滴たりとも零してはいけないと、必死に体の隙間を絶望で満たしていく。あまりの冷たさに壊死してしまいそうだった。何もかもをこの身に詰め込んで、飛び去ってしまいたかった。こうでもしなければ、彼に誠意を伝えられないような気がして。

「みょうじ、」

 抱え切れぬほどの絶望を身に浴びていた時、彼は名を呼んだ。そして、言うのだ。

「でも、お前だけなんだ。俺の為に殺しをするのは」

 新堂、風間、岩下、細田に荒井、福沢。六人もいて、誰一人として自分の為に殺しをしないのだと日野は自嘲する。眼鏡の奥に覗く瞳はどこか虚ろであり、諦観さえ垣間見える。だから、俺はお前を見捨てたりはしない。と呪詛がこびり付く。贖罪故に膝を着いたのではなかった、敬虔故に膝を着いていたのだ。

「このクラブでは俺が正義であり、全てだ。だが、あの六人が裏切らないとは限らないんだよ」
「それなら、わたしが、……私が、」

 ──── 道連れにしてでも殺します。日野様の為に。
 役立たずに残された道はこれしかない。選択の余地など、そもそも無いのだから仕方ない。ただ、自分の敬愛する人に危機が迫っているのなら、身を呈して庇うのが妥当ではないだろうか。自分には、力が足りない。知恵が足りない。体力が足りない。勇気が足りない。信念が足りない。時間が足りない。経験だって全く足りやしない。ならば、それならば、最後に持ち合わせていたもので穴を塞ぐ他にない。奇しくも自分には命が残されている。
 酷く愚かで浅はかな自分を日野貞夫は見つめている。愉悦、恍惚、満たされて仕方がないのだろう。諦観の瞳がやがて慈愛に満ちる。それを向けられているのは、目の前の時限爆弾にだった。次に日野が発したのは、身に余るほどの溺愛。

「本当にお前は可愛い奴だな。だから、放っておけないんだ」

 受け止め切れぬほどの溺愛がぼたぼたと体を伝って流れ落ちていく。辺りを汚すほどに広がっていく溺愛の沼地になまえは一人、尻もちをつき、浸食の喜びに震えている。胸焼けが酷い。胸の奥にはぶちまけたい思いが渦巻いていて、気持ちが悪い。しかし、ふと思う。何故、日野貞夫は人知れずに行った『彼』の件を知っているのか。日野の言う通り、誰にも悟られぬよう立ち回っていたのに。背筋を走り抜けるものがある。
 偶然、なのだろうか。虫の息程度で生き残った『彼』を日野貞夫が発見し、そのまま息の根を止めたのは。まさか、全て仕組まれていた、なんてことはないだろうか。気付かぬ内に差し向けられていたのではないか。全ては日野貞夫の目論見通りに。

「ひ、日野様、あの……、」

 問いかけてすぐ、頭上に手が降ってきた。そして、やんわりと一撫ですると、優しいだけの言葉でこう言った。

「俺にはお前しか居ないんだ、みょうじ」

 だから、次はしくじるなよ。
 鼓膜を震わせる言葉が呪いであると。未だにこの首は真綿で絞められているのだと。既に自分は日野貞夫から逃れられない運命にあると、告げられている気がして、注がれた絶望と浸食した溺愛を吐き出してしまいそうになった。



| 健やかなる愚鈍より |


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