のそり、と大きな塊が体にのしかかってくる。珍しいことだった。仕事から帰って来て早々に彼は、アオキはなまえにくっつくような形で密着していた。鞄は近くのテーブルに置き去りにし、上着も脱がず、ネクタイも緩めぬまま、この状態を優先させていた。なまえも初めは驚いたものの、のそのそと自分を捉えて離さないアオキに妙な新鮮味と、不意を突くような意外な一面のギャップに悪い気はしていなかった。背中を時折撫でてやると、特に反応はない。だが、反応があろうがなかろうがどっちでもいい。大切なのは、今この瞬間にアオキの、元気だとか活力だとか、心なんてものが癒されていれば良いのだ。
とは、思うけれど、彼の日々の疲労は想像以上だ。生活のペースが違うとは言え、仕事、仕事、仕事……、仕事三昧な生活で彼が成り立っているのならば、下手なことはおろか的はずれなことも迂闊には言えない。静かに受け入れていることの方が、何倍も気の利いたことのように思う。再び大きな背に触れる。まるで、ネッコアラに似た姿に密かに笑みを零れた。普段の彼の装いを知っているからか、余計に微笑ましく見えてしまう。きっちりとスーツを着込み、典型的なサラリーマンの装いで日々仕事に勤しんでいる。そんなアオキが今は手持ちのポケモンと同じようにしているのだ。選んだポケモンがトレーナーに似ているのか、トレーナーが選んだポケモンに似てくるのか。その答えに少しだけ近付いた気がする。
「すみません、さぞ不便でしょう」
「大丈夫ですよ、ただ珍しいなあって」
「……自分も滅多なことでは、」
そうですよね、と返せば、またのそりと黒い塊が小さく動いた。背中に回された黒い腕が強く、この体を抱き寄せてくる。彼は、アオキはこれが心地良いのだろうか。こんな事を言っては何だが、こちらとしてはこれはこれで心地良い。まさか、という気持ちの反面、求められたいとも思っていた欲張りな自分が満たされている。そのような欲望と疲労を一緒くたにするのはどうかと思うのだが、このように触れ合っている以上、切っても切り離せないもののように思えた。
「お風呂はどうしますか」
「もう少ししたら入ります」
「ご飯は済ませてます、よね……?」
「……あれば、いただきます」
「それじゃあ、お風呂入っている間に温めておきますね」
「助かります」
ぼそぼそと返すばかりの言葉をしっかりと拾い集め、この後の予定を組み立てていく。確かに疲労に喘ぐ毎日かもしれないが、それでも明日はやって来る。抗いようのない時の流れに、自然の摂理に少しでも立ち向かって行けるよう、生活の基本は押さえておきたかった。全てを一人でこなせるのが当然である世の中で、たまには誰かの手を借りて限界を迎えた自分を立て直す、そんな日があってもいい。アオキにとって、たまたまその日が今日だったというだけで。
「ほら、お風呂入らなきゃ」
アオキの背中に回していた手を引っ込めると、ほんの少し間を取り、スーツのボタンを一つずつ外していく。未だにかっちりと胸元の誠実さを引き立てているネクタイの結び目に指をかければ、キツかった首元に余裕が生まれる。徐々にネクタイを緩めていると、その手を掴まれていた。咄嗟にアオキを見る。見上げた先では、疲労にくたびれて無表情なアオキがいたのだが、どこか様子が違う。
「同僚の言っていた意味がわかるような気がします」
「同僚?」
「自分の職場は既婚者が多く、その手の話を聞くことがありまして」
掴んだ手を申し訳なさそうに解き、すみません。自然と掴んでしまいました。と続ける。嫌だったかを問われ、慌てて首を振った。
「励みに、なるんだそうです」
途端に行き場のなくなった手と、真四角に沈む瞳。無表情に近い顔だが、先程とは確かに何かが違う。確信は、ある。アオキもまた後ろめたそうに行き場のなくなった手をどこに置いていいのか分からないでいる。俯いたせいで黒髪に混ざる銀髪がふわふわと漂い、一人帰り道を行く子どものように寂しげに見えた。彼は一体、何に後ろめたさを感じているのだろうか。ただ、咄嗟にこの手首を掴んだだけだと言うのに。何故、そこまで身を引いてしまうのだろうか。確かに今日は珍しいことばかり起きてはいるが、それはいつかこの先の時間で迎えるであろう変化ではないのだろうか。
恐る恐る、行き場のないそれを重ねてみた。まずは爪先で抵抗がないかどうか確かめ、次に指の腹で手の内をなぞる。そして、最後に包み込むようにやんわりと手を握った。激務をこなしてきた無骨でいて素朴、温かくて大きな手に触れた。あ、と小さくこぼしたのはアオキだ。なまえは自分なりに大胆な行動を取った反動で、まともにアオキの顔が見れないままだった。自分から触れたと言うのに、いざ実際にそうなってしまえば、上手く言葉に出来ない感情が先行して押し黙ってしまう。そして、アオキの言葉を綺麗に飲み込めるように何度も頭で咀嚼を繰り返した。決して自分に都合のいい言葉として受け取ってしまわないように。
「あなたのそう言うところが、放っておけない。寧ろ、気にしてさえいる。分かりますか、」
真四角の眉と瞳がこちらを見ていた。疲労が滲んでいると言うのに、何かを懸命に伝えたいと一心にこちらを見ていた。逸らしていた視線がゆっくりと重なっていく。
「好きなんですよ、なまえさんの作る料理」
その瞬間にアオキは一度だけ伏し目がちになり、目線を切った。しかし、またすぐに重ね合わせてはぼそぼそと呟くように唇を動かす。
「料理だけではありません。突然、妙な行動を取っても何事も無かったかのように接してくれる。意外と難しいことです」
奇を衒わず、平凡でありたい。それが良いと言っていたアオキの言葉の重みが変わり始める。当たり障りのなかった言葉から、自分に向けて彼なりの信頼感が汲み取れたからだ。
「そこまでしっかりした人じゃないですよ、私」
「それが良いんです。なまえさんの良いところは、そういう所なんです」
「今日のアオキさん、なんだかいつもと違うみたいですね」
「……自分が、ですか。そうかもしれません」
上に重なる分厚い親指が薄い皮膚の甲を何度も撫でる。ささやかなやり取りに安堵してしまうのは、普段の彼の多忙さを知っているからだろうか。誰もが同じペースで生きている訳ではないが、違うペース同士でこうして一緒に居られるのは滅多にない奇跡のように感じてしまう。本当ならば、ペースの違う者同士では苦痛を伴う生活になっていた筈だ。だが、アオキとの生活のどこにも苦痛は存在しない。
「惚れた弱み、なんでしょうか」
真四角の瞳の奥に、とてもやわらかくて、たいせつで、このせかいのどこをさがしてもみつからないものがあった。この瞬間の自分も、同じものをアオキに見せられているのだろうか。注視、接近、呼吸。あと少しでこの糸は切れてしまうような気がした。
「わたしだって、アオキさんのこと好きです」
上手く言い表せないと先に保険を掛けてしまったが、彼がお世辞として受け取らないかと不安な心境もある。だが、今はまだこれで許して欲しい。もうこれ以上は、この喉を、この口を伝って行かせられるほど余裕がないのだ。
すると、断ち切られていたと思っていた視線がまだ健在であることに驚くのと同時、普段は聞こえて来ないはずの音を耳が拾う。
「……出来ることなら、あなたごと、」
──── たべてしまいたい、くらいなんですがね。
肌が粟立つ前に、目の前のアオキは手を解き、立ち上がる。そして、小さく一言。風呂、いただいてきます。と残して浴室へと一人で行ってしまった。しん、と静まり返る部屋に取り残されたなまえは今頃、肌が粟立つのを感じ、一人肩を抱く。兎にも角にも、また明日はやって来るし、今日のアオキは明日に向かっていくのだろうが、あの言葉を聞いてしまった自分自身はどうしていいのか分からないまま、明日を迎えるのだと思うと、どうしてアオキに惹かれるようになったのかを久しぶりに思い出した気がした。
| 食欲と吐露 |