窓の外の濃紺に、今日の終わりが近付いていると囁かれ、不意に天井を仰ぎ見た。部屋には夏の暑さは微塵もない。週末の休みは大抵、自分の部屋で暑さとは無縁な生活を営んでいた。テーブルの上に置き去りにしてしまったコップは中身が半分残っており、汗をかいて濡れている。思い出してすぐコップの中身を飲み干すと、急いでキッチンのシンクへと持っていく。ぽた、ぽた、と垂れた水滴が足を小さく濡らして冷たい。
今日も何も無い、快適な一日だった。予定のひとつもない、ちょっぴりと塩味の強い一日ではあったが。気兼ねなく寛いで体を休めた時間はとても貴重なものだ。明後日にはいつもの仕事が始まるのだから、少しぐらい自分に優しい時間があってもいい。出来れば、隣に誰かいて欲しかったが、そこまで求めてしまうのは贅沢な悩みなのかもしれない。キッチンから戻り、テーブルの上にもう一つ置き去りにしていた携帯を手に取ると、通知画面には良く知る相手からのメッセージが表示されていた。
『今から少し寄る』
無愛想で手短なメッセージの主は新堂誠からだった。新堂は、ここら辺で有名な鳴神学園に通っている高校三年生の男子生徒だ。かつては自分も在校生だったこともあり、懐かしの母校をなんの気なく訪ねた時に彼と出会った。予め担任の教師とは連絡を取っていたものの、いざ校門の前にやって来ると担任の姿はなく、待ちぼうけを食らっている時に新堂に声を掛けられたのだ。それからは一緒に職員室まで向かい、多忙そうな担任の元へと送ってもらったのが、この関係のきっかけだった。
それからは学園から何かと近い自宅に入り浸るようになってしまい、悪戯に、且つ、唐突にやって来ては彼の好きにされている。勿論、相手は未成年と言うこともあり、線引き等ははっきりさせているのだが、最近になってその線引きが揺らぎ始めている節がある。気を許してくれているのだろうが、彼の判断が時折恐ろしく感じてしまうのだ。行き過ぎた行動や言動は止めてやらなければならないのが、大人の務めだ。しかし、いや、どのような接続詞を重ねたところで、大事な局面でしくじってしまってはならないのだ。彼の為にも、そして、自分の為にも。
『わかった、気をつけてね』
そのように返信をしようとした瞬間、いきなり家のチャイムが鳴り、意識が玄関へと持って行かれる。返し忘れたメッセージを手元に、ドアスコープから向こうを覗けば、差出人である彼が、新堂誠が夏らしく甚平姿で佇んでいた。何が何でも早すぎる、まだ何の準備もしていないのに、と慌ただしく鍵を開け、ドアを押し退けた。
「よぉ。……つうか、何だよ。その顔」
「は、早過ぎない……?」
「あ?何がだよ」
「だって、ついさっき連絡来たのに」
「はあ?俺が連絡したのは向こうから帰ってくる前だぞ」
「え?……あ、本当だ」
よくよくメッセージアプリの画面を見てみれば、少し前に送られたもので、目を丸くしていると、邪魔するぜ。とごく自然に上がる新堂に着いていく形で押し退けたドアを静かに閉めた。すると、ふわりと漂う香ばしい煙の匂いに、何故彼が甚平姿なのかを知る。
「今日、お祭りあったの?」
「さっきまでダチと行ってた」
「ふうん、なんか懐かしいなあ」
「アンタも行けば良かったんじゃねえの」
「一人じゃ行かないかな、なんか浮いちゃうし」
手狭な廊下を抜けて、先程まで自分一人が寛いでいたリビングに出ると、新堂は窓際に腰を下ろし、甚平のポケットから携帯を取り出し、指を画面に滑らせていた。自分は一応来客である彼の為に冷蔵庫を漁り、何か出せるものを探す。
「いらねえ、」
「新堂くんは一応お客さまだから、何か出してあげたかったんだけど、」
「いらねえって」
「ごめん、お酒しかない」
「やっぱ、一本貰っとくか」
「こら。怒るぞ、未成年」
色気のない冷蔵庫にはアルコール度数のあまり強くないサワー缶が並んでおり、その隙間に透明なボトルを見つけ、それを二本手繰り寄せると後ろ手に隠し、新堂に近づいて行く。
「どーせ、水か茶だろ?」
「もしかしたら、かもよ」
「いや、ないね。アンタは頭の固いお姉さんだからな」
「……生意気言うじゃないの、後輩」
ずい、と無理矢理に新堂の頬に押し当てたボトルが冷たかったのか、新堂は体を縮こまらせて目を強く瞑っていた。そして、予想通りに、冷てえ……!と鳴いた姿に満足気に笑っていると、眉間に皺を寄せた新堂が不機嫌そうにこちらを見ている。
「ったく、俺より子どもっぽいことしてんのに、年上っつうんだからやんなっちまうよな」
「仕方ないでしょ、新堂くんより先に生まれたんだから」
「チッ、まじで意味わかんねえ」
渋々、差し出された冷ややかな瓶のラムネを手に取ると、キャップに付属している、瓶の中のビー玉を押し込む為の玉押しと呼ばれるもので、栓代わりになっていたビー玉を沈めていた。彼の瓶からは炭酸ガスが抜けていく音が聞こえており、夏祭りの帰りの甚平姿に懐かしさを感じながら、同じようにビー玉を沈めていく。次第に弱々しくなっていく音に、数年前の自分の姿を見た。今の彼と同じように、忙しく夏休みを謳歌していた気がする。自分が着たいからと好きな浴衣に身を包み、気の合う友達と神社の石畳を踏みしめ、屋台の熱を受ける。夜空には花火が打ち上がり、それをただ真下から見上げている。懐かしい、確かにその時自分は十代で、誰もが夏に胸をときめかせていた。すると、隣でラムネ瓶を黙って傾けていた彼が不意に何かを取り出す。
「それって、射的の景品じゃない?」
それは小さなお菓子の箱だった。よくあるキャラメルだろうか、煙草を模した駄菓子だろうか。そのパッケージにすら不思議な特別感が滲んでいる。夏の匂いが鼻を掠めた気がして、自然と彼に笑いかけていた。彼はそれを気にも留めず、ガサガサと箱を開けることに夢中になっているようで、至って素っ気なかった。そして、箱から取り出したのはせいぜい三、四粒のキャラメルで、包み紙の四つの他にもう一つ小箱を取り出した。昔のお菓子には少量の中身とおまけのおもちゃが付いているのを思い出し、いよいよ自分も新堂の傍に身を乗り出して、その中身を知りたがる。
「あ、」
おまけの小箱から出て来たのは、小さな指輪だった。子供向けであるからか、花を模した可愛らしいものだった。新堂の大きな手のひらに、ちょこんと花の指輪。そのちぐはぐさに、くすくすと笑っていると、神妙な顔でこちらを見た。いつもの不敵な笑みを浮かべた彼らしい表情は、そこにない。それ程までに真面目な視線に息を呑む。すると、新堂は手を差し出すように言った。言葉の通りに手を差し出せば、小さな花の指輪を左手の小指に宛てがい、するり、と滑り込ませた。
「似合ってんじゃん」
どこか満足気に笑う顔がいつもの生意気さを気取った、彼らしいものへと変わっていく。随分と可愛らしいことをしてくれると、ぼんやり小指の指輪を眺めていた。その間に、そっと抱き寄せられた。真正面から音もなく、静かに。背中に回した手で、ぎゅっと抱き締められる。
「俺、やっぱアンタじゃなきゃあ……」
小さな独白、聞かないフリをすることも出来た。けれど、弱々しく抱き締めてくる彼を目の前にしたら、そんな残酷なことは出来なかったのだ。うん、と相槌を打ちながら、同じように抱き締め返す。金髪が目に刺さって痛い、眩しい。肩に顎を乗せて息を吸うと、懐かしい夏の匂いがした。
| 過ぎ行く夏に |