救済とは、神の遣いであらせられる御方が神の代わりにその奇跡を用いて、苦しむ人々を救い、極楽へと導くこと。誰もがそう信じ、そしてそれこそが皆の望む結末である。
────さあ、神を信じ、神の遣いである我らが教祖を崇め、救済の時を待ちましょう。祝福、導き、信仰心、敬虔であることが極楽へと通ずるたった一つの道なのですから。
万世極楽教では、日々信者達が祈りを捧げ、救済の時を待っている。救済は必ず訪れると誰もが口を揃えてそう言う。何故なら、実際に『救済』は行われており、救われた仲間達はここを離れて極楽へと向かって行くのだそうだ。俗世の苦しみから解放された者だけが、その地に足を踏み入れることを許される。心から羨ましい限りだ、しかし、羨んでいる場合ではない。まだ番が訪れぬと言うのなら、今日も今日とて祈りを絶やすことなく、捧げ続けなければ。
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信心深い信者であるなまえは廊下で不吉な物音を耳にした。ゴリ、ゴリ、と何かを噛み潰すような音、ぴちゃ、ぴちゃ、と何かが溢れ落ち、それを啜るような音。背筋に寒気が走るような不気味な物音に、なまえはその音の出処を突き止めようと耳を傾けていた。神聖な寺院内で何か良からぬことが起きているのなら、この場所が穢れてしまわぬように報告をしなければならない。
物音はとある部屋から聞こえてきた。廊下にはなまえ一人しかおらず、その部屋の襖はしっかりと閉ざされている。なまえは再度辺りを窺い、決して音を立てぬようにそっと襖に手をかける。部屋の明かりが隙間から漏れ、中の様子を覗く。なまえは静かに震えた、覗き込んだ部屋の中で目を疑うような行為が繰り広げられていた。
綺麗な緑のい草の畳が真っ赤な何かに汚れており、まるで鮮血の海に仲間である誰かが横たわっている。気を失っているのか、自分が不気味な光景の一部であると知らない様子だった。息を潜めて部屋を覗き続けていると、またあの不気味な音が聞こえてきた。今度は咀嚼音のようなものまで聞こえてくる。叫び出したい衝動を抑えるようになまえは口を手で押さえ、行為に勤しむ相手を突き止めてやろうと懸命に覗き込む。
「……あ、ああ、お、お止めくださいッ!どうか、わ、私だけは……ッ!」
女の声だ。この部屋には別の誰かがいて、今彼女は危険に脅かされている。一体、誰がこんなことを。
「教祖、教祖様……ッ!どうか、お止めくだ」
「大丈夫、大丈夫。これできみは救われる。安心していいんだよ」
女の声が不自然なところで途絶えた。『お止めください』と彼女は言うつもりだったのだろう。しかし、そこから先を言うことは叶わず、またあの赤の上に倒れ込んだ。畳に広がる赤が彼女達の血であると、ここでようやく理解した。理解したが、理解出来ないこともあった。それは彼女が最後に口にした、教祖様と言う言葉だ。
この非道的行為は教祖の手によって行われている?何故?極楽へと導いてくださる御方が何故、人を殺めている?あの方は人を殺めて、それを『救済』だと考えている?
今までにないほど、敬虔な信仰心が揺らいでいた。この歳になるまで培ってきた道徳心が震えている。善悪の判断さえ出来ないくらいになまえは混乱していた。だから、気付けなかったのだろう。音もなく襖が開かれたかと思えば、部屋の主は既に真正面に立っており、……あ。と煌びやかな目を丸くさせて驚いていたことに。
「あれ、……もしかして見てた?」
きみの話を聞いてあげよう。
有無を言わさず、この一言を最後に腕を掴まれたなまえは、今まで自分がいた安全な世界から血なまぐさい凄惨な世界へと引きずり込まれたのだと知った。手遅れだった、もう戻れない。
引きずり込まれ、力なく畳に倒れ込んだ先で見たのは、あの僅かな隙間からでは分からなかった、目を覆いたくなるような残虐極まりない部屋の様子だった。
夥しい量の血液から漂う血なまぐさい匂い、畳のあちこちに散らばる人間の体の一部は山を築き、切り落とされた首は恨めしそうに虚空を見つめて泣いている。そして、自分をこの部屋へと引きずり込んだ張本人である、我らが教祖様は誰のものか分からぬ腕を持って、困った顔をするばかりだった。その腕は肉を齧られたかのように歪な形になっている。
「……こ、これは、きょ、教祖様、」
「きみはさ、見ちゃったんだよね?」
「ここで一体、何をなさっていたのですか……ッ」
「教祖である俺がすることと言えば、ひとつしかないじゃない」
────救済、してあげてたんだ。可哀想な皆を。教祖はそこら中にある死屍累々を見て、ただ慈しむように目を閉じ、胸に手を当てた。無垢な白髪がさらりと揺れる。口元に付着した血痕が目に刺さる。
「それで、突然なんだけど、きみも今日救ってあげる」
ごめんね。このことは見られちゃいけないんだ。と眉を下げ、心底悲しそうな表情でなまえの前に佇んでいた。しかし、見上げた先にある、虹を宿す瞳からは悲しいという感情は微塵も感じられなかった。
01.喰らう阿呆に見る阿呆