みょうじなまえという信者の血肉は驚くほどに甘美な味わいだった。稀血でもない、ただの人間がどうしてこれほどまでに旨いものなのか。
紅潮した頬肉は柔らかそうで今すぐにでも食べてしまいたい。涙に濡れる瞳も可憐だ、どれだけ涙や汗で顔を汚そうとも、必死に悶えている姿が心を満たしてくれる。涙は温く、しょっぱいのにどこか甘いのだ。既に指を二本ほど食しているが、まだ彼女の体の大部分は残っており、食事の楽しみもまだまだ失われることは無い。どうして今まで彼女のことを放っておいたのだろう、こんなことなら、自分の傍に置いて、めいっぱい大切にしてあげればよかった。
「ねぇ、なまえちゃんは幸せ?」
素朴な疑問だった。自分には決して分からない心情を知りたいと思うのは、鬼も人も関係のない純粋な感情ではないだろうか。彼女は強く唇を噛んだようで、血の気が引きつつある唇は紅のような血に彩られている。もごもごと口を動かしてはいるが、体に走る激痛から上手く話せない。可哀想だ、もっと救ってあげなければ。童磨は思い切りになまえの手を貪り始めた。何度も何度も肉を齧り、骨を噛み砕き、流れる血を啜る。
命ある者にとって、この行為は救済などではなく、生き地獄でしか無かった。意識も朦朧とするばかりで途切れる訳ではない。与えられる痛みによって意識が呼び戻されてしまう。旨そうに人を喰らう相手だと達観する余裕もない、生きるとはここまで辛いものか。ならば、死を所望する他にないではないか。なまえは痛みに呻き、地を這いずり、中途半端に呼び起こされる意識に気が狂いそうになっていた。生きているから、このような。生きているからこそ。
「……わたし、は、今、しあわせ、です、」
「それは何よりだね。そう言ってくれると、俺も嬉しいよ」
「この、痛みを、……受け入れる、ことで、わたしは、すくわ、れるのです」
ぐちゃぐちゃに涙やら汗やらに塗れた顔でなまえは笑っていた。痛みにやつれた顔であったが、汗に貼りつく髪や潤んでばかりいる瞳にぐっと心を掴まれる。本当なら今すぐにでも命を遮ってあげたい。もっと楽にして、それから彼女を貪ればいいものを、不思議とそれが出来ずにいる。なんでだろう?どうしてだろう?とどんなに頭を捻っても、的確な答えというものは出てこない。代わりにあるのは、漠然とした好意のようなものだった。
彼女を見ていると、過去の彼女たちを思い出す。口々に嘘だなんだと頭ごなしに否定をし、自分の元から逃げ出そうとする相手ばかり。しかし、彼女の場合は胸の内が心地よく満たされる。それが今夜限りだなんてあまりにも寂しいではないか。
より深く歯は骨から肉を噛み千切り、破れた血管から血を飲み干していく。けたたましい悲痛な声が鼓膜に響き、その間にも喰らった血肉の味は衰えない。なまえもなまえで良く耐えている方だ、いつ絶命してもおかしくはない。しかし、発狂すらしておらず、逃げも抵抗もしない。いつでもその瞳は一点を見つめ、手短で粗末な呼吸をしているだけ。人間にしては健気なその姿に、やがて鬼の気が変わり始める。
ああ、なんてかわいい子だろう。俺のことを一番に信じてくれている。彼女の中では、俺は本当に大切な存在なんだなあ。ただ喰って終わらせてしまうには惜しい、もっともっと彼女を救ってあげたい。永遠の命じゃない、もっと違う、別の何かで。桃のようにほのかに色づく頬を撫でれば、また涙が溢れた。ので、それを舌先で掬い取る。涙を舌で掬い取られるとは思っていなかったなまえは、ひッ、と初めて怯えた声を漏らした。痛みを与えただけでは聞くことのなかった声だ。
途端に、童磨の中で庇護欲と加虐心がせめぎ合う。人間の全ては自身の糧なのだから、楽しい食事をすればいいだけだと主張する鬼の自分と、ただひたすらに可哀想ななまえに同情する教祖としての自分。悪い感情はひとりでにむくむくと膨れ上がっていく。それは童磨という鬼が、人間だった頃から抱くことのなかった感情を、なまえという女が容易く引き出してしまったからだ。世の中には神に好かれる人間が居るくらいなのだから、鬼に好かれる人間が居てもなんら不思議じゃない。
「これはきみが翻弄しているのかな。それとも、俺が馬鹿になってしまったかな」
ぽたり、と滴り落ちる赤があった。それはなまえのものでも、既に息絶えた彼女たちのものでもない。新たに湧き出た血、良からぬものを含んだ悪い血。鬼が自らの血を分け与えることの意味をなまえは知らない。
「さあ、俺を信じてくれ。いつものように」
そうすれば、きっと選ばれる。もっと救ってあげたいんだ、こんな気持ちは初めてでね。と優しく言い聞かせるように、床に蹲るなまえの口元に手のひらを差し出す。その時、なまえは何を考えていたのだろうか。死生観までも変えられた瀕死の人間は、死の瀬戸際で差し出された手のひらに何を見たのだろうか。
赤く熟れた唇は朱を啜り、それを飲み干していく。これがみょうじなまえの人間としての最期である。
03.救われれば済む話