それは突然始まったのである。ある朝、目覚まし時計にやかましく叩き起され、眠たい目を擦りながらベランダ側のカーテンを開けると、窓の向こうに添えられた小さなものを発見した。緑色の細い茎に小ぶりな葉を携えて、僅かな風に揺れる小さな花びら。なまえはその贈り物に心当たりがなかった。ささやかでありながら慎ましい健気さのある摘まれた花は、一体どこの誰が自分に贈ってくれたものなのか、皆目見当もつかなかった。

 小さな花の贈り物はその日から始まり、翌日の朝には二本目が、翌々日の朝には三本目が並べられていた。一日に一本ずつ増えていくその花はなまえの新しい習慣になりつつある。朝起きてすぐに花が並んでいるかを確認する行為は、一日の始まりに小さな喜びを運んでくれた。そして、なまえは次第にこの花を並べてくれる相手のことを考えるようになった。
 どこにでもあるアパートの二階、しかもベランダという限られた狭い空間に花を添えられるのは、やはり鳥や猫などの動物だろうか。よく聞く話では、猫は捕まえてきたネズミなどを飼い主の元へ持って来るそうな。だが、そう言った話を思い出しても、なまえの中で心当たりはなく、もしかしたらただの気まぐれなのかもしれないと、ベランダにそっと横たわる花を見て頷いた。

 小さな贈り物がただの可愛い気まぐれだと済ませてから数日後、まだ花のプレゼントは続いていた。その内飽きてしまうだろうと思っていたものの、未だに続くこの行為はもう『気まぐれ』の一言では片付けられなくなっていた。だが、だからといって正体を暴く余裕もないのが現状だ。仕事に出てしまえば、その間の出来事は分からない。夜通し窓の前に張っていてもいいが、それでは翌日の仕事が疎かになってしまう。結局、今自分に出来ることは、毎朝運ばれるこの花の意味を推し量ることだけだ。


***


 なまえの住む部屋のベランダに六本の花が並んだ日の夜、なまえは食事も入浴も済ませ、窓際の壁に寄り掛かりながら雑誌を読んでいた。気になるところはしっかりと読み、あまり得意ではないページは少しだけ曖昧に。たまに飲み物を飲みながら、雑誌を読み進めていく。明日は休日ということもあり、明日が来るのを先延ばしにしていた。就寝時間より遅い時間に好きな雑誌を読む。ちょっとした夜の贅沢だ。
 そのちょっとした夜の贅沢が微睡みに溶け出した頃、夜の風を取り入れようと数センチだけ開けられていた窓の向こう、ベランダに黒い影が浮かび上がった。小さく寝息を立てるなまえは影に気付かない。手元の雑誌もいつの間にか開きっぱなしになっており、なまえが眠りに落ちたのは明らかだった。しかし、ベランダにいるそれはいつもとは違う様子に、閉め切られている筈の窓が開いていることに興味を持ってしまった。隙間に指を滑らせ、音を立てないように横へスライドさせていく。一度に多くの風を取り込んでしまった窓に、レースカーテンは大きく膨れてはひらひらと宙を舞った。

 まずベランダに居たそれは窓を開けた後、ひらひらと舞うカーテンを恐る恐る掻き分け、部屋へ侵入した。ぺたぺたと足の裏がフローリングに触れ、さらさらとした感触に足元を見れば、丁度自身の足元に彼女はいた。壁にもたれかかって微動だにしない彼女に、それは酷く動揺し、身を屈め、眠りに俯くなまえの顔を覗き込んだ。呼吸の度に控えめに動く体は死ではなく、眠りなのだと知り、ほっと胸を撫で下ろしている。そして、忘れぬ内に手に秘めた小さな花を彼女の髪に添えようと手を伸ばした時だった。突然、微睡みからはぐれたなまえが目を覚ましたのは。
 今まで閉ざされていた瞼は眠気の余韻に重たそうだが、自身の目の前にいる存在を認識すると、目は驚きに丸くなり、悲鳴よりも先に問いが口を突いて出た。

「……だ、誰ッ?!あなた、誰なの……?!」

 膝に置いていた雑誌を払い除け、近すぎる距離間から脱しようと急いで逃げ出す。だが、突然の出来事でパニックになっていたなまえの足取りはおぼつかず、上手く距離をとることも、部屋から出て行くことも出来なかった。その間もなまえの前にいた人影は呆然となまえの姿を捉えていた。暴れるでもなく、追いかけるでもなく、何が起こったのかを観察しているかのように。
 未だ自分の問いかけに答えない人影、男に違和感を覚える。ほんの一瞬、後ろを振り向けば既に目の前は陰りに染まっていた。瞬きを数回繰り返してやっと気付く。目の前が陰っているのは、自分の真正面に彼が居るからだと。音もなく忍び寄る恐怖に足がすくみ、なまえは床に尻もちをつく。咄嗟に男を見上げた。男は不思議そうな顔をして、こちらを見下ろしている。命の危機すら感じるこの状況下でなまえの精神はとても不安に揺れていた。その場で身を丸め、頭を両手で防いでいる。男はここでようやく、なまえが自身に怯えているのだと知った。しかし、男の本意はそうではなく。

「……お願い、……何もしないでッ、」

 男がとった行動は単純だった。その場で四つん這いになると、ゆっくりなまえとの距離を縮め、ただ待っていた。ただ待つ、その行為はなまえの盲目なる恐怖を徐々に和らげていく。何かされるだろうと信じ切っていたなまえにとって、何も起きないという結果は予想外のものだった。いつまで経っても何もされない時間に、なまえは相手が自分を待っているのだと知る。

「なに、してるの……?」

 返事の代わりに聞こえて来たのは動物を彷彿とさせる鳴き声だった。彼は言葉を喋れないようだ。そして、喋れないだけじゃなく、言葉が分からないようでもあった。男は嬉々とした顔でこちらを見つめている。なまえが体を楽にしたことで男は何かを察し、伸ばした手でなまえの手を掴んだ。突然、男に手を掴まれ、なまえは小さな悲鳴を上げたが、男の次にとった行動で恐怖は完全に払拭されることになる。
 掴んだ手で自分の頬をぺちぺちと軽く叩かせた。そして、今度は男の手のひらが同様に自分の頬に触れる。これが何を意味しているのか。ただの憶測でしかなかったが、『自分は敵じゃない』と伝えているような気がした。強盗じゃないの……?とぽつりと呟けば、男はにっこりと可愛げすらある笑顔を見せた。理解はしていないが、空気を肌で感じているような反応に、なまえは次第に落ち着きを取り戻す。

「どうして、あなたはここに来たの?」

 伝わるかどうか分からないまま、話しかけてみる。もう自身に怯えていないと知った男は嬉しそうな声を発すると、なまえの隣に移動し、膝をついた。そしてなまえをひょいと持ち上げて、男は窓際へと戻っていく。男のとった行動に疑問符が浮かぶ。しかし、なまえを寄りかかっていた壁の前で下ろし、床に落ちていた雑誌を膝の上に戻すと、男は嬉しそうに鳴いた。

「わざわざ元の位置に戻してくれたんだ、ありがとう」

 悪い人ではないのかもしれないとなまえは心を許し始めていた。話せない不自由さはあるものの、きちんと目を見て気持ちを伝えようとすれば分かってくれる。ありがとうの言葉を聞いた男は照れているかのような顔で、なまえの前に座り、渡しそびれた花を差し出す。見覚えのあるその花は彼が贈り物の贈り主だと告げていた。
 あ、と声を漏らしても男は手にした花をもう一度、なまえの髪に挿そうとしている。その思惑に気付いたなまえは髪を耳にかけ、男の方にそっと近付いた。花の茎は束になった髪に挿し込まれ、髪を小さく彩る。

「……あなたが毎日、お花を持って来てくれたんだね」

 男は首を縦に振り、不意にベランダを指差した。実はなまえの部屋のベランダの隅には、一つだけ小さな植木鉢がある。今も健やかな緑の葉や茎が茂り、至る所に可愛らしい小花を咲かせている。植木鉢を指差す男に、あれがあったから?と問えば、もう一度男は首を縦に振った。
 この人が居たからこそ、日常にささやかな喜びが生まれたのだろう。この花があったからこそ、一日をやり抜く糧を得られたのだろう。ありがとう、と今度は彼を抱き締めてみる。これは言葉とは違い、直接的な感情の伝達方法だ。きっと分かってもらえる。筋肉質で大きな体を何とか抱き締めれば、彼の腕が背中へと回され、そしてそのまま横へ倒れ込んだ。ぐるりと変わった視界の先にあったのは、すやすやと安心し切った寝顔を晒す男だった。

「えーッ、眠っちゃうのォ……!」

 彼の長い髪がフローリングに広がり、下一枚しか身に付けていない体に遅れて残りの驚きがやって来る。腕をこっそりほどき、胸の内から抜け出ると真っ先にベッドからタオルケットを引っ張り出し、男の大きな体に掛けておく。油断し切っている寝顔になまえも眠気に襲われ、もう一枚タオルケットを引っ張っては男の隣で眠るのだった。

 後日、自身に花のプレゼントをしてくれていた人物が世を騒がせた歴史的価値のある古代人ピクルだと知り、自分はとんでもないことをしてしまったのではないかと内心冷や汗が止まらなかった。そして、あの夜以降、ピクルは度々なまえの部屋を訪れるようになった。



| ベランダの花束 |


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