「確かに落ち着く味をしている」
傾けたマグカップの中身は半分以上も無くなっており、如何にコルサがなまえの出したホットミルクを好んで飲んでいたかが分かる。なまえも向かい合うようにソファーに腰掛け、皿の上に並べられたクッキーを食べた。
「ここでしか飲めない、特別なドリンクですから」
「それはそれは光栄なことだな」
「ふふ、そうでしょう」
「広場のキマワリ達はもう休んでいるのか?全く見当たらなかったが」
「はい。おひさまに当てたふかふかの土を敷いた鉢植えに」
そうか。と手短に返事をしては、再びカップに手を伸ばす。窓の外はすっかり強まった風に窓を叩かれ、雨は黙って降り続けていた。ウソッキーはいつの間にか姿を消していることから、コルサがボールに戻してやったのだろう。二人きり。意図せず、悪天候の夜に足止めされている。そして、夜のお供は友人から貰ったクッキーと特別なホットミルク。雨音と風の音だけが響く、静かな空間だった。建物の僅かな軋みやカップの底がテーブルにコツンと触れる音、あとは深くソファーに腰掛けた時の衣類が擦れる音だけ。無理に話をする必要はなく、なまえはスマホロトムを呼び出すと現在の天気について調べていた。
一時的な豪雨で、雨雲はパルデア地方を横断するようだ。だが、次の瞬間、目にした予報になまえは慌てふためくこととなる。『雷雨の恐れあり』、その言葉から連想される恐ろしいことと言えば、停電である。その慌て様にコルサは、どうしたのかと訊ねた。すると、なまえはどこか気恥ずかしそうにまだ入浴を済ませていないと答えた。
「なら、入ってくるといい」
「で、でも、」
「ワタシのことなど気にするな。勝手に押しかけてしまったワタシに非がある」
「……ほんとうに、いいんですか?」
「客人のようにもてなしてくれたことには感謝するが、これ以上は不要だ」
コルサの言葉になまえは立ち上がると、急いで入ってきます……!と告げ、ドタバタとシャワールームへと向かった。コルサも彼女を見送ると、口元に小さく笑みを浮かべ、目を閉じた。なまえが特別なドリンクだと言っていた理由が何となしに分かったような気がしていた。先程まで悩まされていた頭痛が心做しか良くなったように思える。それに雨で冷えた体も、温かな飲み物のおかげで冷たさを忘れていた。彼女とのやり取りも心地良い。そんなことを考えている内にコルサは意識をゆっくりと手放していた。コルサは浅い眠りにつくと、穏やかな寝息を立ててソファーの背もたれに体を預けた。
***
落雷に怯えながらも、なまえは手早く入浴を済ませた。勿論、停電を恐れていたのだが、実はもう一つ気にかけていたことがあった。コルサのことだ。頭痛に悩まされているだろう彼を一人にしておくのが心配で、入浴を早めに切り上げていた。さっさと服を着ては肩にタオルを乗せたまま、コルサのいる部屋へと戻る。途中までは廊下を駆けていたのだが、変にうるさくするのも頭に響くかもしれないと一度立ち止まる。そして、着替えた衣服に乱れはないか。拭き残したところがないか。焦りが顔に出ていないか、など努めて普通を装い、遂に彼の休む部屋へと合流する。
「……コルサさん?」
小さく呼び掛ける。初めは背もたれに深くもたれ掛かり、俯いているから頭痛が長引いているのだと思っていた。しかし、カラになったマグカップ、微かに聞こえてくる寝息、覗き込めば見えてくる閉ざされた瞼。その様子からコルサが眠っていると気付いたなまえは、向かいのソファーに掛けていたタオルケットを手に取り、そっとコルサに覆い被せた。風邪を引いて欲しくないが故の行動だった。彼は線の細い男性だ。それでいて、アトリエに篭って制作をする生活だから肌も青白く不健康に見えやすい。持ち合わせた繊細な感性は、彼が悩めば悩んだ分、頭痛を呼ぶほどに過敏なものになってしまった。第一印象として抱いていた、神経質な取っ付きにくさを払拭する程にコルサという人物は魅力的な人間だった。
初めてボウルタウンで出会った時に肩に触れ、何を感じているかと問い掛けてきたことを今でも覚えている。あの日、コルサと出会わなければこの街に自分はいない。自分がボウルタウンという街で、住み込みでキマワリ達の世話をして働きながら過ごす生活は有り得なかったかもしれない。だからこそ、彼の為の何かになりたかった。憧れを抱いているのも、彼の魅せる芸術のファンでありたかったから。ジムバトルがあれば毎回駆けつけたのも、彼への応援を声を大にして伝えたかったから。完成した新しい作品へ感想を綴るのも、彼の次の活力として欲しかったから。
「頭痛が早く良くなりますように」
祈りを紡ぐ。なまえはカラになったマグカップとクッキーの乗っていた皿を回収すると、キッチンに立ち、泡立つスポンジで食器を洗っていた。もうここからは自分の生活の時間が始まる。ただ、彼を起こしてしまわぬように気を払いながら、なまえは少しずつ残りの今日を終わらせていく。強かった雨足も、吹き荒ぶ風も時間が経つにつれ、徐々に落ち着いて行った。決して止みはしなかったが、時計の針が何周も駆け抜ける度、なまえもやがて眠気を覚えた。
このまま寝室へ行ってしまっても良かったのだが、一人で眠っているコルサを置いて行くことが出来なかった。寝室から手軽なタオルケットをもう一枚だけ持ってくると、向かいのソファーに寝そべった。おまけに持ってきたランタンにほんの少しの火を灯して、テーブルに乗せるとなまえは明かりを消した部屋の闇を見上げながら。ざあざあと降り頻る雨の音を聞きながら。体に心地よく滲む疲労感から来る眠気に誘われながら、嵐の夜に眠りについた。
***
真夜中の闇に紛れて目が覚めた。ソファーにもたれ掛かり、彼女から貰った飲み物を飲み終え、その温かさに微睡んでいたのだが、眠ってしまったのだと察するのに時間は掛からなかった。テーブルを挟んだ向かいのソファーには、なまえが横たわって眠っていたからだ。スマホロトムを取り出せば、既に日付を跨いだ真夜中の時間帯が表示されていた。明るい画面の光に彼女が起きてしまわぬようにと、すぐにしまう。自分が置き去りにしてしまったマグカップや皿を探して、テーブルを見ると綺麗に片付けられており、申し訳なさが募る。だが、それと同時に気付くことがある。
煩わしいと感じていた頭痛がすっかり治っていた。今度、自分でも作ってみようと思った。詳細なレシピは分からないが、間違うこともないだろう。もしかしたら、その時に特別だと言っていた理由が分かるのかもしれない。窓の外はいつの間にか雨も止み、風も大人しいままだ。窓越しに自分の住む街を見た。真夜中の真っ青なスクリーンが垂れ下がったままのように、どこもかしこも濃淡の鮮やかな青と黒の世界だった。胸の奥で何かを擽られる。
「不思議なものだ、あれ程までに難解だったパズルのピースが次々と嵌っていくような感覚」
自分の目指す制作の形がようやくはっきり見えたような気がした。元々、モチーフの草ポケモンはあれど、コンセプトと照らし合わせ、作品としての調和の取り方に苦戦していた。だが、何故か彼女の近くにいると隠されていた新たな方向性を見つけることが出来る。彼女の存在が最適解だとは思わないが、彼女が乱雑な思考を一つ一つ綺麗に片付けてくれているのだろう。もう一度深くソファーに体を預けた。今度は背もたれに、ではなく、思い切り寝そべるように。
「今日は朝まで世話になるぞ、なまえ」
コルサは腰に携えた茨のロープ一式を取り外すとテーブルに置き、掛けてもらっていたタオルケットに包まり、穏やかに眠るなまえを見た。彼女もまた青と黒の世界の住人だった。さらりと流れる髪は夜の青に染められ、素朴な寝顔を映す素肌も淡い青に染まっている。返事の聞こえぬ静寂にコルサは満足していた。これでまた明日から自分の思うような制作に取り掛れると。そして、それが出来上がった暁には真っ先になまえに見せてやろうと密かに企み、再び手を引かれた眠りへと落ちて行く。
05.夜更けの凪