万世極楽教には日々、救いを求め、寺院を訪れる者たちが多い。しかし、あまり目立ってはならないという考えから教祖の童磨は、組織の拡大化を望んでおらず、時折数合わせを行っている。大きくなってはならないが、大きくならざるを得ない要因がこちらへと舞い込んでくるが故に、時期を見ては数合わせの意を込めて、信者を極楽へと導く。この繰り返しである。
そして今日も俗世の苦しみから逃れるべく、この寺院を訪ねて来る者がいた。それは赤子を抱いた女性だった。殴られたのだろうか、酷く顔を腫らして、涙に塗れている。彼女は怯え、気が動転しているのか、支離滅裂なことばかりを話している。それでも、無下に追い返すことはしない。ここは万世極楽教、救いを求める者は誰でもここに居ることを許される場所だ。
「分かりました。一刻を争う事態なのですね、まずはこちらへどうぞ。怪我の手当てもしなくては」
「ありがとうございます……!ありがとうございます……!」
「そちらはあなたの……?」
「ええ、この子を置いていくなんてこと……、」
「大丈夫ですよ、教祖はどんな方であっても受け入れてくださいます。安心してください」
不意に懐かしい匂いがした。この女性が腕に抱いた赤子へと視線を向けた一瞬の内に、頭の中にぼんやりと浮かぶ映像に誰かの姿が映る。今は不鮮明でよく見えないが、彼女と似た雰囲気であることだけは確かだった。どこにでもいるただの親子に何故、郷愁にも似た感情を抱くのだろう。妙な感覚を覚えながら、なまえはその親子を寺院の中へと迎え入れた。
***
「そっか、それは辛かっただろうに」
教祖の寄り添うような言葉が彼女にも降り注ぐ。彼女は我が子を連れて、ここを訪れた理由を懸命に説明してくれた。家族でありながら、夫が、その母が暴力を振るうのだと。我が子の身の危機を察し、家を飛び出したのだと、涙ながらに話していた。
「なまえちゃん、この子の手当てをしてあげて。必要なものがあれば、なんでも言って」
「分かりました。では、こちらへ」
彼女の身の上話に同情した訳ではない。ここは、そういう場所なのだ。人には言えない理由を抱えた者達を保護する、匿う場所だからこそ、否定をせず、快く迎え入れているだけだ。事の顛末はいつも同じ。だからこそ、この手の対応には慣れていた。
彼女と共に近くの部屋に体を落ち着けると、予め用意しておいた薬箱から、手当てに必要なものを取り出す。あとは水の張った桶に手ぬぐいを浸し、彼女の傷だらけの顔にそっとあてがった。
「ありがとうございます。あなたの言っていた通り、ここの教祖様は優しく迎えてくださったわ」
「教祖様は苦しみ、救いを求める方に慈しみを持って接してくださいます。ですから、あなたを否定するようなことは致しません」
「あなたは、あの教祖様に仕えてらっしゃるの?」
「ええ、お傍に置かせてもらっています」
「そう。あなたも優しい人だものね、」
彼女、嘴平琴葉は暖かな瞳で自分を見ていた。淡々としていた筈の振る舞いに、優しいと声を掛けられ、内心狼狽えていた。
今まで散々、人の世話を見てきた。それは彼女のように酷い目にあって逃げてきた人間を当然のように介抱し、あわよくば信者として取り入れる為だ。それなのに、手段でしかない自分の行動を優しいと評され、なまえは狼狽える感情の置き場を見つけられずにいる。
「ごめんなさい、気を悪くしちゃったかしら」
「いえ、私もまだ未熟の身ですので」
咄嗟の苦しい誤魔化しに止まっていた手を再び動かす。酷い殴られようだ、ここまで殴る必要がどこにあるのかと問いたくなるほど、彼女の顔は傷だらけだった。手ぬぐいの先でそっと血を拭い、綺麗に顔中の赤を取り除いていく。すると、今まで置き物のようだった彼女の腕の中の子が小さく泣き出した。
「ああ、ごめんね。伊之助、起こしちゃったね」
「伊之助……、その子のお名前でしょうか」
「ええ。この子は伊之助、私の宝物なの」
どんなに顔が腫れていようとも我が子に振る眼差しは清らかで暖かく、優しいものに見えた。琴葉が伊之助に優しく微笑みかける姿に、なまえは何かを思い出そうとしていた。これもまた無意識での行動だった。
ちょんちょん、と琴葉は華奢な指先で伊之助のふっくらとした頬をつついては、嬉しそうに微笑んでいる。伊之助はつつく指を小さな手で捕まえると、ぎゅっと握っているように見えた。その光景から目が離せなかった自分を何と勘違いしたのか、琴葉は伊之助を抱いてやってくれないかとなまえに持ちかけた。
「あ、いや、私は、」
「最初は怖いかもしれないけど、大丈夫」
彼女が宝物とも言える子を、自身に抱かせようとする思考が分からなかった。それ以前に触れてはいけないもののように思えて、なまえは頑なに伊之助を抱こうとはしなかった。
「いつか抱いてやってください。きっと伊之助も喜びますから」
「私にはとても、」
「とても?」
「赤ん坊はとても清らかなものですから、私のような者は抱いてはいけないと思うんです」
「そんなことありませんよ、きっと」
ふふ、と笑いかけてくれる琴葉に罪悪感を抱いていた。本当に笑顔の綺麗な人だと思った。そんな人の宝物である赤ん坊を抱いていいはずが無い。汚れてしまった手で抱いていいものではないのだ。酷く動揺している、狼狽も今まで以上だ。
「今日は簡単な手当てしか出来ませんが、明日は医者を呼んで怪我を診てもらいましょう」
「はい。ありがとうございます」
「いえ、それでは今夜はここでお過ごしください」
負傷した琴葉の体を気遣い、なまえは布団を敷いてから部屋を出た。襖を閉ざしてすぐ中から琴葉の子守唄が聞こえ、なまえは逃げるように廊下の奥へと消えていった。
07.とある親子の話