一日の稽古を終えた愚地克巳は荷物をまとめ、一足先に帰路に着こうとしていた。神心會館の入口で同じく帰路に着く彼女の後ろ姿を見つけると、間髪入れずに距離を詰め、声を掛けた。

「あれ、みょうじくんも今帰りかい?」

 突然呼び止められ、不思議そうな表情をしていた彼女は自分に気付くと、まず驚き、次に顔を綻ばせた。自分と同じように荷物をまとめた後ろ姿は稽古終わりと言ったところだろうか。

「若先生、お疲れ様です」
「ああ、お疲れ様。稽古終わりってところかな?」
「はい。それで今、帰るところだったんです。若先生もお帰りですか」
「まあ、そんなところだね。それじゃあ、ここで会ったのも何かの縁ッてことで、途中まで一緒に帰ろうか」

 いいんですか……?と遠慮がちに聞いてくる彼女は何故かキラキラと輝いて見えた。近くの街灯の光が目に反射しているのだと分かっていながらも、彼女の目を輝かせる姿につい、妙な気持ちを抱いてしまった。変な意味合いではなく、例えるなら、小さな動物を愛でる時のような穏やかさに似ている。そして彼女は同じ神心会空手を、ささやかながら武とは何たるかを習っている相手と言うこともあり、特別ではないが、彼女に対して甘くなってしまう部分があるのだろう。

「たまには女子部の子と帰ってもバチは当たらないと思うンだ」
「……それなら、私も若先生と帰ってもバチは当たりませんよね?」
「当たるバチなんかありゃしないさ。なんなら、そのバチ、俺が打ち返してあげよう」

 押忍……!と瞳に零れた星屑はより繊細に輝く。その眼差しが心地よく、分かりやすい程に憧れに満ちていて照れ臭い。惜しむことなく与えられる憧れの瞳に、自分はどのように映っているのか、とても興味深かった。しかし、それを訊ねようとするのはやや女々し過ぎる。自惚れとも取られかねない調子づいた欲を上手くたしなめ、さ、行こうか。と帰路への一歩を踏み出した。


 日が沈んでから街はやっと活気づく。都会じみた街は様々な人間で溢れ返る。仕事終わりのサラリーマンやただのゴロツキ、遊びに繰り出してきた学生、今夜のカモを探す客引き。余計に疲れちゃうよなァ〜……といつも零したくなる帰り道が今日は全く違って見えた。いつもならさっさと通り過ぎていく道を彼女の歩幅に合わせて歩いている。ま、これは当然ッて言うかさ、当然だよね。華美な通りを彼女と二人で歩くのは初めてだ。まるでちょっとイイ感じの二人が遊んでるみたいで、ドラマ的にはたまんないシーンなんだろうけど、そんなときめく場面じゃないんだよな〜ッ。などと浮ついた気持ちは、道行く遊びたがりな学生より真面目な帰り道に深く釘を刺される。

「どう、稽古の方は?」

 自ら釘を刺されたことを無駄にしないよう、真面目な話題を振ってみた。自分の身長より数十センチも低い位置にある頭はポニーテールを揺らしながら、荷物で膨らんだ鞄を肩に掛けている。自分のそれとは全く違えど、同じ時間まで己を突き詰めていた筈だ。この問いの答えは、疲労を感じさせないような顔で語られた。

「毎日、習ったことの繰り返しですけど、教えてもらったことが形になる瞬間が好きなんです」
「へぇ、それじゃあ今日は何か形に出来たかい」
「……いえ、今日は残念ながら」

 でも、毎日楽しいッて言いますか……。楽しいです。と言い切ってみせた彼女にこそばゆい気持ちを覚えていた。自分や他の門下生達が会得したこの空手は父から教わり、そして各々に受け継がれたものだ。誇りやプライドになりうるその力を、彼女は純粋に楽しんでいる。楽しみながら、大切に学んでいるのだと、さっきの言葉が全てを物語っていた。
 大切にされるという行為はこんなにも嬉しく、照れ臭く、心を突き動かされるものなのか。与えたつもりが与えられてもいた。ならば、もう一度与えてみようと思う。大切に、丁寧に取り組んでくれる彼女の手助けがしたい。

「まだ形に出来ていないもので、みょうじくんが苦手としているものはあるかな」
「苦手、ですか……?苦手って言うより、上手くコツが掴めないのが多いって感じですかね」
「そっか、それなら話は早いや」

 俺が稽古をつけてあげよう。今度、時間がある時にでも女子部に顔出すよ。といつもの調子でウィンクを飛ばしてみれば、先程まで笑顔だった彼女の表情は固まってしまい、予想していない展開にこちらも焦りを抱く。

「……あれ、もしかして迷惑だった?」

 苦しい場の空気を何とかしたいと、取り繕うようにおどけて見せる。すると、彼女はふるふると顔を横に振り、遂には俯いてしまった。いつの間にか彼女は両手で鞄の持ち手を握り締めているし、自分は自分で反省点が知りたくて彼女にもう一度話を振っていた。

「迷惑じゃないなら、どうして俯いているのか教えて欲しいんだけど……」
「……えっと、その、」
「言いづらい、かな。俺に」
「あの、稽古のお話とっても嬉しいです。……だから、迷惑とかじゃなくて、」
「じゃなくて?」
「今の、よかったッて言いますか、」
「よかったッて?」
「……かっこよかった、です」

 今にも消えてしまいそうにか細い声を街の喧騒の中で聞いた。ぼうっと燃え上がるように顔の表面が熱くなる。かっこよかったッて?そりゃあ、そうかもしれないけど……。でも、それ言っちゃうッてことはさァ……。ちらりと目線を彼女の方に逸らせば、同じように外の景色に目線を逃がしている彼女の横顔があった。うっすらと赤らんで見えるのは気のせいだろうか。余裕の仮面は剥がれかけ、ポーカーフェイスですら頼りなくて使えそうにない。
 さて、どうしたものかとぼんやり打開策を考えている内に一つの選択肢が二人の元にやって来た。それに反応したのは、自分ではなく彼女だった。

「……あ、私こっちの道なんです。若先生は?」
「あ〜……、俺はコッチ……」

 大通りの交差点、赤信号、分かれ道。焦れったい雰囲気に嫌気が差したのか、神は別れを突き付けてきた。もしや、女子部の子と帰るだけでなく、彼女とちょっと良い感じまで進んでしまったことへのバチなのだろうか。寂しそうに見える彼女と別れを切り出したくはない自分だけが少し立ち止まっては周りの雑音に混ざり、お互いに自分の返事を先延ばしにしていた。

「……それじゃ、あの、帰りますね」
「えッ、ああ、みょうじくん、」
「はい?」
「行こう」

 当たるバチなどありはしない、寧ろ打ち返してやると豪語した身だ。やってやらねば、彼女に示しがつかない。ホラ、青信号。と勢いに身を任せて彼女を攫っていく。ぞろぞろと横断歩道を渡ろうとする人は黒い波。その中で決して手を離さないように青信号の横断歩道を渡った。無事に二人で渡り切り、大きく息を吐き出す。安堵する心がある。

「よしッ、……ッてコッチに来たものの、みょうじくん家の道は……」
「ふふ。大丈夫ですよ、若先生。私についてきて下さい」
「おッ、それじゃあ道案内頼もうかなァ」

 道案内なんて聞こえのいい言葉だが、多分彼女自身も分かっている筈だ。本当はあの交差点で別れたくなくて、こうして無理矢理家まで送るという方法をとったことを。さっきの顔と打って変わって今はどこか嬉しそうだ。彼女に手を引かれるがまま、その隣を歩いて行く。アレ?ひょっとして……。と密かに一人気付いた頃には、もう引き返せないやと観念するしかなかった。


 彼女と共に彼女の家へと向かっている最中、遂に彼女は気付いてしまった。今の今まで自分達がお互いに手を預けて歩いていたことを。それに気付いてからというもの、彼女は無口を貫いていて、自分も右に同じといった状況だ。なんとなく体が熱い気がする。握っている手も汗をかいてしまいそうな程に焦っている。いつ離すか、いつ切り出すか。いや、切り出さなくてもいいのかもしれないが、それは許してもらえるのか。無口な帰り道、先程の別れを惜しむ時間より重たくてちょっぴりと苦しい。

「あの、もしご迷惑なら、その」
「えッ?」
「……手、のことです、」

 どきりと心臓が嫌な跳ね方をする。全神経が彼女の手を握る右手に集中していく。決して汗ばんでくれるなと会話を忘れて祈っていた。すると、彼女の指先が緩やかにほどけていくのを感じ、すっと手の内から逃げてしまう指先を追うことが出来なかった。何故なら、離れるよりも前に、追うよりも前に、もう一度手を握り直したからだ。彼女は驚いた顔でこちらを見た、返事代わりに自分も彼女を見つめた。

「……俺もさァ、この街に住んで分かったことがいくつかあるんだ」
「分かったことですか、」
「そ。アッチの大通りは遠慮を知らないヤツしかいないとか。あとは女の子が一人でいると放っておけないヒトがたくさんいることとかね、」
「だから、今日は一緒に?」
「……いいや、違うね。これは俺の個人的なワガママ。みょうじくんを送っていきたいッて言うワガママ」

 だから、許してほしいな、なんて。と白状すれば、……もうそろそろバチが当たりそうです。と遅れて聞こえてくる。そして、また少し遅れてからぎゅっと握り返す感触があった。感情はもう何度も沸騰してばかりだ。当たるバチなんかあるものか、そんな身の程知らずの神など何とかしてしまえばいい。口が滑るより先にもう一度だけ柔らかく手を握り締めれば、……緊張、しちゃいますね。と返ってきて急いで力を緩めた。



| 落ちぬバチなら無いのと同じ |


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