とても、都合のいい夢だと思っていた。自分の目の前で、慕う相手が自分に向かって優しく語り掛けてくれてくれる、ここちよいゆめ。しかし、はっきりと目が覚めて気付いた。あれは、夢などではなかったと。現実だった、眠りから覚めてすぐの現実。彼は綺麗な深緑の髪をしている。まるで茨のようにつん、と跳ねている毛先だけでなく、うねる毛束も彼らしさを助長させているように思う。背後の窓から差し込む日差しを背なに受け、体の輪郭が眩くぼやけていた。辺りを漂う空気の温かさは昨晩の雨が嘘だったかのように感じさせてくれる。そんな中で二人きり、静かに過ごしていたのだ。語り掛けることはあれど、言葉を交わすことを望んでおらず。見つめることはあれど、視線を返して欲しいと望んでいない。
 ついさっきまでの自分は、とても幸せな人間だったと思う。あのように静かで、叙情的で、人間らしい時間は過ごそうと思っても、中々手に入らないものの一つだ。美しかった、緑人の彼は。芸術家たる凛とした佇まいもさることながら、一番の美しさの原点は、あの目だ。あの瞳がこの世の中から真に美しいものを見出すことが出来る、美しさの要なのだ。その瞳に映る自分は、質素な洗面台の鏡に映る自分とは違って、もう少し別人のように見えたのだろうか。鏡の中の自分は、少しだけ頼りない。思いやることは出来ても、決して心の内を明かすことは出来ない、臆病な人間だった。恋を自覚してはいるが、それを明かすことで彼の迷惑になってしまうのなら、彼の悩みの種に変わり果ててしまうのなら、明かさぬ選択もあるような気がして。

「頭、撫でてもらっちゃった」

 細いながらに骨張った男性的な指先が、この髪を撫でた。驚きと羞恥。それから、わずかな喜びが次々に押し寄せていたが、どう反応するのが正しいのか分からず逃げ出してしまった。

「今まで、あんなに接近することなかったし、」

 大人になると、恋を素直に喜べなくなる。少女の頃に抱く、ときめきのようなものはあまり見なくなった。その代わりに心配だとか、配慮だとかが平気で混ざり込むようになった。素直に喜んだっていいだろうに、どこか大人びていたいからと無理をして冷静を装う。いつの間にか、スマートさを求められ、自分でも求めるようになり、不思議と素っ気なくなる。まだ『憧れ』だった時には感じることのなかった思いに、溜め息が漏れた。最近は色々なものが『憧れ』に混じってしまい、純粋さが曇ってしまったのかもしれない。
 一人、洗面台の前から動けないでいると、不意に足元にくすぐったさを覚えた。視線を下げていくと、そこには陽の光をいっぱいに浴びて機嫌の良さそうなメェークルがこちらを見上げていた。そう言えば、自分が起きた時には既に外でキマワリ達が日光浴をしていた。コルサさんが出してくれたんだね、とキラキラと目を輝かせたメェークルの首元を両手で優しく撫でる。指を通す度、木の葉が擦れ合い、小さく鳴った。降り注ぐ日差しを浴びていたからか、体中がほんのりとした温もりを帯びている。

「コルサさんにお礼、言わなくちゃね」

 大切なことはしっかりと、はっきりと伝えるべきだ。キマワリ達だけではなく、自分のパートナーであるメェークルやミツハニーを外に連れ出してくれた。そのお礼を言わずに別れてしまうなんてことは出来ない。気持ちの切り替えは早い方が良い、なんて誰かが言っていた。急いで両手に冷たい水を溜め込んで、一気に顔を洗う。肌を突き刺すような冷たさに眠気が吹き飛んでいくのと同時に、少しだけ気持ちが引き締まったようで次々と身支度を済ませていく。そして、一通りの支度を終わらせ、コルサの元へと戻ることにした。メエークルは相変わらずご機嫌なのか、小さく飛び跳ねるようにして廊下を歩いている。
 やがて、またあのうねる茨が見え始め、密かに深呼吸をする。小さく頷き、コルサの傍に歩み寄ると、窓の外の風景に視線を向けていた彼が振り向く。おお、と漏らしてすぐに口を開いた。先程より別人のように見える、と残し、コルサはまじまじとこちらを覗き込んでいた。そんなに見つめないでください、と軽く避ければ、何かが気になったのか、今度は流していた髪を耳に逃がした。疑問符が浮かぶ。本当にどうしたのかと訊ねても返事は来なかった。その代わり、顎に手を添え、黙り込んだまま考え込んでいる。

「何か、変なところありますか……?」
「いや、そうではない。ただ、」
「ただ?」
「……たまにはそういうのにも手を出してみても良いのかもしれん」
「な、なにがですか?」
「こちらの話だ、気にするな」
「なんだか、今日のコルサさんは大変みたいですね」

 乱されたペースにやや疲労していると、足元の木の葉に気付き、伝えたかった言葉を思い出す。

「そうだ、コルサさん。キマワリ達を出してくれて、ありがとうございます」
「眠っているなまえの周りを取り囲んでいたからな。まるで、小さなキマワリ畑のようだった」
「あと、私のパートナー達も」

 ミツハニーは未だに外でキマワリ達と戯れており、メェークルは自分の周りをはしゃいで飛び跳ねている。その様子にコルサは口の端を静かに持ち上げて笑う。自分は自分で、そんなコルサの姿を見て破顔する。

「もうすっかり、良い天気ですね。昨日の雨が嘘みたい」
「ああ。もう少ししたら、ワタシも制作に戻るとしよう」
「次の作品も楽しみにしてます。怪我のないよう、気をつけてくださいね」
「任せておけ。ワタシの作品で、なまえに新たな発見を与えてやろう」
「ふふ、待ってます。でも、また昨日みたいに疲れたら、いつでも顔出してください」

 また、特別なドリンクを出しますから。と微笑みかけると、コルサは真面目な顔をしてから、再び口の端を持ち上げ、頷いた。その時は世話になろう、と一言添え、自分の周りを飛び跳ねるメェークルの額を撫でた。すると、メェークルも気を許しているのか、ぐりぐりと頭を擦り付けていた。僅かに目を丸くしたコルサに、懐いているみたいですよ。と口元に手を添えて囁けば、思い切り笑顔を見せて、キサマは見どころのあるポケモンだ。とわしゃわしゃと頭を撫で回す。
 陽だまりの中で過ごすその時間が、不思議と大切な時間に思えた。まるで、自分に優しい未来のワンシーンを前借りしているかのようで、自分につくづく甘い。少しだけ難しく絡まってしまった糸を解く、丁寧なひと時だった。別れの時間になると、懐き始めたメェークルは離れるのを惜しむようにコルサの足元を着いて回り、コルサもメェークルの気持ちを汲み取る形でもう一度だけ額を撫でた。見送りの際には、真っ直ぐに自分の目を見つめる姿に目が逸らせなくなる。けれど、戻らねばならないと芸術家は自分のアトリエへと帰って行った。なまえは、その後ろ姿が見えなくなるまで一人見送り続けていた。



07.憧れの行方


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