コルサが街に戻って来たのは、ボウルタウンから失踪して二週間後のことだった。自分が不在の間はジム関係諸々がストップしていたようで、事務局の人間に口うるさく説教を食らったのだが、そのような些細な諍いよりも足が向かったのは、彼女がいるだろうキマワリ広場だった。荷物はなく、手持ち無沙汰。会ってすぐに渡したかったのではなく、彼女とまずは約束を取り付けたかった。深緑の革靴が街の石畳を踏み締め、待ちきれぬと鳴る。穏やかな緑草のカーペットには太陽が咲いており、その景色にどこか愛おしさを思い出せば、余計に彼女に会いたくなってくる。久々に浴びる街の風がとても心地よかった。
扉に手を伸ばし、設けられている小窓から中を覗く。すると、人の姿はないものの、ドアノブはくるりと回転した。扉を開け、中に入ってすぐに声を掛けられたが、それは会いたかった相手のものではなかった。廊下から覗く姿は全く別人のそれで、彼女ではない彼は顔を明るくして出迎えてくれた。
「コルサさん、やっとお戻りになったんですね……!」
「ああ。ところで、」
「急に居なくなっちゃって大変だったんですから。ジムにはたくさんの挑戦者がやって来て……」
「ところで、彼女は何処に?」
「えっと、なまえさんですか?なまえさんなら、今ご実家に戻られてると思いますよ」
「実家?彼女に何かあったのか?」
「いいえ、コルサさんが不在の間はジムを休みにしていましたから、ジムテストも同様に」
つまり、なまえもまた別の街に戻って休みを謳歌しているのだと聞き、予期せぬすれ違いに期待が曇る。留守番役の彼はジムリーダーであるコルサが戻ってきた事を喜んでおり、すぐに懐のスマホロトムを起動させ、事務局に連絡を入れていた。一方で萎んだ期待に疲労が押し寄せる。街を離れてから知人の元で制作に取り掛かり、出来上がりと同時に戻って来た反動なのだろう。以前にも腰掛けたことのあるソファーにもたれ掛かると、飲み物を貰えないかと声を掛けた。彼は驚いていたものの、頷くと傍にある冷蔵庫の中を物色し始めた。すまないが、温かいものを貰えるだろうか。と後付けの注文を押し付けると、自身も彼に倣うかのようにスマホロトムを取り出す。
しかし、彼女へ続く数桁の番号を知らないことに気付く。そして、同時に自分へ続く番号を伝えていないことにも気付く。こんな時、自分の疎さに嫌でも気付かされるのだ。目に見える繋がりはそのままで、目に見えぬ繋がりばかりを追い求めてしまう。それは自身への芸術然り、他者との関わり方然り。世間に敏感でいては死んでしまう感性がある。如何に自分の感性を深掘り出来るかにかかっている部分もあるせいだろう、こんな時になって感じるもどかしさはより深刻に感じられる。起動させたスマホロトムを音もなく懐に戻すと、簡素なキッチンで彼があたふたとしているのが見えた。
「すみません、お待たせしました。なんせ自分のとは勝手が違うので、」
「そういう時もあるだろう。助かった、いただこうか」
静かにテーブルに置かれたマグカップを手に取る。あたふたしながらも彼は温かな飲み物を出してくれた。手際の悪さに慣れぬことをさせたと思いながら、温かさを傾ければ口内に流れ込んでくる。適度な温度は火傷を気にしてだろう。口当たりの良さは変わらないものの、何かが足りない。見た目からは判断出来ない微々たる変化。舌の上を流れていく温かなそれは、嵐の夜に彼女が出してくれたホットミルクだ。だが、違うのだ。ぬるり、と喉の奥にゆっくりと落とし込まれていくそれはあまりにも質素な味をしている。何度口にしようとあの味ではないと知るばかりで、遂には手にしていたマグカップをテーブルに戻してしまった。
「熱くないですか?もし、アレなら冷ましてもらっても」
「構わん。出先から戻ったばかりなのでね、少し休みたい」
詮索されることにも疲弊してしまい、素っ気ない態度をとってしまったことは申し訳なく思いつつ、けれど、この違和感、相違、誤差に思考する頭が止まらない。一つの小さな綻びから渦を巻くように肥大化した悩みの種が根付いていた。彼にはなくて、彼女にはあるもの。まるでなぞなぞのように簡単な問いだった。しかし、その答えに至るまでが困難なのだ。まさか、人によって味覚が左右されるだなんてことが正解ではないのを祈る。それじゃあ、本当に自分が彼女のことを、なまえのことを ──── 。
「キミ、彼女はいつ頃戻ると言っていた」
「確か……、もうそろそろ帰ってくる日程だったと思いますが」
「そうか、分かった」
小麦色の髪が恋しい。屈託のない笑顔が恋しい。漂う柔らかな空気感が恋しい。語彙が足りなくとも真っ直ぐに投げ掛けてくる言葉が恋しい。なまえという相手、そのものが恋しい。キマワリ達に負けず劣らず咲く太陽だった。幾度となく焦がされ、温められ、遠くで見守ってくれている。何故、人が夜に浮かぶ月に思いを馳せるのかを知る。思考の濁流、突拍子もないことが連鎖していき収集がつかない。けれど、それを察する者もいなければ、自分で止めようもない。根を張る重たい悩みに囚われていると、突然来客の足音がした。扉を開け、ただいま戻りました。と口にした相手は、行方を眩ませた太陽だった。
「いらしてたんですね、いつお戻りになったんですか?」
大きな荷物を抱え、パートナーであるメェークルとミツハニーを連れた観光客の風貌。まるで、あの日の再来だった。寂れた景色に色が甦る。セピアの薄膜が裂け、その裂け目から鮮やかな色彩が雪崩のように駆け抜けていく。雪の塊を退けた先にあるのは、恋しがっていた太陽そのものだった。
「たった今だ、キミは?」
「空飛ぶタクシーが混んでて、少し遅くなっちゃいました」
「そうか、それならいい」
「どうかしました……?」
「いや、ワタシはキミに会いたかったのだ」
彼女が手にしていた荷を受け取り、空いた隣のスペースに逃がす。つもりだった。だが、体は自然と向かいのソファーに荷を下ろし、自身はまだ温かなマグカップを手に、隣へと移動していた。不自然な行動だったのだが、彼女は全く気にも留めずその席へと腰掛ける。ありがとうございます。と笑みで柔らかく細まった瞳を向けられ、話したいことがある。と身を乗り出したところで、彼の存在を思い出す。
「……えっと、それじゃあ僕は戻りますね。なまえさんも、コルサさんも帰って来たことですし、」
気まずそうにキッチンから飛び出して行った彼はそのまま扉から出て行き、中途半端に空いた隙間からキマワリ達が室内へと入り込む。なまえの足元に集まっては、長い休みから戻って来たコルサやなまえのポケモン達に話し掛けるように鳴いていた。ただいま、と手を伸ばし、キマワリの花弁を撫でてやる。花弁の先端を指先で優しく擦り合わせるように撫でてやると、嬉しそうになまえの膝に寄りかかった。それが彼女にとっても嬉しいようで、次から次へとキマワリの波に揉まれながら、一匹一匹丁寧に撫でていく。暖色の花吹雪に埋もれている彼女に、ようやく本題を切り出す。
「明日の朝、ワタシのアトリエまで来て欲しい」
「コルサさんのアトリエに、ですか」
「無理にとは言わんが、」
「いえ、……行きます。必ず」
彼女は一度だけ強く目を瞑り、そして、きっぱりと言ってのけた。彼女にしか分からない何かを噛み締めるように。本人は気付いていないらしく、自分もそれはそれで良いと暫く置き去りにしていたマグカップに手を伸ばす。一口分、口に含むとやはりどこか淡白な味がして二口目を続けられなかった。
「あれ、飲み物貰ってたんですか?」
「ああ、あの時と同じものをな」
「それじゃあ、ちょっぴり物足りなくありませんか?」
悩みの種を的確に掘り返したのはなまえだった。しかし、何故彼女が自分が密かに蒔いた悩みの種を拾うことが出来たのか不明なままだ。彼女は自分の置いたマグカップを手に、キッチンに立つと戸棚から一つの瓶を取り出し、手元に置いた。瓶の蓋を開け、中身をスプーンで三口ほど掬い、マグカップの中に落としていく。最後には中身をよくかき混ぜ、自分の元へと戻って来た。
「どうぞ、飲んでみて下さい」
彼女に言われるがまま、ほんのりと人肌にまで冷めたマグカップに口をつけた。口の中に広がる甘みは先程の一口より強く感じられ、寧ろ丁度いい温度に溶ける柔らかな甘みに驚きを隠せない。言うよりも早く彼女はその理由を明かしてくれた。
「ふふ、隠し味のあまいみつです。私のミツハニーからしか採れない特別なものなんですよ」
決して主張し過ぎない風味に、残りを全て飲み干すと体が心地よく熱を帯びる。隣で微笑む彼女、すっかり飲み干してしまったマグカップ。これでは、あまりにも分かりやすいではないか。だが、そうなのだ。彼女は、そういう人間なのだ。いつだって何かを与えてくれるような、例え無自覚だったとしても、与える側の人間なのだ。だから、なのだろうか。与えられる心地良さを知ってしまったから、心が真っ直ぐ彼女に伸びているのだと。
「やはり、キミは他とは違う」
「そ、そうです、かね……?」
これからも、他とは一線を画すキミでいてくれ。と告げると、今度はその言葉の意味を理解しようと眉間に皺を寄せ、難しげな表情をして頷いた。その様子があまりにもおかしいせいで、小さく吹き出すのを堪えられなかった。
10.繊細の調和