「ご馳走様でした」

 小さく添えられた礼儀に、まだ身動きが取れなかった。驚きに強ばる体、濡れそぼった温もりが徐々に冷たいだけの感覚に変わっていく。ふわり、と漂うアルコール。心做しか、色味の少ない彼の頬が赤らんで見える。酔っていた、のかもしれない。寧ろ、酔っていたからこそ、突飛な行動を取ってしまったに違いない。酒は飲んだ本人の素顔を明かしてしまうことがある。だから、今回も飲み過ぎてしまったが故の不具合なのだ。そう思うと、自然と落ち着くことが出来た。しかし、逃がした視線の先で捉えた、真四角の鈍色の瞳が人知れずギラついた熱を宿しているように見えた。これはただの食事だった、週末だからと気軽に入った店で頼んだ料理と酒を楽しむだけの、そんな時間になるはずだった。
 もう少し、休んでいきますか。と訊ねられ、咄嗟に大丈夫だと答えた。そして、今日は楽しかったと言葉を添えると、反応の乏しいアオキも共感するように頷いた。普段と変わらない様子に、先程の行為に対して認識が甘くなっていた。やはり、それなりに酔っていたのだと勝手に都合のいい理由を見つけ、それで自分を納得させてしまったのだ。自分が大きな口でかぶりついた料理から垂れたソースを拭った指先に、アオキが暖かな舌を這わせた事実が霞んでいく。おかしいと言うことをおかしいと認識出来ないほどに、自分も酔ってしまっていたのだ。今思えば、この瞬間こそがアオキの秘めたる何かを知る絶好の機会だったのだろう。

 その日を境に、ふとした瞬間にあの場面の焼き増しのようにアオキの癖を目の当たりにすることが多くなった。外食の日は二人きりでゆったりと出来る個室を選び、互いの家で済ませる日には……と想像に難くない。ただ最近になって気付いたのが、アルコールの有無はあまり関係ないと言うことだ。最初が飲みの場だったこともあり、酔うと見える意外な一面なのだろうと思い込んでいた。だが、そうではなかった。彼は、人間の味を覚えた野生動物のように、この肌に舌を這わせるのだ。いつから、そうなってしまったのだろう。あの夜から?いや、もしかしたら初めから悪癖を持っていたのかもしれない。そして、自分に迫られているのは、悪癖を持った彼をどうするかという選択だった。
 悪い相手ではない。粗暴な一面など持ち合わせていないし、真面目に、愚直に日々のタスクをこなしている。寧ろ、愚直が過ぎて心配になる事もあるくらいだ。見た目に反して大食漢なことも好感が持てる。食事の時にしか見られない、僅かに微笑む表情や食事を楽しんでいる表情は、どうしたって嫌いにはなれない。つまり、自分自身としてはかなりの好感を抱いているにも拘わらず、ただ一つの悪癖に今後の付き合いを脅かされていた。悪い相手では、ない。もし、自分が親しい相手に自分をさらけ出した時、拒絶されたならどうだろうか。ましてや、それは命を脅かすようなものでもない。自分なら、自分であったなら、親しさの意味を履き違えてしまったのだと酷く悔やむだろう。そして、二度と誰にも自分を明かすことはしないだろう。


***


 咄嗟に動けなかった。口の端から顎、そこから首筋をなぞるように下へと伝っていく。手元には瑞々しいオレンジ。空いた片手を伸ばすと、真っ先にその手を掴まれた。自分より大きな体、陰りの中でこちらをじっと見ていたのはアオキだった。無愛想に閉ざした唇で、鈍色の瞳がこの体に突き刺さる。今日はアオキの家で食事の予定だった。途中で立ち寄った店のオレンジが美味しそうだったからと買って行った矢先のことだった。絡め取られる、そんな印象だった。事の顛末は。寡黙な唇の隙間から這い出る舌先の熱に、肌が粟立つ。さながら吸血、一滴たりとも残さずに舐めとってしまった。吐息が肌に触れる距離、目と鼻の先、影にすっかり全身を覆われてしまい、逃げ出せない。彼はこんな顔を見せるような、相手だっただろうか。口下手で不器用、素朴な人柄にどこか放っておけない、そんな相手だった筈なのに。変わってしまった、どうしてこうなってしまったのか。

「なまえさん、また零してます」
「……あ、ごめんなさ、」
「いえ、結構です」

 ぐい、と更に距離は縮まっていく。首筋に顔を埋め、貪欲に這う。小さく震える体に、アオキは掴んでいた手を離し、今度は両手で肩を掴んだ。逃げられぬように、とも捉えていいが、この時は漠然とこうしてほしいと思っているように感じられた。不規則に舌が肌を撫でる刹那に、時折背筋をなぞられていた。初めは彼の変化に戸惑っていたのに、気付けば自分もどこか期待している節があり、同じなのではないかと思えてくる。彼は自分以外の人間に、ましてや異性にこんな事をしないと信頼に甘えていた。そう思うと、今回の突飛的な行動を受け入れてしまう自分がいる。数秒とも、数時間ともとれる時間の中でアオキは用を済ませると、何事も無かったかのように再び距離を置く。そして、自分の手から食べかけのオレンジを奪い、静かに口に運んでいた。
 まるで、口直し。瑞々しい実に歯を突き立て、齧り、啜る姿に触発されてしまった。自分にはそうしなかったくせに、と当たり強く唇を食む。彼は驚く時も反応に乏しいらしく、目を丸くして自分を見た後にまたすぐいつもの無表情へと戻る。それがまた悔しいからと、唇を食むだけに留まらず、齧り啜った中身ごと吸い尽くすように奪っていく。アオキがこの両肩に触れたように、今度は自分がアオキの輪郭に両手を添えて離さなかった。口の端をどれだけ汚そうとも、止めなかった。拒絶されないのを良いことに。寧ろ、拒絶されない理由を探ってみるものの、あまりよく分からない。

「なまえさん」

 不意に唇が離れた。透明な糸が二人の間に張っている。驚いていたのは、自分だった。背中や腰に回された手が最後の理性だと告げている気がしたからだ。普段、上げているアオキの髪がゆっくりと垂れ下がってくる。目元を遮る前髪の隙間から、こちらを覗くやけに熱っぽい瞳が正気に引き戻す。引き戻すけれど、アオキ自体は熱を帯びたままだ。もっと欲しいのだと訴えている。すると、何故アオキが悪癖に目覚めたのかを耳打ちされた。
 なりたくてなったのではないが、前々からそのような衝動を覚えることがあった。初めは小さな違和感だった、自分が酷く攻撃的な人間のように感じられたのだと。だが、その違和感は徐々に日常に溶け込み、さも当然であると言うように自分の一部となってしまった。愛おしさが過ぎる故に強く触れてしまいたいと渇望する、一種の歪んだ衝動。背中に置かれた手が遠慮がちに離れていく。その前に、もう一度重ねていた。呼吸を千切り、唇に火傷を残して離れていくつもりだった。しかし、重なるのと同時に離れていた手が再びこの背に添えられ、今度は強く服を掴んでいた。まるで縋り付くように、離れ難いと告げられていた。前髪が頬や額に触れ、くすぐったさを覚える。手にしていたはずのオレンジはとっくに無くなっていた。それならば、自分達は一体何に齧り付き、何を啜っているのだろう。ひどくわがままなきぶんだ。

「普通であることの方が、難しいんです」

 普段、普通であることの素晴らしさを説いていても、それが自分に合っていると理解していても、他者の突出した個性に辟易しつつもどこかその良さを理解していたとしても。あてられてしまう、意図せず放たれた強い光に。網膜を焼かれ、瞼の裏にチラついて仕方ない。そして、次第に思考の一つと混ざり合い、変化してしまう。

「ア、アオキさん、」

 か細い声が追い縋る。諦観半ばで見下ろす男の瞳に、自分はどう映って見えるのだろうか。口をつけてしまい、ぐじゅぐじゅに齧り取られた果実のようだ。溢れて溢れて止まらない。歯を立てられ、傷んだ果実が望むのは、

「……すみません、自分はもう普通ではいられなくなりました」

 身も種も全て喰らい尽くしてほしい。余すことなく、何もかもをその腹の中に収めてほしい。じんわりと体の芯が火照る。この懺悔の間にも熟れているのだろう。一番美味しい状態で喰らってほしいが故に。

「そんなこと、言ったら……」

 わたしだってふつうじゃありません。
 シャツの胸元に手をかける。ゆっくりと自分の指がボタンを外していく度に、あの鬱蒼とした前髪の隙間から微熱を帯びる瞳が凝視していた。やがて、自分の太腿に男性特有の大きな手が這っていることに気付き、既にナプキンは取られていたのだと知った。ここは食卓、フォークやナイフがずらりと並ぶ食卓。彼がナプキンを取ったのならば、自分のすべき行動も既に決定しているのだろう。ここは食卓、悪舌持ちの男と被虐願望のある女の異様な食卓。もう、『普通』には戻れない。



| 悪舌 |


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