彼女は、よく泣く子だった。特に悔しさややり切れなさと言った、上手く消化出来ない感情と、そう言った現状に。その度に唇を噛み締め、次は軽率に泣いたりしないと口にする。初めは負けず嫌いなのだと思っていた。悪くないことだ、ポケモン達が多種多様に存在するこの世界で、人もそれくらい振り幅があった方が面白い。彼女はジムチャレンジャーではなかった。共にチャレンジャーを待ち受ける同胞だった。だが、いつの時代も眩さに当てられて、新たな一歩を踏み出す者がいる。彼女もまた、その一人だった。ユニフォームを脱ぎ、まっさらな格好で彼女は旅に出た。ガラルを巡り、相棒のポケモンと共に大切なものを探しに行くと。その背中をしっかりと押してやったのは、彼女が旅立つ日の朝のことだった。今も覚えている。別れが惜しくて涙するのを必死に堪え、無理にでも笑って見せた彼女はまさにチャレンジャーそのものだった。


***


 エンジンシティに爽やかな風が吹く。まるで希望の訪れを告げる、とても心地良い風だった。もうすぐ、次世代のチャレンジャー達が押し寄せる季節となるだろう。一年という時間は長いようで短い。尽きぬ永久のようで、しかし、たった一ミリの刹那のようで。時の流れに気持ちを馳せながら、朝のランニングに勤しむ。街の景観は何一つ変わらない。そこにいる誰もが、昨日と変わらずそこにある。だが、早朝のランニングを終え、エンジンスタジアムに戻って来た頃、スタジアムの入口で佇む人影と対峙した。その相手は、一年前にジムトレーナーから退き、相棒のポケモンと旅に出たなまえだった。黒炭のように美しい髪は当時と比べて些か長くなったように思う。それを一つに編み、風に流している彼女はどこか大人びていた。顔を、仕草を、物言いを、佇まいを見れば分かる。経験とは、そう言うものだ。雄弁に過程を語ることよりも端的に、的確に目を通して訴え掛けてくる。違う時間を生きたのだと。
 すうっと汗が引いていく。乱れた脈も徐々に落ち着きを取り戻し、心地良い熱を帯びた体はより熱くなっていくばかりだ。鋭く冴えた感覚は彼女の醸し出す迫力に呑まれぬように、既に身構えさせる。心は、歓喜していた。気にかけていた教え子が立派になって戻って来た時の高揚感。まさにそれに等しい。流れた汗を拭うことを忘れ、確かな一歩を踏み出す。距離を詰める度に肌に感じるのは、彼女が以前の彼女とは全く別人になってしまったという事実。きっと多くのことを学んだのだろう。多くの経験を積み、多くの悩みに直面し、それら全てを自分の手で乗り越えて来たのだと。血が滾る。熱く蒸気するのは肉体だけではなかった。血も、肉も、骨も、この体の何もかもが燃料を得たエンジンのように歓喜に打ち震えている。今すぐにでもオーバーヒートしてしまいそうな程に、期待が胸を高鳴らせる。

「お久しぶりです」
「ああ、久しぶり」

 彼女は戻って来た、このエンジンシティに。なまえはやって来た、このエンジンスタジアムに。凛とした瞳の意味は問わずとも分かる。あれは闘志に満ちた目だ。全てを確認するように口にしては無粋だと思えた。だから、足取りはいつものロードワーク帰りと変わらず軽快なまま、スタジアムの自動ドアを潜って行った。なまえも遅れてからドアを潜り、そのままバトルコートへと向かう。まだ一言しか交わしていないのに、もう既に期待に駆られていた。まるっきり別人のような彼女が、一体どんな道程を経て成長したのか。それを一番最初に目の当たりに出来る喜びが全身を駆け巡る。ギリ、とグローブが鳴る。握り拳はすぐにでもボールに手を伸ばそうとするのを止める為だった。

「まるで見違えるようだ、いい経験を積んで来たんだね」
「とにかく、大変でした」
「そうか。それでいい、その大変さが自分を強くしてくれる」
「私はあの子と一緒に挑みます」
「なら、僕も遠慮せずに本気を出そう」

 宣戦布告。昔の彼女自身を乗り越えようとする姿は長年目にしてきたが、やはり気分が良い。もう我慢しなくても良いのだと、強く握り締めた拳を開く。まだ上手くグリップが効く内に、熱く衝動的に突き動かされる前に、赤土色を踏み締めて持ち場につく。一歩、一歩踏み締める度に、胸の内は炎が燃え盛っていくようだった。彼女も自分の持ち場についた頃、腰に携えたホルダーから一つのモンスターボールを手に取る。彼女の相棒、それはジムトレーナー時代からよく知っている。あの頃はまだ進化前の姿だったが、今ではどうだろうか。ふと、考えるのを止める。答え合わせはもう間もなく行われる筈だ。
 互いにボールが投げ込まれ、カプセル型のボールから一斉に飛び出す。辺りの空気が震撼し、徐々に熱を帯び、熱風の如く広がっていく。気温の上昇。肌に纏わりつくことなく駆け抜けていく熱風の爽やかさ。そして、堂々たる出で立ちでその身に炎を授かったポケモンが二匹君臨する。一匹は幾つもの体節から成る胴の長い体を持ち、プレートのように平べったい腹部には黄色の丸い紋様が浮かび上がっていた。その正体は額に十文字の炎を纏うポケモン、発熱ポケモンのマルヤクデである。マルヤクデとはヤクデの頃からの付き合いになるが、相棒の座を他のポケモンに譲ったことはない。今までも、これからも自分のエースポケモンであることは変わらないだろう。

「行っておいで、ウルガモス」

 煌々と赤い閃光を辺りに撒き散らしながら、なまえの相棒であるポケモン、ウルガモスが姿を現す。最初はメラルバだったあのポケモンも、彼女との旅の中で逞しく進化を成し遂げたのだろう。太陽を模したような両翼は一種の大きな花弁のようにも見える。何故、ウルガモスが太陽ポケモンと位置づけされているのかを知る。炎の鱗粉、太陽の化身のようなフォルム、そして、燃え盛る炎の繭から生まれるという出生も相まって炎の神と神聖視されていたのだろう。ガラルでも滅多に見れないポケモンの一種だ。

「良い姿だ、僕の知っているメラルバくんではなくなってしまったようだね」
「……私もチャレンジャー達のように、あなたに挑みたい」

 彼女の蝋燭はいつも、安定を保ってゆるゆると燃えていた。不変、変化を好まず、安定、別の道に逸れぬよう。しかし、それでは経験に欠けてしまう。少し前の自分はそれを勝手に憂いていた気がする。だが、今の彼女と対峙して分かるのは、彼女のゆるゆると火を宿した蝋燭はとっくに燃え尽き、宿った火も次第に炎へと変わっていったのだと言うことだ。熱視線はまだ迫力といった凄み欠けるものの、好奇心を擽ってくれるくらいには好戦的に感じ取れる。

「いいね、始めよう」

 この一言を皮切りに自分も彼女も、一トレーナーとしての本性を剥き出しにするのに数分も掛からなかった。漂う熱気に頬が焼けていく。香ばしい匂いが鼻を突く。肌を焦がすような気迫に背が震えていた。

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