ガリ、ガリ、と目の前で錠剤を砕いていく。ここは自室、彼女は招かれた客だった。夏休み、友人達が通う夏期講習の後で、彼女をここへ招いた。彼女は隣で、自分がこれから飲まされるだろう薬を砕いている様を黙って見つめていた。
「睡眠薬は水に溶かすと青くなるそうです。中には色がつかないものもあるそうですが、」
「荒井くんは物知りだね、私の知らないこと全部知ってる」
「全部、というのは語弊がありますよ。僕にだってまだ触れたことの無い未知はあります」
「本当かなあ、」
「……みょうじさんがいなければ、触れられなかった未知もあります」
「もう飲んでいいの?」
「いえ、実際にこの種類の睡眠薬は青く染まるのか見てから、みょうじさんに飲んでいただこうかと」
「わかった、」
ある程度、粉々に砕いた睡眠薬を空っぽのコップに流し込み、用意していたペットボトルから水を注ぐ。粉末状の睡眠薬が徐々に水に溶けて、見えなくなっていく。念の為にと用意したマドラーでしっかりとかき混ぜた後、他愛もない会話をして退屈を埋めていった。例えば、今日の講習で出された課題や学校でも出されている宿題について。まだたっぷりと残された夏休みの過ごし方だとか、何となく思いついたものを適当に並べてやり過ごしている。
別に彼女は自殺願望がある人間では無い。寧ろ、どこにでもいるような平凡な少女だ。しかし、平凡を良しとしない自分と一緒に過ごしているのだから、彼女はやはり非凡なのだと思う。少なくとも、好奇心は旺盛なのだろう。でなければ、自分の突飛な言い出しを了承するはずが無い。自分が彼女に打ち明けたのは、睡眠薬を服用し、自分の前で眠りについて欲しい。勿論、眠りにつく=死ではない。
ソムノフィリアという言葉を知っているだろうか。睡眠や昏睡、気絶状態への性的嗜好を指す言葉だ。つまり、相手が意識のない状態でなければ欲情、又は興奮しないという特殊な性的嗜好である。ところで疑問に思うのが、自分が一般的であるかどうかは、一体何を基準にして判断されるのだろうか。一般的だと認められた人間にも潜在的な性的嗜好は持ち合わせており、結局はどのタイミングで自己の性的嗜好の特殊さに気付くかが重要なのだが、普通を押し付けられて生きていると僅かな歪にすら触れさせて貰えない。自分がソムノフィリアかどうかを知りたいと思うようになったきっかけは、ネットの掲示板で見た下世話でくだらないスレッドの内容からだった。
意識のない異性に強く惹かれる、この文面だけでもスレッドを立てた人物の異常性が透けて見える。しかし、何故惹かれるのかは本人にも分かっていないようで、最新の投稿まで読み漁った後、ふと自分も知りたいと思うようになっていた。何も特殊な性的嗜好を持つ相手を批難したいのではない、自分にもその可能性があるのではないかと考えているだけだ。だが、延々と思考しても意味が無い。意識のない異性に強く惹かれると言うのなら、雑誌や映像でそれを見たって良い。それで満たされるはずだ。けれど、満たされなかった。映像の中の人物は分かった上で演技しているだろうし、雑誌のページはその一瞬を切り取っただけに過ぎない。自分の目前に何一つ確かなものはなかった。
***
「睡眠薬を、飲んで欲しい……?」
「ええ、あなたにしか頼めません」
日陰、夏休み目前の新校舎の裏手側。昇降口。陰気臭い雰囲気の漂う日陰に彼女を連れ出し、声を潜めて話していた。偶然にもクラスメイトである彼女は、互いの家もそう遠くない。彼女自身、体調を崩して学校を休むこともあまりなく、健康な肉体であることは分かっていた。あとは道徳的な問題のみで、彼女が良き理解者であることを強く願った。持ち掛けた話に出てくるものが物騒であればあるほど、相手の警戒心を高めるだけだと知っていたが、何も明かさずに彼女を巻き込むのは良心が痛む。それに何より、命を脅かさない量とは言え、予期せぬ偶発的な事故の責任を安請け合い出来るほど、自分が出来た人間ではないと分かっていた。
「……飲んで、荒井くんは何するの」
「僕は、眠っている様子を観察します」
「観察……?」
「何もしません、約束します。ただ、みょうじさんが眠っている間、その様子を観察させてもらえばいいのです」
「観察をし終えたら……?」
「あとはみょうじさんが目覚めるまで、他のことをしていようかと」
恐る恐る投げ掛けられる問いに真摯に答える。正直、断られてもおかしくない話だった。だから、自分としてはこのまま断られたところで、別の協力者を探すつもりだった。しかし、彼女は少し黙り込んでから、わかった。と了承してくれた。この時、彼女の協力を有難いなどと粗末な感想に済ませてしまったことを後悔している。それに気付いたのは、冒頭の砕いた睡眠薬が溶けた真っ青な水を彼女が飲み干してからだった。
「ほんとうに青くなった」
「もし、みょうじさんが誰かに飲み物を貰う時、このような色をしていたら飲まない方が身のためかと」
「う、うん、気をつけるね」
「睡眠薬はよく酒の場で悪用されることがあると聞きますからね」
「……こわいね、そういうの」
全くです。と答えたのを最後に、彼女は中身が真っ青なコップを傾けてゆっくりと飲み干していった。華奢な喉元が僅かに上下する。飲み干してすぐには異変がなかったものの、時間が経つにつれ、彼女の様子に変化が見られた。うつらうつら、と船を漕ぐようになり、薬が効いてきたのだと分かると、急いで布団に横になるように告げた。折角、このような褒められないことに協力してもらうのだから、床になんて寝かせられない。
「みょうじさん、気分はどうですか」
「ねむたい、かな。……すごく、ねむい」
「そのまま眠ってしまって構いませんよ。僕も目が覚めるまでここに居ますから」
ぼんやりとした表情、重たそうな瞼、拙い話し方。着実に睡眠薬が彼女の体に浸透しているのだろう、間もなくして彼女は目を閉じ、小さな寝息を立てるようになった。彼女の名を呼び、反応を確かめる。何度呼んだところで、肩を揺らしても、頬に軽く触れてみても反応はなく、彼女は深い眠りについていた。
さて、ここで自分自身に変化はないか確かめる。目前には眠りについた少女がおり、無防備な姿をさらけ出している。しかし、だからと言って無闇矢鱈に興奮を覚えることもなく、卑しい願望が湧き出ることもなかった。浅ましく彼女の体に触れることもせず、無垢を奪うこともせず、『彼女』という人間の尊厳を犯すこともない。至って自分は正常な人間だと知った。安堵のため息、杞憂に過ぎなかった。
「残念です」
そして、同時にほんの少しだけ触れられなかった未知を惜しむ。異常者になるつもりはないが、出来ることなら選ばれた者にしか見えない世界を知りたかった。他者を容易に受け入れぬ世界に一人で閉じこもることが出来たなら、どれほど幸福なことだろうか。大量生産された汎用人間を必要とせず、同じ目線、同じレベル、けれど、誰よりも秀でた才能を持つ者とだけ綺麗な空気を吸っていたい。おかしなことだろうか、精々差別と区別の違いだ。右を向いても同じような人間が延々と並び続けている世界では、満足のいく人生を送れないだろう。
***
このまま待ちぼうけを食らっていても仕方がないから、と有り余る暇を潰すように課題に取り掛かることにした。机にノートと教科書、塾で渡されたプリント数枚を並べて筆箱からシャーペンを取り出す。カリ、カリ、とシャーペンの芯が擦れる音を聞きながら、彼女の目覚めを待つ。しかし、待てど暮らせど彼女が目覚める気配がしない。高くなっていた日が傾き、いつの間にか窓の外には夕闇が漂っている。焦燥感に駆られていた。もしかしたら、薬が効きすぎているのかもしれないと。
急いで彼女の傍に駆け寄り、顔を覗き込む。腹部は呼吸の度に膨らんでは沈んでを繰り返している。命に別状はないと分かったのだが、何故だか不思議と彼女の傍から離れられなくなっていた。生きていると確認が取れたばかりだと言うのに、もしこのまま死に連れ去られてしまったら、と考える自分がいるのだ。ベッドの端に腰掛け、彼女を見下ろす。学園の制服はそのままに、白く華奢な首筋を視線だけでなぞれば、触れられぬ未知だと思っていたものの片鱗を見る。
「もし、僕の気が変わってしまったら」
青白い指先で彼女の脈に触れる。その指先に命がぶら下がっていると錯覚していると、ぶるり、と背筋が震える。彼女は知りもしないだろう、たった今自分の命が脅かされていることを。命に触れた手で眠れる彼女の頬を撫でる。気付くことすら出来ないのだ、仮に自分が情欲を抱き、彼女の体を弄ぼうとしていても。黙って手を引き、今度は胸部に耳を押し当てた。どくん、どくん、と人が人である音がする。もっとよく聞いていたいと、彼女の胸元のリボンをほどき、制服のシャツのボタンを外し、控えめに胸元を露出させる。日に当たることのない柔らかなそこは全く日に焼けておらず、綺麗な色白の素肌が広がっていた。
「あなたは、眠りにつく前のあなたとは全くの別人になるのですよ」
胸が満たされていた。耳を彼女の命に押し当て、鼓動を聞きながら深く満たされていた。そして、一つ気付く。いつの間にか自分自身が未知に呑み込まれていたと。意識のない相手に特別な情を抱く、今になってようやくその真意を知る。例えば、仮にここに寝そべる相手が彼女以外の異性だったなら、違った結末になっていたかもしれない。二度目はないだろうと胸に決め、今日のことは口を噤んでもらい、それで終わる。呆気なく淡白なやり取りで終わっていた筈だ。
しかし、彼女だからこそ、病的な性的嗜好について知ることが出来た。自身の生が全く脅かされることのないものだと信じている彼女だからこそ。今、この部屋で全てを支配しているのは自分一人だ。生かすも殺すも、犯すも犯さぬも、全て自分にある。あまりにも甘美な感覚だった、人間は他者を完全に支配することは出来ない生き物だった。つい先程まで、心の底からそう思っていたのに。
「ありがとうございます。みょうじさん」
耳を押し当てていた胸元から離れ、彼女の制服の乱れを直していく。シャツのボタンを留め、襟元のリボンを丁寧に結ぶ。すると、丁度薬の切れる頃合いだったのか、目覚めのタイミングだったのか、彼女は目を開けてこちらを見た。あやふやな動きをする視線に自ら目を合わせ、おはようございます。と告げた。
「……おはよ、あらいくん」
「気分はいかがですか。目眩や吐き気、頭痛はありませんか」
「うん、大丈夫。ただ、まだ少しぼんやりするかな」
「そうですか。なら、意識がハッキリするまで休んでいてください」
「……いいの?」
「僕は構いませんが、みょうじさんの門限は大丈夫ですか?」
「……うん、今日は遅くなるかもって言ってあるから」
体を起こし、眠たい目を擦っている姿に手応えを覚える。実に有意義な時間だった、彼女からすればただ眠っているだけの何も無い時間だったのかもしれないが。無意識下でなら、彼女の『何か』になれる。それが『刷り込まれた恋人』でも、『従わざるを得ない強者』でも。彼女の認識外で自分の地位を確立する。これを秘めている人間は皆、それが心地好くて堪らないのかもしれない。共感することは出来ないものの、理解することは出来る。現に自分自身も先程までは向こう側の人間だったのだから。
「また何かあったら言って。私に出来ることなら、だけど」
優しさの本当の意味を知る言葉だった。彼女は自身の命や貞操が危機にさらされていたと言うのに、無知故に次なる献身を見せてくれた。人知れず、胸に傷を負う。痛みの伴わない優しい切り傷。あっという間に膿んではじゅくじゅくと熱を帯びながら、奥深くに根を下ろしている。
「今日、家に呼んだのがみょうじさんで良かった」
「……そ、そうかな、へへ」
「ええ、本当に」
「だって、荒井くんって何か放っておけない人っていうか、」
「僕を気にかけていたのですか?」
「時々、ゾッとするような目をしてることがあるから」
なにか思い悩んでるのかなって、と安堵の表情のまま口にする彼女に驚かされる。感情があまり顔に出ない自分の猟奇的な一面を彼女がいつの間にか知っていたなとど、どうして想像することが出来ようか。自分でも分かるくらいに笑みが溢れた。声を上げて笑ったのは久しぶりだ。
「……ヒヒ、そうですか」
胸が期待に膨らんでいく。平凡な人間を甘く見てはならない。彼女は、これから大きく化けるに違いない。自分はそれを彼女の一番近くで見ていようと思った。また一人、自分が生きていくのに必要な人間を見つけた。出来ることなら、自分が必要とする人間だけで生きてみたいものだ。きっとその世界にも彼女の姿はあることだろう、今日の日のように安らかな寝顔を見せたまま。
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