ダークブラウンのテーブル、吸殻のない灰皿と開封済みの煙草、一口も飲んでいないだろうウイスキーボトル。革張りのソファーに腰掛けるのは、小綺麗な格好をした女と白のスーツを着た巨体の男の二人のみ。二人の間に会話はなく、店内に流れる音楽だけが静寂の中を悠々自適に過ごしている。

「……これ、預かっておくからね」
「ああ、」

 テーブルの上にあった煙草とボトルに手を伸ばしたのは彼女、なまえが先だった。これらの嗜好品は全てなまえの正面に座る男、花山薫のものだ。しかめっ面をしているのは花山薫ではなく、真向かいのみょうじなまえだった。手にしたものを横に置いていた小ぶりな鞄になんとか押し込み、ため息をつく。なまえが何かを言おうとした拍子に、この席に立ち寄ったウェイターが二人の間に満たされたグラスを二つ置き去りにして戻って行った。おかげで妙な間が生まれ、もう一つため息を逃がす。
 背の高いグラスは少し汗っかきで、ガラスの内側には綺麗なグラデーションの紅茶がたっぷりと注がれている。赤みの強いオレンジのグラデーションの中には真四角の大きな氷がいくつか浮かべられ、グラスの下にあるコースターを徐々に濡らしていく。向こうのグラスも同様にコースターを湿らせては静かに座している。中身は幼さの残る黄色の強いオレンジカラーで、その正体はただのオレンジジュースだ。今回の注文はなまえの独断で行われた。決して彼を馬鹿にしている訳ではなく、彼に対して年相応の対応をしているだけだ。

「飲んでもいい?」
「…………、」
「ありきたりなこと言うけど、体に良くないよ」
「……だろうな」
「だろうな、じゃないの」

 相槌代わりの沈黙を聞きながら、先にストローをグラスの中に沈めていく。そして二、三回ほど中身をかき混ぜては、ひどく傷だらけの顔を見た。

「もしかして取り上げられるために持って来てる?」
「……さあ」
「もう、はぐらかさないで。……でもさ、嫌じゃないの?」
「何がだ、」
「お酒と煙草、私に取り上げられるの」

 この男、感情を微塵も読ませない顔でグラスの前に横たわるストローを手に取った。なまえより遅れてストローに口をつけた後、ソファーに深く体を預けた。革のぎゅっと擦れる音に花山の体の大きさを改めて実感させられる。二人がけのソファーがまるで最初から一人用なのだと見間違えてしまうほど、花山薫の体は大きく出来ている。

「嫌だと思ったことはねェ」
「だって私、まるでお節介な……口を出したがりの親みたいじゃない」
「それのどこが悪い」
「花山くんはそれでも嫌がらず、会ってくれてるってこと?」
「……アンタはアンタなりに俺のこと、心配してくれてるんだろう?」

 花山の言葉が真っ直ぐ胸に突き刺さる。何も間違っちゃいないと真っ直ぐに肯定してくれるその言葉がぐらついていた心をしっかりと捕まえてくれた。度々迷ってしまう自分を受け止めてくれるのは、いつもこの男だ。自分より年下の、幼さの欠片もないこの男だ。
 なまえと花山の間には三つほどの歳の差がある。既に成人しているなまえと未成年の花山、この二人の関係は傍から見ていてとても奇妙なものだった。見た目で判断するならば、花山が年上の男でなまえが年下の女となるのだが、実は逆であるということを皆が知らない。しかし、花山薫が極道者で花山組の二代目であることは周知の事実だ。その為、誰もがなまえに酒と煙草を取り上げられた花山薫に錯覚してしまうのだろう。微笑ましさより奇妙さが勝る光景に、花山薫はあの手の女に弱いと。だが、答えはもっとシンプルだ。単に自分の女だから弱い、それだけだ。

「ありがてェよ、正直。……それにアンタの、そういう所に俺ァ惚れちまってる」

 大きく、重く、深く胸を打つ。響きの良い綺麗な台詞や心を掴む雰囲気よりも、端的で直接的な言葉が強く胸の奥を打つ。本当なら場所を選ぶべき言葉も何もかも直球に投げてくる。こんな時、不思議と素直になれないことがある。何に強がっているのか分からず、ただ自分に余裕があったならと考えてしまう。次を答えられそうにない唇は再びストローを食んだ。

「……アンタ、やけに嬉しそうだな」

 花山が何気なく言い放った一言に、心を読まれたような気がして頬が熱くなる。俺も自分が器用な人間だとは思っちゃいねェが、アンタも相当だ。と花山は不敵に笑う。

「……嬉しいよ。だって、そんなこと真正面から言ってもらえたら、すごく嬉しいもの」
「そうかい」
「花山くんも嬉しそうな顔してる、」

 眼鏡の奥で鈍く光る瞳があった。眼光鋭い目元だが、そこから読み取れる感情も少なからずある。密かに喜んでいたり、ほんの一瞬安堵してみせたり。顔には出ることの無い感情があの瞳から透けて見えるのは、もしかしたら自分だけかもしれないと思うと、口角が上がっていくのを止められなかった。微笑む口元をあまり見られたくなくてストローを三度食むものの、子どもじみた優越感も三秒足らずで飲み干してしまい、後に残ったのは幼い自分だけだった。もっと余裕のある、大人になりたいと言うのは自分自身しか知らない密かな野望だ。いつか、あの花山薫を翻弄するような。ふと、そこまで考えてやめた。

「なまえ、」

 名を呼ばれ、口元にストローを残したまま、花山を見た。

「たまには、どうだ」

 たまにはどうだ、の一言に心当たりがある。花山から預かり、鞄に詰め込んだ箱とボトルに目をやると、その内の一つである煙草を手に取った。そして、そこから一本を引っ張り出し、見よう見まねで人差し指と中指の間に挟み込んでは、こう?と花山に問い掛けた。すると、とん、と軽く手のひらを押され、紅茶の風味が消えない唇に煙草が触れた。次の瞬間、小さな炎が先端を遮り、何かが燃えるような匂いが鼻をつく。辺りにはうっすらと煙が漂っている。

「……火ィ貸してやるよ」

 ライターは花山の手の内に埋れていく。なまえはと言えば、恐る恐る煙草の煙を吸い込んでは唐突に口内を襲う強烈な苦みに咳き込んでいた。強く咳き込む度に煙が辺りに逃げていく。なまえの涙を浮かべて悶える姿に花山は残りのオレンジジュースを一気に飲み干し、指先からそれを奪い取った。赤みの強い分厚い唇が代わりに二口目を嗜む。

「どうだい、大人ってのは」
「……あんまりおいしくないね、」
「これ、貰うぜ」
「だめ、花山くんはまだ未成年でしょ」
「…………、」
「こら、黙り込まない」

 ……この一本だけね。と続ければ、充分だ。と返され、自分の中で理想の大人像が少しだけ遠くに行ってしまったような気がした。何故なら、あの煙草は花山の方がよく似合っており、自分には全く似合わなかった。こんな自分でこれから先、花山薫を翻弄する日など来るのだろうか。自分に出来ることなど、成長していく花山の姿を見守ることだけなんじゃないかと思う。それにそのような間柄では男女の仲とは言えないだろう。

「まァ、何にせよ、……あと一年だ、」
「……あと一年?」
「…………その、あと一年で俺はアンタをモノにするぜ」
「そ、それって、」
「なまえ、アンタはお節介な親代わり、じゃねェ。アンタは、」

 ────俺の女だ、そうだろう?
 何故だろう、その言葉をすんなりと受け入れている自分がいる。若さ特有の薄っぺらさや軽々しさのない花山の言葉をありのままに受け入れている。それにもう遠慮することはねェ。と更に言い切られ、なまえは逃げ場のない心のやり所に困っていた。その意味をしっかりと理解していたからだ。あと一年で二人の間にそびえ立つ壁は崩れ去る。それはつまり、本当の意味でそうなり得るということだ。十九の花山が持て余す一年は、なまえに責任を、花山自身に滅多に機能しない制限をもたらした。

「ハナから分かりきってることじゃねェか」
「……ね、もしかしたら怒るかもしれないけど、」

 テーブルに身を乗り出し、腕を伸ばす。切創の残る花山の唇から馴染んだ煙草を奪い返すと、近くの灰皿でその火を捻じ消した。花山はただ驚いたように目を丸くして、こちらを見つめている。何か聞きたそうだ。

「あと一年、私の前では我慢して。でも、一年経ったら好きにして」

 驚きに丸くなった目が徐々に元の涼しげな瞳に戻っていく。このとんでもない言い分を理解、してくれたのだろうか。花山は口の中に残った煙を吐き出し、煙草の余韻に浸ることなく次を口にした。なまえの言い分に納得した理由を。

「アンタのそこが良い。何だかんだ頭使って考えても、結局は自分で出した答えしか口にしねェ、そういう所がな」
「……花山くん。それ、私がすっごくワガママって感じしない?」

 …………する。と妙な間を開けて花山は白状する。しかし、なまえは、そう答えてくれる花山が好きだ。一年の壁、越えてみてもいいのかもしれないと思うと、ついさっきまでうじうじと考えていた悩みがとてもつまらないものに感じられて、心には平穏が訪れた。理想はいつでも先にあり続けるが、いつまでも最高の理想であり続けられるわけじゃない。自分に似合う、ベストなものでいいと、背伸びも着飾りもしない花山を見て踏ん切りがついたのだ。

「……煙草の似合う人になりたいなぁ」
「言っとくが、タバコは体に悪いぜ」
「花山くんがそれ言っちゃう?」
「アンタはたまに危なっかしいことを考えちまう」
「……だよねぇ、」

 じゃあ、まずは綺麗めなメイクから始めようかな。キレイ、め……?可愛いより綺麗の方がいいかなって。……そういうもんかい、化粧ってのは。あ、花山くん困った顔してる。
 じゃれ合うような会話と二人の関係性。どこにでもあるカフェの光景としてはあまりにも珍しく、奇妙なその一枚絵は直に自然なものへと変わっていく。



| きみとわたしが大人になるまで |


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