部室は静寂に包まれる。本当はこんなことになるはずじゃなかった。一体、誰が予想出来ただろうか。まさか、『彼女』が放課後に新聞部の部室を訪ねるなんてことを。そこは事件現場であり、食卓そのものでもあった。部室には見知らぬ女生徒が一人横たわっている。その女生徒は、自分達の糧だった。横たわる体の何処にも血液はない。一滴たりとも残さずに啜り尽くしてしまった。あとはその亡骸を、血抜きされた肉を焼却炉で燃やして棄ててしまうだけで良かった。
 しかし、『彼女』はここへ戻って来てしまった。忘れ物を取りに?それとも、新聞部員の誰かに用事でも?『彼女』の行動の裏の動機が見えない。見えないまま、手にした分厚いファイルの重みに腕が引き裂かれそうだった。今し方、そのファイルを『彼女』の後頭部に打ち付け、気絶させたのだ。死んではいない、だが、代わりに自分の何かが朽ち果ててしまったように思えた。隣で黙り込んでいるもう一人に声を掛ける。彼もまた狼狽えているようだった。

「どうする、朝比奈」
「いや、その、」
「まずい所を見られた。しかも、よりによってみょうじに」
「ど、どうすれば……。みょうじさんも彼女のように、」

 ぴたり、と視線が重なり合う。朝比奈がそれより先を口にしないよう、牽制の意味を込めての目配せだった。朝比奈もそれを汲み取ったのか、それ以上を口にすることは無かった。ただ、このどうしようもない状況下で最適な答えを見つけることに必死になっていた。だが、まずは冷たい粗末な床に倒れている彼女を抱え、ぐったりとした体に触れる。『彼女』は生きていた。仄かに暖かい人肌の体温に安堵する。

「みょうじは、きっとこれを見たはずだ」
「とにかく彼女はいつも通りに処分するとして……、」
「ソイツの処理は任せていいか」
「ああ、日野はみょうじさんのことを頼むよ」

 朝比奈はそう言い残すと、寝転がる女生徒の渇いた死体を片手に、新聞部の部室を後にした。廊下の闇に溶け込んだ朝比奈は姿形も闇と同化し、数秒もせず見えなくなっていた。だが、そんなことは日常茶飯事だ。どんなに人間として紛れ込んでいても、飢えには耐え難い。我々の糧は、人の生き血だった。体中に張り巡らされた細い管の中をぐるぐると循環する真っ赤な血。それが人間の体にはたくさん詰まっている。頭の先から爪先まで豊富な血液を含んだ人間は、吸血鬼が生き長らえるための貴重な食糧なのだ。しかし、人間は警戒心を持つ厄介な生き物だ。この時代に蔓延る同胞達の苦労には込み上げる思いがあるが、日野は迷っていた。死体を目撃したなまえをどうしてしまおうかと。朝比奈の言葉も一理ある。邪魔者は排除すべきだと。
 全ての複雑な事情を含めても、腕の中にいるなまえは無害な小動物のように見えた。彼女の髪を肩に流し、襟元のリボンを少し緩めてはだけさせると、無防備な首筋が晒された。彼女にも同様に血管が通っている。それも、吸血鬼が好む血液をゆっくりと循環させながら。脈打つ管へ皮膚越しに触れる。どくん、どくん、と一定の間隔で脈を刻んでいる。日に当たる機会の少ない部位のせいか、その首筋はただただ青白く、全く外に晒されることがなかったのだと分かる。そこに、ずぶり、と牙を突き立てればいい。そうすれば、自分も朝比奈も充分な糧を得られる。まだ幼い彼女の柔肌に牙を突き立て、生を貪る行為は想像しただけでも卑しい欲望を掻き立てられた。だが、彼女の級友として接してきた歳月が欲望に歯止めをかける。

「できない」

 言い切ることが大切なように思えた。今一度、思考の雑踏から抜け出したのだ。級友としての彼女は、他者と分け隔てなく接することの出来る稀有な人間だった。得体の知れぬ人外に成り果ててしまった自分とさえ、いつもと変わらぬ友情を育んでくれる。だから、この学園に在籍する他の女生徒や男子生徒ならば、躊躇いなく自身の糧としたことだろう。だが、彼女には、彼女だけには手を出したくない。浅ましい牙を突き立てたくない。彼女の生を蹂躙するくらいなら、潔く死を選ぶだろう。なのに、それなのに何故。何故、彼女でなければなかったのか。

「どうして、お前が来るんだよ。みょうじ、」

 お前でさえなければ、全て丸く納まったものを。一秒と待たず、解決していたであろうことを。蝋人形のように真っ白な頬を撫でる。僅かばかり尖って見える爪で骨格をなぞれば、今にも蕩けて崩れてしまいそうだった。そうなってしまえば良いのに。蝋人形ではないなまえの輪郭は蕩けることなく、その体が崩れることもない。この蝋に火を灯す意気地がないのだ。すると、愛おしさをなぞり続けていた指先が止まる。爪の先に引っかかる感触の後に知った。尖っていた爪がなまえの首筋を軽く裂いてしまったのだと。
 薄皮が真一文字に裂け、そこからぷつ、ぷつと玉のように血が溢れてくる。じわりと人肌のルビーが溢れていく様に、酷い飢えを覚えた。小粒で零れていくそれが欲しくて堪らない。理性に牙を削ぎ落としていたのに、ふとした事で彼女との一線を越えなければならない。その間にも、ルビーの源泉は衰えることなく、流れ続けていく。飢えた口元が乾いて仕方ない。止まらない。理性が効かなくなっていく。鋭い牙を剥き出しに、その隙間から舌を出し、小粒のルビーを掬い取った。

 それは小さく甘美に爆ぜる。決められた形を持たない小粒のルビー達を何度も救い取り、喉の奥へ、胃袋の底へと落とし込んでいく。肌に吸い付くことを心地よく感じていた矢先、ようやくなまえが目を覚ました。首筋を嬲る温い舌先の感触に驚いているようだったが、後頭部に走る鈍痛に顔を歪めては目を閉じた。

「みょうじ、」
「……日野くん、な、なにしてるの、」

 恐る恐る目を開き、自分の涼しい胸元に目を落とすと、しっかりと結わえていたリボンが解け、尚且つシャツの胸元がはだけていることに動揺し始める。両手で胸元を覆い隠すと、すぐにこちらに視線を投げかけ、精一杯睨んで見せた。

「どういうこと、なんで制服が……、」
「違う、俺は、」
「でも、だって、そうじゃない……!」
「本当に違うんだ、みょうじ!俺がしたかったのは……!」
「こ、こっちに来ないで……!来ないで!」

 仲違い。たったの三文字であれど、この胸を引き裂く言葉も、現状を表現するのにここまで適した言葉もないだろう。眉間に深く皺を寄せた彼女の涙目が深く突き刺さる。この関係の期限を知ってしまった。もう前のようには戻れないだろう、そう、冒頭の時点で遅かったのだ。目の前が真っ暗になっていく。怯えた顔をするなまえの表情が見えなくなっていく。本能的に動いた体を止めることは出来なかった。遅かった、何もかも。遅すぎた、全てが。このままではいられない。


***


 軋む床板、埃臭い廊下を行く。老朽化した旧校舎で足音を立てながら歩いていく男子生徒の姿があった。窓の外は薄明かり。早朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込みたいが、場所が場所だ。陰鬱で湿っぽく、不気味な廃屋たる旧校舎は立ち入り禁止となっている。だが、最近になってとある噂が流れるようになった。『旧校舎には怪物が棲んでいる』という噂だ。一体どこの誰が語り始めたのかは分からないが、この場所にはそういった怪異がいるのだそうだ。誰もその姿を見たことがない怪異。何故、この男子生徒は早朝の旧校舎にいるのか。その答えは全て彼が知っている。
 次に男子生徒が足を止めたのは、とある教室だった。入口上部に引っ掛けられている古い木の板には『保健室』と彫られた文字がうっすらと見える。立て付けの悪い引き戸を力いっぱいに開ければ、目隠しのように古びたカーテンで閉め切られており、窓の外の薄明かりが届かない暗闇が広がっている。布で仕切られたベッドの内の一つに、その姿はあった。旧校舎にしては真新しいシーツを頭から被り、身を包んでいる人間に見える何かの山。男子生徒はその正体の分からぬ山に近づいて行く。恐怖など微塵も感じていないという、嬉々とした顔で。そして、その山に向かって愛おしそうに声を掛けた。

「いい子で待ってたか?」

 男子生徒の呼び掛けにシーツの山はピクリ、と反応した。姿を隠すように覆われたシーツを退け、身を隠していた怪異と思われる何かが顔を覗かせる。目元には布が巻かれ、視界を塞がれたその相手は、

「みょうじ、朝の光が怖いか」

 あの新聞部部室で諍いを起こしてしまったみょうじなまえ、本人だった。いつからここに居るのか不明が故に、日に当たっていない時間は彼女の肌を見れば一目瞭然だった。真っ青な室内の影色に染まる彼女は殆ど太陽を浴びていないせいで、肌が白かった。

「そうだよな。みょうじは俺達の中でも一番の出来損ないだから、朝日になんか当たったら」

 あっという間に灰になって吹き飛んじまうだろうなあ。と大層愉快に笑って見せるのは、旧校舎に迷い込んだ男子生徒……ではなく、同日なまえと共に居た日野貞夫だった。日野の言葉になまえは体を震わせる。朝日が恐ろしい。灰に帰すことが恐ろしい。この部屋が恐ろしい。目の前にいる日野貞夫が恐ろしい、と。

「お、お願い、もう、もう楽にして、」
「どうして?みょうじも折角、俺達の仲間になれたのに」
「だって、わたしの望んだことじゃない」
「ああ、俺が望んだことだったよな」
「ずっとここに一人で閉じ込められて、外にも出られなくて、もういやなの」
「だから、毎日こうして俺が会いに来てるんだろう?」
「……どうして、わたしを苦しめるの」

 ずっと、ずっと、……ずっとずっと怖いのに!あの時、新聞部の部室なんかに行ってなければ、……行ってなければ、今も普通の人間でいられたのに!
 シーツの山からそろりそろりと這い出て来たなまえは視界を塞がれているものの、感覚で日野の居場所が分かるのか、拙い足取りで近づいていく。日野はそれを黙って見ていた。否定するでも、肯定するでもなく。瞳には慈しみや愛おしさが垣間見える。どんなに憎まれ口を叩かれようとも、日野は怒りを覚えることはなかった。何故なら、彼女は日野の言葉通り『出来損ないの同族』だからだ。

「今日も忘れずに持ってきた」

 布越しに感じる嫌悪感を掻き消す方法が日野にはあった。制服のスラックス、臀部のポケットに押し込まれた小さな瓶を彼女の目の前にチラつかせる。すると、拙かったなまえの足が一瞬にして止まり、飢えた口元から牙が覗く。みょうじなまえはやはり日野貞夫の同族になってしまったのだ。日野が手にした瓶の中身を本能的に察してしまえるほど、なまえの体は人ではなく、人外へと変化しているのだろう。

「どうして、どうして、そんなもの、持ってくるの」
「俺達はこれが無くちゃ生きていけない。俺や朝比奈はどうにかなるが、みょうじはそうもいかないだろ」

 いらない、いらないいらないいらない。と幼子のように頑なにいらないと拒絶するも、その口の端からは、つう、と涎が垂れている。抗いようのない渇きを満たしてやらねばならない。日野は躊躇いもせずに小瓶の蓋を開け、なまえにそれを差し出す。

「これは俺からの、せめてもの償いなんだ」

 その場に膝を着き、小さく嗚咽を零すなまえに日野は小瓶の口を咥えさせた。そして、ぐい、と傾ければ、誰のものだか分からないそれがなまえに注ぎ込まれていった。あの時、諍いを回避する方法が思い付かず、瀕死の状態まで彼女を追い込んでしまった。絶望する自分に救いの手を差し伸べたのは、我らが始祖である『彼女』の存在だった。そんなに殺すのが嫌なら仲間にすればいい。ただ、ソイツの面倒はアンタが見るんだよ、日野。と吐き捨て、みょうじなまえを吸血鬼へと変貌させたのだ。
 母親の乳を吸う赤子のように、一生懸命口いっぱいに血液を頬張るなまえの姿を見ていると日野は思うことがある。なまえはいつまで騙されてくれるか。愚かでいてくれるか。なまえが出来損ないの吸血鬼と言うのは真っ赤な嘘だ。本当は朝日などに当たったところで痛くも痒くもない。だが、自分から離れていくことを許せなかった。仲違いを許してはおけなかった。あの諍いさえなければ、種族が違おうとも理解し合えたに決まっている。

「本っ当にお前は手がかかるヤツだな、みょうじは」

 日野の顔に浮かぶ恍惚とした表情を、意味もなく目を塞がれたなまえは知る由もない。



| 同族嫌悪 |


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