宝食堂では、個人客は大抵カウンターに案内される。それは自分も例外ではなく、寧ろ足繁く通っている常連客だったこともあり、何とも思ってはいなかった。だが、その日は真新しい客が同じカウンターに通されていた。自分より小柄な客は女性で、程々に長い髪を一つに括り、目の前の料理にありついている。右利き、頼んだ料理は二皿ほど、ホシガリスのように頬を膨らませて食事をしていた。そして、何より特徴的なのが、食事をしている時の恍惚そうな表情と、料理が運ばれてくる時の輝く瞳だ。確かに空腹時の料理はどれもがいつも以上に良く見え、より空腹を加速させる。もしかしたら、彼女も自分と同じで食べることが好きなのかもしれない。そんなことをぼんやりと考えていると、自分の頼んだ皿が運ばれて来た。並より大盛り、自分は他人と比べて大食漢だ。傍から見れば、まさに痩せの大食いなのだろう。宝食堂の女将ももう慣れた反応で、重量のある皿を持ってくるようになった。
 すると、ぱちり、と視線がぶつかる。女将とではなく、二つ、三つ席の離れた彼女のとだった。見慣れぬ大皿に見蕩れているのか、それがカウンターに着地すると、彼女は慌てて目線を逸らしてしまった。どこかもじもじと指先を絡ませ、近くにあったコップの水を一口含むと、再び箸を右手に食べ進めていく。ここから先は自分も空腹に耐えかねていた事もあり、そのまま食事に時間を割いてしまい、分からない。自分の食事が終わった頃、もう彼女の姿は店内にはなかった。彼女が座っていたであろう席に、また別の客が腰を下ろして頼んだ皿が来るのを待っているだけだ。空腹が満たされ、重たい胃袋を抱えながら店を出ても尚、彼女の横顔が忘れられないのは僅かにでも親近感を覚えたからなのだろうか。

 それから日に何度か、彼女の姿を店で見掛けるようになり、また同じカウンター席だとかぼんやりと考えているのも束の間、気が付くと彼女から目が離せなくなっていた。ただ食事しに来ているだけの相手に、何故か身近な感情を抱いている。全く違う人生の時間を過ごしているのに、まるでここに居る時だけは自分も共有出来ているような、気がして。距離感の近い一方的な思いに過ぎないことだと分かっていても、彼女の姿を目にすると自分自身を上手く突き放せないのだ。そして、今日も運ばれてくる料理を、その形に出来ない思いごと口に詰め込み、飲み込んでいく。
 今までに感じることの無い煩わしさは、配慮が行き届かなかった時のように不出来で、拙くて目も当てられない。もう、そのようなことにうつつを抜かす年齢でもないだろうに。目の前に詰まれた仕事さえ未だに消化し切れずにいる。一種の現実逃避に過ぎないのかもしれない。自分でも気付かぬ内に体から発せられる危険信号を受け取ったからこそ、自分より一回りも下な彼女に淡い期待を抱いているのだと。仮にそうだとして、彼女に何を望んでいるのだろう。淡い期待は何に由来しているのだろう。身勝手な思い込みをミスプリントした書類の如く、破り捨ててしまえればどんなに楽なことか。


***


「あ、」

 真正面から、意外だと言うような声が聞こえた。それは彼女の口元から発せられた声だった。よく他者から表情に乏しいと言われることがあるが、この時ばかりは内心狼狽えていた。何故なら、今日の席は彼女の真隣だったからだ。女将は、ごめんなさいねえ、いつもの席空いてなくて。と申し訳なさそうに厨房から顔を覗かせる。

「わ、わたしは全然……!」
「自分も特に問題は」

 相席のような雰囲気で、二人分ぽっかりと空いている席につく。正直、居心地はあまり良く感じられなかった。寧ろ、今日だけは早めに食事を切り上げて退店してしまいたいと思えるほどに。しかし、それでも腹は減る。互いに互いのタイミングを図りながら、それぞれが女将に注文を済ませる。ぎこちない、昨日まではそのように思ったことは無かった。手元にあるコップを頻りに傾け、水を口に運ぶ。乾いてもいない喉を何度潤そうとも、自分と彼女の間に漂う沈黙に具合が悪い。ただただ店内の賑わいに助けられていた。コップの中身が半分を切った頃、先に料理が運ばれてきたのは彼女の方だった。無理もない、自分が頼んだものは厨房の奥で山を成している途中なのだから。
 ふと、目線を忍ばせる。彼女は子どものように目を輝かせて、その一皿に目を奪われていた。隣人がくれている目線にすら気付かないほど、彼女は夢中だったのだ。いつも、離れたところで見ていた姿が真横にある。少しだけくすぐったく、奇妙だった。僅かに開いた口、彼女は何かに夢中になると口が開いてしまう癖があるのだろう。いただきます、と手を合わせ、備え付けの箸を手に取る。そして、興奮冷めやらぬ表情で箸いっぱいに料理を掴むと、大きな口へと放り込んだ。目は口ほどに物を言うと言うが、彼女もまた先述の諺に当てはまる一人だった。

「おいしい」

 何気なく彼女が零した当たり前に、気付けば咄嗟に反応していた。

「うまいんです、ここの料理は」

 いつの時かのように、彼女の星を宿した瞳が自分に向けられる。そして、その星はどこか嬉しそうに瞬き、次の瞬間には彼女の表情を綻ばせていた。話し掛けられたことが嬉しいのか、それとも、『美味い』という認識を共有出来たことが嬉しいのか。どちらにせよ、彼女が顔を綻ばせる理由になったのなら、それはそれで良い。

「あ、あの、いつもここに来てますよね、」

 一度行動してしまえば後が楽なのだと、今になって思い出す。彼女が自分に続いて返事をしてくれることにくすぐったくなる。気にかけて問われることに不思議と胸が温かくなる。

「いつも、見てました。一度にすごい、たくさんの量のご飯を食べる人なんだなって」

 もしかしたら、気付いてたかもしれませんが。と星が緩やかに落ちる。伏し目がちになった彼女は箸先で皿を静かに突っついては気持ちを落ち着けていた。意外だった、見ているのは自分だけだとばかり思っていたからだ。それに、彼女が見蕩れていたのは自分の頼んだ大皿のことで、まさかその視線が自分に向けられていたなど、何故そう思うことが出来ようか。スマートな振る舞いさえまともに出来ないまま、二の句を探していた。悔やむ、これが自分の『普通』であったとしても。少しだけ、上手い生き方をする誰かを羨んでいる。

「自分もあなたのことは何度か見かけていました」

 とても、美味しそうに食べる人だと。物静かに語れば、彼女は目を丸くしてこちらを見ていた。次に口にするはずだった一口を皿に置き去りにして。冷めてしまう前に、どうか運ばれて欲しい。

「じゃあ、初対面じゃないのかもしれないですね。私たち」
「そうかもしれません」

 ぷつん、と会話の糸が切れる。そもそも予期していなかった展開なのだ、仕方がない。けれど、次を欲すれば、まるで食事のようだと思えた。一口じゃ足りないから、次を頬ばろうとする。しかし、食べ進めるのにもペースがあり、自分は彼女に対してペースを落としているものの、内心では次を欲している。彼女は、どうだろうか。うだつの上がらない自分を、もう少し知ってみたいと思うだろうか。不出来な皿を平らげるのには勇気がいる。そして、彼女はその為にフォークを持ってくれるだろうか。

「あ、あの、」
「はい、おまちどうさん!」

 彼女の言葉と重なるように、厨房にいた女将は出来上がった皿を自分の目の前に並べてくれた。彼女は、タイミングを間違えたと言わんばかりに俯いて沈黙していた。

「今、何か言いかけませんでしたか」
「え、ああ、その、まだ名前聞いてないなって」
「確かに」
「私、なまえって言います」
「アオキです」

 アオキさん、ですね。と彼女は、なまえは自分の名を何度も反芻していた。その姿に自分の手は自然と動いていた。自分の大皿の隣には料理が取り分けられるように小皿がひっそりと置かれている。いつも世話になっている女将の計らいだろう、まだ口を付けていない箸で料理を小皿に取り分ける。そして、よければ。と彼女の皿の隣にそっと置いた。

「……いいんですか?もらっちゃって、」
「これも美味いですから」

 彼女は早速取り分けられた小皿に手を伸ばし、その内の一口分を頬張った。表情は普通でありながら、一口を含んだ瞬間に瞳の星が弾ける。明るい何かが彼女の中で芽生えたのだと知った。すぐに口元に手を添え、まじまじと皿の中を見つめる彼女に自分も明るい感情を覚えた。

「……これ、おいしい」

 心の蟠りが、溶けていく。自分もそうだった。激務に追われ、心身共に疲弊する日々。ある時は会社員として。また、ある時はジムリーダーとして。そして、滅多にはないが、四天王の一人として。口には出せぬそれを心地よく解消してくれるのが、自分にとって『食事』だった。しかし、隣に座る彼女を見て気付いた。彼女もまた、自分にとって日々の疲労を忘れさせてくれる存在だと。

「なら、もう少し食べてもらえると助かります」
「で、でも、悪いですよ。アオキさんが頼んだ料理なのに、」

 表情を曇らせた彼女に、気の利いた言葉をかけてやれなかった。咄嗟に、なんて言うべきか分からなかったからだ。口下手な沈黙に彼女は嫌気が差していないだろうか。事務的で格式ばったテンプレート達で構成された文章を読み上げるのではなく、普通に話がしたかった。だが、何も言えないでいる。すると、

「それじゃあ、これ、食べてもらえませんか」

 彼女の弾んだ声が聞こえてすぐ、自分の皿の隅に見知らぬおかずが小さな山を成して置かれていた。未使用のレンゲを使って、自分の皿におかずを盛ると、彼女はどこか照れ臭そうに自分の食事に戻った。宝食堂には毎日足繁く通っている為、全てのメニューを網羅しているが、不思議と初めて食べる料理のように、それは皿の隅できらきらと輝いて見えた。

「……いただきます」

 今は山盛りの自分の料理より、彼女が盛ってくれた少しの料理が良いと箸を伸ばす。一口を頬張る。口内に広がる料理の味わいが増しているとさえ思えた。咀嚼の度に歯や舌に触れる素材の食感は、本当に食べたことのある料理かと錯覚してしまいそうな程に新鮮味が感じられるものだった。足りない、もう少し、あと一口で良いから味わっていたい。内心、我儘になっていく自分を見透かしているのか、なまえは再びレンゲを使って二度、三度……と料理を分けてくれた。

「アオキさんって食べてる時、なんだか嬉しそうですよね」
「そう、でしょうか」
「ええ。見ていて同じように嬉しくなるって言いますか」
「なまえさんも、ですか?」
「こういうの、不思議ですよね」

 どこか恥ずかしそうに笑いながら、自分の皿に手をつけ直したなまえを見ていると、先程の言葉の意味がよく分かった気がした。自分が抱いていたことはなまえの中にも同様に存在し、この日の偶然をもって答え合わせがなされたのだろう。しかし、それはまだきっかけにしか過ぎず、いつか胸の内を全て明かせる日が来るのかは未知数だ。

「アオキさんは、また明日もここに来ますか」

 なまえが溌剌と問いかける。会いたい、とまでは言えないが、毎日居ますから。と返した。すると、なまえは顔を綻ばせて、じゃあ、私もまた明日来ますね。と添え、自分の取り分けた料理に箸を伸ばす。この何気ないやり取りに惹かれているのかもしれない。今、こうして真隣に居るというのに、すぐにでも明日が早く来てしまえばいいと思い始めている。



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