「是非、あなたを私の秘書として迎え入れたい」
パキ、と張り詰めた緊張感の中、自分に差し向けられる言葉の意外さに驚いていた。そして、同時に耳を疑う申し出に、つい先程まで自分が積まれたノルマに四苦八苦しているのを思い出した。ポケモンリーグに勤めて早数年、新人の頃よりかは仕事にも慣れたようには思う。しかし、それでも未だに同僚や先輩からのフォローをもらって一つ一つをやり遂げているという状況だ。そんな一般会社員に今回の申し出はあまりにも不相応ではないだろうか。目の前で涼しげな顔をして、こちらの左右に揺れる瞳を覗き込んでいるのは、このパルデアでトップチャンピオンとして名を馳せているオモダカだ。他にも素晴らしい肩書きや実力で築いた地位を持っているが、自分からすれば組織のトップという認識だった。
そこで何故、自分が?という疑問が後を絶たない。将来有望な人材には時間を惜しまず、多忙だと言うのに自ら足を運んでその素質に触れる。今まで彼女の審美眼によって選ばれた相手は、必ず何かを成し遂げている。例えば、若くしてチャンピオンランクに到達した学園の生徒。同じくポケモンリーグに勤めていながら、ジムリーダーと四天王を兼任している職場の先輩。例を上げたらキリがないが、彼女に『選ばれる』と言うことは輝かしい未来が待ち受けている予兆なのだろう。しかし、今回ばかりは浮かれていられない。
「まさか自分が?と言った顔をされていますね。確かに突然のご相談になってしまったこと、申し訳ありません」
眉ひとつ動かさずに、言葉に感情が乗らない彼女の声は鋭い薄氷のように耳に突き刺さる。勿論、彼女にも喜怒哀楽はあるのだろうが、そこに人間特有の温かみは感じられず、寧ろ淡々とした立ち振る舞いが彼女の無機物さを際立たせていた。ただ、誠に残念なのは、唐突にやってきた転機を掴み取り、自己研鑽を重ねて行こうという向上心が自分に備わっていないことだ。不釣り合いだった、彼女のかけた天秤は酷く傾いている。仮に自分がその高く持ち上がった皿に乗ったとしても、全く釣り合いが取れないだろう。
「ど、どうして、私なんでしょうか」
「どうして?それは実におかしな質問ですよ、なまえ」
肩を揺らして笑う彼女の意図が分からない。褐色の肌に映えるほどに美しい瞳の碧から目が逸らせない。純度の高い宝石を嵌め込まれたかのように、両の瞳は煌々と輝いていた。黒檀の睫毛が静かに揺れる。
「私があなたを欲しいと思ったからです」
直接的でスマートな物言いだった。まるで歯の浮くような言葉だと言うのに、あれ程までに涼しげに伝えられるのは彼女がやはり只者ではないからだろうか。細身の、すらりと伸びた足で距離を詰めてくる様は本当に美しい立ち振る舞いのそれだった。言葉を失っていたとも、見蕩れていたとも表現していい。この瞬間だけはたった一言さえも発せなかったのだ。
「あなたをアオキにつけさせたのは私です。一種の起爆剤にでもなれば幸いだと」
「ですが、なまえ。あなたの活躍は目覚ましいものでした。予想以上に良い働きをしてくれました」
「例年と比較しても、リーグ営業部における業績が上昇傾向にあるのです。これはあなたの入社以降に見られた傾向です」
例え、ゆるやかであっても各々が競合、切磋琢磨し、発展へと繋がっていく様は気持ちの良いものです。将来性を感じられる瞬間こそ、私にとっての喜びですから。
全くもって彼女らしいの一言に尽きる。そして、同時に別の世界に生きる人間だと改めて思い知らされる。完璧で隙のない、人間から最も遠い存在に似た人間。思考がどんどん飛躍的になっているのを彼女は察したのか、また誠実な眉を下げて申し訳なさそうに話す。
「ですが、このままでいては原石も曇っていくばかりでしょう。折角、輝き始めたというのに」
「あの、私はどうすれば、」
「どうすれば、とは?あなたはあなたの思うように返事なさって構いませんよ」
ただ、私は良い返事であることを期待しています。と最後に付け加えたところで、部屋の外に何かの気配を感じたのか、扉のノブに手を掛けると音も立てずにゆっくりと押し開いた。
「おや、こんな所で珍しいですね」
「……なまえさんの帰りが遅かったので」
「ア、アオキさん、」
「そうですね。なまえさん、お時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした」
彼女はまた綺麗な笑みでこちらを見た。人を寄せ付けない、どこか人形じみた顔で。部屋に漂う雰囲気にいたたまれず、失礼しますと告げてその場を後にした。退出間際、小さく耳打ちされたのは、
「では、また改めてお返事を伺いに行きますね」
戦慄を覚え、廊下に佇むアオキの元へと戻って行く。冷たい影を落とす廊下で二人、オフィスへと帰っていく最中、彼女が、オモダカが突然発したよそよそしい敬称や、また後日と取り付けられた約束に自分の立ち位置がよく分からなくなってしまった。無言の中、先に口を開いたのは予想外にもアオキだった。
「トップは多少強引な一面がありますから」
何を言わずとも察してくれるアオキの言葉に救われる。ジムリーダーと四天王を兼任するアオキだからこそ、今自分が心に抱いている上手く形容出来ない何かを代わりに口にしてくれたのだろう。恐ろしくも美しい隣人なのである、彼女は。あの凛とした雰囲気に誘われ、触れてみようと手を伸ばせば最後、鋭い毒牙にかけられ、逃れられない。まるで、毒化粧のよう。決して容易く触れてはならない。しかし、向こうから歩み寄られたなら、どうすればいい。それでは逃げようがないではないか。縋りたい思いでアオキを見た。偶然だった。
どろりと真っ黒な瞳がこちらを見ていた。鉛を流し込んだ鈍色のそれが自分を射抜く。密かに呼吸が止まる。見えない手がこの首を絞めているような錯覚に襲われる。知らない、今まで一度も見たことの無い顔をしていた。アオキは常にくたびれた印象の強い相手で、消極的かつ食にしか興味のない人物だと思っていた。だが、何故アオキは執着を押し固めたような眼差しで自分を見ているのだろう。自分の目の前にいるのは、本当にあのアオキなのだろうか。
「しっかりと自分の意見を話した方が良いと思います」
「……そうですよね、分かりました」
「あまりにも辛いようなら、自分を頼ってください」
「アオキさんに、ですか」
「今まで何度もなまえさんには助けてもらいました。いい加減、先輩としての働きをしなくては」
「ありがとうございます」
こちらの機微を窺う瞳から逃れたいと、そこで会話を中断してしまった。勿論、アオキの好意で言ってくれている箇所はあるはずだ。だが、それ以上に何か恐ろしいのだ。まるで、自分自身が最後に残されたひと口のそれと同じであるような気がして。静かに呼吸を整える。動悸が止まない。もし、もし自分がアオキの下を離れてオモダカの元へ行ってしまったなら?もし、オモダカの誘いを断り、アオキの下に居続けるとしたら?自分はこれからどうなってしまうのだろう。どちらに転んでも何かが変わってしまいそうなことだけは分かる。
「……あまり深くは考えず、直感的でいいかと」
ふと見上げた先にいたのは、いつもと変わらないアオキだった。まるで先程見掛けた仄暗い姿がまるで嘘のように、いつもと変わらぬくたびれ具合でそこにいる。やはり、少し考え過ぎていたのかもしれない。滅多にない異動の申し出を受けたのだ、下手に考え過ぎてもおかしくはない。返事をし、少しだけ前向きになった気持ちで廊下を歩いて行く。いつの間にか不吉な予感を忘れ、そのまま仕事へ戻っていった。隣を歩くアオキの表情からは何も読み取ることは出来なかった。
| 可憐な花は早々に摘まれるのだから |