偶然、目が合った。薄暗がりのエンジンシティは既に夕暮れを告げ、着々と夜の帳を下ろす準備を始めている中、ふと視線がぶつかっていたのだ。
「こんばんは」
仕事終わり。他の同僚より早めに上がっていいと言われ、その言葉に甘え、職場を出てすぐ。炎をモチーフにした赤いユニフォームに身を包んだ相手は誰もがよく知る人物だった。朝は日が昇る前から夜は日が沈むまでトレーニングを怠らない、この街のジムリーダーである彼だ。
「カブさん」
「やあ、もう上がりかい?」
「ええ、今日は早めに上がっていいって」
「今日も一日お疲れ様。毎日大変だろうに偉いね」
合図した訳でもなく、自然と隣に並ぶと同時に歩き出した。トレーニングの邪魔になるのではないかと訊ねる前に、気にしなくていいよと言われ、小さく頷く。横を歩くカブは額や首筋に浮かぶ汗をタオルで拭っているようだった。なまえはその光景に励まされているような感覚を覚えた。努力を積み重ねられる人は見ていて、とても気持ちの良い人だ。自分もなれるものならそうなりたいが、中々それが難しい。けれど、心から慕っている相手にたった一言労わってもらうだけで、頑張ることをまだ続けてみようと思える。まるで灯火のような人間だった。
「カブさんも毎日トレーニング、ご苦労さまです」
「ありがとう。そう言ってもらえると、僕もモチベーションアップに繋がるよ」
「この街のみんながそう思ってますから」
「嬉しいことだね、それだけ期待してくれてるってことかな」
「ふふ、いつも応援してますよ。カブさん」
飾らぬまま本心を告げると、カブは困ったように眉を下げ、笑顔を見せていた。不器用な笑顔につられてなまえも笑みを浮かべる。不思議だ、なんて事ない話をするだけで気分が晴れていく。今日一日の疲労も既に忘れてしまう程にカブとの話はとても大切なものだった。
「この街のみんなもそうだけれど、なまえくんも毎日頑張ってくれている。それを思うと、やっぱり僕も負けていられないって思うんだよ」
汗を拭い終えたカブは手にしていたタオルを首に戻し、暖かな瞳でこちらを見ていた。優しく見守ってくれる瞳に頬が熱くなるのを感じ、なまえは思わず目を逸らしてしまった。胸がうるさく高鳴る。失礼なことをしてしまった自覚はあるが、あのまま見つめ合っていたなら、恐らくまともに話をすることも出来なかっただろう。
「今日の仕事はどうだった?上手くいったのかい?」
「……えっと、いつも通りだったんですけど、少しトラブルがあって、」
ほんの些細なトラブル。日常ではいつ何が起こるか予測し切れない出来事の対応に追われる一日だったと軽く零せば、やけに真剣な眼差しでカブは話を聞いてくれていた。こんな時、自分の身に起きたことを聞いてくれる相手がいることの大切さを知る。面白くない話でも真面目に聞いては、優しい何かを添えてくれることの喜びを噛み締められる時間だ。勿論、悪気を感じない訳ではない。滅多にない時間を自分のことばかりに使ってしまうことへの罪悪感はあった。だが、僕が話し出したら長くなっちゃうからね。とカブは笑って言っていた。
「こんな話聞いてて、嫌になりませんか?」
「ならないね」
「なんて言いますか、その、本当にカブさんって凄いですよね」
「そうかな。なんせ僕はずっとトレーナー一本でやって来たから、なまえくんの話からはいつも新しい刺激を貰っているよ」
「明るくない話でも、ですか?」
「そりゃあ、毎日良いことばかりじゃない。僕だって勝てる日もあれば、負けてしまう日もあるからね」
ただ、その積み重ねがあるから、今の僕があると思ってる。だから、なまえくんが今積み重ねているものに興味がある。
お節介焼きなジジイだと思ってくれて構わないからね。と溌剌と笑うカブの言葉に思い切り首を横に振る。そんなことない、と慌てて言葉を訂正すると、いつになく真剣だったのか、カブは三白眼の黒目を点にして驚いていた。
「わ、私、一度もカブさんのことをお節介焼きな人だなんて思ったことありません……!」
「はは、それは嬉しいね」
「でも、最近の私は少し甘え過ぎなんじゃないかって思うこともあって」
「甘え過ぎ?なまえくんが?」
「もうちょっとしっかりしないといけないのに、」
一歩、前に進むことは簡単なようで難しい。しかし、一歩、後ろに戻ることはいつだって出来る。寧ろ、前に進めず、ずっと立ち止まってばかりなことが多い自分を一番よく知っているのは、自分だった。だからこそ、もう少し厳しい目で見てもらうことが必要な気がしていたのだ。けれど、カブから返ってきた言葉はあまりにも意外で、なまえも暫くは返事を忘れていた程だった。
「好きなだけ甘えたらいい、僕で良ければね」
あまりにも呆気にとられ、返事をろくに返せずに目を丸くしていたせいか、こちらを見たカブもまた目を丸くして驚いているようだった。
「驚かせちゃったかな?」
「あ、いえ、その、優しいなあって、」
「優しい?僕が?」
「……カブさんって、こういう時に喝を入れてくれそうなイメージがあったので、てっきり、」
「それなら、喝の方も入れておこうか?」
お、お任せします。と恐る恐るカブを見れば、いつもの凛々しい表情でありながら、僅かに口角を上げていた。
「喝を入れるのも良いけれど、今のなまえくんには優しさの方がいいと思ってね」
「私、カブさんみたいにしっかりした人になりたくて、」
心細い指先を密かにぎゅっと握り締める。人は歳月を経て、思慮深く自立した人間へと変わっていく。しかし、自分もそうかと問われると難しい部分がある。確かに積み重ねた時間はあれど、今の自分自身が思慮深く自立出来た人間かどうかは言わずもがなだ。だからこそ、人の好意に甘えてばかりではいけないと思うようになった。間違ってはいないのだろうけど、正しいとも言い切れない曖昧さに悩んでいた。
「嬉しいことを言ってくれるね、なまえくんは。でも、僕からすれば充分しっかりしてると思うよ」
「……本当ですか、」
「自信がないだけで、なまえくんはかなり頑張っているんじゃないかな」
自信がない。その言葉に、カブが人の本質を見抜く術に長けていることを知る。流石はジムリーダーだ、若き才と対峙する機会の多い相手ならではの着眼点だった。
「胸を張っていい、頑張りや努力を続けられる人間はあまり多くないからね」
「確かに自信ってのは中々見つけられない。どこにあるかも分からない。それでも、前を見て目標に一生懸命向かって行けた時に初めて見つかるものだと、僕は信じてる」
「その道中が一番苦しいって言うのも、僕は分かっているつもりだよ」
カブの瞳が優しく細まっていく。自分にはないと思っていたものの在り処をカブは知っており、それを教えてくれたのだ。どうして、努力は姿形がないのだろう。どうして他者にしか見えず、そして、酷く無口なのだろう。目頭が熱くなる思いだった、その言葉を聞かせてもらっただけで充分だと感じるほどに。滲んだ視界を誤魔化すように、笑ってみせた。ひどく不格好な笑顔だったに違いないが、これが精一杯だった。それでも、カブは不格好な笑顔をありのままに受け止めてくれ、頑張ろう、明日も。一緒に。とだけ添えた。
「……頑張ります、わたし」
「うん、いい顔だ。それでこそ、僕の好きななまえくんだ」
「す、すき……、ですか、」
「これはまた、年甲斐もないことを言っちゃったね」
「い、いえ、そんな、……そんなこと、ないですよ」
カブもまた困ったような笑顔で、首に下げたタオルをぎゅっと握り締めていた。少しだけ違和感を覚える。もしかしたら、不本意だったのかもしれない。先程のように口走ってしまった言葉、本来なら明るみに出したくなかったことなのかもしれないと。
「僕はね、年長者だから自分の経験を活かして、誰かの学びに繋がって欲しいと思うんだ」
「けれど、その学びの受け取り手がいつもトレーナーであるべきだとは思ってはいない」
「だからなのか、僕を見てなまえくんが奮起する姿は僕の望んでいるものでもあるような気がしてね」
何言ってるんだろうね、僕は。一人で喋り過ぎちゃったよ。
タオルを握り締める手はそのままに、カブが苦笑する姿を見て遂に口が裂けてしまった。躊躇、配慮、気遣い、思惑……、後ろめたい感情は一旦なかったことにして、なまえは裂けた唇で話し始めた。
「私だって、カブさんのこと好きです」
そう思って貰えるのなら、一体どこに迷う必要があるのだろうか。日々のつまづき、痛む爪先を庇って歩いているのは誰もが同じだった。顔を上げ続けることの難しさは身をもって知っているつもりだ。顔を下げていることの容易さも分かっている。容易だからこそ、心許ない足元ばかりが鮮明に現実味を増していて、ただ解像度を上げていくばかりだと。しかし、それではいけないのだ。自分を見てくれている人に対して、それではあまりにも失礼なような気がして。拙くても前を向いて歩いていく姿を見せていかなければ、何にも報いることも出来ずに終わってしまいそうだから。
「もし、私が前向きに頑張っていけたとして、それでカブさんの何か役に立てるなら」
──── 弱音も吐くけれど、それ以上に頑張っていきたい、って思います。
慣れぬ青さに唇が火傷する。夜の肌寒さに凍てついたのではない。普段から明かせぬ言葉を綴った反動で、それからは酷く口下手になってしまった。カブも物言えぬ自分の胸中を察したのか、深くは訊ねずに静かな夜道を二人並んで歩くことに徹してくれた。そして、自宅が近付く通りで足を止める。一緒に夜道を歩いてくれた感謝の気持ちをカブに伝えると、今日もなまえくんと話が出来て楽しかった。と返され、私もです。と顔を綻ばせる。
「それじゃあ、また」
「はい、本当にありがとうございました」
互いに手を振り、なまえは自宅へと。カブはエンジンスタジアムへと歩き出す。すぐに駆け出したカブが突然立ち止まり、こちらを振り返る。最後にもう一度だけ大きく手を振っては再び走り出して行った。遠ざかる赤い背中が見えなくなるまで、なまえはその場で見送っていた。弱々しく燃えていた胸の蝋燭に火を分けてもらえたからか、ふと明日が恋しくなってなまえもその場を駆け出して行った。
| 継ぎ火 |