なまえは元々、身寄りのない子どもだったらしく、今回のポプラの申し出を施設側は快諾した。面倒を見ていた子どもが、信頼あるアラベスクジムの元ジムリーダーに引き取られるのならば、不躾に断る理由はない。近々、部屋の荷物をまとめに帰らなければ、となまえが呟いていた。ポプラがなまえを引き取った日、ささやかなお祝いとして歓迎会が開かれ、彼女は一匹のラルトスを贈った。エスパーとフェアリー、二つのタイプを併せ持つポケモンで、良いパートナーになってくれるだろうと見込んでのことだそうだ。
「なまえ、どうしてあんたをあたしが引き取ったんだと思う?」
「それは、ポプラさんが私に何かを感じたから……?」
「そうだね、正解だよ。でも、半分不正解」
「この人はいつもこうなんだ。だから、なまえもあまり真に受けない方がいいですよ」
「ビート、その返しは不正解だよ」
耳打ち程度の小声だったのだが、ポプラの耳はきっと一言たりとも言葉を聞き逃すことはないのかもしれないと、途端に口を噤む。なまえはと言うと、譲り受けたラルトスを膝に乗せ、優しく声をかけている。ポプラ曰く、なまえには光る何かがあると言っていた。しかし、自分をジムリーダーに据えておきながら、今度はなまえに何を託すのだろうか。
「あたしはあんたにピンクを見たのさ、なまえ」
「……ピンク、ですか?」
「そう、最近の子はピンクが不足しがちなのさ。それなのに、あんたは珍しくピンクの素質がある」
「ビートくん、ピンクの意味わかる?」
「いいえ、僕には皆目見当もつかない」
「なあに、ビートもまだ学びの途中だからね。今はあたしだけが分かってりゃあいいのさ」
ポプラは手元に置いてあるティーカップを口に運び、静かに傾ける。ハーブの落ち着く香りが鼻をくすぐる。しかし、なまえがここに残る理由だけがよく分からない。次世代のジムリーダーにでもするつもりなのだろうか。エリートであり、自ら引き抜いた自分を差し置いて。
「物言いたげだね、ビート」
「何故、なまえはポプラさんに引き取られたのか、よく分かっていません」
「あんたの代わりじゃないよ。あたしの代わりさ」
「……ここのジムリーダーは僕だと言ったではありませんか」
「ジムリーダーのことじゃない、芝居の話さ」
ポプラの言葉になまえと一緒に首を傾げていた。そう言えば、自分がジムリーダーになってから幾度となく修行を押し付けられ、それと並行して芝居の練習をしていた。ジムリーダーの選出もオーディション制にしている辺り、演技や芝居に携わっていた人間なのだろう。だが、それよりも意外だったのは、ポプラがなまえを選んだことだ。覚えている限りでは、なまえは演技や芝居を嗜んだことはない。だからこそ、余計に不思議でならない。彼女を役者の卵として育てようとしているのだろうか。
「こう見えても昔はブイブイ言わせた実力派でね、あたしの出る舞台のチケットはいつもすぐに売り切れちまうんだ」
「……あ、あの!」
「なんだい、急に大きな声を出して」
「私、そう言うのやったことなくて、」
「ああ、それでいい。余計な知識や技が入ってない、その状態がいいんだよ」
「……私がお芝居に向いているかどうかも、」
自信が無い、彼女はポプラにそう訴えた。今まで演技に触れたこともなければ、実際にやってみようと思ったこともない。そんな自分で良いのか、もしかしたら期待に応えられないのではないかと怯えている。
「向き、不向きだけでビートはジムチャレンジャーになったかい?」
なまえは首を横に振った。
「この子がそこまで計算し尽くした上で、ジムリーダーになったのかい?」
やはり、首を振る。ポプラが伝えたいことは分かる。かつての自分もそれを持っていなかった。けれど、それは自分にさえ与えられた。リーグ委員長であるローズによって。アラベスクジムのジムリーダーであるポプラによって。
「いいかい、なまえ。まずはやってみるんだ、後のことはそれから考えるのさ」
「だけど、」
「まだぶち当たってもいない壁のことを考えるのはよしな」
少なくともビートは、壁にぶち当たったところでお構い無しに壊してやろうとしてたぐらいさ。
話の引き合いに出され、思わずポプラを見た。それから、なまえにも目を向ければ、一つ何かを決心したような表情が見えた。もしかしたら、彼女はかつての自分がしていた表情を今しているのかもしれない。
「私にも出来ますか、」
「自信が欲しいならひたすらに特訓だよ」
小さく頷いたなまえを膝の上のラルトスも見上げていた。ラルトスは人の感情を敏感に察知するポケモンだ、なまえの感情の一端を読み取っているのだろう。人知れず、そっと彼女の手に自分の手を重ねている。その感触に遅れて気付いたなまえはラルトスの手を握り返し、ポプラに返事をした。
「……やってみます。精一杯、」
「それでいい、明日から楽しみだねえ」
「これで僕もやっとクイズ地獄から解放されるんですね」
「クイズ修行も続投さ、まだまだ終わらないよ」
げっ、と不意に口を突いて出てしまったのは、本当に不注意だった。まさか、まだあの地獄が延長されるとは思いもしていなかったのだ。なまえと言う良き教え子を見つけたのだから、てっきり自分のことには無頓着になるだろうとばっかり。怪訝そうにこちらを見ているポプラから逃れるように、明日から頑張りますよ、一緒に。となまえに小さく声をかける。すると、彼女も彼女であからさまに嬉しそうな顔をするものだから、こちらのペースが一気に乱れてしまった。
***
ささやかな歓迎会も無事に終わり、今日の日が終わるのを同じ部屋で待っていた。ポプラの計らいによるもので、彼女の屋敷の屋根裏部屋に寝室を設けられた。部屋の暖色の明かりと共に明日の用意をするなまえを、自分のベッドに横たわりながら見つめていた。他人との共同生活は自分にとってストレスでしかないものだった。それは施設を出た今でも変わらない。しかし、不思議と彼女となら嫌な気がしないのは、自分も単純な人間だからなのだろうか。彼女のワンピースタイプのパジャマがひらひらと揺れる。
「ポプラさんってすごい人ね」
「……ええ、確かに凄い方です。僕だけでなく、なまえまでも引き入れるなんて」
「なんだか懐かしい気分」
「僕はさっさと施設を出てしまいましたからね」
「だから、また会えて嬉しかった。それなのに、今日から一緒だなんて」
「とんだ物好きですよ。ポプラさんも、なまえも」
突っぱねた返事をせせらぎのような笑い声で返すなまえに訊ねる。すると、くすくすと笑いを堪えられないまま、なまえは口を開く。
「嬉しい時、ビートくんはいつも唇を尖らせるの」
「な、なんですか、いきなり……!」
「多分、癖だよ。ふふ、」
「ぼ、僕が、なまえと会えたからって喜んでると思ってるんですか……?!」
「ううん、そういう風には思ってないけど」
「そんなの、なまえの勝手な思い違いですよ」
「そうかも」
ひどく素直に腑に落ちた様を見せるなまえに、ぐ、と拳を握り締める。また、やってしまった。いつも、そうだ。何も間違ってはいないくせに、それを素直に受け入れられない。最近は少しマシになったように感じていたが、まだ駄目だった。彼女もまた決して皮肉でそう答えたのでは無い。彼女の中で、自分の言葉に当てはまる何かがあったからこそ、そうかもしれないとただ納得しただけなのだ。
「……違います、」
まるでか細く鳴く、虫の声のようだった。弱々しい声音で自分の撒いた種を拾い集めていく。なまえとトラブルを起こしたい訳ではない。ただ、どう繕えばいいのか分からず、怖かったのだ。
「勝手な、思い違いだなんて、ことは」
……ありません、あなたに限って。そんなことは。
心臓が破裂してしまいそうな程に強く脈打っていた。痛いくらいに鼓動を繰り返す胸の内が煩わしくて仕方ない。彼女はきょとんとしていた。無理もないだろう、彼女の目の前で自分は醜態を晒しているのだから。前言撤回、滅多なことがなければしない行動だ。それを彼女の前でして見せたのだから。ちぐはぐな空気感が突き刺さる。もう彼女とまともに目を見て話すことが出来なくなってしまった。
「優しいね、すごく」
その言葉に触発されるように飛び起きる。ふわり、と柔らかな香りが漂う。ベッドに腰掛けたまま、目の前の隣人を見上げた。隣人は優しい笑みで佇む。悟られてしまわぬよう、密かに息を呑んだ。そして、柔らかさは降って落ちてきた。長い髪は隣人のものだ。さらさらと視界の端に流れ、僅かな翳りの中で心地良さに包まれている。額に伝わる暖かくて小さな感触。目に焼き付いて離れない、ひらひらと揺れる薄手のワンピース。
「おやすみなさい」
隣人は何とも思っていない顔で、いつものなまえと変わらない顔で自分のベッドに潜り込んでしまった。追い掛けてしまえれば良かったのだろうが、そこまでの勇気がないと怯えた心臓を抱えて部屋の暖色にようやく手を掛けた。今すぐにでも夜に逃げ込まなければならないほど、余裕を持ち合わせていなかったのだ。
02.Jeunesse