彼女、なまえがアラベスクジムにやって来てからはポプラの当初の目的通りに芝居の稽古が始まった。なまえは譲り受けたラルトスと共に何度と舞台に立ち、日々課せられた何かを演じている。時には激しく、時には淑女を思わせるように、時には大胆不敵で。それは日を重ねる毎に、回を重ねる毎に、着実に彼女の一部となっていった。初めは稽古場に立ち、与えられた役を演じることに恥じらいと不安を抱いていたなまえも、今では堂々と振る舞っている。まだ拙さは拭い切れないが、その努力を惜しまない姿は見ていて嫌な気分にはならなかった。いつも隣にいたラルトスも上手く立ち回り、精一杯役を表現している。
 泥臭い努力を嫌うようになったのは、いつからだろう。努力に綺麗も汚いもないだろうに、気付けば生まれ持った素質と言う肩書きに固執していた。そう、自分は自分以外の何者も認められなかったのだ。だからこそ、チャンピオンとの戦いで吹っ切れることが出来た。あそこまで他者を圧倒する強さがあるなら、認めざるを得ない。今まで自分が引き摺ってきたしがらみ全てを吹き飛ばすほどの、バトルだった。チャンピオンにはチャンピオンの、自分には自分の進むべき道や守るべきもの、絶やさずに次の世代へと受け継がせなければならないものがある。敗北の記憶だと言うのに、未だに胸の内は清々しいのだから不思議だ。

「なまえ、今日も精が出ますね」
「ビートくん」

 なまえに声をかけると、傍から稽古を共にしているラルトスがひょこっと顔を覗かせていた。身を屈めてラルトスと視線を合わせた後、再びなまえとの会話に戻る。

「ポプラさんは?」
「少し席外すって。その間、私達は自主練習」
「ラルトスも、ですか」
「初めは一人でやっていたんだけど、いつの間にか。それにこの子がいると、不思議と集中出来るみたいで」

 ね。となまえとラルトスは見つめ合う。控えめにラルトスも頷き、どこか嬉しそうに口元を緩めて笑っていた。その微笑ましい光景に、ついつられて口角を持ち上げていると、意外だと言うようになまえが声を上げた。

「わ、わらってる……!」
「な……!べ、別におかしなことではないでしょう!」
「そうなんだけどさ、」

 一緒にいた頃には見れなかったから。と寂しげに、けれど、嬉しそうに笑うなまえにこれ以上は捲し立てられない。

「……練習、様になってますよ。何の役なんですか」
「えっと、あのね、」
「どうしたんですか、急にもじもじと」
「……わたしね、ひ、人前に立つんだって」

 彼女から告げられた事実は、思ったよりも早くすぐそこまで迫って来ていた。来月、彼女は公の場で演劇を披露するのだと。なまえに与えられた役は、薄暗い森に住むヒロイン。そして、ラルトスもヒロインと同じく薄暗い森に住むポケモン役で出るのだそう。なまえにとって初となる、大衆の面前での公演は彼女にとても深刻な影響を及ぼしていた。緊張、不安、恐怖、そして、主演として舞台に上がることへの責任。傍目から見ている分には申し分ない演技をしているが、当の本人に自覚はない。常に不安が付き纏い、緊張が喉を掴み、恐怖が目の前を塞ぐ。

「やっと、なまえの実力を周りが知る時が来るんですね」
「……え?」
「だって、そうでしょう。なまえは役を演じることに惜しみなく努力をしてきたんです」

 台詞を覚えようと何度も台本に目を通し、演じる『彼女』への理解を深めていた。発声、言葉の一つ一つがまるでそうであるかのように声を乗せることも。息づかい、しなやかな筋肉の躍動、指先の動き、切り揃えられた爪先の再現でさえ、何も妥協しなかった。瞬き、唇の動き、視線、表情の細部にすら、『彼女』を宿すことに弛まぬ時間を重ねてきた。
 確かに最近のなまえは、まるでどこか別人のように見える時があった。まるっきりなまえそのものであると言うのに、仕草や言葉の端々に『別の彼女』を感じてしまうほどに。つまり、元より彼女には素質があった。誰も見つけられなかった輝きを、またしてもポプラが見出したのだ。

「遅すぎるくらいですよ、これだから鈍い人達は困る」
「私、上手くやれると思う?」
「愚問ですね、答えるまでもない」
「とても不安なの。初めてのことってのもあるけど、一歩前に出ることが怖くて」
「杞憂に過ぎません」

 折角、美しく再現させた『彼女』を隠すように、なまえは言葉を濁す。だが、こちらもそれを良しとすることは出来なかった。なまえが主演の舞台、しかも、不思議めいた独特の世界観の魅力的なヒロインを演じることに一切の不安など抱くはずもなかった。胸の内は期待に満ちている。彼女が羽ばたく姿を見たいと渇望しているのだ。すると、なまえの傍にいたラルトスが声を上げた。人には決して理解出来ぬ何かを声に乗せて、なまえに伝えている。小さな体で一生懸命に何かを伝えようと身振り手振りしているラルトスも、きっとなまえと共に役を演じるのに不安などないのだ。

「ラルトス、」
「もしかしたら、ラルトスもなまえの気持ちを感じているのでしょう」
「私、大丈夫かな」
「ええ、僕のお墨付き差し上げますよ」

 ラルトスも大きく頷き、なまえを見上げた。沈んだ表情をしていたなまえも次第に、表情を明るくさせ、自分自身に言い聞かせるように、うん、と大きく頷いた。

「教えてくれませんか、今回の舞台のストーリーを」
「妖精が住むとされる薄暗い森に暮らしているヒロインが、その森に迷い込んだ青年と出会い、惹かれていくお話」
「ほう、これはまたメルヘンなお話ですね」
「一緒に舞台に立つのはラルトスだけじゃないの、私のアーマーガアやアラベスクタウンのポケモン達も」

 なまえは明るげな表情で物語をなぞっていたが、とある場面に差し掛かった時、突然顔を曇らせた。再び彼女の表情を曇らせたのは、演じることへの不安たちではなく、どうしても理解や解釈の及ばない部分のせいだった。それは、出会った青年が隣国の王子であり、ヒロインへの思いを伝える場面だ。その時のヒロインの心情や表情、自然な仕草が分からないでいるのだと。勿論、何事も経験が全てでは無い。見たことがないものを精巧に描き上げる画家や、斬新なデザインを模索する技術者達もそうだ。つまり、それは役者にも当てはまるはずなのだが、なまえはその糸口すら見つけられないのだ。

「愛の告白、でしょうね。この青年はヒロインに助けられてから、彼女のことが忘れられない」
「……とても大切なシーンだって分かってるけど、こればっかりはよく、」

 首を横に振るなまえの足元に佇んでいたラルトスが突然、舞台端へと捌けたかと思えば、一冊の本を抱えてこちらへと戻って来た。それは今回の舞台の台本であり、なまえのものだった。ラルトスはそれをなまえではなく、自分に差し出すと、何かを訴えていた。

「僕にですか?……では、少し拝見しましょうか」

 努力家である彼女はそのページにだけ付箋を貼り付け、台詞以外の余白に色々と書き込んでいた。『打ち明けられてうれしい』『皆と離れてしまうことは悲しい』『どっちも入り交じった複雑な気持ち』と彼女の苦悩が見て取れる。そして、肝心の台詞を黙読でなぞる。

 ──── あなたと共に行きたい。私はあなたの、献身を忘れられないのです。

 古ぼけた台詞回しは解釈が何通りにも分かれ、どう噛み砕くべきか難解なものだ。もしかしたら、なまえはその難解さにヒロインの心情がイメージ出来ないのかもしれない。青年と共に行けば、生まれ育った故郷を去ることになり、家族同然のポケモン達との別れは避けられない。しかし、青年の素朴な人となりに惹かれている自覚もあり、出来ることなら共に行きたいと願っている。

「試しに読んでみましょうか」
「ほ、本当……?!」
「僕でよければ、ですがね」
「うん、すっごく助かるよ。ありがとう、ビートくん」
「フッ、僕と練習が出来るなんて光栄なことですよ」

 ほんの少しじゃれついてから、本題に入る。自分は台本を片手に、彼女はラルトスを膝に乗せて、互いに見つめ合う。言の葉をなぞる、彼女の瞳を射抜いたまま逸らさぬように。助けられたのが青年ではなく、自分であるかのように。今度は彼女が言葉を紡ぐ番だった。しかし、一向にやってこない返事に彼女の様子がおかしいと気付いた。

「……どうしたのです?次はなまえの番ですよ」
「えっと、その、うん、」

 彼女はどこか気恥ずかしげに目を伏せた後、別人の顔をしてからようやく台詞を返した。

「私の献身は全て、ここで暮らす皆から貰ったもの。本当の私など知らないというのに、それでも?」
「……ええ、本当のあなたを知りたいと願うのは、間違いでしょうか」
「いいえ、間違いだなんて有り得ないわ」

 一瞬にして大輪の花が咲く。なまえが演じて見せた彼女の笑みに、今まで蕾だった花々がようやく開花の時を見せたのだ。喜びの再来、明日が手招きしている。結ばれようとしている二人を未来へ連れて行こうと。この時、自分は一体どんな表情をしていたのだろうか。皆目見当もつかない。彼女の瞳に映る自分はとても頼りない気がした。けれど、彼女はそんな自分とは正反対に輝かしいほどの笑みで役を演じている。あまりにも遠い距離感と胸の奥に生まれた小さな熱意に、何かが焦がれているような感覚がした。


「ありがとう、ビートくんのおかげで分かった気がする」
「それは何よりです。折角、僕が協力してあげたんですから、舞台必ず成功させてくださいよ」
「うん、頑張るね」

 どこか照れたように笑う彼女の仕草に、ようやく物語の青年の胸中に気付いた。薄暗い森に迷い込み、行く宛てもなく、出口を探して彷徨う彼はさぞ心細かったことだろう。そうか、そうだったのか。だからこそ、共に行きたいと口にしたのだ。自身の身勝手な言い分であると分かっていながら、このまま他人に戻ってしまうことが出来ないばかりに。今は、少しだけ他人の気持ちが分かるようになった。もしかしたら、この青年はかつての自分だったかもしれない。いや、今もまだそうだと言うのなら、あまり背伸びをするべきではないのだと知った。


03.Chouchou


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