それから幾ばくかの時が流れ、なまえの姿は再びボウルタウン、キマワリ広場にある。強い日差しから逃れるように被った麦わら帽子から、美しいイヤリングを着けた耳元が覗く。街を象徴する大きな風車も風に煽られ、真っ直ぐに伸びたその羽根を泳がせている。ふと、気付けば足元に群がるキマワリ達に日課をねだられ、そろそろ出ようか。と皆に聞こえるよう声を掛けた。
すると、広場の入り口に見慣れた姿の少年が見えた。あれは少し前にパルデアの新たなチャンピオンとして有名になった彼だった。まだ駆け出しだった頃の彼の姿が懐かしく感じられる。こちらの視線に気付いた彼に軽く手を振ると、途端に嬉しそうな顔で歩き始めた。あの日も確かオレンジ色と白の眩しい制服に身を包んでいた気がする。
「たしか、ハルトくんだっけ」
こくり、と頷く様が可愛らしいのは前と変わっていない。しかし、今の彼はもうチャレンジャーなどではない。パルデアが誇る立派なチャンピオンなのだ。だが、そうなると各地のバッジを集めたチャンピオンがボウルタウンを訪ねる心当たりが分からない。その理由を問い掛けると、トップチャンピオンから任された仕事の一環なのだと教えてくれた。各地ジムの視察、それぞれがジムリーダーに相応しい人物たるかを確かめに回っているのだと。
「それじゃあ、これからコルサさんのところに行くんだよね?」
「その必要は無いぞ、なまえ。それに新しいチャンピオン」
すぐ傍から聞こえてきた声に驚くよりも先に、するり、と腰に手を回される。彼は驚いた顔でこちらを見ており、なまえも自分の腰に手を回した相手を見れば、
「トップとの予定が入っていたが、キャンセルだ!しかし、チャンピオンよ。このワタシを出し抜いて、なまえに声を掛けるとはいい度胸をしている」
やんわりと、けれど、しっかりと主張を忘れぬように引き寄せられ、頬が熱くなっていく。子どもの目の前で一体なんてことをしているのだろうか。今まで全く意識の行かなかったことに気を奪われてしまい、更にはコルサの嫉妬にまで気付いてしまう。だが、嬉しくもあり、恥ずかしくもある。それは、やはりあの時、本心を全て伝えることが出来たからなのだろうか。
***
「コルサさんは私の、憧れでした。わたしの ──── 」
目の前の芸術家の瞳が揺れた。自分はと言えば、唇がひどく震えている。今までの人生の中で一番眩しいと思えた相手がコルサだった。人には計り知れぬほどの情熱を、苦しみながらも作品として形作る姿に惹かれていた。自分の周りには少なからず何かに憧れ、それを目指し、成し得てきた人間が多かったように思う。尊敬すべき両親も、大切な親友も、いつも輝いて見えた。その輝きにあてられ、自分もそうなりたいと踏み出した一歩が今の自分を形成しているのだろう。正直、まだ何者になりたいだとか、そんな考えは無い。ただ、ボウルタウンに来て思ったのは、しっかりと自分の本心をありのままに伝えた方が良いということ。
憧れは憧れであると、恋慕は恋慕であると、伝えたい。他者と比べれば、自分の行いはとてもちっぽけなものだが、ゆっくりと前に進む人間がいても、きっとこの世界は、この街は許してくれる。そんな気がしたのだ。再び、コルサを見る。神妙な面持ちで次の言葉を待っているようだった。自分に出来ること、この街に来て出来るようになったこと。それは確かにあるはずなのだ。唇が熱を帯びていく。
「太陽、なんです」
頬さえも紅潮し、心臓が煩いくらいに鼓動する。二人きりのアトリエに響くのが静寂だけだとは到底思えないほどに、胸が張り裂けそうになっていた。彼の人は今、どのような顔をしているのだろう。今のなまえは顔を上げることが恐ろしくて、コルサの顔をまともに見ることが出来ない。怯えていた。コルサを自身の太陽に据えておきながら、本人の反応を見るのが恐ろしいあまり、俯いたままだったのだ。
「そうか、キミはワタシをそのように思っていたのか」
淡々とした声音に、もう後戻りは出来ないのだと知る。憧れの一線を大きく超えてしまった瞬間だった。
「実に有難いことだが、ワタシはキミの太陽ではない」
拒絶が耳に突き刺さる。ぶるり、と体が震え、視界が滲む。コルサの発した言葉の意味をひとつずつ噛み砕いて飲み込もうとしていた。そこまで物分かりが悪い方では無い。大丈夫だ、大丈夫。今までも上手くやってこれたのだ、これを飲み込むことさえ出来れば、きっと、これからも、
「ワタシはなまえ、キミの傍にいられる人間でありたいのだ」
そっと頬に添えられた手が、視線を導いていく。顔を上げた先にあるのは、愛おしむような、慈しむような優しい眼差しだった。オリーブ色の髪の隙間から降り注ぐ視線に、悲しみを忘れていた。ワタシが太陽になってしまっては、こうしてキミに触れることすら叶わないのだろう?それでは不本意極まりない。コルサの傷付いた細い指先が目尻の涙を掬っていく。
「その緑が鮮やかな美しいワンピースはあの時と同じものだ。初めてワタシがなまえを街で見かけた時と同じ」
「……覚えていてくれたんですか」
「勿論だ、あの時のキミは夏を連れた旅人のようだった」
「あの日、私は引越し先を探してるって言いましたよね。あちこちの街を転々と歩いて、見て回って、」
やりたいこともなかった。目指すものもなかった。ただ、自分の隣に居てくれる者を大切にしていけたら、それで良かった。そんな時にここに来れば良いと声をかけてくれたのが、コルサだった。何者でもない自分を快く引き受けてくれたのが、彼だった。見知らぬ街で、誰かの諦めたキマワリ達を探してやりたかった。それが自分に出来ることだったから。街のどこかで隠れているキマワリが、まるで置いていかれたように感じている寂しい自分と重なっていたからなのかもしれない。不安そうな顔をして街を歩き回る少年が、行く宛てのない自分と同じように見えたからなのかもしれない。だからこそ、何も考えずに声を掛けていたのだろう。
「初めてだったんです。出先の街で、私のことを聞いてくれたのは」
例え、それが自作品における感想であったとしても。嬉しかったのだ、誰かと心を通わせることが。意図せず歓迎してくれたことが、自分がこの街に居て良いのだと思えたからだ。
「私が感じたことを喜んで聞いてくれる、あの日からコルサさんは私の太陽でした。でも、」
今は私も、……私もコルサさんの隣に居たい。
涙を掬って濡れた細い指先に触れると同時に、後頭部に触れる感覚、そして、額に僅かな熱を感じる。目の前が翳っていく、息遣いがすぐ傍に感じられる、添えられた手の僅かな震えを知る、額へ伝わる感触に胸の奥がチカチカと閃光を放つ。
「なまえ、キミとワタシはこれから互いに根を張っていくだろう」
愛おしげに後頭部から輪郭へと指先が滑らかになぞっていく。
「しかし、……くすぐったいものだ。言葉でしか伝えられないものがあると言うのは」
見上げた先にあるのは、未だかつて誰も見たことがないだろう芸術家コルサの表情だった。やはり、彼は太陽だったのだ。自分を照らしては時にその心を試す、強かな太陽そのものだったのだ。降り注ぐ日差しを噛み締める。あまりにもその日差しの中の居心地が良いものだから、目の前の陽だまりに身を寄せた。すると、悩ましい声が聞こえてすぐ、抱き締められるような感覚がした。
***
「ほう!トップの代わりに各地のジムを視察しているとはな。ならば、再び合作といこうではないか!」
「頑張ってね、ハルトくん。……コルサさんも!」
コルサの実力は分かっているものの、下手なやきもちに彼を巻き込まないよう、両者にエールを送る。両者はそれを快く受け取ると、バトルコートのある風車の方へと歩いて行った。その背中が見えなくなるまで見送ると、ようやく緊張が解けていくのを感じた。
あの日、互いの告白を受けた日から少しだけこの街の事情が変わった。例えば、以前にも増して二人の時間が増えたこと。コルサは芸術家として、近年の活動がより活発になったこと。しかし、自分は相も変わらずキマワリ達の世話と、ジムテストの業務を時折こなしながら、日々過ごしている。
「さて、私も二人のバトルを見に行こうかな」
ぽつり、と呟いて一つ思い出す。そう言えば、コルサのアトリエに招かれた日、気になるものを見つけていた。一階の窓辺に日差しを浴び、風に被せられた布を泳がせていた、あのキャンバス。一体、何が描かれていたのだろうか。もし、機会があったなら、見せてもらおうと密かな希望を胸にしまい込むと、間もなく始まるだろうポケモンバトルの場へと遅れて向かうのだった。
──── 一階の窓辺に置かれた、たくさんの日差しを浴びるキャンバス。
一枚の布が被せられたその作品の全貌は、コルサが初めて衝動的になって描き留めた、とある一枚のラフ画が元となっている。たくさんのキマワリと相棒であるメェークル、ミツハニーを連れた、まるで花を売る羊飼いのような彼女が描かれたその作品は、後に『太陽の街、夏を連れた旅人』と名付けられ、秘蔵の作品として世に出回ることはなかった。そして、今日もまた太陽の街は人々と共に生を謳歌している。
12.新緑の足音