後ろ手で扉を閉めた。窓の外はまだ日が高く、人の往来もある。だからこそ、急いでアトリエまでやって来たのだ。コルサは今、深刻な状態異常にかかっていた。人目のない、二人きりの空間でコルサは不思議そうな顔をしていた。自分たちが置かれた状況が飲み込めていない、そのような顔を。傍にいたなまえだけが現状を理解しており、一人顔を曇らせている。なまえは自身でも解決に至らない恐れのある問題に直面していた。それは、ボウルタウンで起きた突発的なトラブルだった。
とあるトレーナーの元を離れたニンフィアが街中を駆け回っていたらしく、偶然にも通り掛かったコルサとなまえはそのニンフィアに遭遇。しかし、人間二人と出会したからと言ってニンフィアの足が止まることはなく、そのままコルサと衝突してしまい、今に至る。そして、そのニンフィアはメロメロボディの特性を持ち合わせており、現在コルサは他の異性に惹かれてしまう状態にあった。
「コルサさん、具合はいかがですか?」
「ああ、今のところは問題ない」
「気分が悪かったり、調子が悪いこともありませんか……?」
なまえからすれば、気が気でない。だから、駆け足で帰ってきた。もし、コルサの瞳が誰かを追い掛けたなら。もし、コルサの心が一時でも誰かに靡いてしまったなら。その瞬間に目にするだろう絶望が恐ろしいのだ。偶然にもアトリエまでの道中は人目に晒されることがなかった。けれど、まだ不安は尽きない。
「なまえ、なまえは一体何を気にかけている?」
不安を悟られるほど、顔に出ていたのだろう。コルサはなまえの傍で顔を覗き込む。蔦のように細くしなやかな指先が輪郭に添えられていた。それでいて、ふっくらとしており、弾力がある指の腹が何度も頬を撫でる。一人混乱する自分を落ち着かせようとしてくれているのだと、なまえは不安混じりの胸中を明かし始める。弱々しく語られる口調になまえの心配が見てとれた。勿論、心配だけではない。心変わりの恐怖も抱いていることは明白だった。人として生きている以上、いつまでも二人きりで居られる筈もないとなまえは分かっていた。分かっていたからこそ、余計にこの事態が苦しく胸に迫って来ているのだ。
互いが納得した別れならば、それで良い。それは互いの心が離れてしまったと納得した上での結果だからだ。しかし、しっかりと結わえた糸を図らずも切る結果になってしまうのが耐えられないのだ。コルサが心変わりする未来が、いつやって来るのかさえ分からない。明日、もしくは何時間後、いや、数秒後にすら有り得る未来かもしれない。拒むことも叶わないだろう。それが酷くやるせなくて、心苦しく、辛いのだ。なまえは決して褒められない胸中を、震える唇で語る。大切なものをひとつの箱の中にしまい込むことが、真の喜びなのか。昔はそれが正解のように思えたが、大人になった今では間違いのように思える。独り善がりな思いを抱えて、大切なものを閉じ込めるのは、誰の為にもならないと知った。
「……私は、怖いです。このまま、コルサさんが他の誰かを、」
言いかけて、言葉を忘れる。真剣な瞳がオリーブ色の髪の隙間からこちらを覗いていた。顔つきも真面目そのもので、辺りに漂う雰囲気もどこか張り詰めているように感じられる。なまえの不安に揺れる瞳をしっかりと見据え、コルサは口を開く。
「このワタシが、なまえ以外の有象無象に容易く心を奪われるはずがなかろう」
……違うか?と静かな眼差しがなまえに語り掛ける。……違いません、と返せば、コルサは満足気に顔をゆがめて笑っていた。グレーの瞳に映る自分は、酷く安堵していることだろう。しかし、同時に不思議でもあった。普段と違う状況とは言え、コルサはあまり胸中を明かす人間ではない。決して口下手などではなく、答えは日々の所作や行動に隠されていることが多い。若しくは語るべき時にようやく口を開くような相手だ。だからこそ、この素直さには違和感を抱かざるを得ない。
やはり、いつもと何かが違う。上手く形容出来ない違和感はコルサの手を伝って身近に迫って来ていた。気のせいかもしれないが、僅かに手のひらが暖かい気がする。心地よい熱伝導、いつの間にか酔いしれていたせいで、ゆっくりと肌を撫でる手が体の曲線に触れていることに気付く。恐る恐るコルサを見つめ返せば、前髪で陰る目元の真意が読み取れない。薄づきの唇が乞うように名をなぞる。明かりのついていないアトリエの、薄暗がりに染まるコルサの青白い肌が網膜に焼き付いていく。
「ワタシは、……ワタシは今まで他の異性をなまえと同等に見たことはない」
ふと臀部に触れる固い感触。次の瞬間、背中全体に同じ感触が広がっていく。無機質でひんやりとしたテーブルに押し倒されていることに気付いた。コルサの影が自分の肌と重なり、静かに熱視線が降る。床から浮いた足と足の間に滑り込ませた体の、細い線ながらも男性的な逞しさを受け入れていた。拒もうと思えば、叶わない訳ではない。けれど、例えどんなに外で囀る鳥の声を聞こうが、朝の光の眩さに理性を縛られようが、弱ってしまった『大切』の信頼を癒せるのなら、このまま身を委ねてしまっても良いと思えた。
しかし、こうも思うのだ。この状態異常は本当に実在するのかどうか。人間にポケモンの技が作用してしまうのは、珍しい話ではない。良くも悪くも人とポケモンは相互作用する。何処までが自分自身で、何処から先が自分以外なのか。今のコルサは明らかにポケモンの特性が強く作用している状態だ。つまり、なまえを求めるコルサの本心は行方知れずのままだった。全てを委ね切ってしまう寸前に、理性が歯止めをかける。このようなことをしている場合ではない、と。
「コルサさん、」
理性がか細く声を上げる。コルサは理性の鳴き声に反応して、僅かに眉間に皺を寄せた。薄ら影の中、微かに情欲めいた表情をしている男に、女は鳴いた理性の口を塞ぐ。切なさを目の当たりにしていた。言葉にするだけでは飽き足らず、真の意味で満たされることなどない。心と本能は全く同じ存在だと知る。人間だからこそ、そこに理性や感情が複雑に絡み合い、上手く綺麗に隠してしまえるのだろう。
するり、と伸びた蔦がゆっくりと根を下ろすように絡み付いていく。例え、どんなに陽の光を浴びて健全に育んだものであっても、陰湿な一面を持ち合わせており、ふとした時にこうして相手を絡め取ろうとする。女は目の前の葉を掻き分け、青白い幹に触れた。青々とした世界で女は確かに触れていた。男の形をした深緑がその蔦で女の肌をなぞる。自身に触れる女の手を取り、手の内に口元を寄せ、力なく押し当てる。飢えた唇は人知れず、薄らと乾燥しており、指の腹に引っ掛かる感触を女はいじらしく感じていた。
すると、その刹那。不意にアトリエのチャイムが鳴り、二人は視線を玄関の方へ逃がす。しかし、先に意識が働いたのは男の方で、視線を逸らしたままの女の輪郭に手を添えると、すぐさま自分の方へと向きを戻し、息継ぎをしていた。カサついた唇が、柔い女の唇を食む。短い呼吸、その間になまえはコルサと自分の間に腕を潜り込ませ、力強く胸板を押し返した。なまえの訴えを感じたコルサは息継ぎを止め、僅かに濡れた唇を閉ざし、真下に視線を注ぐ。
注がれた視線の先にある姿はきっと頼りなく、情けないものだったに違いない。はっきりとした否定をせず、ただ一時の感情に飲まれまいと必死に持ち堪えているだけの自分は。気をしっかりと持たなければならない局面で、自身が揺らいでいるのだ。不意を突く接触にまともな理由を並べることすら出来ず、胸元に置いた手に再び力を入れ、突き放すことも出来ない。
「だ、だめです、今は、」
しかし、このままでもいけないと、必死に声をかければ、体に絡みついていた蔦がゆっくりと離れていく。枝垂れを名残惜しく思っていたのは本心だと再びコルサを見た。表情は全く変わっていないものの、熱に浮かされた瞳はそのままだった。同じ思いをしていると分かっただけで、救われるようだった。独り善がりのままでは、互いに傷付くだけなのだから。
なまえは背中を預けていたテーブルから下りると、衣服の乱れを手早く直し、コルサはチャイムの呼び出しに応じ、玄関先へと出向く。勘違いをして高鳴る胸から熱を取り去ろうとしてみても、先程のコルサが頭を過ぎって上手くいかない。
「なまえ、少し出てくる」
不意に投げ掛けられた言葉に、慌てて返事をする。玄関先で他者と並ぶコルサは見慣れたいつもの姿でアトリエを出て行った。手を振り、簡単に見送った後でようやく安堵する。一人残されたアトリエでなまえはコルサの言葉を反芻していた。それは枝垂れが引いていく間際にだけ聞こえた、置き手紙だった。
『今は控えておくとしよう、なまえの為に』
男性らしさの象徴であるコルサの低い声が鼓膜に蘇り、ひとり背筋を撫でる。じわりと体の軸が熱を帯びていく、どうにかなってしまったのはコルサだけではない。きっと、自分も知らぬ間にそれにあてられて、どうにかなってしまったのだと気付くのにあまりにも時間を使い過ぎてしまった。せめて、この毒が薄らいでいくのに夜までかかればいいのに、と一人になってから願うのだから、自分はとんでもない我儘な人間なのだと知った。
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