早起きは苦手だ。出来れば、許されるまで眠っていたいし、何なら好きなだけ眠っていたい。しかし、それでも自分は洗面台の前で顔を洗い、歯を磨き、朝食を食べ、玄関でスニーカーの靴紐を結んでいる。動機は少し不純かもしれない。まだうっすらと暗い外へ視線は駆け出す。不純な動機を作らせた相手に今から会いに行く。
荷物は必要最低限、自転車の鍵と家の鍵、携帯、財布、タオル。それだけを持って暖かなパーカーを羽織り、自転車に乗って自宅に備え付けられた駐輪場を後にする。噛み殺すあくびと暗い朝方の肌を刺す冷ややかな空気は尽きない。自分では到底走り切れない距離を自転車の前輪と後輪に任せて、ペダルを踏む。踏み込んだ分だけ、ぐん、と自転車は加速する。歩道に人の姿は無く、車道もまばらに車が走っており、通り過ぎて行く車の白いヘッドライトが眩しい。真っ青な朝、空さえもまだ眠っているこの時間に会いに行ける相手はただ一人。会いたい、自分が不得意な早起きをするのはこの理由の為だけ。会いたい、だから動機は不純なのだ。
自宅からその公園までは自転車に乗って二十分程度で到着する。その間に朝の空は目覚めを迎え、徐々に太陽の暖色に纏っていく。冷たい青と雲のごわごわとして硬そうな印象がゆっくりと和らいでいき、今日もまた新しい一日が始まるのだと告げるように暖かな日差しは街に降り注ぐ。そして二十分もかけてやって来た公園の入口には人の姿があった。こんな朝早い時間に誰かを待っているような人影。トレーニング中だろうか、パーカーから覗く首元にはタオルが巻かれている。まだまだこれからと言いたげに腕や足を伸ばしている人影に近付き、……おはよ。と声をかけた。
「おはようさん。今日も、まァ、ご苦労なこって」
「多分、体が慣れてきちゃったんじゃないかな」
「へぇ〜……、ま、それならいいンだけどさ」
まだ薄暗さの残る景色に彼と自分の吐く息が白く滲む。待ち合わせを終えた二人は二、三言言葉を交わすと一緒に走り出した。再び流れ始めた景色の中を黙って駆け抜けていく。自分の少し先を走る彼の後ろ姿を見る度に思う、愚直だと。短く吸って吐き出す空気は白く、小さく千切れてばかり。今日もあの待ち合わせの公園まで甘さの感じられないペースで走って来たのだろう。毎日飽きることなく走り続ける後ろ姿に、毎日飽きることなく付き合っている自分は同じく愚直だろうか。
愚地克巳の朝のロードワークは公園を起点とし、街を大きく一周して再び公園へと戻る。その間にちょっとした距離の追加やあえての遠回りはコンディション次第だが、大体は街を大きく一周する。賑わいのない街は朝ほど質素で地味だ。明かりも人の姿も最小最低限で、窓や入口は閉ざされ、辺りには無人の暗闇が漂っている。色気のない街を、色気のない時間に、色気のない理由で通り過ぎていく。留まる理由のない街は、結局ただ殺風景に流れていくだけだった。
千切れた白い息を、走り続ける背中を追いかけ続けると、またあの公園へと行き着く。最初に顔を合わせた時とは違い、周りは温かみを帯びており、気が重たそうに見えた雲もいつの間にか晴れ晴れとした青空を泳いでいる。
「なまえ、」
爽やかな朝日を背景に彼は公園の入口で足を止めていた。背景の爽やかさと愚地克巳という男の好青年さが相まって、まるで映画のワンシーンのようだ。もうハイペースで追いかける必要もなくなり、ゆっくり傍へと近寄って行けば、彼はにかっと眩しい笑顔を見せた。
「いつものことだけど、朝は冷え込むしね、」
「うん、」
「……顔赤いなァって。鼻と頬」
「いつもそうだよ」
「その顔見てるとさ、なんかホッとするンだよね」
「実は、……私も」
「私も、ッて何が?」
「愚地くんの、頑張った後の顔を見ると、なんかこっちも嬉しくなっちゃってさ」
「……ハハ、今そーゆーの言っちゃうかァ」
え?ダメだった……?とついうっかりおしゃべりになると、もう少しだけ話していかない?と公園にあるベンチへと誘われた。陽の光が当たっていると言うだけで、どうしてこうも風景は様変わりするのだろう。先程まではツンとした冷たい雰囲気でそこにあったのに、今では温かな色味を帯びて、おいで。と言うようにそこにあるのだ。日だまりの胸へ抱かれるように、彼と二人でその懐に転がり込む。
なまえは自転車をベンチの近くに止め、先に背もたれに体を預ける彼の隣に腰掛けた。何を話すべきか。容易く誘いに乗ったものの、そこから先を考えておらず、言葉に詰まる。彼はまた白い息を吐きながら、薄らと照る太陽を見つめていた。淡い暖色が彼の輪郭をぼかし、陰影のはっきりとした横顔が見蕩れてしまうほどに綺麗だった。
「この時間帯、好きなんだ。どこを見ても清々しい」
「気持ちのいい時間だね」
「そう。まさしく、それ。気持ちいいッて感じ、」
「どうして今日は寄り道したんだろ、」
「え?……ああ、ま、その、なんて言うか」
口ごもる彼を横目に自分のずるさを感じていた。会いたいと願っているのは自分だ、それを知っていながら彼に問い掛ける行為は『ずるい』の一言に尽きる。すんなりと与えられてしまう喜びに容易く手を伸ばせない、自分の一番の短所だ。
「そりゃあ、寄り道ぐらい誰でもするもん、じゃない?」
「寄り道かぁ……、いつぶりだろ」
「俺、結構やってたなァ、学生ン時に」
「真っ直ぐ帰りたくなくなるんだよね、帰り道って」
「でもウチは厳しかったからなァ、稽古稽古稽古……ッて感じでさァ」
「この後、帰ったら空手の稽古があるんでしょ?」
「稽古ッて言うか、鍛錬ッて言いますか」
大変だね、愚地くんは。いや、もう慣れたよ。困ったような笑顔を浮かべる彼は更に続けた。笑みに細まった瞳はまたいつの間にかこちらを見つめている。
「最近思うンだ。毎朝ただ走って、またね、で別れて……、そんなことの繰り返し。本当にいいのかッて」
突如、高鳴る心臓は鷲掴みにされて逃げ場がない。今日の自分がずるいのも、今日の彼が寄り道をしたのも、全て今のためなのだろうか。どうして彼を照らす日差しは温かく、柔らかく、美しい光なのだろう。同じく自分を照らす光は彼に、愚地克巳に自分をどのように見せているのだろうか。切ない、朝の日差しは思っていた以上に薄情だ。
「愚地く、」
「克巳ッて呼んで」
今度は笑みを忘れた顔がこちらを見つめている。何かをねだる子供のような真っ直ぐな目で、それが欲しいと訴えている。今日の自分はずるい、果たしてそうだろうか。充分に愚地克巳もずるいではないか、急に真面目な顔でそう口にするのだから。逃げることも去ることも良しとしないベンチ、二人の間には沈黙が行き交うばかり。
「なまえ、」
「……あの、」
「なまえ」
「えっと、」
「克巳、」
……くん。と続いた言葉に、……だから克巳だってェの。と惜しいと言った顔で笑う彼の姿があった。惜しい、けれども心底嬉しそうにも見える笑顔はやはり美しかった。太陽を宿したかのように両頬が温かくなっていくのは、今のこの状況に酔い過ぎているのかもしれない。朝の日差しは優しくて薄情だ。不純な動機だと知った上で会いに来てと告げているようで。
「まァ、でも、悪くないかな」
「ふふ。悪くないッて、嬉しそうな顔で言われてもね、」
「……ま、まァ、初めてのことだし?」
確かにそうだと今更ながら彼の名を口にした事実に頬はより熱を帯びていく。返事をするより先に頷けば、何かを察した彼は先にぎこちなく立ち上がる。空席の出来たベンチ、一人置いていかれたものの、彼にはまだ続きがあるらしい。
「そろそろ切り上げないと」
「……うん、そうだね」
「ちょっとしたおしゃべりのつもりだったンだけど」
「また明日かな、」
朝日を背に別れを紡ぐ。彼にも自分にもこの後は個々の予定があるのだ。それを疎かにしてしまうほど、この時間の優先順位は高くない。これから自分だけの日常に戻っていく。しかし、また明日の朝に会える。それだけでいい、それだけの動機ならある。
「……いや、また明日じゃない」
予想外の否定。何を否定したのだろう。不純な動機、或いは毒にも薬にもならないこの関係と時間だろうか。愚地克巳は今も尚、太陽に照らされている。
「またあとで、ッてのはどーかな……?」
今日こそは、きちんと言いたかった。と白状する彼に証明されたことがある。不純な動機である、会いたいという気持ちだ。この気持ちは自分だけが隠し持つ、大っぴらには出来ない感情で、愚地克巳の眼中にはない感情だと思っていた。まるで夜の後に朝が来て、何もかもが明るみになるように自分と彼の間に日が差している。
「今日の稽古が終わったら、少し街にでも行かない?」
「……デートのお誘いッてこと、」
「七時、それまでには終わるだろうから」
「いいの、私で?」
「うん、なまえがいい」
きっぱりと言い切られ、ようやく彼の言葉を受け入れることが出来た。今夜七時、街へデートに行くのだと。可愛いメイク、着飾りすぎないファッション、自分自身のコンディション。今日はそのどれらにも不安要素がある。それでも七時に出来た予定を丁寧に大切にしたいと思えた。
「……それじゃあ、またあとで、ね?」
「今夜七時に。じゃあ、行こうか」
彼の言葉を合図になまえもベンチを離れると、近くに停めた自転車を押しながら二人は薄っぺらなグレーと空から降り注ぐオレンジに染まる公園を後にした。なまえは美しいと思う太陽に照らされた愚地克巳の横顔を時折目にしながら。愚地克巳は何かを意識し始めたであろうなまえの横顔を密かに見つめながら。今日の日の始まりを共にしている。
| 美しきかな朝焼けの君 |