物心ついた時から、他者とは一定の距離を置いていた。それは自身が置かれている環境のせいもあったが、何より一般的という基準からはぐれてしまったことに対して、自分自身では解決できない現実の無情さを日々突き付けられていたからだ。はぐれた子どもがひとつに集まったところで、真の意味で家族にはなれない。馴れ合えば慣れ合うほど、自分が図らずも失くした、自分には与えられなかった『それ』への憧れが強く焼き付くばかりだった。望んだところでまともに与えられない自分が、この世を生きていくにはあまりにも支えが無さすぎた。指標もなければ、目標もない。何をして生きるか、それすらもどうやって見つければいいのかを知らないのだから、無知で可哀想な子どもでしか居られなかった。
「ビートくんは悪くないよ」
似た境遇の子ども達が集う施設で、その声は辺りに響いた。人一倍大きな声を出したのは、自分とそう変わらない歳の女の子。きっかけは些細なトラブルだった。その場に居合わせた彼女は、自分と相手の間に割って入り、話を聞くと相手の方を見て、開口一番にそう言ってのけたのだ。小さな衝撃が走る。自分も、相手にも。
彼女は事の顛末を聞き終えると、非は相手にあると告げた。告げられた彼はとても不服そうな顔をしており、未だにこちらを強く睨み付けている。脅されたからと言って、正しさを譲ってやる気はなかった。実際に突っかかって来たのは向こうで、自分は被害者なのだ。だが、今までなら普段の態度の悪さに、相手が無条件に庇われる場面も多々あった。しかし、彼女は、なまえは、自分は悪くないと皆の前で言ったのだ。
「誰も信じませんよ、そんなことを言っても。今までがそうでしたから」
「ううん、私は悪くないと思う」
幼い瞳であるのに、その視線は凛としており、彼女の堂々さを象徴しているかのようだった。そして、次に口を開けば、何故ビートを悪くないと思ったのか、自分の言葉で話し始めた。時には拙い言葉が飛び出してきたが、彼女が話終える頃には周囲の目が変わっていることに気付いた。少し前までは厄介者を見るような目をしていた皆が、なまえの意見に納得し、彼に冷ややかな目線を送っているのだから。
「わるくないよ、ビートくんは。絶対、わるくないんだよ」
非を認めた相手の謝罪を受け取ったのは、その日が初めてのことだった。その一件があってから、なまえへの見方が他者とは変わったように思う。だからと言って、一定の距離感をいたずらに詰めることを許したりはしなかった。接し方も露骨に擦り寄るような真似はしなかった。ただ、対等に話が出来る数少ない人間だと心の内で密かに認めていたのだ。それは、ガラルポケモンリーグの委員長であるローズに誘われて、施設を離れる瞬間までも変わらなかった。
今、思えば信頼していたのかもしれない。表面的な優しさの使い方をしない彼女は、自分にも非の所在を明らかにする時があった。誰にでも良い顔をしたがる処世術を好まず、個としての意見を持ち、行動してみせる彼女を信頼していたのだ。けれど、いつしかその優しさの使い方が上手な女の子のことを忘れてしまった。目指すべき目標が見えたから。自分に信頼を寄せてくれる人の為に行動すべきだと信じていたから。
***
森を駆け抜け、街へと急ぐ。ホップに任せてしまったものの、有名人にはしゃぐ群衆をあしらうのは得意ではないと踏んで、より早く駆けていく。のろまな足をこれほど恨んだ日はない。鈍感な頭をこれほどに悔やんだ日はない。見て見ぬ振りをした自分をこれほどまでに、叱責したいと強く思った日はない。心臓が跳ね上がる、駆け続ける足元の覚束無さに休んではいられない。綺麗に舗装された道を行けるとは思っていない。剥き出しの岩肌や砂地、鬱蒼と生い茂るけもの道、まばらに敷かれた石畳、その全てを駆け抜けた。
街に近づくにつれ、増えていく人ごみを抜け、最後になまえと別れた場所まで来ると、案の定、人集りが出来ていた。その中心にいるのはなまえと自分の代役であるホップの二人で、あとの人間たちは全て彼女らを取り巻く群衆と言ったところだろうか。その群衆に割り込んでいくと、次第に困り顔のホップとなまえが見えてきた。そして、自分と目が合った途端に安堵の表情を浮かべていた。
「おい、どこ行ってたんだよ!すごい人の数で動けないんだ……!」
「……あなたなんかに預けた僕が馬鹿でした」
「だって、いきなりどっか行ったのはビートだろ」
「いいですか、こうやって切り抜けるんですよ」
手持ちのボールからブリムオンを出すと同時に辺りに眩い閃光が走る。突然の光に誰もが目を覆い隠していく中、急いでなまえの手を取り、その場を離れた。ホップにもここから離れるように言い付け、街の細い路地へと逃げ込む。結果として、その場凌ぎの目眩しは成功したのだろう。誰も自分たちを追い掛けて来ようとはしていない。路地裏に響くのは自分と連れ出された彼女の拙い足音だけだ。どこまでも深く細い路地を進んでいくと、彼女の呼吸が荒いことに気付き、ようやく足を止めた。振り返るのを恐れていたが、どうしても彼女の様子が気になって振り向く。
「……大丈夫ですか、なまえ」
急いで呼吸を整えようとする姿に、慌てなくていいと伝え、なまえが頷いたのを確認すると、ただ待っていた。その間にたくさんの複雑な感情が胸の内で渦巻いていたが、今はなまえのことを優先したいと口を噤んでいた。
「どうして、私のこと置いていっちゃったの」
自分の弱い部分に彼女の言葉が突き刺さる。返す言葉がない、だが、何も返さないなんてことは出来なかった。二度も彼女を粗末にしたくなかったのだ。
「それは、」
「ごめん、今日は出掛けるんじゃなかったよね」
「なまえ、僕の話を……、」
粗末にしたくなかったはずの彼女は目の前で泣いていた。声を上げずに、表情も極めて崩さぬように。自分が知っているなまえの顔は彼女になく、全くの別人が涙しているように見えた。もし、自分が彼女にこのような顔をさせているのなら、今まで見ていたもの全てがまやかしとなって消えてしまう気がした。
「……なまえ、あの時の僕は一緒に居たくなかったんですよ。あなたとホップくんが楽しそうに話しているのを見て、」
こんな浅はかな感情や行動が許される理由にならないことを知っていた。その上で本心を自ら暴くことを選んだのは、目の前の彼女がなまえでいて欲しいと願ったからだ。このまま別人の誰かになって欲しくない。この幼稚な本心を暴かなければ、なまえは戻って来ないと確信すらしていた。
「僕だけが馬鹿だったんです、愚かにもね」
恐れや恥、愚かさはこの身から抜け切っていた。今、この時だけは素直で居られることが出来た。理由は分からないが、涙を流す彼女の濡れた瞳を見ていると、不思議とそうあることで贖罪が許されている気がしたのだ。広場と違って薄暗い路地裏、細い小路で彼女の涙が影に落ちて消えていく。未だに別人の仮面が取れない彼女を前に、この鼻を突くのは潮風に似た彼女の涙の匂い。
「……私ね、誰にも言っていないことがあるの」
涙混じりの弱々しい声が路地裏に吸い込まれるように消える。
「昔から人前で笑うのが苦手なの、」
意外な告白に耳を疑う。明かされたのは、自分の認知と全く違う彼女の姿。なまえは笑顔が特徴的な女の子だった。しかし、それがまやかしであると告げられ ────。
「でもね、一人だけ。その子の前では笑うのが苦じゃなかったの」
なまえが不意に目元の涙を強く拭った。そして、いつもの顔で自分を見つめていた。その瞬間に思い出すことがある、彼女もまた自分と同じ施設出身であることを。すると、疑っていた彼女の、人前で笑うことが苦手という告白に信憑性が増していく。
「その子、自分に正直な男の子でね。私、いいなあって思ったの」
周りと同じ空気感で居なければならない。同じ感情でなくてはいけない。決して我を強く出してはいけない。皆と仲良く過ごしていかなければならない。関わる大人の手を煩わせてはいけない。淡々と語る当時の在り方に、ひどく窮屈さを覚えた。自分以外の人間が抱えていたものはあまりにも暗く、窮屈なものだと初めて知ったからだ。
「だからかな、よくその子について回ってた。すると、不思議なことにね、笑うのが苦痛じゃなくなった」
その子の前でだけ、なんだけどね。
勿論、その言い分が施設にいる人間全てに当てはまる訳ではない。彼女にしか当てはまらなかった、数少ない声だ。しかし、それでも腑に落ちることがいくつかある。彼女に対して抱いていた、無条件にも近い信頼の厚さ。似ていたからなのだろう、目には見えないそれを感覚で知っていたから、彼女に自分の一部分を重ねていたのだと気付く。
がらり、と路地裏の空気が変わり、涙を拭ったものの睫毛が濡れたままのなまえが再び口を開く。よく知る、あの頃と寸分も変わらないなまえのままで。息を呑む、間違っていたのは自分自身だった。ホップと仲良さげに話していた時のなまえは本当のなまえではなかった。柔和に微笑むということを実行しただけの、人形だったのだ。他意はない。なまえはホップを軽んじたのではなく、相手と打ち解ける為に人の良い仮面を一枚取り付けただけだった。
「ポプラさんから色々なことを教えてもらったから、今じゃあ見分けがつかないのかもしれないけど、」
「わたしがほんとうにわらいかけるのは、その男の子だけなのに」
「今の私はどっちだと思う?」
ねえ、ビートくん、と呼び掛ける目の前の彼女は、──── 紛れもなくなまえだった。
「なまえはなまえですよ。面倒なほど僕に付きまとっていた頃と何も変わらない、厄介な女の子のね」
彼女の形を模した人形の、姿見が欠けていく。深く入った亀裂の隙間から見慣れた顔が覗き、この答えに何かを噛み締めている。そして、次の瞬間には拭ったはずの涙が頬を伝っていた。
「……ちゃんと分かってるのにね、ビートくんは」
「もう少ししたら帰りますよ」
「うん、」
「それまでは僕も付き合いますから」
幼いあの頃のように両手で目を覆って泣くなまえに懐のハンカチを貸してやると、頑なに首を横に振るものだから、それじゃあ僕の気が済まないと瞬きの間に零れる涙を何度も拭いてやった。顔の輪郭に手を添え、指先に力を加え過ぎないよう、そっと触れていく。
「……ありがとう」
「いいえ、元はと言えば僕のミスですから」
「戻って来ないって思ってたから、」
「どうかしてたんですよ、彼なんかに対抗心を燃やすなんて」
「ホップくんもいい男の子だね、」
「ま、僕の次に、でしょうがね」
意外に思ったのか、なまえが目を丸くする様子に、つい吹き出してしまった。遅れて聞こえた囀りは街の薄ら影の小路に響いている。
05.Matinee