「アラ、あなた……、」
数秒前の自分では考えられなかった光景が目の前にあった。呼び出されたのは彼が東京での拠点とするホテルの一室、『701号室』。なまえは体に走る悪寒に嫌な想像ばかりが膨らんでいく。彼の姿がなく、代わりに見知らぬ人物がいる。しかも、それがただの物騒な相手ならまだしも、制服に身を包んだ婦警では、嫌な予感に歯止めが効かないのも無理はない。
「この部屋に来たッてことは、アナタ関係者かしら。ここのオトコと」
扉を開けてしまったことを後悔したいが、そんな余裕もない。何故、彼は居ない?この婦警に、いや、……警察に?だが、彼は簡単に捕まるような男ではないはずだ。では、何故。頭の中だけで何度も何度も自問自答が繰り返される。例え、どんなに自問自答を繰り返そうとも答えはない。彼女なら、それを知っているだろうか。
「……いえ、私は、」
「ここを借りているのはアナタじゃないわ。だとしたら、どんな理由でここへ?……アナタは関係者ね、Mr.ドイルの」
確信、そして核心。感情の揺らぎ、微々たる反応、思考は既に停止目前だ。開け放たれたドアをそっと閉め、深く息を吸う。何をすべきか、何をしなければいけないのか。相手は一人、こちらも一人。まだこちらに警戒している様子ではない、なら行動次第で上手く事が運ぶかもしれない。緊張は張り裂けそうなくらいに心臓を圧迫する。微かに震える指先を誤魔化すように強く握り締めると、なまえは婦警の元へと近付いて行った。
「……何か言いたそうね。話、聞いてあげましょうか」
「私、こういうの初めてで、よく分からないんです。どうしたらいいのか、婦警さんの言う通りにすればいいのかッて」
「そう……、まずここでは身分を証明するものを出すのが一般的よ」
分かりました。と返事をし、肩にかけていたポーチに手を忍ばせる。ジッパーを指先に引っ掛け、中身を漁っていく。あまり大きいものではないから、そう時間はかからない。ただ財布を取り出し、そこから更に身分証明になるものを彼女に渡せばいい。しかし、それが許されるのはヘクター・ドイルという死刑囚を知らない人間だけだ。
「あッ……、やだ、ちょっとッ」
「どうしたの、突然そんな声を出して」
「あの、ごめんなさい。バッグの中でイヤホンのコードが絡まってしまって、」
そうなの?どれ、とこちらへと無防備に距離を詰めてくる彼女に悪いと思いつつも、なまえは既にそれに手をかけていた。至近距離、しっかりと握り締める指先は確実にスイッチに触れている。勢い良くバッグから引き抜き、不用意に近付いてきた彼女目掛けてそれを突き出す。その先端の突起間を威嚇するように閃光が走り、焦げ臭さのようなものが鼻をつく。避けられない。自分は戦闘のプロではないが、突然の出来事で彼女はこれを避けられないと確信していた。青白い光を帯びたスタンガンは、もう間もなく婦警の体に牙を立てる。
「……いい動きだ。タイミングも悪くない、気の逸らし方も不自然じゃない。だが、」
相手が私と言うことだけが欠点だ。と聞きなれた声が響いた後、手にしていた筈のスタンガンは宙を舞い、スタンガンを握っていた手は知らぬ間に受けた強い衝撃に痺れていた。一瞬の隙を突いたつもりが、たった一瞬で牙を抜かれてしまった。今度は婦警が呆気にとられている自分の腕を掴むと、懐へ引き寄せ、そのまま床に押し倒す。背中に鈍い痛みが走ると共に視界は彼女の不敵な笑みを切り取っていた。
「……ド、ドイルさん、」
自分を押し倒した弾みで被っていた帽子は床に落ち、彼女は涼しい顔で自身の髪を掴むと帽子の隣にそれを投げ捨てた。婦警の正体は全くの別人だった。指先に赤のマニキュアを施しておきながら、張りのある唇に赤いリップを施しておきながら、その正体がつい先程まで安否を気遣っていた男だったとは。なまえはまだ状況が飲み込めず、咄嗟に手を伸ばしたが、駄目だ。いつものヤツを仕込んである。と言われ、なまえの腕はドイルに触れぬまま、ゆっくりと離れていった。
「これでも結構、努力したんだ。慣れぬスカートを履き、慣れぬ化粧までして」
「で、でも、どうしてこんなことを、」
「会いたい相手が居る。そいつは自分だけが特別だと思っているようでな。だから、教えてやるのさ」
その異名が決して自分だけのものではない。と。ドイルの浮かべた笑みにゾクリと肌が粟立つのと同時に胸の奥にある心臓の高鳴りを感じていた。手の痺れを忘れてまで没頭しそうになったのは、ヘクター・ドイルという男の凶悪なまでの物騒さだ。なまえはこの男自身が武器そのものであると知っていた。体の節々から覗く鋭い切っ先を、腕に仕込んだスプリングの強力なパンチ力を、身の回りにあるもの全てを武器とさせる応用力も、事前の備えも。全ての要素が複雑に絡み合う厄介な武器、それがヘクター・ドイルだと。
「だが、驚いたよ。まさか大人しいキミが襲い掛かってくるとは」
「……居ても立ってもいられなくて、」
「私が警察に拘束されてしまった、と?」
「無関係を装えなかったんです。ドイルさんのことで」
「そうか。それはまた厄介な」
厄介だと口にしておきながら、満更でもない顔を垣間見た。キミに危険が及ぶと考えるべきだ。と嗜めているくせに、本当は心のどこかで満たされているような。未だに自分の上から退かない男の見下ろす視線にそう言った感情の一部を読み取ると、心の底から惚れた弱みというものを思い知らされた。きっと彼は胡座をかいているはずだ、この弱みの上に。しかし、それが心地良い。変化の伴わない関係であると認められているようで。
「ドイルさん、それ今回だけですよね?」
「さあ、どうだろう」
グイッと覆い被さるように距離を詰めたドイルの手のひらはなまえの顔の数センチ隣の床に置かれる。不意に彼が作り出した影の中で、なまえは呼吸の仕方を思い出していた。
「なまえはコッチの方がいいかい」
大胆に臀部を締め付けるのはスカートから覗く細くて長い足だ。鮮明に赤い唇が愉しそうに歪む。持て余した片手は赤いマニキュアをキラキラと光らせながら、なまえの輪郭をなぞっていく。
「フフ、本当は嬉しいんだ。あのスタンガンがなまえ、キミのバッグから出てきたことが」
「だって、あれは」
「俺がキミにやったものだ。だから、キミが俺に襲い掛かってきた時、嬉しくてたまらなかった」
「……変ですよ、それ」
「俺はここへ敗北を知る為にやってきたことは、知っているだろう」
「ええ、」
「そしてあの瞬間、一瞬だったが、俺には敗ける可能性があった。よりにもよってキミに与えられそうになったのが嬉しくてたまらない」
嬉しい誤算、とでも言うべきか。陰りの中にあるドイルの顔はさも愉快と言うように、にんまりと笑みを浮かべていく。唇の赤が裂け、その下から覗く白い歯に心臓は鷲掴みにされる。今、自分の生死は彼の手の内にあり、いつでも蹂躙することが出来る圧倒的支配の下に晒されている。臀部を圧迫する太腿の感触が生々しい。まるで迫られているような、勘違いを起こしてしまいそうな程、二人は密着していた。
「……なまえ、明日は留守にする。いい子で待てるかい」
小さく、しかし、確かに頷けば、ドイルは満足そうに目を細めながら微笑む。先程より互いの鼻先の距離が近い気がする。陰りが濃く、深くなっていく。近距離の重圧に耐え切れず、逃れるように目を閉じれば、すぐにそれは奪われた。触れるだけのそれを彼の気が済むまで。およそ五秒程度、息を止め、唇を重ねていた。苦味の残るキスに唇を拭えずにいると、ドイルも同じように、……苦いな。とこぼす。そして、それが気に食わなかったのか、思い切り手の甲に唇の赤を預け、今度は口紅の掠れた唇で口付けを落とした。
「いつまでもこんな格好をしていてはホテルマンに誤解されてしまう」
自分の上から退いた男は今まで身につけていた服を脱ぎ捨て、自分は押し倒された弾みで乱れた服装を直している。床に落ちた物騒なそれを拾ったのは男で、何度かスイッチを押し込んでは反応のないスタンガンにため息をつく。
「なまえを避けて、スタンガンを狙ってみたが、どうやら壊れてしまったようだ」
「……ドイルさんッて、本当に危ない人なんですね」
「私は危ない人間さ」
「下手したら、私の手首折れてたかもしれませんよ……」
「そしたら甲斐甲斐しく看病くらいはしてやるさ」
婦警がナースに置き換わってしまう想像を振り切り、なまえは目の前にある体を抱き締めた。何事もなかったことに安堵する姿を見て、ドイルも思うところがあったのだろう。食事にでも行かないか。と自身にくっつくなまえの頭に手を添え、彼女が素直に頷くのをただ待っていた。
| 701号室で会いましょう |