「あのッ、た、助けてくださいッ」

 目の前の男は、自分が?と言うように首を傾げた。無茶なお願いをしているのは百も承知だ、無関係な人を巻き込むのは本意ではない。しかし、そんな綺麗事を言っていては自分の身が危ない。申し訳ない気持ちと焦りからか、なまえは路地裏を行く白人の男に声を掛けていた。

「ごめんなさい……!こんなこと突然言われて困るかもしれないけど、わたし今追われてて……!」
「……追われている?お嬢さん、何をやらかしたんだい」
「ち、違いますッ!わたしは何も……!」

 無表情に近い顔で男はなまえを凝視していた。ロングコートを翻しながら、金の短髪を時折吹く風にそよがせながら。すると、二人きりの路地裏に慌ただしい足音がいくつも響き始める。なまえの体はその足音に強ばり、顔は恐怖に引き攣る。男はなまえの異変を察知すると、振り返り、足音の正体を目にした。

「よォ、お姉ちゃん。駄目じゃねぇか、こんな人気のない所に逃げ込んじゃあ」
「しかも、関係ない人まで巻き込んじゃあいけねぇよなぁ」
「つーことで、アンタさ。怪我したくなかったら、後ろにいるお姉ちゃんこっちにちょうだいよ」

 男は目を丸くし、おい、ちょっと待ってくれ。と続けるつもりだった。しかし、次を言う前に、なまえを追い掛けてきた男の内の一人が懐からナイフを取り出した。嫌な緊張感が路地裏に走り、なまえは突然現れた刃物に悲鳴を抑えられない。男達はひどく余裕そうだ、数もある、刃物もある。ここは大人しく女を差し出すしかないだろうと思い込んでいる。その思い込みがロングコートの男にとって面白くなく、その思い込みがこの後の展開を面白くしてくれるだろうとロングコートの男に強く働きかけた。

「……あの、わたし、」
「いや、それは出来ない相談だ」
「ああ?何言ってんだ、アンタ」
「キミ達よりも俺の方がいいと、彼女から声をかけられた。なァ、この意味が分かるかい?」

 軽い口調と安い挑発。この手の人間には面白いほど通用する小細工の一つだ。その発言を耳にした男達は、自分の怒りをコントロール出来ず、そのまま発散してしまおうと男に歩み寄る。ロングコートの男は、不敵な笑みを浮かべると自分が着ていたコートを脱ぎ、決してこのコートを取るんじゃない。いいね、キミはここでおとなしくしていなさい。となまえの頭に被せ、殺気を放つ男達と向き合う。

「さっさと終わらせよう。彼女との素敵な夜が待っているんだ」

 火に注ぐ油はいくらでも用意出来る。火が大きく、強く燃え盛るほど、この男達は容赦をしなくなるだろう。それが男の狙いだった。容赦のない相手には情けも加減も必要ない。やられる前に、いや、やられずともやる。最悪息絶えてしまっても構わない。もう二度とその気を起こさないように痛めつけ、弄び、ぶっ壊れるまで付き合ってもらおう。他者の顔から余裕が剥がれ落ち、呆気にとられている様は何度見ても気持ちがいい。襲いかかってくる男達をいなしながら身構えた男、シコルスキーはニヤけていた。


 この男の企みを見抜ける人間など彼等の内に居るはずもなく、刃物をチラつかせた男三人は見るも無惨な姿で路地裏に捨てられていた。切り刻まれた皮膚、辺りに飛び散ったおびただしい量の血液、地面に散らばる誰のとも分からない歯は数え切れないほど。凄惨な現場だった、とある二人を除き、他の人間は誰一人として逃げ出すことも、許しを乞うことも許されない、そんな現場だった。

「……フン、刃物を持ったところで所詮はその程度。数や武器だけで押し切ろうとするのは正に愚の骨頂だ。勝利と言うのは俺にとっては容易くともキミ達には容易いことではない」

 シコルスキーは返り血を気にすることなく、未だコートを被せられたままのなまえに近付いていく。コートを被った彼女はいつの間にか地べたに尻もちをつき、路地裏の片隅に縮こまっていた。やあ、お嬢さん。待たせたね。と小さくなった彼女に触れると、その弾みで彼女は地面に倒れ込み、動かないでいる。力なく、呆気なく倒れた様子にコートを剥ぎ取れば、なまえは意識を失っているようだった。ここで初めてシコルスキーは意表を突かれた。

「……気絶、か」

 吐き捨てるように呟く。辺りは無人だ、このまま置き去りにしてしまっても構わないだろうと、手にしたコートに腕を通し、地べたに横たわる彼女を見た。数分間の沈黙の後に、あまりにも短い退屈しのぎの礼だ。と二言目を吐き捨て、シコルスキーは意識のないなまえを担ぎ上げると、自分が拠点とする廃墟へと連れ帰ることにした。その後のことはその時に考えればいい、幸い彼女には自分を脅かすような力は何一つ備わっていないのだから。


***


 頬に伝わる硬くて冷たい感触と、共に横たわる見慣れない風景にゆっくりと体を起こす。辺りは廃墟と思われるどこかの屋内。亀裂の走る壁と床、ガラスが割れ、窓枠だけが残された空間でなまえは一人記憶を辿る。確か自分は三人の男に追われていた筈だ。そして偶然、逃げ込んだ先の路地裏に居た男に助けを求めた。それから、と先を思い出そうとした所で、膝に掛けられているコートの存在に気付く。これはあの男が着ていたものだ、これがあるということは。

「……やっとお目覚めかい、お嬢さん」

 後ろから聞こえてきた声になまえは振り返る。すると、まず大きく肌色が視界に飛び込んで来た。状況を理解するのにいくらか時間が必要だった。

「男の裸に興味がおありのようだ。だが、生憎お嬢さんに見せるような体じゃないんでね」
「……し、失礼しました」

 男の言葉で我に返る。急いで視線を自分の膝元に戻し、急いで顔の熱を逃がす。羞恥心は沸騰するように熱い。察するに男は体を拭いていたのだろう。足元のバケツと手にしていたタオル、そして辺りに脱ぎ落とされた服に彼の日常を垣間見た。後ろでごそごそと服の擦れる音が聞こえ、彼が今服を着ているのが分かった。そしてその合間に小さく聞こえてくる鼻歌に、機嫌の良さも感じ取れた。

「あの……ッ、先程はありがとうございました……」
「ああ、キミを追いかけて来た三人のことか」
「……私、途中から気を失ってて、よく覚えていないんですが、本当にありがとうございます」
「ここまでキミを運んでくるのは面倒だったがね、」
「すみません、」

 淡々とした口調ではあるが、膝に残されたコートを見るに、これはついさっきまで横たわる自分の体に掛けられていたものなのではないかと思った。そして、確信したことがある。自分を助けてくれた彼は、多分良い人ではない。善良で正義感と腕っぷしが強い人間なら、このような廃墟で生活している素振りなど見せるはずがない。もしかしたら、あの男達よりも凶悪で恐ろしい相手なのかもしれない。

「ところで、お嬢さんは何をしたんだい。よっぽどのことがなけりゃあ、男三人に追われるなんてことないだろうに」
「……街で声をかけられて、強引に連れて行かれそうになって抵抗したんです」
「そりゃあ怖い」
「それで夢中になって逃げた先であなたと、」
「へぇ……、ハハ、なるほどねェ」

 靴の鳴る音が背後から近付いてくる。さっきのこともあり、すぐに振り向くべきかどうか悩んでいると、足音が自分の真後ろで止まった。ぎゅっと何かが擦れる音を聞いた瞬間、彼の声が耳元で聞こえてきた。近い、とても近い距離にいるのだろう。

「さて、これからどうしようか。俺はキミをここに連れ込んだ訳だが」
「……これから?」
「ここは俺が寝床としてる廃墟でね、誰も俺がここに潜んでいることを知らない」

 誰も知らないと言い切られたことで煽られた不安がある。廃墟を寝床にしているという言葉に、やはりこの男はただの善良で正義感の強い人間ではないと確信した。

「もし俺がどこかの凶悪犯なら、今の状況は好都合だ。手頃な女と誰も近寄らない廃墟、この二つがあれば思い付くことは全て実行可能だ」
「……そんな、」
「俺があの男達と違う、そんな根拠はキミにはないはずだ」

 男の言っている言葉が次第に恐怖の色を帯び始める。自分の置かれている状況を何度見直しても、男の言い分に説得力がある。嫌なものが背中を走り、咄嗟に膝に置き去りのコートを掴んでいた。膝に置き去りのコートを。
 すると、突然耳元に笑い声が響いた。大きな口を開けて、心底おかしいと言うような大きな笑い声が廃墟に響く。心臓と共に体がビクリと跳ね、後ろを振り返れば、ポーカーフェイスを崩しながら笑う男の姿があった。無邪気に笑う姿が初めて会った時の印象を覆していく。

「からかい甲斐のあるお嬢さんだ。気持ちがいいくらいに怖がってくれる」
「……え?……あのッ、」
「今の俺に必要なのは敗北だ。女やそう言ったものから得られる一時的な幸福ではない」
「お兄さんは、敗けてみたいんですか……?」
「そうだ。その為に俺はここ、東京へとやって来た。俺が手にすることの出来る敗北を求めて」
「……あの、変なこと言うようで申し訳ないんですが、」

 敗け、……られたらいいですね。この言葉は自分を助けてくれた相手に言うような言葉ではない。そうと分かっていながら、何故だかこの男の敗北を願っていた。男はきっと満たされてはいない。敗北を知ることが、得ることが彼の願いなら、その願いを祈らずにはいられない。随分と妙な言葉を投げかけてしまったが、男は満更でもない顔で、いい子だ。と呟き、こちらに腕を伸ばしてきた。そして、その大きな手で優しく頭を撫でる。助けられ、脅かされ、今は優しく接してくれている。

「それでいい。キミはそうして俺が敗北する日を祈ってくれればいい」
「でも、お兄さんは、本当に、……敗けるんでしょうか」
「さあ?だが、当てはある。その当てがダメになってしまったなら、敗北も叶わぬ夢のひとつになるだけだ」
「……そうですか、」

 男が求めているものの奇妙さに呆気にとられつつも、撫で付ける手の温かさとこちらを捉えて離さない瞳の強い輝きに納得させられる。彼は真に敗北を願っていると。恐らく彼は自分とは住む世界の違う人間なのだ。しかし、住む世界が違えど、こうして触れた手や指の感触、その温かさに何一つ違えるものなどない。

「さ、お嬢さん。キミはもうそろそろ……、」

 その手があまりにも身近なところにあって、自分にすら届きそうな場所にあったから。男の腕を引き寄せ、その手にしっかりと触れれば、男は言葉の続きを言えないまま、黙ってこちらを見ていた。

「……本当に、本当に怖かった」

 突然の連続の間でようやく訪れた安堵に、感情が綻び出す。この手のおかげで自分は今ここに居る。あなたがいなかったら、と続けたところで今度は自分がその先を告げぬまま、口を噤んでいた。抱き寄せられた、男の広い胸元に。男は何も言わず、見た目に反して優しく抱き締めるだけだった。

「さぞ怖かっただろう」

 胸につけた耳には男の心音が聞こえてきた。温かくて、気分が落ち着くその音になまえは男の腕の中にいることを選んだ。おかしな話だろうか、その日初めて会った男の胸に抱かれ、穏やかさに包まれているなど。助けを求めた先がこの人で良かったと思う自分が居るなど。あともう少しを口にするより先に、好きにすればいい。と男の吐いた言葉に人知れず甘えていた。なまえはまだこの廃墟を後には出来ない。



| 騒夜序曲 |


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