——探偵社員達の願い聞く…又は、手伝いをする事——

探偵社社長・福沢諭吉より自身の犯した失態の罰として そう命じられたふみは次の日、探偵社に出社した際に江戸川乱歩よりカードを手渡された。

 何処かで見た事がある様なカードには探偵社社員達の名前とその下に四角い空欄が複数あった。
“できたね!カード”と書かれたラジオ体操の様なカードにふみは眉間に皺を寄せると説明を求める様にちらりと乱歩に視線を向けた。
 乱歩は片手に持っていたラムネを一口飲むとふみに「みんなのお願いかお手伝いをしたら判子押してもらえるから」と簡単に説明するとふみの首にカードを掛け、“じゃ、早速お菓子買って来て!後、ラムネも”と言うと自身のデスクへと戻って行った。
少しの間、ふみは茫然としていると鏡花がぽふんとふみの腰に抱きつき、敦は ふみの手を握ると「おつかい行こう」「荷物持ち手伝いますよ」と二人は ふみに擦り寄るとそう云い、ふみは二人に留守番している様に伝えたが「「嫌だ」」と拒否られたのであった。

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次の日、昨日乱歩の駄菓子のおつかいをクリアしたふみは谷崎の元へと訪れた。

 谷崎は、ふみに対して「んー…ボクは特に何もないンだよね…だから…」と言いながら頬を掻くとふみの背後をちらりと見た。
 ふみは谷崎の視線に首を傾げながら自身の背後を振り返ると其処にはナース服・メイド服・その他諸々のコスプレ衣装を手に持ちながらニコニコと笑みを浮かべる谷崎の妹・ナオミが立っていた。

「ナオミの云う事を聞いてあげて欲しいな」
「嫌…あれは、ちょっと…」
「うふふっ‼︎逃がしませんわ‼︎兄様と私のお願いは一週間、私の用意した服を探偵社内で着ていただく事ですわ‼︎」

 そう云うとナオミは兄・谷崎と共に嫌そうな顔をするふみを無理矢理更衣室に押し込むと無理矢理服を脱がし、ふみにゴスロリを着せた。
 その後、撮影会が始まってしまい、その騒動を聞きつけた敦がふみのゴスロリ姿を見て膝から崩れ落ち口元を押さえながら顔を真っ赤にして悶えているのをふみは冷ややかな目で見つめていた。

「ふみさんのゴスロリ…っ凄く良い…」

ふみは更に冷ややかな目をした。

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罰を実行し始めてから三日目、朝はナオミの用意したナースのコスプレ衣装を纏いながら与謝野晶子より命じられたカルテの整理や医務室の掃除をしていた。
 時折、敦がひょこっと現れては、ふみのナース服姿を見て「凄く…エロいですね」と言いながらふみに迫り、敦を回収しに来た鏡花と龍之介に拘束され連れ戻されると云うのが何回かあったが何とか命じられた仕事を終わらせると次は賢治の元へと向かった。
 首に“できたね!カード”をぶら下げたふみを見て賢治はニッコリと笑うとふみの手を握り「では、行きましょう‼︎僕のお願いは“商店街の皆さんの元に行くのでついて来てください”です‼︎」と云うとふみを探偵社から連れ出した。
 賢治に連れられ出て行くふみを見た敦は二人の後をついて行こうとしたのだが国木田に阻止されてしまい、数時間後、帰って来たふみと賢治は野菜や漬物を沢山手に持ち、満足気な表情で帰って来たのであった。

「商店街のお姉様が漬けた糠漬けが美味しかった」

 その時のふみは満足気な顔をしていた。

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 四日目、本日のナオミコーディネートであるミニスカポリスのコスをしたふみは国木田から“俺の理想の生活と時間の使い方を実行してもらうぞ‼︎”と訳の分からない命を実行していた。

 書類の片付け・書類作成の時間…全てがキッチリカッチリ一秒刻みで考えられたスケジュールをふみは感情の無い人形の様にこなして行った。 途中で鏡花がひょっこりとふみの真横に現れてはお茶やお菓子を机に置いて行く姿に周りは微笑ましく見守り、またある時は敦が気配無くふみの背後に現れては、ふみの肩をするりと撫で「そんなに根気を詰め過ぎたら体に毒ですよ。休憩しましょう?…二人っきりで」と云う敦にふみの片割れである龍之介から教育的指導が入ったがふみは気にすること無く仕事を続けた。

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 五日目、お昼。探偵社が入居するビルの一階にある喫茶・うずまきにふみの姿はあった。

 ナオミの本日のコーディネートであるメイド服を纏いながらうずまきの調理場を借りて調理をする姿は、とても似合っており、そんなふみをじぃーっとカウンター越しに座り見つめる織田・龍之介・鏡花・敦と云う四人の姿があった。

 何故、この四人とふみが喫茶・うずまきに居るのかと云うとそれは、ふみの罰の件であった。
 それぞれ順番にお願いかお手伝いをこなして来たふみが次に向かったのは織田の元であった。織田は、ふみに視線を向けると「美味いカレーを作ってくれ」と云った。 ふみは不思議そうに首を傾げながらも頷き、材料を用意するとうずまきのキッチンを借りて作り始めたのである。
 ふみが動く度に揺れるふわふわのフリルのついたエプロンに敦は瞬きすらせずに自身の網膜に焼付けるかの様に見つめているとふみが視線に気がつき、少し困った様な顔をしながら「じろじろ見るな、恥ずかしいだろう」と云うと敦は、ふみの可愛さに心を撃ち抜かれたのか椅子から崩れ落ち、其れをふみの兄は冷ややかな目で見つめていた。

「始めてだから上手く出来ているかは分からぬ」

 そう言いながらコトっと四人の前に並べられた、ふみお手製カレーに四人は、おぉっ!と歓声を上げた。
 鼻を擽る香辛料と白米の匂いに敦の腹がぐぅぅっと音を立てるのが分かった。敦は、ふみに「食べても良いですか?」と尋ねるとふみは静かに頷いた。
 それに対して皆、手を合わせるとカレーをスプーンで掬い上げ口に入れた。

「ゔぐっ⁉︎」
「ひぎゃっ⁉︎⁉︎」
「⁉︎」

 突然、声を上げて身体を強張らせスプーンをカランと落とした龍之介と敦に鏡花は驚いた様に目を見開いた。固まる龍之介と敦の隣でもぐもぐとカレーを食す織田と云う光景に鏡花は訳が分からず、ふみに視線を向けるとふみも不思議そうに首を傾げていた。

「ふ、み…貴様、これに何を…入れた…っ」

 ダラダラと額に汗を滲ませながら普段から青白い顔を更に青白くさせた龍之介は、片割れに恐る恐る尋ねるとふみは「デスソース」と答えた。
  “デスソース”それは、タバスコよりも何倍…中には数十倍辛いと言われているアメリカ産のホットソースである。 しかも、ふみが取り出して来たのはデスソースでも辛さが最高レベルである青いラベルのサドンデスソースであった。

「織田先輩は辛いのが好きだと賢治くんよりお聞きした。ならば、カレーも通常の辛さよりより辛い物が良いだろうと考え隠し味に入れた」

“因みに鏡花のには入れておらぬから安心して食うが良い"と云うと鏡花はコクリと頷いた。
そんな鏡花の隣では目を見開き涙を滲ませながら「食べなきゃ…ふみさんの初手料理…食べなきゃ」と呟く敦がいた。ふみはブツブツと呟く敦をチラリと見た後、織田へと視線を向け「満足して頂けただろうか?」と問い掛けると織田はコクリと頷き「美味い」と答え、ふみの頭をカウンター越しに撫でた。
 小さな子どもを撫でる様にふみの頭を撫でて「よく出来たな」と微笑む織田にふみは照れ臭そうに頬を染め、その光景に敦はムッとした表情を見せ、龍之介に至っては織田の手を叩き落としたのであった。

 其の後、織田からできたねカードに判子を貰ったふみは四人を先に探偵社へと帰社させると貸して頂いた調理器具を片付けた。
 それが終えるとうずまきを出て探偵社に帰社しようと階段を上がり、 探偵社の下の階にある階段の踊り場に差し掛かった時、壁に寄り掛かり踊り場の窓の外から街を見つめる敦の姿が其処にあった。
 ふみの姿に気がついたのか敦は、ふみに視線を向けると微笑んだのだが、その笑みにふみは己の背筋に悪寒が走り嫌な予感を察知した。そして、直ぐ様階段を駆け降りようとしたのだが、ふみが行動するより速く敦が動いた為にふみは、あっという間に敦に捕まり壁に押し付けられてしまった。

「何だ…」
「ふみさんがとーっても美味しいカレーを作ってくれたの良いんですけど…口の中が辛くて」

 敦は吐息が触れ合う距離迄顔を近づけた。
 顔に掛かる敦の吐息にふみは己の背筋がゾクゾクと微かに甘く痺れる様な気がした。
 そんなふみを知ってか知らずか…敦は更に顔を近付けようとするのをふみは「だから如何した」と高鳴り出した心臓を誤魔化す様にそっぽを向くと敦は両手でふみの頬に優しく触れながら自身の方に向く様にクイッとふみの顔を動かした。
 敦のアメトリンの様な瞳とふみの黒真珠の様な瞳が重なり合う。美しい色なのに獲物を前にした肉食獣の様にふみを逃がさんとする敦の瞳にふみの頬はじわじわと熱を持ち始め、更に心臓はドクドクと動きを早めた。

「み、ずでも飲んでろ」

 掠れながらふみがそう云うと敦は「この辛さは水では治りませんね」と妖艶な笑みを浮かべながら口を開いた。

「“あまくておいしいもの”じゃないとこの辛さは治りません」

——だから、あまくておいしいふみさんをいただきますね——

敦は、そう云うと紅く色付いたふみの唇へと噛み付いた。



「もう、辛い物は作らぬ」

数分後、顔を真っ赤にしたふみと頬を腫らした敦の姿が探偵社にあった。

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  六日目・ カードの空欄がほぼ埋まり、残すところ後、あと三つとなっていた。

 その三つの空欄の上には芥川龍之介・泉鏡花・中島敦と名前が記入されており、ふみは何時もの無表情では無く少し困った様な顔をしていた。
 
 新人社員である為に今回のふみの罰であるお手伝い又はお願いを聞くと言う行為に当初、この三人は含まれないであろうと考えていたふみであったが、その期待は外れ きっちりと記載されていた事にふみは少し落ち込んだ後、三人に対して絶対に簡単なお願いでは無いと判断して後回しにしていた。

「後回しにせず、早めに終わらせ方が良かったか…」

 そう後悔しても遅く、ふみは覚悟を決めると自室の窓際で本を読む龍之介の元へととてとてと歩いた。
 敦と鏡花は朝から国木田と賢治の仕事の手伝いの為、部屋には居らず、ふみと龍之介の二人きりの空間だった。 自身に近づいて来たふみに龍之介は気がつき、顔を上げた。ふみは龍之介に無言で判子でほぼ埋まったカードを見せると龍之介は読んでいた本をパタリと閉じて脇へと置き、その動作を静かに見ていたふみは龍之介の真横にちょこんと座ると龍之介に少しだけ頭を下げた。ふみが頭を下げたと同時に龍之介は片手を伸ばし、ふみの頭を優しく撫で始めた。

「…こんな事で良いのか?」
「黙って好きにさせろ」

——これで勘弁してやる。

 双子故に龍之介の言いたい事が分かったのか、ふみは小さく頷くと大人しく撫でられていた。
 数分後、優しい撫で方と窓から差し込む陽の光に眠気を刺激されたふみはウトウトとし始め、気づいた時には龍之介の膝を枕にして眠っていたのであった。
その後、帰宅した鏡花と敦は、ふみに膝枕をしながら座ったまま眠る龍之介と云う仲睦まじい双子の光景に顔を見合わせて微笑むと二人を邪魔するかの様に起こすのであった。

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 次にふみが訪れたのは鏡花の元へだった。

鏡花は、ふみの姿をじっと見つめるとぽふんと抱きつき、ふみの豊満で柔らかい胸に顔を埋めながら両手はきっちりとふみの脇腹から背中に回っていた。
 その姿は、まるで母に甘える幼子の様に見え、ふみは鏡花の頭をそっと撫でた。

 その状態が数分続いたかと思うと鏡花は、ふみからスッと離れるとふみの首に掛かっていたカードにポンと判子を押した。

「…良いのか?」
「満足したから良い」

そう言った鏡花は、とても満足気な表情をしていた。

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 七日目の日曜日

 休日の為、特にする事の無かったふみは一人編み物をしていた鏡花に出掛ける事を告げると一人図書館へ行き、本を借りた後、近所の公園へとやって来た。
 公園に設置されたベンチに座り、不意に鞄の中から“できたね!カード”を取り出し、後一つ残ってしまった空欄を見つめながらふみは今日、何回目か分からない溜息を吐いた。

 残ってしまった空欄の上には中島敦と書かれており、ふみは敦の名前を指でなぞる様に撫でると再び頭を抱えた。
 ここまで他の人のお願いを聞くのにそれ程、悩む事など無かった。何故ならそれは皆が自身の嫌がることや無茶振りなど言わないと分かっていたからだ。 だが、この最後に名が残った敦は、何故かふみに惚れており入社してからと言うものふみにベッタリであった。
 少しふみが油断していると直ぐに顔を寄せ、唇を奪い、息切れを起こすふみに対して恍惚の表情を浮かべては、またしてもふみの荒い息を奪う様に唇を寄せる様な男である。
 その為、他の人達とは違い、ろくな願いを言わないだろうとふみは思っていた。しかし、探偵社員と仮にも認められた以上、今回の社長の命令は遂行せねばならない。でも敦は貞操の危機的な願いを云いそうで聞きたくないと云う気持ちもあった。

 その為、いつまで経っても敦の元に行く事が出来ずにいた。

「こんなに…ひとりの者の為に悩む羽目になるとは…」

 ふみは、そう呟き再び溜息を吐くと髪を揺らす心地良い風に目を閉じた。
 目を閉じれば風が木々を揺らし、少し先で楽しそうに走り回る子供達の声と遠くから聞こえるヨコハマの街中の音がふみの耳に聞こえ、【街が生きている】だなんて柄にもなくロマンチックな事を思ったりしていた。

 街が生きている音を聞きながら爽やかな風と暖かな日差しに少しうとうとし始めた時、ふわりと香った嗅ぎ慣れた匂いがふみの鼻を擽り、途端に下を向いていたふみの顔に影が差し掛かった。
 自身に掛かる影にふみは伏せていた顔を上げ、その影の持ち主を確認する様に視線を向けると驚いた様に目を見開いた。

「何故貴様が居るのだ…」
「芥川と寮に帰ったら部屋にふみさんが居ないから鏡花ちゃんに居場所を聞いたんです。そしたら、ふみさんが図書館に行ったと教えてくれたので異能でふみさんの匂いを辿りながら来ました」

 その言葉に呆れた様に深く溜息を吐いたふみの前には現在、ふみの悩みの種である中島敦が立っていた。
 敦は溜息を吐くふみを気にする事無く、笑みを向けるとふみの風に揺れる長い髪に手を伸ばしスルリと撫でた。その手つきにふみは少し、たじろぐとスッと目を細めながら獲物を目の前にした肉食動物の様にギラギラとした目で自身を見つめる敦から何とも云えない表情を浮かべ、目を逸らした。

 少しの間、二人の間に沈黙が流れたが、先にその雰囲気を壊す様に口を開いたのは敦であった。敦は、ふみの名を呼ぶとふみが手に持っていた“できたね!カード”をスッと素早くふみの白い手から抜き取り、判子が押されたカードに視線を向けた。
 ふみは慌てて立ち上がり、敦からカードを取り返そうとするが敦はキスするかの様に顔を近づけるとふみは素早く後ろに仰け反り再び、ぽすんっと音を立ててベンチへと逆戻りした。

「ふーん、後の空欄は僕だけですか」

 意地悪な笑みを浮かべながらカードで口元を隠す仕草をする敦にふみは“やらねば成らないのは分かっていた。だが、自分のタイミングで行かせて欲しかった”と目に見えない神と云う者を心の中で呪い、敦にどんな無茶な願いを云われるのかと云う不安がふみの頭の中を駆け巡った。
 無言で地面を見つめるふみに敦は「僕が最後ですかー」と態とらしく、そう云うとふみは気まずそうに肩を揺らした。
空欄を埋めるには敦の願いを聞くしかないのだ。
ふみは自身の手をぎゅっと握ると覚悟を決めたかの様に目の前に立つ敦を見上げ、恐る恐る口を開いた。

「な、何をすれば…良い…?」

 出来れば言いたく無かった言葉をふみは恐る恐る口にすると敦は何処か嬉しそうに口を歪ませた。その表情にふみは己の背筋に悪寒が走ったのが分かった。

“あぁ、もう、絶対に危ない事を要求されるっ…え、えろ同人?みたいにっ…”

 少し前にネットで見た言葉を思い浮かべながら、もし、その様な事を要求されたら吊るし上げる。社長も許してくれるはずだ。と自身を納得させると「そうですねぇ…」と言う敦の言葉に身構えたが敦の口から出た言葉は、ふみを驚かせた。


「ふみさんの事を教えてください」

「えっ…?」

 ふみは目の前で優しく微笑む敦に驚いた様に目を見開いた。
 予想もしていなかった敦の言葉にふみは動揺が隠せず、どうすれば良いのか分からず頭の中は真っ白になり、思考回路が急停止した。
 敦は目を見開いたまま固まるふみに「ふふっ…」と笑うと手に持っていたカードをポケットに入れ、ふみの右手を自身の左手で掬い上げた。

「僕は、ふみさん…貴女が好きです」

——でも、僕は貴女の事をよく知らない——

「貴女は…あまり自分の事を話してくれないから…」

——だから僕は貴方を知りたい——

「好きなもの、嫌いなもの…どの様な風に感じて、どの様に思っているのか…」

——だから、貴女の事を教えてください——

 そう言って微笑む敦のアメトリンの様な瞳がふみの黒真珠の様な瞳を見つめた。
 優しく、そしてふみが愛おしくて堪らないと言う様に瞳でふみに語りかける敦にふみは酷く胸が苦しくなった。
 何故、敦がここ迄、自身に執着するのか…何故、自身が好きなのか…ふみは理解出来なかった。自分は生まれて来てはいけない存在だったと思いながら生きてきたふみは自身が愛されるなど一度も考えた事が無かった。だからこそ、敦が自身に無条件で与える“愛”は大きく…少し怖いと感じた。

 怖い、敦が恐ろしく怖い。自身に知らない感情を与える敦が怖い…
 敦に触れられる度…敦に見つめられる度…ふみの身体は時を止めたかの様に動けなくなる。胸が締め付けられるように苦しくなり息も出来ず、それと同時に高鳴る鼓動で自身が壊れてしまうのではないかと感じてしまう。
 敦が微笑み、手を握ってくれるだけで酷く安心して無意識に涙が込み上げて泣きそうになってしまうのだ。
 生きてきて感じた事のない感情にふみは戸惑い、中島敦と言う存在に恐怖を感じた。だが
…怖くて怖くて仕方がないのに何処か“この人に自分を知って欲しい。そしてこの人を知りたい”と云う気持ちがふみの心の奥底にポツリと芽吹き始めていた。
 それは、とても小さな感情だけど、自分の事などどうでも良いと思って生きてきたふみの中では小さいながらも大きな影響を及ぼしていた。その感情と敦の言葉に戸惑い、不安げな表情を浮かべるふみを見て敦は更に握る手に力を込め、優しく微笑みながら口を開いた。

「初めまして、僕の名前は中島敦。好きな食べ物はお茶漬けです。
故あってポートマフィアから武装探偵社に入社しました」

 ふみは突然、自己紹介を始めた敦に驚いた表情を見せたが、敦は優しい笑みを浮かべたまま、言葉を続けた。

「僕が探偵社へ入社を決めた理由は…僕を拾ってくださった方の遺言だったと云うのも一つの理由ですが…一番の理由は…」

——共に生きたい人と出会ったからです——

 ふわりと優しい風が二人の間を通り抜けた。
 白い敦の髪とふみの黒い髪がふわりと風に舞った。

「その人と出会ったのは、つい最近の事でした。
僕は、その人を見た瞬間、酷く泣きたくなったのを覚えています。
 あの時…彼女に触れれば何かが変わる…そう思いました。
 そして…それは本当になった。
 貴女に出会い、貴女と過ごし、貴女と共に生活する事で僕の心は貴女でいっぱいになった…。
 “守れない者に生きている価値などない”その言葉に囚われていた僕は、ひたすらその言葉を守る事と死にたくないと云う一心で我武者羅に生きて来ました。
 人を殺したくなかった…でも、殺さないと殺される…そんな中で守る者になれる訳がないと思っていた時、鏡花ちゃんに出会い、僕より弱い彼女が居れば僕は守る者になれるのでは無いかと…僕は僕に絡みついたあの言葉から逃れたい一心で鏡花ちゃんに執着していた所がありました。

 あの時の僕は…本当に守りたいと云う気持ちを知らなかったんだと思います。唯、価値ある人間に成りたくて偽りの守る心を作り上げていただけだった…
 そんな僕は貴女に出会い…儚い貴女に心を奪われ、貴方を愛おしいと感じ、守りたいと思った」

 敦は、ふみと出会った運命の日を思いだしたのか何処か懐かしむ様に…其れでいて人生で初めて大切な物を見つけたと言わんばかりの柔らかな表情をしていた。
死神として生きてきた敦にとって、ふみとの出会いは敦の中に無かった感情を与え、そして敦を“死神”では無く“唯の恋する普通の少年”へと戻してくれた。
 “好きな人の側に居たい、出来れば自分が幸せにしてあげたい”
 自身には与えられず、知らなかった“愛する”と言う感情がふみを想うだけで不思議と溢れんばかりに胸を満たし、それと同時に苦しさと何処か安心感があった。
 ふみを想う、この時だけは敦は唯の少年になれたのだ。だから、こそ 敦は伝えたかった言葉があった。
 ずっと、自分は奪うばかりで生まれてきては、いけない存在だったと思い込んでいる目の前の灰色の心を持った少女に伝えたかった。

「弱虫で泣き虫で臆病者の僕は…貴女に出会い…」

——貴女と云う存在に救われたんです——

 愛おしそうにふみを見つめながら云った敦の言葉にふみは流さない様にと我慢していた涙が溢れた。 

“自分と云う存在に救われた”

 その言葉がふみに途轍もなく大きく胸に響き、更にドキドキと高鳴りながらもじわじわとまるで春の陽射しが当たるかの様に温かくなる心臓をふみは服の上からギュッと繋がれていない方の手で握った。
 何かを言葉にしようにも言葉が出ず、息をする事すら苦しかったが、嫌な苦しさでは無かった。

 ふみの手を握る敦の手は優しく温かいものであり、ふみを見つめる敦の瞳も同じぐらい優しく温かなものだった。
 ふみは溢れる涙を拭う事無く目の前に立つ敦を見た。其れだけなのに敦は頬を染めながら幸せそうに微笑む。ふみはその笑顔を見て何かに気がついた様に目を見開いた。

 “私は、この人が…”

 其れは敦に対する、ふみの心の奥底に眠っていた本当の気持ちであった。
 だが、まだ気づいたばかりで言葉にするには恥ずかしいものだった。気づいてしまった本当の気持ちにふみは更に胸が苦しくなり、熱くなる頬を隠す様に涙を拭うと静かに再び敦に視線を戻す。

 そして、再び溢れそうになる涙を堪えながら口を開いた。

「お初にお目にか、かる。私の名前は…っ…」

 目の前の少年が自身を知りたいと云ってくれた言葉にその気持ちに応えたいとふみは思った。 自身の名前を口に出すだけなのに震える声と唇…詰まる言葉にふみは自身が情けないと感じた。
 其れでも自身の口から伝えたかった。今の想いを…

「私の名前は…芥川ふみ」

 自身の手と繋がれた温かく優しい、その手をぎゅっと握る。敦の視線に頬は再び熱を持ち始めたが今度は隠す事をせず、涙で潤む瞳で真っ直ぐに敦を見つめながらふみは云った。

「私の事を…たくさん知ってください。そして…私にも…」


——貴方の事を教えてください——


 ふみがそう、敦に告げた瞬間、ふみは繋がれた手を優しく引かれ、敦の腕の中へと飛び込んだ。 優しい温もりがふみの体を包み込み、安心する匂いが鼻を擽り、再び涙が頬を流れた。敦の指がふみの黒く美しい髪を一束掬い、唇を寄せた。
 そして真っ直ぐとふみを見つめ幸せそうな表情を浮かべながら敦は自身の腕の中にいるふみに告げた。

「お教えします。僕の事を全部…」


——これからの貴女の人生の事も含め、全て一つ残らず僕に教えてくださいね——


 その言葉をふみに告げると敦は、ふみの艶やかに濡れた唇に自身の唇を重ねた。
 風が再び二人の髪を揺らし、太陽は暖かく二人を見守っていた。

これは、対なる世界に生きる、黒の少年と灰色の少女の物語である。