学生の本分とは一般的には学業である。

 それは、学生と呼ばれる身分の者に対して等しく皆に与えられた責務である。
 義務教育を終え、進学の道を選んだのであれば、例えスポーツ推薦で入学していたとしても学問は必須。
 学生である間は、どんなに此方から学業との縁を切り離し、青春に身を捧げたいと思っていたとしても切り離せないものが学業…つまり勉強なのである。

 そして、その学生として過ごす中で必ず訪れる定期的な魔の期間がある。

 その期間中は全ての部活動は停止。自主練を行おうものなら、友人・クラスメイト・部員達や先生などなど、周りの人達から「大丈夫なのか?」と声を掛けられ、「どうなっても知らないぞ」と遠回しに怖いことを言われて心配される。
 いつも持っている部活道具を皆、シャープペンシルと消しゴムに持ち替えて挑まねばならない高き壁が定期的に訪れるのだ。

 それが、定期テストと呼ばれるものであった。

 魔の期間。学生にとっての地獄の時期。そう呼ばれていたりもする定期テストの期間がこの青道高校にも訪れたのである。

 そして、そんな定期テストの期間が訪れた青道高校野球部の寮である青心寮の食堂にて、一年生で野球部のマネージャーである小湊ちさとは黒いオーラを放ちながらもにっこりと笑みを浮かべ、自身の前に項垂れたように正座をする同じ一年生の部員二人…沢村栄純と降谷暁を見下ろしていた。

 にっこりと笑う小湊妹と正座する沢村と降谷。
そして、それを焦りながらも静かに見守る小湊ちさとの双子の兄・春市と大きくため息を吐く金丸信二、困った表情の東条秀明達はその冷ややかな空気が流れる場に居た。
 ちなみに同じ一年生である狩場・高津・金田・岡・木村の五人は現在は其々の学校内での用事や不足品の買い出しへと出掛けており不在であったため、この小湊妹から発せられている冷たい空気を感じることはなかった。

 そんな小湊妹達以外にも、この青心寮の食堂には多くの野球部員が仲間内で勉強会をしようと訪れており、ぱっと見渡すかぎり三年生は寮の部屋で勉強会を行っているのか食堂には居らず、この場に居ない御幸と倉持を除いた二年生達が目の前の一年生達の光景になんだなんだ?と興味深々と言いたげに目を向けていた。

 沢山の視線が一年生ズに向けられ、その視線に心なしか沢村と降谷はぷるぷると小刻みに震え始めた。
 恥ずかしい。こんな情けない姿の自分達を見ないでほしい。でも、目の前の小湊妹が怖くて何も言えない。
 そう言いたげに震える二人の姿は小湊妹よりも大きな身体の筈なのに小湊妹の前に正座しながら冷や汗を浮かべ、顔を真っ青にさせる姿は仁王立ちする小湊妹よりも何倍も小さく見えた気がした。

 見ていた二年生達は腹を抱えて笑ってやりたいと思った。
だが、それを周りが口に出せないほど小湊妹はにっこりと笑みを浮かべながらこの場の空気を黒いオーラで支配していた。
 小湊妹に好意を寄せる御幸が見たら、歓喜するかもしれないほどの女王様の風格が小湊妹から滲み出ていた。


 そんな惨めで哀れな状態の沢村と降谷が何故、小湊妹に見下ろされることとなったのかと云う理由は一時間ほど前に遡る。


 定期テスト中は学生の本分である学問に集中するために部活道は停止、それは野球部も例外ではなかった。
 そのため、マネージャー陣達も定期テスト中は部室にもグランドにも向かうことなく、真っ直ぐに家に帰り、寮に入っている小湊妹も同じように帰ってから勉強をしようとしていた時、大好きな双子の兄である春市から連絡が来たのである。

「助けて、ちーちゃん。僕達だけだと栄純くんと降谷くんの赤点回避は難しいかも…」
「……私、きっと行くから。未来で待ってて」
「……ちーちゃん、もしかしてハ●ルの動く城でも観た?」
「純さん先輩に勧められて昨日ね勉強の息抜きに観たの。ふふっ、私のハルルのためならどこへでも行くよ!」
「あはは、僕の名前とハウルを混ぜたんだね?でも、兄貴じゃなくて僕がちーちゃんのハウル役で良いのかな?」
「うん!にぃにはね…お花屋さんね!」
「色々混ざりすぎだよ、ちーちゃん。それにしてもありがとう。すごく助かるよ!寮の食堂で待ってるね」

 大好きな兄・春市からの最初の言葉だけで小湊妹はすぐに状況を理解すると少しだけ電話越しに大好きな家族にだけ見せる茶目っ気を含んだような会話を一言二言した後、帰宅しようとした足をそのまま、出入りが許可されている青心寮の食堂の方角へと向けた。

 青道高校では部活に入っている生徒に対して厳しいルールがある。

 それは、テストで赤点を1つでも取ると練習や試合などの部活への参加が停止され、補習と再テストを合格するまでの間、部活動を制限されると云うものである。
 他の部活もそうだが、野球部でもレギュラー入り、またその先にある甲子園を目指す者として此処で赤点を取り、部活に参加できなくなるなどあってはならない。
しかも、野球部監督・片岡鉄心、野球部部長・太田一義、副部長・高島礼の三人は教員である。
そのため、この三人の担当教科だけは例え、自分達の学年の担当教員でなくても落とすことは許されず、何がなんでも赤点を回避しなければならないのだが、ここで発生した問題が先ほどの小湊妹の双子の兄・春市の口から出た沢村と降谷である。

 沢村栄純と降谷暁、言い方は悪いが簡単に説明すると野球馬鹿なのである。

 二人とも同じ投手と云うポジションでありながらもポテンシャルやテクニックなど何処か正反対な位置にいる二人なのだが、野球に対する気持ちは二人とも一直線で頼もしい存在ではある。
 だが、馬鹿正直に真っ直ぐすぎて二人とも野球へ全関心が向いてしまっているため、学生の本分である学業を疎かにしてしまっていたのである。

 そして今回、そのツケが回ってきてしまったのであろう。

 きっと前々から周りから二人は「勉強は大丈夫なのか」と言われていたはずだ。
なのに学業を疎かにした挙句、こんなギリギリになってやっと焦りだした沢村と降谷がきっと春市や金丸や東条に泣きつき、それに春市達も対応したのは良いが沢村と降谷の理解力の低さに「これはダメかも」と素早く判断した春市が成績が実は結構良い方で教えるのも意外と上手い小湊妹へとヘルプを出したのだった。

 それを双子故になのか、すぐに春市が自分を呼んだ経緯をあの会話だけで理解した小湊妹はすぐに大好きな兄の元へと向かった。

 校舎の脇を抜けてAとBグランドの横を通り過ぎる。
向かうは青心寮と足を早めていたその時だった。

 グランドの脇に、居てはいけない人の姿を見かけたのである。それも二人もだ。

 小湊妹は、その二人の姿が誰なのかを瞬時に理解すると静かに近づき名を呼んだ。
 
 静かに、冷ややかに、でも凛とした声でその二人の名を呼んだ。


「栄純くん、降谷くん。何してるのかな?」
「「あっ…」」


 グランドの脇に居たのは今、春市達の中で問題児となっている沢村栄純と降谷暁であった。
 しかも二人の手には野球のグローブが握られており、何をしていたかなど見れば一目瞭然で
一瞬、小湊妹の目がスッと細まった後、すぐに二人のグローブから二人の顔へと視線が移された。

「ちぃーの⁉︎な、何故こんな場所に居られるのでしょうか⁉︎」
「春ちゃんに呼ばれたの。栄純くんと降谷くんは…なにしてるの?」
「え⁉︎こ、これはだな…そ、そう‼︎息抜き‼︎息抜きのために降谷と少しキャッチボールをしようと思いまして‼︎な、なっ‼︎降谷‼︎」
「う、うん、そう。あの、息抜きに…」
「……へぇー、テストがヤバいと春ちゃん達に泣きついたのに?」
「「うぐっ……」」
「……息抜き、だっけ?そんな余裕が今の君たちにあるの?」

 気まずそうに二人が背中にグローブを隠そうとした仕草に小湊妹は怒りが込み上げてきた。
 矢張り血が繋がっているからなのか、段々と沢村と降谷に対する小湊妹の言い方が長男・亮介のような言い回しになっていく。
 テストがヤバいと泣きつき、大好きな春市の手を煩わせたくせに息抜きだと?舐めているのかな?と小湊妹は怒っていた。
 赤点を取れば部活動に制限が掛かる。この先、野球部は夏に向けての練習試合や他校との交流戦など、やる事が多くなるのに赤点如きで大事な戦力となりそうな人物達が戦力外になるのは野球部全体として大変困る状況になると云うことをこの二人は理解していないのだ。

 だから余計に小湊妹は怒りが込み上げてきたのである。

 野球はソロプレーではない。チームプレーだ。
 個人の能力だけではなく、仲間と役割を分担して全員で戦うものである。
 故に小湊妹は怒った。必ずしもこの二人の野球馬鹿をワカラセテヤルと怒った。
 でも、小湊妹には力がない。それ以前に大切な投手達であるため、怪我をさせるわけにはいかない。
ならばどうするか…そう【お話】しかないのである。

「栄純くん、降谷くん。とりあえず、寮の食堂で少し…私と【お話】しようか」

 小湊妹は、にっこりと笑った。
そして、震える二人を連れて寮の食堂を訪れ、座ってお話しようかと言った小湊妹に対して沢村と降谷の二人は震えながら食堂の椅子にではなく、床に自主的に正座したと云うことが事の経緯なのである。


 相変わらず、食堂で仁王立ちする小湊妹の足元では沢村と降谷がぷるぷると震えており、なんだか見ている周りも同じように震え出しそうな空気となっていた。
 「流石、小湊先輩の妹…」と誰かが微かに呟いた言葉に見守っていた皆が頷くくらいだった。


「私、栄純くんと降谷くんのことは部員としても選手としても一人の人間としても信頼しているよ」

 にっこりと兄・亮介を思わせる笑顔を浮かべたまま小湊妹は話を続けた。

「でも、テストがヤバいにも関わらずギリギリまで放置した挙句、キャッチボールしてた二人の成績は信頼できないかなぁ」
「仰る通りです‼︎‼︎‼︎」
「何も、言い返せない…」

 小湊妹の言葉を素直に受け取る沢村と悔しげに呟く降谷に小湊妹は更ににっこりと笑った。

「よって今からスパルタで君たちの頭にテスト範囲を叩き込みます。…覚悟してね?」

 こうして、やっとテスト勉強が始まったのだが、一難去ってまた一難。
 厄介なある男の登場にまたしても青心寮の食堂では一波乱が訪れたのである。


♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎


 それは、沢村と降谷と小湊妹が【お話】を終えてから金丸・東条、そして春市を含めてテスト勉強会を始めてから約一時間ほどが過ぎた辺りだった。

 青心寮の食堂の年季の入った扉がギィーっと音を立てながら開いたかと思うと外からぴょこりと中を覗き込むようにして野球部二年・御幸一也と倉持洋一の2年B組コンビが顔を覗かせたのである。
 現れた二人は私服を纏っており、手には教科書と文具があることから二人とも着替えてから勉強会へ参加するために食堂へと訪れたことがわかった。
 遅れて食堂へとやって来た二人に最初に気がついたのは出入り口の近くでテスト勉強をしていた二年生達で其々、倉持と御幸に声をかけた。

「なんや、倉持と御幸。来るの遅かったな」
「なんかあったの?」

 前園健太と川上憲史が来るのが遅かった倉持と御幸に声をかけると倉持は顔を歪ませながら、自分の隣で立つ御幸を親指でビッと指差した。

「マジでこのメガネはクソだわ。コイツ、自分が担任に雑用を頼まれたくせに「倉持くんと一緒にやりまーす」とか棒読みで言いやがって俺を巻き込みやがった」
「はっはっは!くらもち〜、俺たち親友だろ?」
「親友つー言葉はな、てめぇの面倒ごとに巻き込んでも許される魔法の言葉じゃねぇからな。そんなんだから、てめぇはクラスでも友達ができねぇんだよ」
「倉持もじゃん、お揃い♡」
「死ね‼︎‼︎」

 倉持は自身が遅れた経緯を前園達に話すが、原因となったらしい御幸はヘラヘラとした表情で笑うだけで反省した態度は一切なかった。
 そんな御幸の態度に更に倉持は人相の悪い表情をしながら御幸の尻に一発の蹴りを入れた。倉持からの容赦ない蹴りは御幸の尻に打撃を与え、ゲシっと音が聞こえるほどだった。
思わず、「痛え‼︎」と御幸がその場でぴょんっと跳ねるが倉持は「うるせぇ」と一言言い放つと痛がる御幸を無視して空いている席の椅子を引っ張り出してドカッと座り、手に持っていたノートや教科書を広げ始めた。
 御幸も痛む尻を摩りながら「ひでぇ」と呟くとやれやれと言いたげに倉持と同じ様に空いてる席に座ろうとしたのだが、ふっと視界の端で
奥にいる一年生達が集まって座っている席に桃色の髪を持つ人物が二人いることに気がつき、御幸は視線を向けた。

 どの部屋でやっているかは知らないが、三年生は寮の部屋、つまりは三年生の誰かの自室で集まって勉強会をすると言っていたのを御幸は知っていた。
だから、あの中に三年生で桃色の髪を持つ小湊亮介は居ないはずなのである。
 ならひとつは、その弟である小湊春市で、もひとつは【あの子】かもしれないと一瞬にして期待が御幸の脳裏に過る。

だから、それをきちんと確認するために御幸は視線を向けた。


——…いる。

「やっぱり、いもうとちゃんがいる…‼︎」
「きめぇから喜ぶな、クソ眼鏡」


 倉持がすぐさま御幸の言葉に気持ち悪いと反応するが御幸は無視をした。
 御幸の視線の先、其処には御幸が期待した通りに最近、御幸の視線を奪って止まない小湊妹が勉強している一年生達の中にいたのである

 いもうとちゃんがいる。部活じゃないのにいもうとちゃんがいる‼︎と倉持に尻を蹴られて少しテンションの下がっていた御幸の気分は一気に急上昇した。

 それもその筈、テスト期間中に入り、部活動が停止している今、御幸が小湊妹に会える時間が極端に減っていたのである。
 小湊妹は一年、御幸は二年。たった一年と言えど学生時代のその差は大きく、小湊妹と同じ一年であれば、例えクラスが違ったとしても廊下などで会うことはあっただろう。
だが、御幸は二年生であるため御幸自身の教室がある階自体が違い、何か用事がある時ぐらいしか他の学年の階に行くことがないのである。
 故に常日頃から小湊妹の姿を見かけることはあったとしても、それは窓から見えたりと云う遠く一方的なので面と向かって会話できる時間など部活が関係する時しか、ほぼなかったのである。

 そんな事態を御幸が認識したのは、テスト期間に入ってすぐのことだった。

 食堂での夕食の際に沢村と降谷と小湊妹の双子の兄である春市が話している会話の内容を何気に聴いた時だった。
 沢村がもぐもぐとどんぶり鉢に盛られた白米を食べながら「今日のちぃーのが〜」とか、降谷が「お昼にちーちゃんが…」とか、春市が「さっき電話した時のちーちゃんがね…」とその場に居ない小湊妹の話をするのを御幸は、夕食のメニューであるとんかつの衣を剥がしながら何気なく聴いていた。

 気になる女の子のことを自分以外の人間が話しているのが少し気に食わないと思いつつ、平然を装いながらも一年生の話す小湊妹の話に御幸一也は耳を集中させた。

 春市は小湊妹と双子で兄と云う立場。沢村は同じクラス。降谷は別のクラスではあるが、何かあれば小湊妹に助けを求めているようなところがある。
その他、一年生の野球部員達もなんだかんだと部活以外でも小湊妹と会話していたりするのを時折り、御幸は遠くから見かけていた。


——羨ましい。俺もいもうとちゃんと話したい。
…部活の時に話しかけてみよ。


 と思った時だった。


——あれ?あれあれ?んん?


 御幸は気がついた。気づいてしまったのである。
 今はテスト期間中。最低でも五日間は部活動は停止である。
つまり、約五日間は部活がないため、小湊妹と何かがない限り会うことはないかもしれない。

 そのことに御幸は気づいてしまったのである。


「……あれ?俺、もしかして部活がないとあんまり、いもうとちゃんと接点ない感じ?」


 テストは学生にとっては魔の期間。今まで別にそんな言葉を気にしたことなかった御幸であったが、テスト期間中に部活の時間がないと云うことは野球に対する時間が減るのと同時に小湊妹と接する機会も減ると云うことにも気がついてしまい、小湊妹に色々と想いを寄せる御幸は食堂で突然頭を抱え、落ち込んだように背中を丸めて情けない姿を見せたことにより倉持達に大爆笑されたのであった。


 それがテスト期間が始まってまだ一日目の夜の出来事である。


 其処から小湊妹と話すことなく二日が経ち、すでに重度の小湊妹不足となっていた御幸の前に沢村と降谷のテスト勉強を手伝うと云う目的で小湊妹が目の前に現れたのである。
 御幸のテンションは上がった。ここ数日だけだが、遠くでしか姿を見ることができなかった小湊妹がこんなに間近にいるのである。
 沢村と降谷に勉強を教える、あの凜とした声が御幸の耳に届き、御幸の胸がきゅっと少し締め付けられるような感覚がした。

 話したい。構ってほしい。目を向けてほしい。ここ数日、面と向かって会わなかっただけなのにそう思うなんてと御幸自身、少し笑いそうになる。
 我ながら情けない。なんて思いながら御幸は一年生達の元へ向かった。
途中、倉持が「おい、テスト勉強の邪魔したらちいに怒られるぞ」と御幸に声を掛けたが御幸はまたしても倉持の言葉を無視した。


——怒られても別に良いんだよ。


♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎


「いもうとちゃん」


 そう呼ばれた小湊ちさとは、自身の前に座って苦しげにぐるぐると頭を悩ませている沢村と降谷から視線を自身の名前が呼ばれた方へと向けた。

 其処には二年生の御幸一也が片手を上げながら「よっ!」と立っており、小湊妹は御幸にぺこりと会釈をしてにこっと当たり障りのない笑顔で「お疲れ様です、御幸先輩」と名を呼ぶと御幸は嬉しそうに空いていた小湊妹の右隣の席の椅子を引き出し座った。


「いもうとちゃん、この馬鹿達の勉強見てやってんの?大変だねぇ」


 そう言いながらテーブルに片肘を付き、手のひらに顎を乗せて小湊妹にニヤニヤと笑う御幸に反応したのは沢村であった。
 沢村は、ぐるぐると頭を悩ませていた表情からムキーッと怒った表情へと変えるとバンッと机に両手をつき、立ち上がった。
 沢村の隣に座っていた降谷も御幸の馬鹿と言う言葉にムムムッとオーラで怒っているようだった。


「ば、馬鹿だと⁉︎おい‼︎御幸一也‼︎何だその言い方は‼︎」
「沢村、俺先輩」
「栄純くん」
「はい‼︎すみません‼︎‼︎」


 今にもでも御幸に掴み掛かろうとする沢村に小湊妹が静かに沢村の名を呼ぶと沢村はすぐに謝り、椅子へと座り直した。
 それを見て、また御幸は笑った。


「はっはっはっ‼︎怒られてやんの〜」
「み、御幸一也ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼︎‼︎」
「栄純くん」
「はい‼︎さーせん‼︎‼︎ちぃーの様‼︎‼︎」


 笑う御幸にまたしても立ちあがろうとした沢村をまたまた小湊妹が嗜めるように沢村の名を呼ぶと沢村は再び大人しく椅子に座った。
 それにひーひーと笑いながら御幸はちらりと小湊妹に視線を向けると小湊妹は御幸ににこっと笑った。
 少しだけ、御幸の背中にソワっと微風のような冷たい空気が触れた気がした。


「御幸先輩、今は栄純くん達の邪魔をしないでください。赤点回避するのに必死なんですから」
「えー。でもさ、コイツらの自業自得じゃね?」
「まぁ、それはそうなんですけど。隙を与えちゃうとすぐにキャッチボールを始めちゃうのでしっかり集中してもらわないと困るんです。…春ちゃんの手を煩わせた罪として、罰として」
「……お前ら、いもうとちゃんに一体何したんだよ」
「そ、それは…」
「……」
「とりあえず、御幸先輩は邪魔しないでくださいね」


 良いですね?と御幸に言い聞かせるように小湊妹はにこっと笑いながら笑みを崩さずに言うと再び、自身の前に座る降谷と沢村へと視線を移した。

 僅か、ほんの数十秒で終わった小湊妹と御幸の会話。

 部活がある時は小湊妹と会話した時間など気になどしておらず、姿を見ては声をかけ、小湊妹の仕草や声に喜ぶ御幸であったが、たった数日間部活がなく、面と向かって話すこともなく、ただ遠くから姿を見かけていただけ。
 イギリスの有名な諺の【不在は心をより慕わせる】や何処かの歌手が歌っていた歌の歌詞のように【会えない時間が愛を育てる】ではないが、心の何処かで小湊妹を焦がれていた貪欲な御幸は、そのたったの数十秒の会話だけで満足などできるはずがなかった。

 確かに沢村と降谷のテスト勉強のために小湊妹がここに居るのはわかっている。
沢村達が馬鹿で春市に面倒をかけていなければこのテスト期間中に小湊妹がここに現れることなどなかったであろう。
だけど、やっぱり小湊妹に色々と想いを寄せている御幸からすれば、自分以外の他の男に小湊妹の目線が向いているのも、例え小湊妹が大好きな兄・春市のために行動しているとしても他の男のために色々としている姿が御幸一也は面白くなかった。
 邪魔しないでくださいね。と可愛く言われても面白くないものは面白くない。気に食わないことは気に食わない。でも、だって、と言い訳にならない言葉が御幸の中で何度も浮かび上がり、邪魔するなと言われたら邪魔したくなってしまう。

 その気持ちを察してか、小湊妹が沢村と降谷に目を向けたまま御幸に「テスト勉強中ですからね」と念を押すように言うが、自身に向けられていない視線に御幸はムッと尖らせると数秒後には、にやぁと意地の悪そうな笑みを浮かべた。


「俺もお前らに勉強教えてやるよ」
「はぁ!?」


 御幸の言葉に沢村は目を見開き声を上げたが、御幸は気にすることなく沢村のノートを覗き込んだ。
沢村と降谷が開いていたノートには数式が書かれており、ノートの端には数式が解けなくて何度も計算式をやり直しては消した様な跡があった。


「えっと、どれどれ?えぇー!さわむらー、これがわかんねぇーの?やべー馬鹿じゃん」
「なんだと⁉︎」
「御幸先輩、煽らないでください」
「煽ってねぇよ。教えてるだけ」


 沢村のノートを覗き込みながら御幸が沢村にそう言うと沢村は再び騒ぎ始めた。
 御幸の横に座っている小湊妹が御幸を止める様に声をかけるが御幸は小湊妹へ視線を向けることなく、次は降谷へとターゲットを変えた。


「ん?降谷は、これがわかんねぇの?お前も沢村とおんなじで馬鹿なの?」
「⁉︎⁉︎」
「……御幸先輩、邪魔しないであげてください」
「邪魔してねぇもん。教えようとしてるだけ」


小湊妹がターゲットを降谷に変えた御幸に再度声をかけるが御幸は頑なに教えてるだけだもんと言い張り、小湊妹の言葉を無視するかのようにまたしても意地の悪い笑みを浮かべ、降谷と沢村を見た。


「しゃーねぇな。沢村も降谷も計算するのに手、使ってもいいぜ。あ、指足りねぇか?なら、足の指も使えよー」
「使わねぇよ‼︎‼︎‼︎俺を馬鹿にしてんのかぁぁぁぁ‼︎‼︎‼︎」
「僕だって使いません…‼︎」
「沢村うるせぇぞ‼︎」
「降谷くんも落ち着いて‼︎」


 意地の悪い笑みをにやぁーと浮かべ、勉強を教えると言いながらも明らかに沢村と降谷を馬鹿にし始めた御幸を遠くから見ていた倉持は、あの御幸の態度は明らかに小湊妹に構ってもらえなかった八つ当たりだと気がついた。
 あのクソメガネ、心が狭ぇと、なんとも言えない表情を倉持は浮かべ、溜息を吐いた。

 御幸に八つ当たりで馬鹿にされ、ぎゃーぎゃーと騒ぐ沢村とオーラで怒りを露わにする降谷に金丸と春市が止めに入り、その光景に東条が困ったように笑う。
 それに御幸は、はっはっはっ!と笑うが、一人だけ御幸の行動にすんっとした表情を浮かべている人物がいることを遠くから見ていた倉持は気がついてしまったのである。
 なんなら、倉持の前にいた同じ二年の渡辺久志も倉持と同じ人物の様子に気がついたのであろう。小さく「あっ…」と言う渡辺の声が倉持の耳に届いた。
 気がつかなければよかった…と、お互いに思いながらも気づいてしまったからにはこの後のことが気になってしまい視線をその人物から逸らすことが出来ず、今後訪れるであろう嵐に倉持と渡辺は口端をひくひくと引き攣らせた。
 来るぞ、嵐が来るぞ。早く気づけよ‼︎沢村、騒ぐな‼︎馬鹿‼︎と倉持は声を上げたくなったが、触らぬ神に祟りなしと訪れるであろう嵐に巻き込まれないようにグッと言葉を押し殺した。


 そして、嵐はついに訪れた。


 騒ぐ一年生。そして、声を上げて笑う御幸の隣にいた小湊妹が突然、無言で立ち上がったのである。

 急に立ち上がったことにより、椅子はガタンッと大きな音を立てはしたが倒れることなかった。
だが、大きな音であったがために元々目線を御幸達に向けていた倉持と渡辺以外の周りの人間は突然のことに驚き、何だと食堂に居た皆が小湊妹へと視線を向けた。
 音を立てた当の本人である小湊妹は無言で御幸の左隣に立っているのだが、その顔は伏いており、少し長い前髪の陰でどの様な表情をしているのかがわからなかった。
 ただ、小湊妹の双子の兄である春市だけは、妹・ちさとの立ち姿から何かを感じ取ったのか、小湊妹の左隣に座っていた金丸とその隣の東条に対して小声で「金丸くん!東条くん!少しだけ離れて!」と声を掛けており、金丸と東条は春市の言葉に素直に頷き、小湊妹から距離をとった。

 その瞬間、小湊妹は御幸が肘をつくテーブルに自身の左手をバンッと叩きつけるようにして手をついたのである。

 ビクッと御幸の肩が跳ね、小湊妹の前に座っていた沢村と降谷の身体も小湊妹の横に座っていた金丸と東条の身体も大きくビクッっ‼︎‼︎と震える。
 春市だけは驚くことなく、焦った表情で「あー…」と言いたげに片手を口元へと当てていた。

 御幸は自身の前に叩きつけられた小湊妹の左手に視線を移してから恐る恐る辿る様にして視線を上げようとしたのだが、肘のあたりまで視線を上げた時だった。
小湊妹の空いている右手がバッと御幸の顔の方へと伸びてきたかと思うと小湊妹の人差し指と親指がクイッと御幸の顎を持ち上げ、無理矢理顔を上へと向かせたのである。
 
 こ、これは…‼︎とその小湊妹の行動にその場に居た皆が目を見開きざわめいた。

 少女漫画ではイケメン男子にされると胸キュン待った無しの憧れのシチュエーションである顎クイを唐突に小湊妹は御幸にしたのである。
 
 突然の小湊妹の行動に周りは衝撃のあまり、大きく口を開け、御幸と小湊妹を見守ることしか出来なかった。
 一方の小湊妹と御幸は、小湊妹の突然の行動に驚き、固まりながらも御幸は何とか視線を小湊妹へと向けたのだが、小湊妹の表情を見た瞬間…御幸は更に大きく目を見開き、ハッと息を飲んだ。

 冷たく、ひんやりとしたものが御幸の足元からスーッと背中にかけて駆け抜ける。
 初夏を迎えたと云うのに真冬に戻った様に食堂の空気がどんどんと下がっていく様な感覚にこの場に居る皆の脳裏に空気の冷たさを感じると共に亮介の姿が過った。

 この冷たい空気を生み出している少女・小湊ちさとは一人、御幸の顎を持ち上げながら静かに立っていた。
 その表情は兄である亮介が時折り見せるあの笑みと同じで、御幸の心を鷲掴みにしたあの笑顔。

 黒い笑みをにっこりと浮かべながら小湊ちさとは立っていたのである。

 沢村と降谷がにっこりと黒い笑みを浮かべる小湊妹の表情を見て、凍りついた様に動きを止めた。心なしか顔も真っ青に見えるぐらいである。
 小湊妹の横に座っていた金丸と東条は小湊妹が背を向ける様にして立っているため、にっこりと笑う黒い笑みは見えていないだろうが、小湊妹から発せられている冷たい空気と禍々しい黒いオーラを感じ取り、引き攣った表情をしていた。

 皆が冷たい空気に怯える中、小湊妹に真っ黒い笑みを至近距離で現在進行形で向けられいる御幸一也は一人、ごくりと息を飲み込んだ。

 御幸の喉の動きが御幸の顎を掴む小湊妹の手に伝わるが、小湊妹はにっこりと笑みを崩すことなく艶やかな唇を開いた。


「私、何度もテスト勉強中だって言いましたよね?」


 ね?っと確認する様に小湊妹は首をコテンと傾げながら上から顔を覗き込む様にして御幸に問いかける様に話しかけたが、圧の強さに呑まれて御幸は直ぐにその問いに回答することが出来なかった。
 だが、それを気にすることなく小湊妹はそのまま話を続けた。


「栄純くんと降谷くんの邪魔をしないでくださいとも言いましたよね?」


 またしても問いかける様に話す小湊妹に御幸は顎を掴まれたまま、今度は僅かに頷いた。

 確かに何度も御幸は小湊妹に「テスト勉強中だ」と「二人の邪魔をしないでください」と言われていた。
 沢村と降谷の成績が危ないと云う理由で小湊妹は今日、この場に訪れていた。
隙があると直ぐに意識が野球へと行ってしまう二人を何とかお話と云う名の脅しをかけて、やっと始めたテスト勉強会だった。
 それなのに、いきなりぴょこりと御幸が現れたかと思うとここ数日会えなかった自身が想いを寄せる小湊妹の姿を見てテンションが上がり、怒られても良いからと絡みに行ったのは良いが、当の小湊妹は沢村と降谷ばかりに目を向けてばかりで御幸は面白くなかった。


 つまり、御幸一也は沢村栄純と降谷暁に嫉妬したのである。


 だから、邪魔をした。
 小湊妹を怒らすつもりで邪魔をしたのである。
その視線が自身に向くなら、それで良いと思い御幸は邪魔をした。
 案の定、御幸の思惑通りに小湊妹は邪魔されたことに怒り、御幸を叱ろうとしている。


——いもうとちゃんが怒ってる。
——今、【俺だけ】を見てる。


 小湊妹の意識がこちらを向いている。

 そのことに御幸は心中でうっとりと恍惚の表情で微笑んだ。

 小湊妹のにっこりと笑う黒い笑みに御幸の背中がぞくぞくと震え、思考回路が小湊妹で埋め尽くされていくことに幸福感すら感じられた。

 にっこりと怒っている小湊妹にバレない様に自身が思っていた様になった達成感と小湊妹の視線・関心・全てが自分に向いていると云う快感に浸っていた御幸であったが、小湊妹から出た次の言葉に一気に身体が冷え切った。


「私、大事な時に何度言っても【待て】ができない犬は【嫌い】なんですよね」


 その言葉に御幸は、ヒュッと息を飲んだ。


 小湊妹から発せられた言葉。その意味がわからず、御幸は思わず「はっ?」と声を上げそうになったのだが、喉が張り付いたように声が出ず、息だけがヒュッと飲み込まれた。


——いもうとちゃん、いまなんていった?


 そう聞き返したいのに声にならず、息だけが喉で音を立てる。


——いま、なんていわれた?きらいっていわれた?なんで?


 小湊妹は確かに今、御幸の目を見ながら【嫌い】と言葉を発した。

 【何度言っても待てができない犬は嫌いだ】と言ったのである。

 その突然の言葉が御幸は一瞬理解出来ず、理解できた頃には何、なぜ、なんで?と云う今度は小湊妹が何故そんなことを言ったのかと云う問いかけしか浮かんでこない。


——嫌いって言った。いもうとちゃんは嫌いって言った。
 何度言っても待てができない【犬】…つまり遠回しに【俺】を嫌いだと言った。


 御幸は何度も小湊妹に邪魔をするな。つまりは【待て】を言われていたのである。
 それなのに御幸は小湊妹の視線が、関心が、沢村と降谷達に向いていることに妬き、邪魔をした。
 そして、【待て】と何度も小湊妹に言われたのに御幸は小湊妹に自分を見てほしいからとその【待て】を何度も無視した。


 御幸は【ご主人様】の言葉を無視したのである。


 そして、いざ小湊妹が御幸を見たかと思ったら【何度言っても言うことの聞かないやつは嫌いだ】と言われたのである。

 普段の御幸であれば、沢村や倉持達に嫌いや性格がクソなど言われても我ものとせず、「勝手に言ってれば?」ぐらいの感覚なのに小湊妹から与えられた【嫌い】と云う言葉の刃は、いつも飄々としている御幸の心に深く突き刺さったのである
 
  何度も小湊妹の【嫌い】と云う言葉が御幸の頭の中を駆け巡る。
 ズキズキと胸が痛み、身体の熱が失われていく感覚と息苦しさにじわじわと目が潤んでいく。
 自分に冷たい笑みを向ける目の前の小湊妹に何かを言いたいのに言葉が出ず、怒らせて、自分に視線を向けてもらって、それだけで良かったのに一番聞きたくない言葉が小湊妹の口から出たことに御幸は表情には出さないが深く傷つき、脳内で普段のような冷静さが保てないぐらいに狼狽え、混乱していた。

 そんな御幸に小湊妹はにっこりと黒い笑みを浮かべたまま御幸の顎をさらにクイっと持ち上げると言葉を続けた。


「わるいこの御幸先輩に選ばせてあげますね」


【今すぐ倉持先輩達のいる席に戻るか、それとも自室に戻るか】


「さぁ、選んでください」

 
 小湊妹から出された選択に御幸は思わず情けない声が出そうになったのをぐっと堪えた。

 小湊妹から出された二つの選択。
 倉持達のいる席…食堂の出入り口の席に戻るか、それとも自室に戻るか。側から聞けば唯の選択に聞こえるが、御幸にとってはそれは唯の選択ではなかった。

 どちらにしても与えられた選択の内容は、この場…つまりは【小湊妹の隣】から移動すると云うもので、御幸は小湊妹から遠回しに「近づくな」と言われたのである。

 小湊妹の遠回しの言葉の意味に気づかなければ【ただ怒らせてそう言われただけ】で済んだのであろう。
だが、頭の良い御幸は小湊妹の遠回しの言葉の意味に気づいてしまったのである。

 今までずっと野球のことしか考えてこなかった御幸が初めて野球以外に関心を持ったのが、小湊ちさとと云う女の子だ。

 野球以外のことで誰に何を言われても今までは何とも思わなかったのに、想いを寄せる女の子に遠回しの【嫌い】と【近づくな】と云う言葉に傷つき、どうしたら良いのかわからない。
 頭の中で感情がぐちゃぐちゃになりそうになるのをなんとか抑えつけて、目の前の小湊妹に答えを出さねばと纏まらない思考回路で与えられた選択を考えるが答えがでない。

 どちらを選んでも小湊妹の側から離れることになる。

 それが御幸は途轍もなく嫌だった。

 邪魔をしたのは自分。【待て】を無視したのも自分。怒らせたのも自分。
だから鬱陶しがられても仕方がないのだが、御幸はどうしても小湊妹の側を離れたくなかった。

 だから選べなかった。答えを出せなかった。

 小湊妹は相変わらず、冷ややかな笑みで御幸の答えを待っている。

 どちらも選んでも小湊妹から離れることになるのなら…と御幸はカサついた唇を開いた。


「いいこで…し、ずかに、だまって、る…から」
「……」
「このまま…いもうとちゃんのとなりに、いっしょにいちゃ、だめ?」


 カラカラの喉から搾り出したような情けない声で小湊妹を無意識に上目遣いで見上げながら、御幸は言った。

 倉持達の席に戻るか、自室に戻るか。どちらを選んでも小湊妹から離れることになるなら、御幸は【どちらも選ばない】選択をしたのである。

 邪魔をして怒られたのなら、今度は黙っているから側に居させてほしいと貪欲な男がみせた貪欲な回答に小湊妹は冷ややかなか黒い笑みから一変して、不意を突かれたようなきょとんとした表情をみせた。

 冷ややかな黒い笑みでもとろりとした笑みでもなく、大きな瞳をきょとんとしながら御幸を見て、ぱちぱちと瞬きをする小湊妹に御幸も僅かに目を見開いた。

 そんな小湊ちさとの表情を御幸は初めて見たのである。
 
 不意を突かれたような、初めて見る生き物と遭遇したと言いたげなその表情はいつも周りに見せている表情とは違い、本当に無防備で幼く見えたのである。
 兄・亮介や春市だけ向けるような表情ではなく、本当に何も纏っていない無垢のような表情が真っ直ぐに御幸へと向けられていることに御幸の心臓の鼓動が高鳴った。
 この角度からは沢村も降谷も金丸と少し離れた席にいる二年生からも小湊妹の片割れである春市でさえも小湊妹のこの無防備な表情は見えていないであろう。

 御幸にだけ。今、小湊ちさとのこの表情は御幸一也にだけ真っ直ぐに見えていると云うことに先程まで下がる一方だった御幸の体温が徐々に温度を取り戻していくのがわかった。

 張り付くような感覚があった喉の違和感が少しなくなり、息がしやすくなった気がして御幸はゆっくりと息を吐き出すと自身の顎を掴む手とは反対の机に手をついたままの小湊妹の手にソッと御幸は己の右手を重ねた。


「……だめ?」


 今度は御幸が問いかけた。

 反応しない小湊妹に再度ちらりと視線を向けて問いかけると小湊妹は何度目かの瞬きの後、こてんっと首を傾げた。
 かわいいっと声を上げそうになるのを御幸が耐えていると小湊妹は、ふっと微笑んだ。


「そうですか。……御幸せんぱいは、【いいこ】だから静かに【待て】ができるんですね?」


 御幸が言った言葉を再確認するように小湊妹は尋ねた。

 その姿はとても妖艶で、ついこの間まで中学生だった女の子が醸し出すような雰囲気ではないと思いながらも煩い心臓の鼓動を耳にしながら御幸は何度もこくこくと頷いた。
 視界の端で沢村と降谷が身を寄せ合い震え、倉持がドン引きしている表情が見えたが、全て御幸は見えないフリをした。

 【いいこにできるのか?】と云う問いに御幸の背筋が震え、胸が先程とは違う意味で苦しくなる。
 熱い吐息が口から漏れ出そうになるのを耐えながら小湊妹の手に触れる右手に優しく、でもきゅっと力を込める。

 小湊妹は数秒、御幸の眼鏡の奥の双眸をじっと見つめると静かに御幸の顎から手を離した。
 掴まれていた方の手も御幸の手からスッと抜き取り、立ち上がった時に後ろに動いてしまった椅子を引き戻すと静かに御幸の隣へと座り直したのである。

 周りも御幸も、座り直した小湊妹に視線を向け、静かに見守っていると小湊妹はまたチラリと横に座っている御幸へと視線を向け、ゆるりと口角を上げて唇を開いた。


「自分でそう言うなら…御幸せんぱい、いいこにしててくださいね」



——そしたら、後で褒めてあげます。


 そう目線で言われたような気がして、御幸は何度も頷き、そして赤くなる顔を隠す様に机に顔を伏せた。

 小湊妹の出した選択とは違う選択を御幸は出した。

 黙っているから、いいこにしてるから、側に居させてくれと御幸は言った。

 小湊妹が出した選択とは違う選択を御幸は出したのに対して、小湊妹は「それは私が出した選択にはないでしょう」とも「嫌です」とも言わずに、きょとんとした表情を見せた後「できるんですね?」と言った。
つまりそれは、御幸の出した選択を受け入れたと云うことであり、そして…御幸がそばに居ることを許可したと云うことでもある。

 そのことを理解した御幸は、声が出そうになるのを必死に耐えて多幸感を噛み締める。
 
 嬉しい。うれしい、うれしい。野球以外にもこんなに自分の心を満たしてくれるものがあるなんて。
 唯の言葉で傷つき、そして満たされる。

 言葉にできない快感と多幸感に御幸は、またひとつ熱い息を吐き出した。

 御幸の横では「さて、続きをしましょう」と小湊妹が沢村達に声をかけるのが聞こえる。
 その言葉に静かだった周りも音を取り戻したかのようにざわつき始め、少し離れた先では「なんやあれ⁉︎あれは誰や⁉︎」「情けねぇ」「尻にひかれてやがる」「沢村に続き、御幸も調教されたの⁉︎」「小湊妹による調教事件パート2〜御幸一也編か?」「いや、あれはもう手遅れ」と言いたい放題言っている二年生の声が御幸の耳に届くが、今の御幸は全てを言い返す気はなかった。

 いいこで静かにすると小湊妹と約束したのだ。
だからテスト勉強が終わるまで御幸は静かに黙っていた。
 時折り、小湊妹がチラリと視線を向けているような感覚を感じながら御幸は静かに沢村達のテスト勉強が終わるのを待った。


 待ってる間、沢村達に勉強を教える声とは別にぼそぼそと小さな声で春市がちさとに何かを言っているのが御幸に聞こえたが、御幸は顔を机に伏せたまま静かに聞き耳を立てた。

「いいの?」

 何かを確かめる様に春市がちさとに問いかける。
 言葉の意味はわからない。だけど双子故にちさとは春市が何を言いたいのかを理解しているのだろう。
 言葉の意味を聞き返すこともなく、ちさとは返事をした。

「うん、いいの」


——いいこにしてくれるみたいだし。それにね…


 いいのと言う、小湊妹の返事に含まれた意味は片割れである春市にしか理解できないものであった。




♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎




 時計の針が18時前を差した頃、一年生ズのテスト勉強はやっと終わりを迎えた。

 沢村と降谷はテスト勉強をしただけと云うのに疲労感に満ちた表情をしており、ぐったりと椅子に腰掛けていた。
 その光景に東条と春市は苦笑いを浮かべ、金丸に至っては「なんでお前らが一番疲れてんだよ」と顔を顰めていた。
 今回の貢献者である小湊妹は大きく溜息を吐き、広げていた文具を片付けながら沢村と降谷に「寝る前にもちゃんと予習復習してね」と声を掛けていた。


「ちぃーの、ありがとう‼︎」
「ありがとう、ちいちゃん」
「どーいたしまして」


 これで赤点取ったら怒るからね。と小湊妹は最後に沢村と降谷に釘を刺したが、疲労感満載の二人に届いたかは微妙であった。
 またしても小さく小湊妹が溜息を吐いていると春市がちさとへと声をかけた。


「ちーちゃん、今日は本当にありがとう。寮まで送るよ」
「んーん、大丈夫だよ。いつもよりも早いし、日もまだ出てるから」


 一人で帰れるよ。と言う妹に春市は「ダメだよ」首を横に振った。


「春ちゃんは心配性だなぁ」
「大事な妹なんだから当たり前だよ」
「そんな春ちゃんも大好き!」


 大好きと言う小湊妹の言葉に御幸は机に伏せていた顔をやっと上げ、ちらりと小湊妹へと視線を向けた。
 にこにこと無邪気に兄達にだけ向ける笑顔をぼーっと見つめていると小湊妹がガシッと御幸の腕を掴んだのである。
 突然のことに驚き、御幸は目を丸くさせて隣にいる小湊妹の横顔と掴まれた腕に視線をうろうろとさせていると小湊妹は、にこにこと春市に笑みを浮かべたまま「でも、今日は御幸先輩に送ってもらおうかな」と言ったのである。


「えっ」
「だめですか?御幸先輩」


 驚く周りと御幸を他所に小湊妹は御幸へと顔を向け、下から覗き込む様にしてにこっと笑いながら尋ねた。
 御幸は何度かぱちぱちと瞬きを繰り返した後、小湊妹の言葉の意味を理解すると大きく頷いた。


「財布と携帯取ってくるから、待ってて」


 御幸はガタガタと立ち上がるとバタバタと食堂から走り去って行った。
 その光景に倉持達二年生は「必死じゃねぇか」「案外、御幸もかわいいところあるじゃん」と笑い、小湊妹を除く一年生ズは唖然としていた。


「ちーちゃん…」
「はーい、なぁに春ちゃん」


 春市の呼びかけにちさとはニコニコと無邪気に笑う。
 前髪に隠された春市の瞳がちさとを射抜く様に見つめる。
 双子故になのか、お互いに何が言いたいのかわかるのであろう。だが、ちさとは敢えて何も言わずに春市をニコニコと見つめ返した。


「あんまり、御幸先輩を揶揄っちゃダメだよ?」
「揶揄ってないよ」


 そう言うと小湊妹は静かに立ち上がり、春市達に「また明日ね。お疲れ様」と言い、「先輩方もお疲れ様でした」と食堂に居る先輩達にも声を掛けて会釈をすると食堂から外へと出て行った。

 その背中を見送りながら、春市はポツリと呟いた。


「いつか、噛まれても知らないよ…」


 果たして、片割れの呟きは片割れに届くのだろうか。



♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎


 携帯と財布をパーカーのポケットに捩じ込み、食堂の前まで戻ってきた御幸は外で待っていた小湊妹と合流するとゆっくりと歩き始めた。

 小湊妹は青道高校の寮へと寄宿している。野球部専用の青心寮とは違い、小湊妹が寄宿している寮は学校から歩いて約五分程の場所にあった。
 青道の校舎は見えるし何なら、グランドのアナウンスも聴こえるぐらいの近さである。
 そんな短い道のりを御幸はわざと時間を掛けてゆっくりと歩いた。

 歩く二人の間に特に会話はなく、部活の時なら御幸が小湊妹になんだかんだと話しかけ、それに小湊妹が答えるを繰り返しているのだが、今の御幸は途轍もなく静かであった。

 実のところ、御幸は小湊妹と二人きりになることに柄にもなく緊張していたのである。

 いつも小湊妹を送るのは春市か亮介が主に行っていた。
時々、時間が合えば家が青道の寮の近くだと云う結城が小湊妹を送ることもあったが、基本は小湊家のお兄ちゃん達が小湊妹を寮まで送り届けていたため、御幸が小湊妹を送るのは初めてだったのである。
 しかも今日は小湊妹に御幸はめちゃくちゃに怒られ、隣に居させてほしいと情けない姿を見せてしまったことに対して少し落ち着いた御幸は恥ずかしさもあり、声を掛けづらい気持ちもあったのである。

 それに御幸と小湊妹は学年が違うから共通の話題がない。
 それ以前に御幸は野球しかして来なかったために女の子に話を振れる話題も特になく、自分の野球以外の駄目さ加減に御幸は心の中で落ち込んでいた。

 そんな御幸を知ってか知らずか、小湊妹は突然静かに立ち止まると「御幸先輩」と御幸の名を呼んだ。

 凛とした小湊妹の声に御幸は落ち込んで少し丸まっていた背筋をピンっと正し、静かに立ち止まると隣を歩いていた筈の小湊妹が隣にいないことに気がつき、自身の後ろを振り返った。

 御幸の一歩後ろで小湊妹は立ち止まっていた。


「なに、いもうとちゃん」


 なんかあった?と御幸が小湊妹に尋ねた。
 だが、小湊妹は御幸の言葉に応えることはなく、無言で御幸を見つめていた。

 二人の間にふわりと柔らかな風が吹き、黙ったままの二人の髪を微かに揺らす。
ここ最近は夏が近づくにつれて日が暮れるのも遅く、夕焼けが御幸をじっと見つめる小湊妹の顔も御幸の横顔もオレンジ色に照らしている。

 そして少しの無言の後、先に動いたのはちさとの方であった。

 ちさとは笑った。

 テスト勉強を行っていた食堂で見せたあの黒い笑みではなく、ふんわりと御幸に笑いかけたのである。

 オレンジ色に染まる中、先程とは違う柔らかな優しい笑みに御幸は双眸がこぼれ落ちそうなほど目を見開いた。
 目の前の優しく笑いかける小湊妹の表情に御幸の目の前が何だか、ぱちんっと弾けた様な感覚を感じた後、小湊妹の周りが特別にキラキラと輝いている様に見えたのである。

 なに、これ?と御幸が茫然と立ち尽くしていると小湊妹は言葉を続けた。


「せんぱい、きちんと自分で仰った通りに最後は静かにしてましたね」

 
 凛とした声で言ったちさとの言葉に御幸はごくりと唾を飲み込んだ。
 小湊妹の周りがキラキラと輝いているように見えると同時に小湊妹の言葉に心臓がどくどくと音を立てる。
 なんだが、むずむずそわそわとまるで綿毛の様なものが御幸の背中に入り込んだかのようなむず痒さに落ち着きがなくなり、思わず両手に力が入りぎゅっと拳を握った。

 ふんわりと優しく笑いながら自身を見つめてくる小湊妹を見るのが恥ずかしくて目を逸らしたくなるのに、視線が縫い付けられたかのように御幸は小湊妹から目を反らせなかった。
 
 そんな御幸の顔を小湊妹は数秒、じっと見つめるとまたしても表情を変えた。

 ふんわりとした優しい笑顔から、今度は御幸の心を射止めたあの大好きなとろりとした笑みを浮かべたのである。

 同じ優しい笑みでも先程の笑みはふんわりとした笑み。
 そしてこちらは同じ優しい笑みでも、【いいこを褒めるためだけ】の、ちさとから許された者しか見せてもらえない笑みなのである。

 御幸が心を奪われた大好きな、あのとろりとしたあの笑顔をちさとは御幸へ…今、この場に居る御幸、たった一人だけに向けたのである。

 周りの音が掻き消されたかのように御幸の耳から音がなくなる。
ただ、聞こえるのは自身の呼吸をする音とちさとから発せられた「ふふっ」と言う吐息の様な笑い声。
 無意識に御幸の顔は熱くなり、肩がぴくっと揺れ、パーカーの下に隠された割れた腹筋がひくりとヒクついたのが御幸にはわかった。
 ぐるぐると熱が腹の中で発せられ、熱い吐息となって御幸の口から漏れ出す。

 喜び。悦び。歓び。どの言葉を表せば良いのかわからないが、特別な笑みをちさとに向けられた御幸の心は歓喜していることに変わりはなかった。

 それと同時にどうしようもない多くの感情が湧き上がる。

——俺だけのものにしたい。
——俺をいもうとちゃんだけのものにしてほしい。
——褒めて、見つめて、他にはその笑みを見せないで。


 浅ましくて、妬ましくて、いやらしくて、情けなくて、でも、愛おしいとも思える感情が御幸の胸の奥を締めつける。
 目の前立つとろりとした笑みを浮かべるちさとに御幸は見惚れて何も言葉にできずにいるとちさとはまた、ふっと笑う様に吐息を吐くと御幸へとゆっくりと細い腕を伸ばした。
 
 白い指先が微かに御幸の頬を掠め、もみあげをするりと撫でた後、少し背伸びをした小湊妹は御幸の頭を撫でた。


「えらいですね、おりこうさんでしたね」


 とろりとした蜂蜜を混ぜたような声と愛しむ様な笑顔で御幸の少し跳ねた髪を撫でつけるように小湊妹は何度も御幸の頭を撫でた。
 優しい手つきと声と笑顔に御幸は息をすることを忘れたかの様に無意識のうちに呼吸が一瞬止まった。
 腹の中で発せられ留まっていた熱が一気に沸騰したかのように御幸の全身を駆け巡る。指先も腕も腹も頬も、全身が熱くて堪らない。
 熱さなのか、なんなのか。視界が潤み、目の前のとろりと愛しむ様に笑うちさとの笑顔が少し滲んで見える。

 ちさとは笑う。そんな状態の御幸に視線を向けて、とろりと愛しむ様に笑う。
 「おりこうさんですね」「えらいですね」とまた呟き、そして言った。


「御幸のせんぱいは、いいこですね」


 その瞬間、御幸の身体は大きくびくっと震えた。
 思わず「くっ…」っと出そうになった変な声を喉で押し留める。
 だが、身体はよろよろと腰が抜けたかの様に足の力が入らなくなり、御幸は口元を押さえながら小湊妹の足元へと蹲み込んだ。


「ま、って…」
「なんですか?」
「っ…きゅうは、ずりぃ…」

 
 自身の顔が真っ赤になっているのが鏡を見なくても御幸にはわかった。
 急な小湊妹からの笑顔とお褒めの言葉を間近で、しかも頭を撫でると云う追加特典まで付いたご褒美に御幸の思考は追いついていなかった。

 褒められた!おりこうさんと言われた!そして、頭を撫でて「いいこ」と言われた。

 それが御幸は嬉しくて堪らなかった。

もっと、欲しくなって。もっと、触れてほしくなって。もっと、もっと好きになる。


——これは、本当に抜け出せねぇわ。


 抜け出す気もないけど。と出そうになった呟きを噛み締めながら、御幸はちらりと下から小湊妹を見上げる
 それに対して小湊妹は自身の足元で蹲み込む御幸をとろりとした笑顔で数秒見下ろした後、パッと表情を切り替えた。

 今度は、にこっと人好きがする様ないつもの笑顔を蹲み込む御幸に向ける。


「もう直ぐそこなので、今日は送るのここまでで大丈夫ですよ」
「へっ?」
「じゃあ、御幸先輩ありがとうございました。お疲れ様です」
「ちょっ⁉︎いもうとちゃん⁉︎」


 小湊妹は蹲み込む御幸を放置するようにそう声を掛けると小走りでタタタッと走り始めた。
 突然のことに御幸が唖然としていると小湊妹は数メートル先で「あぁ、そうだ」と何かを思い出したかの様に止まった。


「テスト勉強の時に【嫌い】って言ってごめんなさい」

 小湊妹は静かに背後にいる御幸を振り返った。
オレンジ色の光がキラキラと小湊妹を照らす光景に御幸は見惚れた。


「嫌いは嘘ですから」


 にっこりと兄・亮介に似た笑みを浮かべながら小湊妹は御幸に言った。

 確かに小湊妹はテスト勉強の邪魔をした御幸に対して直接ではないが「嫌い」と云う言葉を使った。
それに御幸も直接ではないにしても自分のことを言われていると感じとり、落ち込み、泣きそうになっていたのを小湊妹は気がついていたのである。
 意外と短気である小湊妹は御幸に何度も注意をしても邪魔をされたことに腹が立ち、ついあの様な言葉を言ってしまったことにほんの少しだけ心の中で反省していたのである。

 だから、情けないところを見せたと地味に落ち込んでいる御幸に伝えておかねばとちさとは思ったのである。


「じゃあ、また学校で会いましょう。御幸先輩」


 小湊妹は、今度は振り返ることなく走り去った。

 オレンジ色に染まる小湊妹の背中を見送りながら蹲み込んでいた御幸はゆっくりと立ち上がると小湊妹の言葉を心の中で復唱した。


——嫌いは嘘…?

「っ…」

——じゃあ、俺のこと本当は…どう思ってんの?


 走り去った小湊妹を今直ぐにでも捕まえて先程の言葉の意味を知りたいと御幸は思ったが、それができなかった。
 小湊妹は御幸が「嫌い」と言った言葉に落ち込んでいることに気がついていた。
それに対して御幸は小湊妹にそのことを知られていたことに恥ずかしさと情けなさと加えて、気づいてくれたことに対する愛おしい気持ちが同時に込み上げてきてしまったのである。

 くすぐったいような、苦いような、甘ったるく口に残るような、様々な感情が一気に御幸のこころへと押し寄せる。

 頬が熱い。こんなところを他の野球部員達にに見られでもしたらきっと指を指して笑われる。
 あぁ、もう。本当にもう‼︎と心の中で叫ぶと御幸は形の良い凛々しい眉をへにょんと八の字にするとため息を吐いた。


「もっと、欲しくなるじゃん」


 そう呟きながら頭を掻く御幸は情けない表情をしていたが、眼鏡の奥の双眸はうっとりと恍惚の色を映していたのだった。