小湊春市には兄と妹がいる。
一人は兄・小湊亮介。
春市が通う青道高校三年生に在籍しており、自身と同じ野球部の部員で背番号4番。ポジションは二塁手である。
恥ずかしがり屋で上手く周りに馴染めず、近所の悪ガキ達にいじめられていた春市をずっと守ってくれた春市の憧れであり、目標とも呼べる人物である。
もう一人は春市の双子の妹・小湊ちさと
兄・亮介と春市と同じ青道高校へと入学した一年生。
お騒がせ新入部員である沢村栄純と同じクラスで現在は野球部のマネージャーをしている。
見た目は身内だからそう見えるのでは?と言われるかもしれないが春市から見て、妹はとても可愛らしい容姿をしていると思う。
大きなくりくりとした瞳とスラリとした手足に白い肌。
そして、春市と同じ桃色の髪であるはずなのにちさとの髪は春市の陽射しを受けた髪とは違い、艶々と輝いており、天使の輪と呼ばれるもの浮かび上がっている。
手入れをしっかりとしていれば当たり前に思えるかもしれないが、其れがまた一層とちさとの魅力を引き出しているようにも見えるほど
なのである。
それぐらい、春市にとって双子の妹であるちさとは可愛くて、もっとわかりやすく言葉にするなら目に入れても痛くないほどなのだ。
きっとそれは、兄である亮介も同じであろう。
亮介をにぃにと呼び、春市を春ちゃん、時々お兄ちゃんと呼ぶ姿が春市は大好きだった。
また、ちさとのどんなことにもすぐに対応しテキパキと仕事を進める姿は春市にとって尊敬できる箇所の一つなのである。
でも、そんな可愛い妹は少々…否、結構厄介な部分も持ち合わせていた。
それは元からの性格なのか、それとも兄である亮介の教育があったからなのかは今となっては判らないが、ちさと自身は小さい頃は頻繁に笑うような女の子ではなかった。
どちらかと云えばムッとした表情をしていたことの方が多く、小湊家の押し入れに仕舞われているアルバムの中の写真も、笑う亮介と恥ずかしがる春市、そして口をへの字にさせたちさとの写真が写っていることが多かったと春市は記憶していた。
そんな小さい頃は無表情だったちさとがよく笑う様になったのは兄がきっかけだったと春市は思っている。
兄に憧れ、兄の様になりたいと思い、この青道高校へと進学をした春市にとって兄・亮介と云う存在は人生に大きな影響を与えた存在なのである。
自身がそうであるなら自身と双子で片割れであるちさとが笑う様になったのは、きっと兄がきっかけなのだと春市は思っていたのである。
春市がそう思うには一つの理由があった。
それは幼少期の頃まで遡る話になるが、その日も近所の悪ガキに囲まれていじめられていた春市はいつもの様に泣いていた。
其処に偶々、スイミングスクール帰りのちさとが通りかかってしまい、囲まれていじめられている春市の姿を目の当たりにしたちさとは一瞬動きを止めて、そして暴れたのである。
元々、春市がいじめられていることを知っていたちさとは近所の悪ガキに対して「よくもはるちゃんをいじめたな」と縁日のくじ引きで当たった威力の強い水鉄砲を持っては大好きな片割れである春市をいじめる悪ガキ達を追い払い、時には追いかけ回してもいた。
そんなちさとを亮介の次に恐れていた近所の悪ガキ達はちさとがスイミングスクールに通い始めたと知り、いつも春市にベッタリなちさとと兄・亮介が居ない隙間を狙い、春市をいじめていたのである。
そして先ほども話したが、偶々スイミングスクール帰りだったちさとが、大好きな片割れで兄である春市が悪ガキ達にいじめられて居る場に鉢合わせしてしまったのである。
ちさとは暴れた。大暴れした。それはそれは、手がつけられないほどに暴れたのである。
自身よりも背の高い悪ガキを飛び蹴りで蹴り倒し、別の悪ガキには胸ぐらを掴み引き倒した。
ちさとに恐れ、逃げようとする悪ガキには脚を引っ掛けて転ばせる。そうして、ちさとは悪ガキ共を地面と仲良しにさせると冷ややかな瞳で悪ガキ達を見下ろし、今の御幸がこの時の幼いちさとを見たとしてもひゅっと息を飲みそうなほどにそれはそれは嫌悪感満載ですと言いたげな表情で言い放ったのである。
「あたまのわるいいぬはきらい」
「ちーちゃん!?」
春市は悪ガキ達にいじめられた怖さや妹に守ってもらった悔しさと云う感情よりも妹の行動と言い放った言葉に慌てふためいた。
どこでそんなことばをおぼえてきたの⁉︎と思わず口にしてしまったほどに普段は「にぃに、はるちゃん、だいすき」と無表情ながらにも可愛いことを言う小さな口から出た暴言に春市は涙が引っ込み、地面と仲良しになってしまった悪ガキ達と妹・ちさとの態度と言葉に一抹の不安を感じた。
何も事情を知らない大人が見たら、ちさとの方が悪ガキに見えるほどの大暴れっぷりと態度だったのである。
そして、春市の不安は的中してしまった。
悪ガキ達を地面とお友達にさせたちさとは家に帰って、自分達のことを棚に上げた悪ガキが自身の親にちさとの事を告げ口し、その親達から連絡を受けた母にその悪行がバレたことによりそれはそれは大変怒られたのである。
いつも穏やかな母に鬼のツノが生えた幻覚が見えるほどにちさとは大いに怒られたのだが、反省の色を見せないちさとに更に怒った母はオヤツも抜き‼︎春ちゃんと一緒に寝るのもダメよ‼︎と叱ったことにより、見事にちさとは拗ねてしまったのである。
わたしはわるくないもん。だいすきなはるちゃんをいじめるあいつらがわるいんだもん。なんかいいってもわからない、あたまのわるいいぬはきらい。と口をへの字にして物置き部屋に閉じ籠ってしまったちさとを春市は追いかけようとしたのだが、母から「今日はちーちゃんに近づくの禁止!」と言われてしまい、大人しくリビングに居ることしかできなくなってしまったのだった。
自身の所為で怒られてしまった可愛い妹。
確かにあの暴れっぷりと言葉は、あの可愛らしい見た目からは想像もできないものであった。
幾らちさとがだいすきなはるちゃんをいじめたのがわるいんだもんと主張しても大人からしたら、あそこまで悪ガキ達をボロボロにして泣かせたちさとが悪いと決めつけてしまうのも無理はないかもしれない。
確かにそれ程までの光景だったのだが、矢張り春市としては手を出してきたのは向こうだし、可愛い自身の片割れであるちさとが怒られるのは悲しくもあった。
春市自身、自分がもっと強ければこんなことは起きなかったと悔やんでもいたのもある。
でも、片割れはいつも泣く春市に言うのだ。
「せいちょうしたら、わたしよりはるちゃんのほうがつよくなるよ」
「それまでは、わたしがはるちゃんをまもるから」
「おおきくなってつよくなったら、こんどはわたしをまもってね」
可愛い妹は春市にそう言いながらいつもぎゅっと抱きつくのだ。
双子だから、今は足りないものを二人で補えばいい。今はちさとが春市を守るから、大きくなったら今度はよろしくねとちさとは言うのだ。それが春市は情けないと思いつつも嬉しくもあった。
それなのに、今は弱い自身のために戦ってくれたちさとが母に怒られていた。
そのことに胸がモヤモヤと苦しい気がした。
それは、春市自身の感情から来るものなのか、それとも片割れが感じている感情が春市に伝わってきているのかはわからないが、春市は部屋に閉じ籠ってしまったちさとが気になって仕方がなかった。
ありがとう、ちーちゃん。だいすき。ぼくのせいでごめんね。
そう春市は大好きな片割れであるちさとに言いたかった。
春市よりも少しだけ小さな身体をぎゅっと抱きしめながら秘密の話をするようにちさとに言いたかった。
でも、母からちさとへの接近禁止命令が出てしまい、春市はちさとの側に行けないことが苦しくてソファの上に三角座りをして自身の膝と膝の間に顔を埋めた。
だか、不意に春市は顔を上げた。
あれ?とリビングをきょろきょろと前髪で隠れた瞳で見渡しては春市は再度、首を傾げた。
先程までリビングのソファーで本を読んでいた筈の春市とちさとの兄・亮介の姿が見当たらないのである。
春市とちさとが帰宅した時も、悪ガキの親達から母がちさとの悪行の連絡を受けた時も、ちさとが怒られている時も、そしてちさとが拗ねて部屋へと駆け出したときも兄・亮介は時々此方に視線を向けながらも静かにソファに座り、本を読んでいたのである。
それが今、亮介が座っていた位置には亮介の姿がなく、辺りを見渡しても姿がない。
母の手伝いをしているのかと思い、ソファに座ったまま春市はキッチンの方へと視線を向けるが、こちらにも姿は見つからなかった。
再び、春市は亮介が座っていた場所へと視線を戻すが残されているのは先程まで亮介が読んでいた本だけであった。
春市は、その本をじっと見つめるとハッとしたようにリビングから廊下へとつながる扉へと視線を向けた。
すると、リビングと廊下を繋ぐ扉が僅かに開いていることに春市は気がついた。
春市は視線をちらりとキッチンにいる母へと向け、母の視線が此方を向いていないことを確認すると音を立てないようにそっとリビングを抜け出したのである。
向かうは、拗ねたちさとが引き篭もってしまった物置として使用されている部屋である。
ひとつひとつ、母にバレないように春市は息を殺しながら階段を登る。どきどきと心臓が煩く鼓動を早め、その音が母にまで聞こえるのではないかと思ってしまうほどに春市は緊張していた。
音を立てず、なんとか短いのに長く感じた階段を登り切ると春市はちさとが引き篭もってしまった物置部屋へと視線を向けた。
茶色い材木でできた扉。いつもはしっかりと閉じられたその扉は今は少しだけ隙間が開いており、中がちらりと見える状態となっていた。
その開いた扉の隙間からは物置部屋に設置されている小窓から入ってきたであろう、オレンジ色に光る西陽が漏れており、時折り西日に照らされた人影がゆらゆらと揺らめいているのが見えるのと同時に聞き慣れた声が春市の耳に聞こえた。
春市は静かに光の漏れる扉に近づくとスッと少し開いた扉の陰からバレないように部屋の中から聞こえる声に耳を澄ませた。
ぐすぐすっと鼻を啜る音とひっくと吃逆をあげる声が聞こえる。
春市はすぐにこの声はちさとのものであり、そして、ちさとが泣いているのだとわかった。
そのことを脳が理解した瞬間、春市は部屋の扉を開け、すぐにちさとを慰めないといけないと本能的に思った。
大好きで大切な片割れが泣いている。可愛い妹が悲しんでいるという感情に春市は頭が真っ白になりながらも行動に移そうとしたのだが、次に聞こえてきた声に春市はぴたりと動きを止めた。
「一人で戦うなんてすごいじゃん。お前は、度胸があるね」
兄・亮介の声が聞こえてきたのである。
春市は部屋の中から聞こえた兄の声に動きを止め、ソッと開いた扉の隙間から部屋の中を覗き込んだ。
するとそこには先程まで春市がしていたように三角座りで自身の膝と膝の間に顔を埋めるちさとの姿とそのちさとの頭を優しく撫でる兄・亮介の姿があった。
春市は、その光景に特に驚くことはなかった。
春市がちさとと帰って来た時もちさとが怒られていた時もリビングで本を読んでいたいたはずの亮介が気がついた時には居らず、また読みかけの本を置いて姿を消した時点で亮介はちさとの元へと向かったのであろうと春市は思っていたからだ。
春市にとってちさとは可愛い片割れで妹。
それは亮介だって同じで、ちさとは可愛い妹なのである。
そんな妹が確かにやったことは悪いことかもしれないが、先に手を出したのは悪ガキ達でそれを(ちょっとと言うかかなりだと思うが)やり返したことにより母に怒られてしまったのは矢張り兄としては可哀想だと思ったのかもしれない。
だから、ちさとの様子を亮介は見に来たのだろうと春市は思ったのである。
亮介はちさとの頭を何度も優しく撫でた。
ぐすぐすと鼻を啜る音が響き、弱々しいちさとの声が「にぃに」と呼んだ。
亮介は頭を撫でながら「泣き方は春市と一緒だね」と笑った。
亮介にとってちさとは可愛い妹だ。
春市より少し小さな身体で大好きな兄のために、片割れのためにと頑張って戦った。
なのに誰も戦った理由を聞かずにちさとが悪いと叱りつけた。
確かにやりすぎたのは悪い。でも、ちさとは悪ガキ達のように自分勝手に暴れた訳ではないことを理解はしてやっても良いのではないか?と兄として、春市を守るために悪ガキに【おしおき】をしたことのある亮介は思ったのである。
母には散々とちさとは怒られていた。だから亮介は褒めた。
片割れを、大好きな兄を、家族を守ろうとして頑張った小さな騎士を褒めた。
亮介だけは、ちさとを褒めたのだ。
「一人で戦うなんてすごいじゃん」と褒めたのである。
きっと母親が見たら「凄くありません!」と叱られるかもしれないが、亮介は可愛い妹を褒めた。
ちさとはその言葉に膝に埋めていた顔を上げると涙に濡れた顔を亮介へと向けた。
亮介はちさとの頭を撫でていた手を今度は涙で濡れている頬へと伸ばすと親指で涙を拭うように撫でた。
少しの沈黙の後、亮介が口を開いた。
「まぁ、お前は女の子なんだから、あんまり手を出すのは感心しないけどね」
亮介の言葉にちさとは八の字になっていた眉を更にへにょんとさせるとつんっと唇を尖らせ、不満げな表情を見せた。
「むぅ…にぃにもおこるの?」
「怒ってはないよ。でも、可愛い妹が無茶をするのは良くないと思ってるだけ」
「……」
亮介の妹を思いやる言葉にちさとは何とも言えない表情をした。
納得できないような、でもにぃにに心配掛けちゃったかな…と言いたげな感情が入り混じった表情に亮介は、うっすらと笑った。
春市が扉の隙間からちさとの様子を伺うとちさとの瞳からはもう涙は溢れていないようで、春市はほっと胸を撫で下ろした。
「春市のためによく頑張ったね。そこは偉いよ」
「‼︎…ほんと?」
再度、ちさとを褒めた亮介にちさとは、パッと表情を明るくさせたのだが、亮介はそのまま言葉を続けた。
「うん。でも、お前はもっと賢いだろ? 賢いなら賢いなりの行動を見せないと」
亮介の言葉にちさとは、こてんと首を傾げた。
賢いなら賢いなりの行動を見せろ?どう言うこと?と言いたげにちさとは疑問符を頭に浮かべた。そして、思い浮かんだことを口にした。
「れいせいになれってこと?」
「そう。先ずは最初が肝心なんだよ。特にお前のような女の子にはね。なんなら、これがお前の今後の戦う武器になるかもね」
先程とは違い、意味ありげな表情で亮介はちさとへと笑う。
手を出して地面と悪ガキ達を仲良しにさせてしまったら母親に怒られてしまったちさと。
今は悪ガキ達とそんなに力の差が無いから勝てたであろうが、成長するごとに矢張り男の子と女の子の差は出てきてしまう。
今は悪ガキ達もちさとを恐れてはいるが、自分達の方が力があると悪ガキ達が理解してしまったとしたら今後はそうも行かなくなるかもしれないことを亮介はわかっていた。
兄としては、可愛い妹を守ってやりたい気持ちもあるが、ずっとべったりと張りついている訳にもいかない。だが、可愛い妹が怒られているのも怪我をするのも見たくはない。
だから、亮介はちさとに新しい【戦い方】と【武器】を与えようとしていたのである。
ちさとは賢い。それに度胸もある。きっと亮介が与えた【戦い方】と【武器】をちさとは使い熟すであろう。
そしてこの【武器】は、きっと今後出てくるであろう、ちさとの魅力に魅せられた虫達を寄せ付けない虫除け、言わば自衛としての役割ともなるであろう。
【戦う武器】であり、【守るための武器】ともなるのだ。
そんな兄の思いなど知らないちさとは、亮介から出た【武器】と言う言葉にぴくりと反応を示した。
じっと丸い目が亮介を見上げ、亮介の言葉の続きを待つ姿はまるで小さいながらにも忠誠心のある子犬のようだと亮介は思った。
ちさとの小さな口がゆっくりと小さな言葉を紡いだ。
「ぶき…どうしたらいいの?にぃに、おしえて?」
涙に濡れた瞳がうるりと亮介を見つめる。
「この表情もある意味、俺と春市には効果は抜群だけどね」と思いながら言葉には出さずに亮介はくすりと笑うとちさとの頬をするりと撫でた。
「いい?怒りを露わにしたら相手の思う壺だからね」
「うん」
亮介の言葉にちさとは小さく頷き、真剣な表情で続く亮介の言葉を待つ。
亮介は、ちさとに先ほどとは違う笑みを見せた。
威圧感のある真っ黒で有無を言わせない重さを込めた笑みでちさとににこっと笑いかけたのである。
ちさとの丸い目が溢れて落ちそうなほどに見開かれ、耳と尻尾がもしも生えていたらピンっと立ったように小さな身体の背筋が伸びた。
ちさとの膝の上に置かれていた小さな手がぎゅっと拳を握り、恐怖からなのか震える唇を噛み締める。
可哀想なほどにちさとの顔は青ざめているのを見て、春市はハラハラと心がざわめいた。
それでも、亮介はちさとに黒い笑みを向けることはやめなかった。
亮介はちさとに身をもって【武器】を教え込み、【言葉】で使い方を伝えたのである。
「こうやって、きっちりと笑顔で黙らせるんだよ」
—相手ににっこりと笑いな。
—でもその笑みには隙を見せてはいけない。
—笑みで相手を黙らせてねじ伏せて、
—そして従わせて何方が上なのかをわからせるんだ。
「わかった?ちいは【賢い子】だから出来るよね?」
亮介は尋ねるような、言い聞かせるようにも聞こえる言い方で先ほど見せた黒い笑みから普通の笑みへと表情を変えながら、お手本のようにちさとへ【武器】と【使い方】を教え込んだ。
ちさとは亮介の言葉に小さく頷いた。
大好きな兄から与えられた【武器】にちさとは噛み締めていた唇を緩ませる。
大好きな兄から与えられたものにちさとの頬がゆるりと緩み口元は嬉しそうに歪んだが、それはすぐに元へと戻ってしまった。
いつものへの字口に戻ったちさとの表情に亮介は頬を撫でていた手でむぎゅっと優しく頬を摘んだ。
「にぃに?」
どうしたの?と言いたげにちさとは亮介を見上げる。亮介はちさとの柔らかな頬を数回、摘んだ指先でむぎゅむぎゅとすると言った。
「への字口ちいは、まずは笑う練習から始めないとね」
「むぅ…」
「俺の可愛い妹なんだから、普段からいっぱい笑いなよ」
亮介の言葉にちさとは、きょとんとした表情を見せた。
ちさとの大きな瞳の中にきらきらと輝く星が舞っているようだと扉の陰に隠れて二人を見ていた幼い春市は思ったのだった。
「やっぱり、りょうちゃんはすごいや」
♦︎♦︎♦︎♦︎
あれから、ちさとは人が変わったかのようによく笑うようになった。
あの日、亮介から【武器】を与えられたちさとは最初の頃は仏頂面も多くあったが、日々を重ねるごとに亮介や春市、父母以外にも笑みを見せることが多くなり、そして最後は普段もニコニコと素直に笑みを浮かべるようになったのである。
きっと亮介に言われた言葉があったから余計に笑うようになったのであろうと春市は妹の変化に片割れとして喜びながらも、妹を変えたのが自分ではないことに寂しさと変わったちさとと変わらない弱い自分に少しだけ劣等感と云う複雑な心境もあったが、それ以上に「はるちゃんだいすき」と自分を呼んでは慕ってくれる妹が可愛くて仕方がなかった。
大切な片割れで、大切な妹。
ずっとこのままでいてほしいなとにこにこと笑うちさとを見て思っていた春市であったが、そんなちさとに新たな問題が発生したのである。
綺麗な花に魅せられた虫が近づき、周りを飛び回るかのように、にこにこと笑うようになったちさとに魅せられた男の子達が近づくようになってしまったのである。
確かにちさとは可愛い。ずっと亮介と春市からすれば可愛い可愛い妹であった。
それが今までへの字口だったちさとを可愛くない、怖い、なんならブスとまで言っていた奴等がにこにこと花が咲いたように笑うちさとに魅了され、手のひらを返したかのように可愛いと言い始め、好きだやなんだと一丁前に好意を見せ始めたのである。
都合が良すぎる。今までちさとのことを恐れていたくせに少し、にこっと笑みを浮かべただけで寄ってくる虫。
ちさとは賢く、強い子である。亮介から与えられた武器を使い、きっちりと群がってくる虫を自身で追い払っているが、時々、その可愛らしいちさとから醸し出される調教師と云うか、女王様のような雰囲気が良いと言うド変態な奴がいるのである。
それはもう、春市の心は穏やかではなかった。
可愛い妹にはできるだけ変なものに近づいてほしくはない。自分や兄である亮介が認めた者でしかちさとを任せたくない。兄として、片割れとして春市は妹を変なものから遠ざけなければ!と思い、今まで日々を過ごしてきたのである。
だが、そんな春市の思いなど知らない、青道高校野球部一年・沢村栄純の口から出た言葉に春市は握っていたリンゴジュースのパックを思わず握り潰してしまった。
ポタポタと水滴が春市の手を濡らし、リンゴのジュースの匂いが空間に広がり、辺りはしーんと静まりかえる。
それは数分前の昼休みの自販機前での出来事だった。
偶々飲み物を買いに来た春市と降谷は、これまた同じように飲み物を買いに来ていた沢村・金丸・東条・春乃と出会ったのである。
春市と降谷を見つけ、騒がしくなった沢村を宥めながらいつも仲良しな春乃と一緒に居るはずの片割れが居ないことに気がついた春市が何気なく「あれ?ちーちゃんは?」と尋ねたのである。
するとその問いに反応した沢村がにやにやとしながら、春市の心を揺るがす言葉を言い放った。
「ちぃーのなら、サッカー部のイケメン先輩にお呼ばれされてたぞ‼︎」
春市は沢村の言葉にピタリと動きを止めた。
「あれは告白だな‼︎いやぁー青春、青春‼︎スピッツ先輩から借りた少女漫画でも同じ展開があったから、絶対そうだ‼︎」
「まぁ、ちいは上の学年にも人気あるみたいだしな」
「笑ってる姿は可愛いよね」
「怒ると怖いけど…」
「ちーちゃん、部活も勉強も真面目さんだからクラスでも部活でも慕われてるもんね」
がやがやわいわいとその場にいる皆が話す声が聞こえるが、今の春市はそれどころではなかったのである。
ちーちゃんに告白?何処ぞの誰かわからない馬の骨が??
「はっ?」
そして、春市は手に持っていたリンゴジュースのパックを思わず握り潰してしまったのである。
騒がしかった沢村達は春市の様子を察して、しーんと静まりかえり、心なしか空気も段々と冷たくなっている気がすると金丸と東条と春乃は思い、春市の隣に立っていた降谷は恐怖なのか悪寒なのか…ぷるぷると体を振るわせた。
先ほどまで、煩いぐらいに騒いでいた沢村に至っては顔が真っ青になっており、そんな沢村に春市は手からリンゴジュースを滴らせながらも前髪で隠れた瞳を向けた。
「栄純くん」
「な、なんだ春っち」
思わず沢村の声が裏返ったが、春市は気にすることなく言葉を続けた。
「そのサッカー部の先輩とちーちゃんが何処に行ったか、わかる?」
「えっ⁉︎」
「なに?わからないの?」
前髪で隠れている筈の春市の瞳がぎろりと目つきを変えた。
矢張り兄弟。春市の「なに?わからないの?」の言い方が兄・亮介が言っているように聞こえ、「ひぃっ‼︎お兄さん⁉︎」と沢村が怯え引き攣った声を上げ、降谷の体の震えは更に加速し、春乃は思わず隣にいた金丸の制服の袖を摘むように掴んだ。
ドキッと金丸の心臓が大きな音を立てたが、それは春乃に近づかれたからなのか、それとも春市から与えられた恐怖からなのかは分からなかったが、困った顔の東条と顔を見合わせると金丸はとりあえず目の前の春市を鎮めなければと思い、知っていることを答えた。
「お、屋上‼︎屋上だったと思うぞ‼︎」
「屋上…?」
沢村に向けられた視線がぐるんっと金丸へと向けられ、確認するように屋上と云う単語を春市は繰り返した。
普段、沢村と降谷に振り回されている時のような雰囲気とは違い、矢張り何処か兄である亮介に似たような黒いオーラのようなものを醸し出す春市に金丸は少し怯んだが、金丸の隣に立つ東条が視線で「本当?大丈夫?」と尋ねてくるので金丸は無言で頷いた。
「屋上…そっか。金丸くんありがとう」
春市は金丸に礼を言い、パックのリンゴジュースを握りつぶした手のまま沢村達の横を通り過ぎようと動いたのを止めたのは誰よりも回復の早かった沢村であった。
沢村は慌てて春市を羽交締めにするように背後から抱きつき、それに続いて金丸もハッとしたようにリンゴジュースのパックを握りしめたままの春市の手を掴んだ。
「待て待て待て‼︎」
「何処に行くんだ‼︎春っち‼︎」
「離して栄純くん、金丸くん」
背後から自身の動きを止めてくる沢村と金丸に春市は静かに二人の名を呼んだ。
沢村と金丸の頬にたらりと汗が滴った。
冷たく静かな春市のその態度に東条と降谷と春乃も焦ったように春市を宥めようと近づいた。
「いやいや、何処に行くつもり⁉︎」
「今放したら大変なことになりそう…」
「と、とりあえず落ち着いて小湊くん‼︎」
わたわた、がやがや、あせあせと皆が皆、春市を止めようとするが春市は珍しく抵抗を見せた。
「ちょっと屋上に行くだけだよ」
「おまっ、それってちいの所に乗り込みに行くつもりだろ⁉︎」
「大丈夫だよ‼︎ちーちゃんならきちんと断れる子だよ、小湊くん‼︎」
「とりあえず、小湊は落ち着こう。な?」
駄々をこねる幼子をあやすように皆が声をかけるが春市は止まらず、焦ったように声を上げた。
落ち着いてと言われても春市の脳裏を過ぎる自身の妹の笑顔に春市は冷静ではいられなかったのである。
「落ち着いていられないよ‼︎」
「うぉ!?春っちが御乱心だぁぁぁぁぁ‼︎‼︎」
「うるさいよ‼︎栄純くん‼︎‼︎」
拳を握り、春市は叫んだ。
「ちーちゃんが告白を断ったのは良いとして、相手がもし引かなかったら?しつこい相手だったら?ちーちゃん、見た目はあんな感じだけど中身は物凄く短気なんだよ⁉︎怒ったちーちゃんが、この間のテスト勉強の時の御幸先輩みたいにそのサッカー部の人をその場で調教し始めちゃったらどうするの⁉︎」
春市の言葉に春市を宥め、止めようとしていた沢村達はピタリと動きを止めた。
今、自身の妹の行動を調教と言った春市の言葉は置いておくとして、沢村達の脳裏にあの亮介に似た黒い笑みをにっこりと浮かべた小湊妹の姿が浮かび上がる。
「イイコにできるよね?」と下から覗き込むようにして、圧のある有無を言わさないあの笑みに春市と春乃以外の部員は顔を青ざめた。
確かにありえる。その場に居た皆がそう思った。
だからこそ、春市は落ち着いてなどいられなかった。
こうしている間にも時は過ぎていくのである。
一秒毎に大丈夫なのだろうか、守ってあげなきゃ、そばにいなきゃと可愛い妹への様々な感情が春市の心の中に込み上げては募っていく。
だが、それと同時に春市は片割れに好意を寄せている相手のことも心配だったのである。
妹のへの心配八割、相手への心配一割、そして変な状況になっていないかの心配一割。
故に早く可愛い片割れのもとへと春市は行きたかった。
亮介から【武器】と【使い方】を与えられたちさとは、それはそれは水を得た魚のように生き生きとしていた。
相手を無傷で黙らせて【イイコ】にさせる。それだけで大抵の人間は大人しくなり、ちさとに近づかなくなるのだが、時折り例外がいるのである。
それが、春市の一番の心配だったのである。
「ちーちゃんの態度でその人が引いてくれたら良いけど、時々居るんだよ‼︎あの状態のちーちゃんに興奮しちゃったり、崇拝しちゃったりする人が‼︎」
春市の言葉に更に皆がピシッと動きを止めた。
そんなわけないだろ。と何も知らない人間なら春市の言葉を冗談だ、大袈裟だと笑うかもしれないが、この場に居る野球部員である皆は知っている。
崇拝こそしてはいないが、居るのだ。
今の春市の言葉に当てはまる人を沢村達、野球部員は知っているのである。
叱られて、怒られて、いいこにできるのかと歳下の小湊妹に聞かれては嬉しそうにしている人物を沢村達は知っている。
いつも飄々として食えない性格で葉に着せぬもの言いから友達も少ない【性格の悪いやつ】だが、野球の腕前はピカイチ。なのに、あの黒い笑みを浮かべるちさとを【良い】という奴がいるのである。
「僕が…短気なちーちゃんが暴走する前に止めないと‼︎」
春市の心からの叫びに沢村達は何も言い返すことができず、そっと目線を逸らした。
ある者は天井へ、またある者は横の壁へ、またある者は地面へと視線を向けた時だった。
「お前らこんなとこで何してんの?」
「さっきからぎゃーぎゃー騒いで周りの迷惑だぞ」
突然の声に春市達は様々な方へと向けていた視線を声の方へと向けた。
すると、そこには同じ青道高校野球部二年の倉持洋一と御幸一也の2年B組コンビが立っていた。
倉持と御幸の二人は春市に纏わりつく沢村達を見ながら「なにやってんの、お前ら」と言いたげに不思議そうな表情をしているが、沢村達はそんな表情を気にすることなく、先程自身達の頭に浮かび上がっていた人物が突然現れたことに驚いた表情を見せた。
「あーっ‼︎ちぃーのに調教された人‼︎…って、うわっ⁉︎」
「この馬鹿‼︎」
「はぁ?いきなりなんなの、沢村」
ビシッと御幸を指さして大声で言った沢村の頭を金丸は素早く引っ叩いた。
先輩になんてことを言ってんだ‼︎と叱る金丸に沢村は「だって事実だろ⁉︎」と叩かれた頭を片手でさすりながら声を上げるが、お前もその一人じゃねぇか‼︎と金丸は再び沢村の頭を叩いた。
痛ぇ‼︎と耳の側で声を上げる沢村に春市は「もぉー‼︎栄純くんうるさい‼︎」と顔を顰めながら言った。
一方の唐突に指をさされて【調教された人】と沢村に大声で言われた御幸も怪訝そうに顔を歪めた。
一体なんなんだと首を傾げながら沢村を見つめる御幸の隣では、倉持が御幸を指さして笑いながらも春市の方へと視線を向けて「これ、なんの騒ぎだよ」と尋ねており、春市は後ろからまだ肩を掴む沢村をやんわりと振り解くと、少し冷静さを取り戻したのか、ポケットからハンカチを取り出して自身のリンゴジュースで濡れた手を拭きながら倉持へと先ほどのことを話し始めた。
可愛い片割れがサッカー部のイケメン先輩にお呼び出しをされたことも、それはきっと…多分告白であろうと云うことも、可愛い妹が色んな意味で心配だと云う兄としての心境も春市は倉持へと話をした。
そして心配のあまり、妹の元へ向かおうとしたところを沢村達に止められたところだったのだと状況の説明をし終えると春市は少しだけ、長い前髪の隙間からちらりと御幸へと視線を向けた。
サッカー部のイケメンにお呼び出しをされたと云う春市の言葉に倉持の隣に立っている御幸の凛々しい太眉がピクリと動いたのを隣にいた倉持も状況の説明をしていた春市も何気なく気がついたが、敢えて言葉にすることはしなかった。
だが、何処か雰囲気が変わった御幸に指摘をしない代わりに倉持はニヤリと口元を歪ませた。
「へぇー、うちのマネージャーはモテモテじゃねぇーか」
なぁ、御幸。と倉持が自身の隣に立っている御幸へと意地悪そうに笑いながら声を掛けた。
またしても御幸はピクリと少しだけ反応を見せると唇をつんっと尖らせながら不機嫌そうに倉持へと視線を向けた。
「……俺に何が言いてぇの?」
「ヒャハハ‼︎おーおー、不機嫌そうじゃねぇか!」
いつもスカしている御幸が不機嫌そうな表情をしていることに倉持は面白くて堪らないと言いたげにニヤニヤと意地悪い笑みを浮かべながら御幸を揶揄うような態度を見せた。
それに対して御幸は更に不機嫌そうに顔を顰めると「ったく、人で楽しみやがって」と悪態をつき、そして御幸は春市へと視線を向けるとため息を吐いた。
「小湊、いもうとちゃんだって立派な高校生だぜ?自分のことぐらい自分でできるだろ」
御幸のその言葉に春市は少しムッとしたような表情を見せた。
御幸が前々から片割れであるちさとのことを気になっていることを春市は知っていた。
だから、ちさとのことを心配するような言葉が御幸から返ってくるかと思っていたのだが、返ってきた言葉は案外素っ気ないものだったことに、ちーちゃんのことが気になっているくせにこの人は何てことを言うんだ‼︎ちーちゃんのこと心配じゃないのか⁉︎と心の中で思ったが、声には出さずに拳をギュッと握ると前髪で隠れた瞳でジッと春市は御幸を見上げた。
御幸は春市の視線にニヤリと口元を歪ませると自身をびっと指さして言った。
「それにサッカー部のイケメン先輩がどんな奴か知らねーけど、俺の方がイケメンじゃね?」
戯けたようにニッと自信満々にそう言い放った御幸に倉持はすかさず、御幸の尻に蹴りを喰らわせた。
御幸の発言を聞いた沢村は「あんた、何言ってんすか?」と珍しく冷静に御幸を信じられないものを見るような表情で見つめ、降谷の視線も何処となく可哀想な生き物を見るような視線のものとなっていた。
御幸は倉持に蹴られた尻を「痛ぇ‼︎」とさすりながら、沢村の言葉にまたニヤッと意地悪そうに笑った。
「俺だって意外と他の学年の奴等から告白される回数は多いんだぜ?イケメン枠に入る方だと思うんだけど?」
「いや、あんたはちぃーのが関わるとすげぇー情けないんでイケメン枠からは除外だと俺は思うっすよ!」
沢村の言葉に降谷がうんうんと頷き、春乃と金丸も東条と春市はそっと目を逸らした。
倉持だけは沢村の言葉に腹を抱えて笑っており、目尻には涙さえ浮かべて大変楽しそうである。
その光景に御幸は「えぇー?」と心外だと言いたげな声を上げ、大袈裟にため息を吐くと春市へと向き直った。
「とりあえずさ、いもうとちゃんは大丈夫だろ」
じゃあ、俺はもう行くからこれ以上騒いで他人に迷惑かけんなよー。と春市に無関心とも取れるような言葉を吐きながら御幸は背を向け、手を振りながらその場を去ろうとする背に待ったをかけたのは御幸と同じクラスの倉持であった。
倉持は去ろうとした御幸を止めるように「おい、クソ眼鏡」と御幸へと声を掛けた。
その声にその場を去ろうとしていた御幸の足はピタリと止まり、何を言われたわけでもないのに御幸の肩が大きくビクッと震えた。
シャンとしていたはずの背筋が倉持に呼び止められたことにより、少しだけ猫背になったようにも見え、倉持はその御幸の少し丸まった背中を見つめながら鼻で笑った。
「てめぇーは目的の物を買わずに何処に行くつもりだよ」
心なしか先程の笑みよりも意地悪く笑いながら御幸の背に問いかける倉持に沢村達は首を傾げた。
そう、昼食を食べ終えた倉持と御幸は元々飲み物を買いに自販機へとやって来たのである。
しかも、飲み物を買いに行くと言い始めたのは御幸で、なんなら飲み物なら購買でも売っているが人が多いから自販機の方が近いし人も少ないだろうと言いだしたのも御幸である。
それなのに目的の飲み物を買うことなく足早にその場を去ろうとする御幸に倉持は意地悪く問いかけたのである。
先程の小湊妹がサッカー部のイケメンに呼ばれた時の反応も、そして余裕そうにスカした顔で春市に「自分のことぐらい自分で出来るだろ」や「いもうとちゃんは大丈夫だろ」と云う発言。
それらは全て御幸が自身の動揺を隠すために口にしているのだと云うことに倉持は気がついていたのである。
御幸は動揺していた。
想いを寄せる小湊妹がサッカー部のイケメン先輩にお呼び出しされたこと。
放っておけば良いのにそのお呼び出しに小湊妹が向かったことに動揺していたのである。
本当は春市から話を聞いた瞬間、御幸の頭の中には【小湊妹がサッカー部のイケメン先輩に惚れたらどうしよう】と云う気持ちと【その告白を受け入れてしまったら…】と云う不安が一瞬にして過ったのである。
その動揺を隠すために無意識に口数は多くなり、ふざけてもみたが倉持には御幸が動揺していることはお見通しであった。
背後でニヤニヤと笑う倉持の気配を感じ、御幸は気まずそうに顔を歪ませながら倉持の方へと振り返った。
「てめぇーは、何処に行くつもりだぁ?」
倉持は再度、ニヤニヤとニヤつきながら御幸に問いかけた。
すると御幸はぐっと唇を噛み締めた後にキリッとした表情で口を開いた。
「屋上で素振りしてくるわ」
「あんた、今バット持ってねぇーじゃないすか」
「……俺、今日は絶対に沢村の球は受けねーから」
「なんだと⁉︎」
御幸の言葉に間をあけることなく沢村が鋭くツッコミを入れると御幸は拗ねたように口を尖らせながら今日の沢村の練習には付き合わないと拒否を見せた。
それを聞いて騒ぐ沢村の横で降谷が「じゃあ、今日は僕の球を…」と言おうとしているのを「話がややこしくなるからやめろ‼︎」「降谷、とりあえず大人しくしてようね」と慌てて金丸と東条が止めに入っているのを横目に倉持は「ヒャハハッ‼︎」と笑い声を上げた。
その隣に立つ春市が前髪に隠れた瞳を己へと向けているのが感じられた御幸は「あーもー‼︎」と言いながらガシガシと片手で頭を掻いた。
「そうだよ‼︎‼︎めっちゃ動揺してるよ‼︎‼︎‼︎今すぐ屋上に乱入して、いもうとちゃんへの告白を邪魔したい‼︎‼︎」
「突然に開き直りすぎだろ、お前」
ニヤニヤと笑っていた倉持は御幸の本音を聞き、揶揄って楽しむつもりだったのに御幸の予想外の本音と反応に倉持は少し引いた表情を見せた。
「うるせぇーぞ、倉持。 …小湊、三年の教室行って亮さんにも声かけてから、いもうとちゃんのところに乗り込むぞ‼︎」
「そんなことに亮さんを巻き込むんじゃねぇよ‼︎」
開き直りだ‼︎強行突破だ‼︎と言わんばかりの勢いとキリッとした表情で御幸は春市の肩をガッと掴みながらそう言い放った。
御幸の口から出た、小湊家長男で春市とちさとの兄である亮介の名前に倉持が思わず反応すると御幸はジロリと倉持を睨むような視線を向け、ぴしっと倉持を指摘するように指を差した。
「いいか、いもうとちゃんは亮さんが大好きだ。ならそこに片割れの小湊も合わせることによりオニーチャン大好き♡いもうとちゃんには効果抜群だ」
「我ながらナイスアイデアだろ?」と真面目にアホなことを言い始めた御幸に倉持は眉間に皺を寄せた。
馬鹿野郎としか言葉が出なかった。
情けないとは思ってはいた。
以前、小湊妹に叱られたのだと何処かうっとりとした恍惚の表情で聞きたくもないのに勝手に一人語りを始めた御幸を見てから小湊妹が関わると情けない男に成り下がるところが、本当に情けねぇなと倉持は思っていた。
それが、日が進む毎にこんな風にここまで情けなさが進化と云うか、進んだと云うか酷いものになってしてしまっているとは倉持も思っていなかったのである。
野球に関しては言葉にはしないが、かなりの腕前で性格が悪いと言われるぐらいの策士家であるのに、何故か小湊妹が関わると御幸は情けないただ一人の恋する男へと成り下がってしまうのである。
俺の妹なら御幸如きを振り回すなんて朝飯前だよ。と倉持の頭の中の亮介が平然と言ってのける。
違うんです、亮さん。御幸が情けなさすぎるから引いてるんすよ、こっちは。と頭の中の亮介に倉持は言うが、頭の中の亮介に煩いよと返された。解せぬ。
そんな何とも言えない気持ちを苦虫を噛み砕いた様な表情を浮かべながら倉持は御幸へ視線を向けていた。
だが、御幸には気にすること無く、キリッとした表情で倉持を無視して話を進めた、
「いもうとちゃんの大好きな二人を揃えちまえば、こっちのもんだ。どんなにイケメン先輩だとしても亮さんには勝てねぇって」
にししっと悪い策士の顔をする御幸の眼鏡の奥の双眸には「絶対に邪魔してやる」と云う強い意志が感じられ、肩を掴まれたままの春市と倉持はお互いに顔を見合わせた。
「本当、止めた方がいいっすよ?後でちぃーのに、春っちならまだしもお兄さんを巻き込んだとなったらあんた、めちゃくちゃに怒られやすよ」
「声をかけて、それで亮さんが着いて来たなら俺が巻き込んだんじゃないし自主的なものになんじゃん」
「あんたってやつは…‼︎」
珍しく御幸を止めようと声をかけた沢村は御幸の捻じ曲がった返答に絶句した表情を見せた。
それでも笑う御幸に倉持の口角は引き攣り、肩を掴まれたままの春市は目の前で先程の自分以上に暴走をしている御幸を見て、完全に冷静さを取り戻すとこの状況をどうしようかとため息を吐いた。
このままでは本当に乗り込みかねない。なんなら亮介までもを巻き込み、顔も覚えてないサッカー部のイケメン先輩にどんな手を使ってでも完全勝利をしようとしている御幸が色んな意味で恐ろしいと春市は感じた。
確かに最初は可愛い片割れで妹であるちさとを心配して暴走してしまった春市も悪いのだが、まさか自身の片割れになんかいつの間にか好意を寄せ始めた御幸がこの場に現れ、ちさとが告白されそうであると耳にしたかと思うと暴走してここまでの大きさの話になってしまうとは思わなかったのである。
ちーちゃん、ごめんね!とりあえず、告白を受け入れることはないと思うけど、しつこくされて怒ってサッカー部の先輩に調教紛いな変なことしちゃだめだよ‼︎と春市と思いつつも今、この状況を納める解決策が見つからず心の中で頭を抱えた。
だが、そんな春市達に突然、「何やってんだ、オマエら」と声を掛ける人物が現れた。
御幸達はピタリと騒ぐのを止めると声がした方へと皆が一斉に視線を向けた。
するとそこには、青道高校野球部三年の伊佐敷純が御幸達が集まっているのを不思議そうに見つめながら立っていたのである。
その隣には同じく野球部三年で主将の結城哲也と野球部三年の滝川・クリス・優も立っており、沢村は尊敬するクリスの姿を見ると「クリス先輩!」と飼い主を見つけた犬のように嬉しそうに名前を呼び、名前を呼ばれたクリスはフッと微笑んだ。
「純さん、哲さん、クリス先輩?何でここに…?」
伊佐敷と結城とクリスと云う珍しい組み合わせに御幸が不思議そうに尋ねるとクリスが「あぁ、それは…」と御幸の問いに答えようとしたところ、背丈の高いクリスの背後からぴょこりと見慣れた桃色の髪が見えた。
誰しもが、伊佐敷と結城とクリスと云う顔ぶれの背後から見えた桃色の髪を亮介だと思い込み、倉持が「あ、亮さん」と声に出そうとしたところ、その桃色の髪の持ち主は可愛らしい声で春市の名を呼んだ。
「あ、春ちゃんだ」
ぴょこりとクリスの後ろから現れた桃色の髪の持ち主は皆が思っていた人物ではなく、御幸と春市の暴走の原因で元凶である小湊妹だったのである。
小湊妹はクリスの背後から顔を覗かせながら春市の名を呼び、きょろりと辺りを見渡しては春乃も居ることに気がつくと「のんちゃーん」と呑気に春乃に手を振った。
「ちーちゃん!?」
「いもうとちゃん!?」
「ちぃーの!?」
突然現れた先程の問題の人物の姿に思わず、春市も御幸も沢村も小湊妹の名を呼び、東条達も目を丸くさせたが、原因である本人は呑気に「なぁに?」とにこにこと笑っている。
春市は思わず、ちさとへと駆け寄ると片割れの両肩を掴みグッと顔を近づけた。
「ちーちゃん‼︎大丈夫⁉︎変なことされたり、したりしてない⁉︎」
物凄い勢いで春市がちさとへと問いかけるとちさとは、きょとんとした表情を見せたが、自身の片割れが何の事を言っているのかを瞬時に理解するとくすくすと笑った。
「変なことされてないし、してもないよ」
春ちゃんは心配性だねぇとにこにこと笑う自身の片割れに春市は「そう思うなら僕に一言ぐらい声を掛けてよ‼︎もしくはメールでもできたでしょ‼︎」とちさとを叱るが、ちさとは笑顔のまま「大丈夫なのに…」と何処か春市に心配されたことを嬉しがっているように御幸には見えた。
いつも笑顔な小湊妹だが、矢張り大好きな兄や片割れが関わると笑顔にも変化が見える。
他の人物が見れば、同じ笑顔では?と思うかもしれないが、キャッチャー故の観察力なのかそれとも想いを寄せる相手だからなのか、御幸には小湊妹の【笑顔の違い】が最近少しだけ分かるようになっていた。
もしかしたら自分がそう思うだけでなのかもしれないが、今の笑顔は大好きな片割れに心配されて嬉しそうな笑顔だと云うことが御幸には感じられたのである。
その笑顔を引き出したのも向けられているのも自分ではないことに少し悔しさを感じながらも小湊妹の告白事情の方が気になってしまい、そわそわと御幸の心は落ち着かないでいた。
もー!と叱る春市とにこにこと笑う小湊妹を横目に御幸はとりあえず何故、伊佐敷達と小湊妹が共にいるのかと云う疑問を投げかけてみた。
「なんで、クリス先輩達がいもうとちゃんと一緒に居るんですか?」
「あ?そりゃ、亮介に頼まれたからだよ」
御幸の問いかけに伊佐敷がそう答えると御幸と倉持、そして小湊妹以外の一年生達は首を傾げた。
♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎
遡ること数十分前。
昼食を終えた伊佐敷・結城・クリス、そして小湊家長男の亮介を含めた四人は食堂から三年生の教室へと戻ろうとしていたところをバッタリと小湊妹と遭遇したのである。
小湊妹は大好きな兄の姿を見つけると「にぃにだぁー」と嬉しそうににこにこと笑いながら駆け寄って来たのを亮介が「ちい、廊下は走らないよ」と注意しながら頭をポンっと叩いた。
「ごめんなさい、にぃに。純さん先輩、哲さん先輩、クリス先輩、こんにちは」
「おう」
「あぁ」
「こんにちは」
小湊妹は亮介に謝りながら、亮介と共にいた伊佐敷達にぺこりと軽く頭を下げて挨拶をすると結城達も優しく小湊妹へと挨拶を返した。
「それにしても、ちいが上まで登ってくるなんて珍しいじゃねぇーか。なんか、亮介に用事か?」
伊佐敷は亮介に叱られたにも関わらず、気にすることなくにこにことしている小湊妹に、一年生で別の階にクラスがある小湊妹が自分たちの居る上の階まで登って来たと云うことは何か用事があるのではないかと思い尋ねた。
すると小湊妹は「いいえ、特に連絡事項等はないですよ」と首を横にふるふると振った。
なら、亮介に会いに来たのか?と思ったが、それも違うようで不思議そうに結城達が首を傾げていると亮介だけは何かを察したのか、静かな声色で「ちさと」といつもの愛称ではなく、小湊妹の名前を呼んだ。
愛称ではなく名前を呼ばれたちさとは、にこにことした笑顔から少し困ったような笑顔へと表情を変えた。
一瞬だけきょろりと視線を逸らし、自身の頬を片手の人差し指でぷにっと触る仕草をする自身の妹に亮介は再度、「ちさと」と妹の名を呼んだ。
「誰に呼び出しされたの?男?女?」
「わぁ。にぃに、お顔が怖いよ?」
「ちさと。俺は真面目に聞いてるんだよ」
「むぅ…偶々、通りかかっただけだもん。なにもないよ」
「茶化さないよ。何処のクラスの男?」
「亮介…お前、今ので男ってわかんのかよ…」
怖ぇ…と呟く伊佐敷に亮介はにっこりと黒い笑顔を見せると伊佐敷はスッと視線を逸らし、口元をひくひくと引き攣らせている伊佐敷の背中をクリスと結城がぽんぽんと叩いては、今は首を突っ込むなと言わんばかりに首を横に振った。
それでも亮介は気にすることなく、妹に優しく尋ねた。
少し下にあるちさとの顔を覗き込むようにしてにっこりと笑いながら「それで?」と問いかけ、言葉を続けた。
ちさとの表情がいつもの笑顔から形の良い眉がへにょんと困ったように形を変えた。
ちらりと伊佐敷達の方へと助けを求めるように視線を向けるがクリスは目を逸らし、伊佐敷と結城は首を横に振り、諦めろと言わんばかりに野球部の頼れる先輩達は可愛い後輩マネージャーであるちさとを見捨てたのであった。
それでも亮介の追求は終わらず、ちさとの頭にぽんっと亮介の片手が乗せられたかと思うと亮介はグッと顔をちさとへと近づけた。
「ちさとは【良い子】だから、にぃにに素直にお話しできるよね?」
何処かで聞いたのことのある言い回しにクリスと結城と伊佐敷の背筋に冷たい風が一瞬通り抜けたような感覚がした。
この兄にしてこの妹あり。確実にちさとは亮介の影響を受けて育ったのだとありありと分かる光景に伊佐敷達はなんとも言えない表情を見せた。
一方のちさとは亮介にそう言われてしまったからなのか、艶やかな唇をつんっと尖らせると渋々と言いたげに口を開いた。
「サッカー部の先輩から「小湊さん、屋上に来てほしい」ってお呼び出しされたの」
「へぇ、屋上にお呼び出しされたんだ。…サッカー部か…誰だろうね」
「栄純くんはイケメン先輩とか言ってたよ。私はそう思わなかったけど」
にぃにと春ちゃんが一番カッコいいもんと唇をつんと尖らせたまま言い張るちさとに亮介はちさとの頭に乗せたままの片手で優しく撫でた。
「ちゃんと言えて偉いじゃん。ちさとは良い子だね」
その亮介の言葉にちさとはパァーと嬉しそうに表情を変えるとまた、にこにこと笑顔を浮かべた。
一方の亮介は自身の妹の頭を再度ひと撫ですると手を離し、考えるような仕草を見せたかと思うとニコッと先程とはまた違う意地悪そうな笑みを見せた。
「【小湊さん】って言われたんだっけ?」
「そうだよ」
「へぇ…じゃあ別にそのお呼び出しに行くのは、ちいじゃなくても良いってことだね」
「へっ?」
「え?」
「はっ?」
「ま、まさか、亮介…お前っ⁉︎」
ニッコリと笑いながら言った亮介の発言に伊佐敷達はポカンと口を開け、亮介の言葉の意味を理解するとふるふると身体を震わせながら伊佐敷は亮介を指差した。
「お呼び出しされたのは【小湊さん】でしょ?」
——俺も【小湊】だよ?
「なら、俺が行っても問題はないよね」
「いや、ダメだろ‼︎‼︎」
「純は黙ってて」
「にぃに、自分でなんとか出来るから大丈夫だよ」
突然の亮介の発言に伊佐敷がダメだろ‼︎と亮介を止めようとしたが亮介は間を空けることなく伊佐敷を黙らせた。
亮介の勢いと怖い笑顔に伊佐敷は餌を求める鯉のように口をパクパクとさせるだけでその先の言葉を続けることができずに「クソっ‼︎」と唸るとガシガシと片手で頭を掻いた。
ちさとと云えば、困った顔で亮介の制服の袖をくいくいと引っ張りながら「にぃに。にぃに、ねぇ、聞いてる?」と一向にちさとの方へと振り向かない亮介の名を呼ぶが、亮介は聞こえないふりをした。
そして先程、ちさとの頭を撫でていた手でピシッとちさとの額を弾いた。
「いたっ‼︎」
「お前もうるさいよ」
額を叩かれたちさとは思わず亮介の服の裾を掴んでいた手を離し弾かれた額を抑えながら「にぃに!」と強い口調で亮介を呼ぶが、亮介は笑顔を崩すことなくちさとに「純にでもジュース奢ってもらいなよ」と言い、くるりと背を向けたまま片手を振りながら歩き始めた。
「純、このじゃじゃ馬娘をよろしくねー」
「おいおい、なんで俺なんだよ…」
「しゃーねぇな…」と呟く伊佐敷の言葉を耳にしながらもちさとは遠ざかる兄の背中を追いかけようとしたのだが、クリスがその行動を止めるかの様にスッとちさとの顔の前に手を出してきたのでちさとは後を追うことができなかった。
ちさとは自分よりも背の高いクリスを見上げるように視線を向けると目が合ったクリスはフッと優しく微笑んだ。
「亮介は兄として可愛い妹が心配なんだろう。少しぐらい頼ってもいいんじゃないか?」
穏やかに優しく包容力のある声色でちさとへと声をかけるが、ちさとは何とも腑に落ちないと言いたげな表情をクリスへ見せた。
「……これは何か違うと思いますけど…」
これぐらいなら自分でお断りできます。と呟くちさとに次に声をかけたのは結城であった。
結城は腑に落ちないと言いたげなちさとの背中をぽんっと軽く叩いた。
ちさとの瞳が今度は、ぱちりと結城の方へと向けられると結城は先程のクリスの言葉に頷きながら言った。
「良いじゃないか。兄はいつでも弟や妹が気になるものだ。俺にも弟がいるから亮介の気持ちはわかるぞ」
クリスに続き、兄の気持ちを代弁するかのように結城が言うとその言葉を聞いていた伊佐敷が「俺は姉貴しかいねぇからわかんねーなぁ」と呟いた。
一方のちさとはクリスと結城の言葉に「そんなものなんでしょうか?」と不思議そうに呟くとちらりと伊佐敷へと視線を向けた。
「伊佐敷先輩は末っ子なんですか?」
「…まぁな」
「部活で結構面倒見が良さそうでしたので、お兄さんかと思ってました」
ちさとの言葉を伊佐敷は少し擽ったく感じながらも再びガシガシと片手で照れ隠しのように頭を掻くとちさとを呼んだ。
「オラッ‼︎ちい、行くぞ」
「えっ?どこにですか?」
「亮介がジュースでも買って貰えつってただろ。自販機行くぞ‼︎」
着いて来い‼︎とちさとへと背を向けて歩き始めた伊佐敷にちさとは戸惑い、横にいたクリスと結城へとどうすれば良いのかと云うように視線を交互に二人に向けると二人はちさとへと小さく頷き、先を歩く伊佐敷の後をちさとの背中を押す様にして追いかけた。
「ありがとう、伊佐敷。俺はコーヒーが良いな」
「ありがとう、純。俺はお茶で良いぞ」
「テメーらのは買わねーよ‼︎‼︎」
♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎
「と云うわけで俺達は亮介の頼みと伊佐敷にジュースを奢ってもらうためにここに来たんだ」
「だから、驕らねーからな!?」
クリスからここに来た経緯について話を聞いた倉持達は苦笑いを浮かべ、春市はちさとの両肩に手を置いたまま、クリスから聞いた亮介の行動に対して「兄貴っ…‼︎かっこいい‼︎」と兄のかっこよさを噛み締め、琴の発端であるちさとはそんな春市を見てにこにこと笑っていた。
そんな中、御幸は顔には出さないが、小湊妹が屋上に行かなかったことに対してホッと胸を撫で下ろした。
想いを寄せている女の子と学年が違う、それだけでも御幸は嫌だと感じてしまう時があるのにお呼び出しされたなんてもっての他である。しかも、そのお呼び出しの内容が告白かもしれないなんて聞いてしまったものだから御幸の心はざわつき、どんな手を使っても邪魔してやると意気込んでいたのだが、そんなちさとへのお呼び出しを兄である亮介が阻止したのである。
片割れの春市が動くよりも早く、だけど多少強引にちさとを丸め込んでは、訳のわからないぽっと出のサッカー部の先輩を遠ざけた亮介の行動に関心すると同時に兄としての強さを見せつけられた様な気もして、御幸としては少し何とも言えない気持ちもあるが、とりあえずちさとを顔も知らない男に奪われるかもしれないと云う不安は遠ざかったので良しとしようと己を納得させた。
——あー、なんか変に疲れた…
バットで素振りをしたわけでもないのに何故かドッと疲れがやってきたのを感じながらふぅーっと小さく御幸は溜息を吐いた。
本当に心臓に悪い。そう思いながら溜息を吐き終わると御幸はちらりと視線を小湊妹へと向けた。
すると、小湊妹も御幸の方を見ていたのか、ぱちっと小湊妹と御幸の視線がぶつかり合い、二人とも一瞬、不意を突かれたかのようにきょとんとした表情をお互いに見せた。
まさか、小湊妹が自分の方を見ているとは思ってなかった御幸は驚いたように目を丸くさせ、静かに小湊妹を見つめていると小湊妹も同じようにじっと御幸を見つめ返した。
伊佐敷や倉持、沢村の話す声が御幸の耳に届くが、膜が張ったかのように何処か遠くに聞こえ、二人の間に流れる時間だけがゆっくりなように感じられた。
小湊妹の丸い瞳が御幸をじっと見つめる。それに対して御幸もじっと小湊妹を見つめ返していると小湊妹は突然、御幸ににこっと微笑んだ。
自分へと向けられたその笑顔に御幸の胸はぎゅっと締め付けられる感覚がした。
声には出なかったが、御幸の少しカサついた唇が無意識に「いもうとちゃん」と小湊妹を呼ぶ。
すると小湊妹は、片割れである春市からスッと離れたかと思うと御幸へとゆっくりと近づき、自身よりも背の高い御幸を下から覗き込むようにして見上げた。
「呼びましたか?御幸先輩」
声に出さずに呼んだ「いもうとちゃん」と云う、御幸だけが使っている呼び方に小湊妹が反応するとは思ってなかった御幸は、少しだけふるりと背筋を震わせた。
それは喜びなのか、なんなのかはわからない。だけど、唇だけで無意識に呼んだちさとが反応してくれたことが御幸は嬉しくもあり、少しの胸の苦しさも感じた。
「…うん…呼んだ」
——いもうとちゃん。
「はい。なんでしょうか。御幸先輩」
またひとつ、口に出さずに唇でちさとを御幸は呼んだ。
それにちさとは、にこっと笑いながら御幸へと答える。
ただ、それだけなのに御幸は、胸に込み上げてくる甘い苦しさにグッと唇を噛み締めた後、ちさとの制服の袖を自身の利き手である右手の指先できゅっと摘むようにして掴んだ。
その御幸の仕草にちさとは顔色を変えることなく、笑みを浮かべたまま御幸の言葉の続きを待つように、こてんっと首を傾げた。
可愛い。物凄く、その仕草がかわいい。にこっと人当たりのいい笑顔もかわいい。とポロリと出てしまいそうになる馬鹿みたいな己の煩悩を抑えながら、心の片隅でまだ消化しきれていなかった先程の不安の一欠片を御幸は口にした。
「サッカー部のイケメン先輩は…いもうとちゃんのタイプだった?」
自身を覗き込むようにして見上げる小湊妹から少し視線を逸らしながら御幸は不安を小湊妹へと口にした。
形の良い凛々しい眉が部活や試合の時とは違い、へにょんと八の字へと下がっており、背筋も自信無さげに猫背のように段々と丸くなっていく。
小湊妹の制服の袖を掴んでいない方の片手は御幸自身の制服のズボンの太腿部分をぎゅっと握り締めていた。
側から見たら、別れ話を持ちかけられた彼氏が彼女を引き止めようとしているような情けない姿の光景にしか見えないくらいである。
だが、当の本人である御幸は今は己がどの様に見えるかまでを考えられるほどの余裕はなかった。
沢村達の話を御幸が聞く限り、小湊妹を呼び出したのはサッカー部のイケメン先輩。
どれだけイケメンなのかと話をされてもきっと野球以外にあまり他に興味がない御幸にはどうでもいい話であろう。
ただ、ふーんと聞き逃すか、無視してスコアブックを読み始めるぐらいに自身に関係ない存在だった。
だが、想いを寄せる小湊妹がそこに関わってくると話は別になった。
人には其々好みというものがある。
幾らイケメンと言われていても好きな人は好きだろうし、嫌いな人は嫌い。
ならば、御幸が想いを寄せている小湊妹はどうであろう。
一年生である沢村達が知っているくらいにイケメンと噂されている奴だ。
きっと顔は悪くない。どんな性格なのかは知らないが、付き合ってからでも知っていけば良いと云うやつだって世の中にはいるからその辺もどうなるかはわからない。
判断材料が今のところ顔しかないからこんなことを思うのはダメだと思うが、もし、もし…そのサッカー部のイケメン先輩が小湊妹のタイプで、今回は亮介がクリスや伊佐敷や結城を巻き込んでそのイケメン先輩から小湊妹を遠避けるように手を回したが、「もし、本当はその先輩がいもうとちゃんのタイプだったら?」「後日、いもうとちゃんがそいつを受け入れてしまったら?」と云う、小さな不安からじわじわと御幸の心の中に大きく広がっていたのである。
口に出したらさらに大きくなったように感じる不安。
違うよと言われたら心のモヤモヤは消え去り、タイプですと言われたらきっと当分の間は立ち直れないだろう。
聞かなければ、己の中で小さなモヤモヤで済んだかもしれないのに何で口に出したんだよ…と不安を口にしてしまったことに御幸は後悔をした。
野球が関わればいつでも強気でいられるのに小湊妹が関わると御幸はどうも情けなくて、頭が回らなくなってしまう。
目の前の倉持が情けねぇー!と言いたげにニヤニヤと笑っているのが見えた気がしたが、御幸はちさとから目を逸らしたまま、ちさとの制服の袖を掴んだ指先にきゅっと力を込めた。
ちさとは御幸に掴まれた自身の制服の袖へちらりと視線を向け、少しの沈黙の後、目を逸らしていた御幸に対して無理矢理に目線を合わせるかのようにグイッと顔を近づけた。
バチっと至近距離で再び合う視線。ちさとの使用しているシャンプーなのか柔軟剤なのか。それともちさと自身の匂いなのかはわからないが、ふわりと香った甘く、だけど落ち着いた心地良い香りに御幸は思わず驚き、顔を少しのけ反らせて片足をスッとその場から一歩引いたような体勢を無意識にとった。
それでもちさとは御幸から目を逸らすことはなく、逃げ腰になっている御幸はまっすぐと自身を見つめてくるちさとへちらちらと視線を向けては目が合うとおろおろとした表情で視線を彷徨わせた。
近い、可愛い、いい匂いがする。ぎゅってしたい。そのような欲望の感情が御幸の思考回路を駆け巡り、また唇をぎゅっと噛み締めた。
相変わらず下から覗き込むようにして、まんまるとした大きな瞳で御幸を見上げる小湊妹に御幸の苦しかった胸が今度はドクドクと音を立て始めた。
目の前の小湊妹に何かを言いたいのにじっと見つめられてしまい、御幸は上手く言葉が出ずに口の中がカラカラに渇いていく。
これが沢村や倉持であれば揶揄い、冗談や悪態だってつけるのに小湊妹になると【嫌われたくない】と云う感情が先に出てきてしまうのである。
段々と早くなる鼓動の音だけが厭に御幸の耳に届く。息を呑むと喉がゴクリと音を立て、少しだけ脚が震えた気がした。
ちさとはじっと御幸を見つめる。
ただ静かにちさとは御幸を見つめた後、にこっと笑った。
そして、艶やかな唇を開いた。
「御幸先輩って時々、可愛いですよね」
「えっ…」
突拍子もないちさとの言葉に御幸の口から思わず変な声が出た。
それに合わせたかのように御幸の掛けている黒縁眼鏡がずるりとずれ、御幸はポカンと口を開けた。
そんな、マヌケな表情をしている御幸を見て、ちさとは笑みを浮かべたまま言葉を続けた。
「今の御幸先輩、ニュースで見たお尻が隙間に挟まってしまってこの世の終わりみたいな表情をしてたタヌキにそっくりで可愛いです」
ちさとの言葉を聞いた御幸の頭の中に尻が隙間に挟まったタヌキがきゅーん…と絶望感満載の声で鳴いている光景が浮かんだ。
なんでそんなこといきなり言いだしたの、いもうとちゃんと御幸は言いたかった。
真面目な雰囲気がちさとと御幸の間に流れていたはずなのに、突然のちさとのタヌキ発言のせいで真面目な空気は一瞬にして消え去り、御幸の中の不安は尻が隙間に挟まった哀愁漂うタヌキへと塗り替えられてしまった。
ただ、御幸は口をあんぐりと開けることしか出来ずに心の中でどうすれば良いのか戸惑っていた。
一方のちさとは御幸の反応が面白かったのか、にこにこと笑みを浮かべている。
幼い子どもが面白いものを見つけた時のような無邪気なちさとの笑顔に御幸の胸がまた一段と苦しくなる。
それが少し恥ずかしくて、また視線を御幸は逸らした。
頬が熱を持った様に微かに熱い。それでもちさとの制服の袖を掴んだ指先を離すことはせず、視線をウロウロと彷徨わせる御幸を見つめながらちさとはにこにこと笑ったまま、御幸へと問いかけた。
「さて、質問ってなんでしたっけ?」
またしても御幸は「へっ?」と不意を突かれたような声を上げ、彷徨わせていた視線を再度ちさとへと向けた。
それはそれは、御幸が視線を向けた先のちさとは先ほどまでの無邪気な子どものような笑顔とは変わり、意地悪そうな笑みを浮かべていたのである。
あ、どこかで見たことがあるぞ、この笑顔。と御幸の背中がふるりと震えたかと思うとちさとは、まだ言葉を続けた。
「さっきの変な質問、もう一度言ってくれます?」
——あと…
「人とお話するときは目を見て…ですよ?御幸せんぱい」
ね?と首を傾げ、下から覗き込むように御幸へと言い放ったちさとに対して御幸の背筋にひやりと冷たい空気が流れた気がした。
丸まっていた背筋がピンッと張り、御幸は目の前の意地悪そうに、でも楽しげに笑みを浮かべるちさとから視線を外すことが出来なくなった。
うるさいぐらいに心臓が速くなり、呼吸が浅くなる。
思わず御幸の口から「うっ…」と声が漏れ、肩がビクッと跳ね上がる。それでもちさとは御幸から目を逸らすことはなく、にこにことした笑みで御幸の口から再度【あの変な質問】を尋ねられるのを待っている。
ちさとは兄・亮介に似ている。
人を弄ることに手は抜かず、人の隙を突くのも上手い。それが良いのか悪いのかと言われたらわからないが、ちさとに惚れている御幸の心を掻き乱すには充分であった。
ちさとは御幸の隙を見逃さない。どんな状況でも御幸の隙を突く。それがまた、御幸の心に色々と刺さり、いつもは強気な御幸がしおしおと塩れて情けなくなるのである。でも、そんな自分も最近嫌いじゃないと思う御幸がいるのである。
今だって、意地悪く笑うちさとに御幸の心臓は高鳴っている。
それと同時に矢張り、拭いきれない不安を振り払いたくて御幸は意を決して再度、言葉にした。
息を吸い、勢いよく、顔が熱を持つのを感じながら言い放った。
「サッカー部のイケメン先輩はいもうとちゃんの好みでしたか‼︎」
「いえ、全然」
意を決して勢いよく投げた不安は間髪入れずにちさとに笑顔で打ち返された。場外ホームランである。
早すぎる返答に御幸はパチパチと瞼を瞬かせると「返事早くね⁉︎」と思わず声を上げた。
すると、ちさとは悪戯が成功した子どものようにくすくすと笑った。
またその笑顔に御幸の頬は更に熱を持つ。やられた!本当にこの小悪魔は…‼︎と恥ずかしさでぷるぷると御幸の身体が小刻みに震え、唸り声を上げそうになる唇をぐっと噛み締めて堪えた。
目の前の小悪魔(御幸視点)は楽しそうに、だけど、どこか艶のある視線を御幸へと向けると自身の制服の袖を掴んでいる御幸の手に柔らかな白い手でするりと触れた。
少しひんやりとした肌とその柔らかさと擽ったさに御幸は思わずピクッと手を震わせ、先ほどまで唸り声を上げそうになっていた御幸の口が今度は熱い吐息を吐き出しそうになるのを堪える。
ちさとは御幸の手をなぞるように触れるとそのまま、制服を掴む御幸の手の指先にちょんっと触れた。
すると、魔法が掛かったかのようにちさとの制服の袖を掴んでいた御幸の指先は、するりと解かれた。
そして、解かれた御幸の手をちさとは割れモノを扱うかのように優しく、白く柔らかな手で硬く強い御幸の指先を握った。
とろりとした瞳が御幸を見上げるようにして見つめ、そして艶やかな唇を開いた。
「私は野球が好きな人がいいです」
ちさとの口から出た突然の言葉に御幸は目を見開いた。
御幸の黒縁眼鏡の奥の瞳とちさとの大きな瞳が重なり合うかのように視線が結びつき、またひとつ、御幸の心臓が高鳴った。
「でも、好きなことに真っ直ぐな人もいいですね」
掴まれた御幸の指先がちさとの指先につんっと突かれる。
ただ指先を突かれただけなのに御幸のピンッと伸びた背筋がゾクゾクと甘く痺れる感覚がした。
「あとは…私は貪欲なので、同じぐらいに貪欲な人が好きです」
艶やかな唇がにっこりと口角を上げ、少し伏せた瞼の縁を飾る長い睫毛の影がちさとの目元に掛かる。
その姿が何処か妖艶で美しくて、十七歳の野球漬けの男子高校生の目には刺激が強いと感じながらも御幸の瞳は目の前のちさとから逸らすことができなかった。
可愛い、綺麗、美しい、そして…何よりも彼女が欲しいと御幸の心が目の前のちさとを求める。
騒がしい己の心臓とちさとの妖艶さにくらくらとする頭と荒くなる吐息。耳に届く周りの音が、遥か遠くにあるように聞こえ、重なり合ったお互いの視線の所為もあってか、今この場には御幸とちさとの二人だけの世界になったかのような感覚を感じるほどに御幸の視覚、聴覚、思考と全てがちさとへと向けられていた。
ちさとは言った。
野球が好きな人がいいと、好きなことには真っ直ぐなひとがいいと、自分が貪欲だから同じぐらいに貪欲な人がいいと目の前の小湊妹は言った。
御幸は野球が好きだ。
野球は自分の人生と言っても大袈裟ではないくらいに自身の中では野球と云う存在は欠かせないものだ。
中でも、キャッチャーと云う自分の中では面白くて誰にも譲りたくない場所がある。だからこそ、真っ直ぐに御幸はその場所を追い求める。楽しいから、好きだから。もっともっと、野球をしたいと真っ直ぐに御幸は好きなものへと走り続ける。
そして、貪欲。それは御幸の中に強くある感情である。
負けたくない。勝ちたい。譲りたくない。野球に関しての貪欲な感情。
それとはまた別にちさとに感じる【目の前のこの娘を自身のものにしたい】【身も心も全て、全てが欲しい】と云う、愛しくて、切なくて、苦しくて、もどかしくて、いやらしい貪欲な感情。
自身の中でも持て余し、人にぶつけるには重すぎて汚いとも言える感情をどんな意味としてちさとは言ったのかは真意はわからないが、ちさとはその感情を【好きだ】と言ったのだ。
自身も【貪欲】だから、【相手も同じような感情でいてほしい】と言ったのである。
その一言だけで御幸の中の好きも嫌いもどうでもいいって感情も先ほどの見知らぬ先輩に持っていた嫉妬という汚い感情も、全てがちさとに許された気がして、心の底から言葉にできない感情が湧き上がるのを御幸は感じた。
御幸の喉がふるりと震え、吐息が御幸の口から漏れる。
腹の底から湧き上がる熱が御幸の全身を駆け巡り、夏のグランドとはまた違う暑さを感じる。
目の前のとろりと優しいちさとの瞳から目を逸せず、でも何も言葉にすることができなくて、御幸はちさとに掴まれていない方の手を無意識にちさとへと伸ばした。
——あぁ、きっとこの感情は歓喜でもあり、喜悦でもある。
御幸の頭の片隅で誰かがそんなことを言った気がした。
ちさとは、じっと見つめる。自身に伸びてくる御幸の手を払うことも足を引くこともせずにじっと見つめているだけだった。
あと少しでちさとの頬へと御幸の指先が触れる。
白くて柔らかそうなその頬に触れたら…触れてしまったら、きっと御幸はちさとへの感情が更に周りにとって色々と面倒で、大きくて暗い、そして重たいものへと変わることだろう。
それを冷静に理解しながらも御幸は自身を止めることをしなかった。
それでも良いと思ったからだ。
貪欲な人が良いと云うなら、それを受け入れてくれると云うなら、御幸は自身の気持ちを隠すのも止めることも必要ないと思った。
ただ真っ直ぐな気持ちでちさとを追い求める。きっとこの感情に底なんてない。ただ貪欲に目の前の少女の全てを手に入れても尽きぬことのない感情なのだと御幸は悟った。
「いもうとちゃん」
御幸がちさとを呼んだ。
御幸の指先がちさとの頬に触れるか触れないか辺りの所で突然、ちさとの背後からスッと手が伸びてきたかと思うとパシッと音を立てて、御幸の手が勢いよく叩き落とされた。
「そこまでだよ、御幸」
聞き覚えのある声が御幸の名を呼んだ。
それと同時に御幸の目の前に立っていたちさとの身体が大きく後ろへと誰かの手によって引き寄せられた。
御幸は突然の第三者の登場に驚きながらもちさとに触れる寸前だったところを邪魔されたことに一瞬、形の良い眉を顰めたが、すぐにポーカーフェイスへと戻るとちさとの背後へと目線を向け、目を見開いた。
一方の後ろへと引き寄せられたちさとも驚いたのか、目をきょとんとさせパチパチと数回瞬きをした。
その後、自身の背中に感じる安心する知った温もりにちさとは自身の背後に居るのが誰なのかを悟るとぱぁっと花が咲いたような表情をしながら持ち主へと視線を向け、その人物を呼んだ。
「にぃに!」
「⁉︎りょ、亮さん…」
御幸とちさとの視線の先…そこにはちさとと春市の兄である亮介が立っていたのである。
亮介の片手はちさとの肩を自身に引き寄せるかのように掴んでおり、もう一方の手が空いていることからちさとに触れようとしていた御幸の手を叩き落としたのは亮介なのだと云うことがわかった。
御幸とちさとの二人に呼ばれた亮介は、御幸へと静かに視線を向けたかと思うとニコッと深い笑みを浮かべた。
「うちの大切な妹に何勝手に触れようとしてるのさ」
「お仕置きが必要?」といつもの小湊妹の黒い笑みとは違う、何処か命の危機を感じる亮介の冷たく怖い笑みを向けられた御幸は思わず、ひくひくと口角を引き攣らせた。
亮介は口では何だかんだと云うが、弟である春市のことも妹であるちさとのことも大切にしているところがある。
特に異性だからと云うこともあってか、結構、妹に甘いところがあった。
これは亮介の弟でちさとの片割れである春市もちさとに対して同じなのだが、矢張り長男と言うところもあってか、春市と比べるとかなり妹には甘い方だと思われる。
そんな妹を大切にしている怖いお兄さんに御幸は、触れようとしているところを見られてしまったのである。
兄からすれば、腹の中で何を考えているかわからない生意気後輩が大切で可愛い妹に触れようとしてるのに対して「なにやってんの?死にたいの?」状態である。
御幸は口角を引き攣らせながら叩き落とされた手をゆっくりと降ろし、気まずさと亮介の冷たくて怖い視線から流れるかのように自身の目線を逸らし、背中に冷や汗がつたうのを感じながら「あははー」と誤魔化すように笑った。
亮介の背後で此方を見ていた倉持と沢村が御幸を指差して大爆笑している姿が見えたが、今はそれに反応することは出来ず、とりあえず今日は絶対に沢村の球は受けねぇ、と御幸は心に決めた。
一方の亮介は大人しくなってしまった御幸から目を逸らすと今度は自身の妹へと視線を向けた。
亮介より少し身長が低いちさとを見下ろすように視線を下げると丸い大きな瞳と目が合った。
ちさとは大好きな兄と目が合ったことに嬉しそうににこにこと笑みを浮かべているが、その笑顔を崩すかのように亮介はちさとの額をビシッと弾いたかと思うとそのまま、その手で後頭部にチョップを落とした。
「痛ッ‼︎にぃに痛いよ‼︎なんで二段階なの⁉︎」
「今回はお前が悪いからだよ」
「むぅ…何も悪くないよ?何もしてないもん」
「はい、嘘つき」
——全部わかってて御幸を揶揄ったくせに。
何故、額を弾かれ、チョップされなくてはいけないのか、自分は何も悪くないもんと主張するちさとに亮介は視線だけでそう告げるとちさとは亮介の言いたいことを察したのか、騒ぐのを止めた。
そして昔、春市を虐めていた近所の悪ガキ達を地面に沈め、母親に怒られた時と同じようにつんっと不機嫌そうに唇を尖らせ、眉をへにょんと八の字にさせ不満げな表情を見せた。
「うそじゃないもん」
ぽつりと亮介にだけに聞こえるぐらいの声で不満げに呟かれた言葉に亮介は、またちさとの後頭部にチョップを落とした。
今度は軽く、力の入っていない痛くないものにちさとは小さく首を傾げると不思議そうに亮介を見上げた。
何か他に言いたいことでもあるの?と言いたげに黙っている亮介の様子を伺うちさとに亮介は溜息を吐いた。
小さい頃は笑うことが苦手で小さい身体で泣き虫な片割れである春市を守ってきた可愛い妹。
身を守るために【笑顔】と云う武器と使い方を教え、それを兄から教えられたからと素直に受け入れては自身のものにして強くなった妹。
きっと本当は今の亮介よりも妹の方が上手な生き方をできるぐらいに成長しており、いつだって亮介の背中を「にぃに」と呼びながら笑顔で追いかけることを止めてしまうことだってできるはずだ。
春市に背を追いかけられることに関しては兄として嬉しさと同時に焦りや恐怖を感じている。だが、その背を追い越された時にはきっと喜びと寂しさ、そして悔しさを感じることだろう。
でも、ちさとへと感じる寂しさはまた違ったものだと亮介はわかっていた。
いつか、可愛いちさとにはお互いに支え合い、共に歩みたいと云う人が現れるだろう。
わかってはいるのだが、まだまだ色んな意味で自由奔放で手の掛かる可愛い妹を亮介も春市も、そう簡単に手放すつもりはないのである。
もう少しだけ兄の目が届くうちは、この可愛い妹を守る兄で居たいと云う気持ちがあったのだ。
だからこそ、亮介が少し睨むだけで簡単に怯むような態度を見せるならそれが例え演技であっても目の前の男にちさとを譲るわけにはいかない。
そして後に面倒なことになって困らないように、にこにこと楽しげに目の前の男の心を突こうとする妹には釘を刺しておかねばならない。
幼い頃、泣いていた春市にちさとが「おおきくなってつよくなったら、こんどはわたしをまもってね」と言っていたことを亮介は知っている。
妹が守ってねと片割れであり、兄である春市に言うのなら、それをもう一人の兄である自分がやったって良いだろう。
可愛い妹には幸せになってほしい。
だから、変な奴や中途半端な行動を起こす奴には渡せない。
そんな兄の気持ちなど知らない妹は不思議そうに兄を見上げる。
亮介は数秒、黙ったままちさとを見下ろすと小さくまた溜息を吐き、可愛い妹に物申してやろうと口を開いた。
「俺の妹なんだから男の趣味が悪いのは許さないよ」
「え、なに?にぃに?」
「りょ、亮さん?」
突然、意味のわからないことを言い始めた亮介にちさとと二人を見守っていた御幸も目を見開いた。
「にぃに、いきなり何を言ってるの⁉︎」「亮さん、俺に対する評価、酷くないですか?」と騒ぐ二人を気にすることなく亮介はちさとの頭にポンッと片手を置くと言葉を続けた。
「哲かクリスみたいなタイプにしなよ。将来性もあるし、彼女を大切にしそうだし」
「亮さん、俺だって大切にしますよ」
「…お前は野球優先し過ぎて彼女のこと放置しそうなタイプじゃん」
「ひでぇ言い様じゃないですか」
まぁ、確かにそうかもしれませんけど…と呟きながら、ガシガシと気まずそうに頭を掻く御幸にちさとはチラリと視線を向けたが、すぐに
大好きな兄へと視線を戻すと先程から訳のわからないことばかりを話す亮介にちさとは首を傾げ、このまま続けられるのも良くないなぁと素早く判断したちさとは話を終わらせようと亮介へと話しかけた。
「にぃに、話が突然過ぎて私にはよくわからないよ」
ちさとがそう言うと亮介はちさとの考えなどお見通しと言わんばかりにちさとの頭に置いていた片手でガシッとちさとの頭を掴むとズイッと顔を近づけ、深い笑みを浮かべながら「ちさとの将来の話だよ、しっかり聞きな」と言い放つとそのまま言葉を続けた。
「純も論外だね。少女漫画の知識だけあっても活用は出来てないから」
「んだと⁉︎もういっぺん言ってみろ、亮介‼︎」
「伊佐敷、ここは廊下だ。大声を出すのは止めた方がいい」
「そうだぞ、純。うるさいぞ」
「クリス⁉︎哲⁉︎」
亮介からの飛び火に巻き込まれて騒ぐ伊佐敷の声をBGMに亮介はちさとから視線を逸らすと御幸へと視線を向けた。
冷ややかに、だけど何処か挑発するかのように口元を歪ませながら亮介は深い笑みを御幸へと向けたのである。
その意地悪を通り越した悪意のある深い笑みに御幸は頬をひくひくと引き攣らせた。
物凄く怖い。そして、少し先に立っている倉持と沢村が、まだこちらを指差して笑っているのが、すげぇー腹立つと思いながらも御幸は目の前の魔王(亮介)を相手に何とか足に力を入れて立つ。
先程からボコボコと亮介から一方的に投げられる球で御幸はある意味、メンタルに死球を受けているような状態ではあるが、ここで日和るのは何か悔しい気がして御幸は静かに亮介を見つめる。
亮介と御幸の間では、ちさとがきょろきょろと亮介と御幸へと視線を右往左往させながら静かに様子を見守っている。
亮介は更に笑みを深くさせ、口角の上がった唇を開いた。
「甲子園のひとつやふたつ、行けないような男を俺は認めないよ」
その言葉の直後、御幸と亮介の間に重い沈黙が流れた。
それでも目の前の亮介は深い笑みを崩すことなく、御幸を見つめる。
【甲子園】それは高校球児達の夢の舞台であり、自分達の目指す場所。
去年だって、青道高校野球部はあと少しと言うところで逃した夢の場所を…そう簡単には行くことが出来ない憧れで目標であるその場所をひとつやふたつ、行けないような男は認めないと亮介は言ったのである。
きっと、ちさとに思いを寄せる男が他の部活に所属していたら出てこなかった言葉で、御幸が亮介と同じ野球部のレギュラーであり、御幸の野球への思いも努力も知っているからこそ出た言葉でもある。
——甲子園のひとつやふたつ、行けないような男を俺は認めないよ
亮介は、そう言った。それはつまり…
——行けば、文句無しに認めてくれるってことですよね?亮さん
自分勝手な都合の良い解釈かもしれない。
だが、いつもならつけ入る隙すら、見せも作りもしない亮介が少しだけ見せた穴を御幸は見落とすことはしなかった。
それはほんの少しかもしれないが、与えられたチャンスを大きくする策なら、幾らでも考え、生み出すことなど可能だ。今までだって野球で御幸はそうしてきたのである。
御幸は口元を歪ませる。
口角を上げ、ニヤリと試合中に強敵をどうやって抑えようかと考えている時の様な楽しげで不適な笑みを浮かべ、真っ直ぐに亮介を見つめる。
その瞳は、獲物を追い求める肉食動物の様にギラギラと輝いており、遠くから見ていた沢村達は御幸の表情と雰囲気に気圧されたのか、ごくりと息を飲み込んだ。
一方の亮介も御幸の表情に薄らと笑みを浮かべた。
「へぇ…」
自身から目を逸らさない御幸に声を漏らすと不意に先程から静かな自身の妹の横顔が視界の端に見えた。
亮介は横目で可愛い自身の妹の様子を伺うと周りにバレない様にため息を吐いた。
ちさとは御幸を見つめていた。
ギラつく瞳をしながら不敵に笑う御幸をちさとは見つめていたのである。
御幸へと向けられたちさとの大きな瞳は、星屑を散らしたかの様にきらきらと輝きを放っており、真っ直ぐに御幸へと向けられた視線は熱を帯びている様にも見えた。
ちさとは、じっと御幸を見つめる。
見惚れている様にも、見たかったものが見れたと言いたげな喜びを含んだ感情が篭っているようにも見えるちさとの瞳に亮介はほんの少しだけ寂しさの様なものを感じた。
それと同時に【つまらない】と言う感情も湧き上がり、御幸を見つめるちさとの視線を遮る様にスッとちさとの目を後ろから手で覆い隠した。
「わっ⁉︎にぃに⁉︎」
「お前にはまだ早いよ」
「何が⁉︎」
突然、自身の視界を亮介の手によって遮られたことにあわあわとちさとは慌てると亮介に対して、いきなり何をするの⁉︎と言いたげに亮介を呼んだ。
だが、亮介はなぜその様な行動を取ったのかと云う理由をちさとに話すことはせず、唯、つまらなさそうにそう言い放ち、ちさとの目を塞いだままにしていると不意に亮介とちさとの背後から春市がちさとを呼んだ。
「ちーちゃん」
「…春ちゃん?」
春市に呼ばれたちさとが応えようと自身の目を塞ぐ兄の手にソッと触れた。
その手は大して力が込められていなかったのか、意外とすんなりとちさとの顔から外れ、一度、ちらりと様子を伺う様に亮介へとちさとは視線を向けたが、すぐに自身のことを呼んだ片割れの方へと向けた。
春市は片割れの視線が自分の方へと向けられたことを確認するとちょいちょいと片手で手招きをしながら再度ちさとを呼んだ。
そんな春市の姿を見て、亮介は春市の元へ行けと言わんばかりにちさとの背中を優しくトンっと押した。
ちさとはもう一度、兄へと視線を向けた後、ほんの一瞬だけ御幸を横目で見てから「春ちゃーん」と春市の元へとぱたぱたと小さく駆けて行った。
子うさぎがぴょこぴょこと走っているみたいに見えて可愛い。そう思いながらも春市の元へと向かう小湊妹の小さな背中を凛々しい眉を八の字にへにょんとさせながら、少し残念そうに御幸が見送っていると亮介が御幸へと向き直り、静かな声色で呼んだ。
「御幸」
「なんです?」
自身の名を呼んだ亮介に御幸が答えると亮介は静かに御幸を見つめていた。
亮介の背の向こう側では、小湊妹がにこにこと笑顔で片割れである春市と話している姿が見えた。
御幸に見せる小悪魔の様な深い笑みとは違い、純粋無垢な笑顔で大好きな片割れと話す小湊妹の姿に御幸が目を奪われているとそんな邪な気持ちを遮るかの様に亮介が御幸の顔を覗き込んだ。
身長が179センチとある御幸に対して、亮介は162センチと三年生の中でも小柄な体格をしている。
そのため、御幸を少し見上げる様に覗き込む亮介の姿は何処かちさとを思い起こすような透視感と血の繋がりを感じ、御幸がぼーっと眺めていると亮介の言葉が御幸の耳に届いた。
「お前にあの子は、まだ渡さないよ」
——あの子の一番は、まだ俺たちだからね。
深い笑みでにっこりと笑う亮介の口から出た言葉にピクリと御幸は顳顬を引き攣らせた。
亮介の背の向こう側では、春乃とちさとが楽しそうに話をしている姿が見える。
その楽しげなちさとの横には、ちさとの背にそっと片手を添え、寄り添う様に立ちながら此方に顔を向ける春市の姿があった。
顔は御幸と亮介の方を向いており、長い前髪の隙間から御幸を射抜く様に見つめる春市の視線と姿は、まるで姫を守る騎士の様にも、獰猛な肉食動物の母親が我が子を守るかのように警戒しているようにも見えた。
御幸はまた、ひくひくと頬を引き攣らせた。
小湊妹は可愛い。だから今回、サッカー部のイケメン先輩にお呼び出しをされ、恋敵の出現か!?と焦った御幸だったが、そんなのは敵でも壁でもないことを今、目の前で思い知らされた。
【小湊妹の一番は兄達である】
それは普段の小湊妹の態度から見ていてわかることだが、兄達も【今はまだ】自身達が小湊妹の一番であることを譲る気はないのだと、視線で春市は語り、亮介は言葉にした。
そして、ちさとは笑う。
二人の兄がそばに居れば、何処よりも何よりも安全だと云うように無邪気に春乃と話しながら笑う。
無邪気なちさとの笑みを目に焼き付ける様にじっと見つめた御幸は、一瞬目線を伏せた後にフッと不敵に笑った。
心の内側を焼くほどに堂々と一番と言えるのが羨ましくて、妬ましいと思いながら御幸も目の前の亮介と同じ様に笑う。
ぎりっと奥歯を噛みながらもニッと歯見せ、御幸は春市へと視線を…そして亮介には言葉を向けた。
「いつまで【義兄さん達】が一番でいれますかね?」
笑顔の亮介のチョップが御幸の後頭部に落とされた。
♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎
伊佐敷達三年と倉持に「昼休みが終わっちまうぞ」「一年は先に帰っとけ」と告げられ、御幸と話す亮介から背を向け、歩き始めた沢村達の背を追う様に春市とちさとは歩いていた。
ちさとの手には伊佐敷が買ってくれたパックのいちご牛乳が握られており、春市の手にはリンゴジュースを拭いた際に濡れてしまったハンカチが握られていた。
「はるちゃんのハンカチからリンゴジュースの匂いが漂ってくる」
「え⁉︎臭いかな…?」
「ううん。あ、でも、ハンカチの予備とかある?私、持ってるから貸そうか?」
「大丈夫だよ。部活用のタオルがあるから其れを使うよ」
「そう?それなら良いけど」
「必要になったら言ってね」とふにゃんと気の抜けた様な笑み浮かべながら自身の頬を人差し指でぷにっと突くような仕草をするちさとを春市は、前髪に隠れた瞳でじっと見つめた。
昔は表情が乏しく、見せる顔と云えばムッとした拗ねた表情の方が多かったちさと。
笑うことが苦手だったちさとは小さいながらに一生懸命、亮介に教わったことを自身のものにしようと努力していたことを春市は知っている。
今だってしていた頬を人差し指でぷにっと突くような仕草は笑顔の練習をしていた時の名残なのである。
亮介はすごい。春市自身も亮介に色々と影響されているし、目標にもしている。
それはちさとも同じであるのだが、それでも…それでも少しだけ、ちさとに関して春市は亮介に少しだけ嫉妬していることがあった。
可愛い自分の片割れ。大切な半身。
出来ればちさとを変えるきっかけが少しでも自分であれば…なんて、少しだけ思っていたのである。
ちさとは兄が大好きだ。それは春市だって同じで、春市もちさとが大切で大好きな家族なのである。
だからあの日、幼く小さな春市は、ちさとが変わるきっかけを与えた亮介にほんの少し嫉妬したのである。
——やっぱり、りょうちゃんはすごいや。
あの日、幼い春市が呟いた言葉にはいろんな気持ちが込められていた。
そんなことを思いながら、笑うちさとを春市が静かに見つめているとちさとは少しいつもと様子の違う片割れに気がつき、不思議そうに首を傾げ、「どうしたの?」と尋ねた。
春市は少し間を空けた後、ちさとに「ちーちゃんはよく笑う様になったね」と今思っていた春市の気持ちを言葉にした。
「兄貴のおかげなんだよね。…兄貴は本当、すごいや」
呟く様にして言った春市の言葉にちさとは、きょとんとした表情を見せた後、ピタリと足を止めた。
突然、足を止めたちさとに春市も同じ様に足を止め、今度は春市が不思議そうに首を傾げながらちさとへ「どうしたの?」と尋ねた。
すると、ちさとは懐かしむようにふっと優しく春市へと微笑んだ。
「春ちゃんもね、私に言ってくれたんだよ」
「僕が?」
何を言ったの?と突然告げられたちさとの言葉に対して一瞬考えたが、特に春市には身に覚えがなかった。
春市が何個も疑問符を頭に浮かべていると優しい笑みから今度はクスクスと楽しそうな笑顔へとちさとは表情を変えた。
ちさとは数秒、クスクスと笑うとずっと大切にしていた宝物を初めて見せるかのように自分の中の思い出を話始めた。
——私、笑うことがなんだか恥ずかしいことで、嫌なことだと思ってたの。
だって春ちゃんに意地悪するやつら、みんな笑ってたから。
何が面白いの?何が楽しいの?私の大切な人が泣いて、傷ついてるのになんで笑うの?って小さい頃は、ずーっと思ってたの。
楽しくて笑うこともあったけど、どちらかと言えば【笑う】ってことに嫌な気持ちと怖いなって気持ちの方が強くて…
だから、笑うことがすごく嫌なことだと思ってた。
でも、にぃにから笑顔は【武器】のひとつなんだって教わって少しスッキリしたの。
それで毎日練習してたら、ある日ね、春ちゃんがやって来て…上手に笑えない私の下手くそな笑顔を見て…
「【ちーちゃんは、やっぱりわらってるほうがかわいいよ】って言ってくれたんだよ」
「えっ…?」
春市はちさとの言葉に驚き、目を見開いた。
春市の視線の先のちさとは春市を見て笑う。
大切な自身の変わるきっかけのひとつである想い出と云う名の宝物を秘密を明かすかのように語り、優しく愛おしそうに笑う。
長い前髪に隠された春市の瞳がこぼれ落ちそうな程に見開かれ、目の前の大切で可愛い片割れの名を呼ぼうとしたが喉が震えて声が出なかった。
ちさとはまた、ひとつ、ふたつと言葉を続けた。
「私ね、大好きな春ちゃんにそう言われて嬉しかったの。だからね、私は笑うようになったんだよ」
——大切で、大好きな春ちゃんにもずっと可愛いって思ってほしいから。
今度はニッと少年が笑うように笑うちさとの姿に春市は思わず、涙が溢れそうになるのをぐっと耐えた。
今までずっと、亮介の言葉がちさとを変えたのだと春市は思っていた。
だけど、それは【二つあるきっかけのひとつ】で、もう一つのきっかけは春市なのだとちさとは告げた。
大好きな春市に意地悪をする子達が笑顔で春市を悲しませていると云うことから、笑顔というものに嫌悪感と恐怖を感じていたちさとに笑顔は【武器】のひとつなのだと教えたのは亮介で、笑顔は【良いもの】で【嬉しいもの】なのだと教えたのは春市だったのだ。
今まで知らなかった片割れの思いに春市は、胸の奥からじわじわと暖かさを感じ、思わず服の胸元をぎゅっと無意識に掴んだ。
きっとそれは片割れであるちさとが幼い時に春市の言葉を聞いて感じた暖かさと同じかもしれない。
それがいつかは他の人のものになってしまうかもしれないと云う寂しさが一瞬、春市の胸を締めつけたが、今はまだ大切な片割れで可愛い妹の一番でいたいと春市は思った。
「ちーちゃん」
「なぁに?」
ちさとは笑う。そして、春市も笑った。
寂しさと嬉しさが混ざった複雑な感情を胸に春市は今の気持ちを言葉にした。
「まだ、お嫁に行かないでね」
——兄貴や僕が認める人じゃないとダメだからね?
その言葉にちさとは「にぃにも春ちゃんも気が早いよ」とクスクスと笑った。
「私の一番はまだまだ、春ちゃんとにぃになので!」
宣言するように高らかにそう言い放つと先を歩く沢村達の後を追い始めた自身の片割れで、可愛い妹の背に春市は、フッと優しく微笑んだ。
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