日が傾き、山の向こうへと沈み始める。

 町の商人たちは掲げていた店の暖簾を次々に店の中へと片づけ、町を歩く人々も日が沈みきる前に家路へと急ぐ。
 昼間は多くの人が行き交い、騒がしかった町は夜の訪れと共に静かな町並みへと変貌を遂げた。

 それと同時刻、藤の家紋の屋敷で暫しの間、休息をとっていた炭治郎は薄暗くなった部屋の中で妹の入った木箱を背負うと己の腰に鬼を斬る為の日輪刀を差した。
 己に与えられた部屋の襖に静かに手を掛け、屋敷の人に一言外へ出ることを伝えると屋敷の門へと向かった。
 日が沈んだことにより木箱の中に居た妹・禰豆子は目を覚ましたのか、木箱の中からカリカリと木箱の表面を爪で引っ掻く小さな音が炭治郎の耳に届いた。
 炭治郎はその音に微笑みながら禰豆子の名を呼ぶと箱の中の禰豆子は炭治郎の呼び掛けに応えるかのように「ムー?」と竹筒を咥えたままの声で返事をする。
 それに対し、炭治郎は優しく木箱を片手で撫でた。

「禰豆子、今から鬼のところに行く」

 起きたばかりで今がどんな状況か分からないであろう禰豆子に炭治郎は任務に向かうことを告げた。禰豆子もその言葉を聞き、炭治郎の言葉を理解したのか、返事をするかの様に再び「ムー」と鳴く。
 炭治郎は禰豆子の返事に微笑んだ後、形の良い眉を少し顰め、真剣な表情の中に悲しさが混じった様な表情を浮かべ、またゆっくりと口を開いた。

「今回の任務は善逸達とじゃないんだ。 他の隊士の人と任務だから、外に出してあげれないんだ」

「ごめんな」と悲しげな声色で炭治郎は箱の中に居た禰豆子に伝え、謝った。

 鬼になった妹・禰豆子
 別に鬼になど、なりたくて鬼になった訳では無い。

 昼の太陽の下を歩けない分、夜は極力、箱から出して外を自由に歩かせてやりたい。だが、今回の任務は鬼殺隊の人間が居る。
 しかも、その鬼殺隊の人間と云うのが、炭治郎自身が少し気になっている存在である壱師紅と云う少女であった。
 紅は他の人とは違い、炭治郎の嗅覚でも感情を読み取ることが出来ず、また、表情にも出ない。
 幾ら禰豆子がお館様に認められた存在であったとしても匂いにも表情にも感情を出さない紅が、【禰豆子】と云う存在に対して、どの様な感情を抱いているか炭治郎にはわからないのだ。

 鬼殺隊の中でも禰豆子を良く思わない人は多く、鬼は生かしておくべきでは無いと云う意見の方が多いことも炭治郎は知っていた。
 柱と呼ばれる人々だって、鬼である禰豆子を良いようには思っておらず、とある柱は唐突に抵抗すらしない禰豆子を日輪刀で刺すぐらいなのだ。
 別に紅がその様な乱暴で危ない人だとは炭治郎も最初からは思ってはいない。
 
 だが、紅からの感情が読み取れない分、少し不安なのだ。

 もし、あの美しい紅玉の様な瞳で軽蔑するような視線を向けられたら?
 もし、あの静かな声で罵倒されたら?
 もし、もし…禰豆子に敵意を向けられたら…?

 炭治郎の中で尽きない不安ばかりが浮かんでは消えてゆく。

「もっと…紅のことが分かれば良いんだけどな…」

こんなにも何故、紅のことが気になるのか、炭治郎には、まだ判らないことばかりだ。

     ♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎

 屋敷の門の外
 紅は炭治郎が現れるのを静かに待っていた。

 陽が沈んだことにより陽の光によって暖かかった気温は一気に下がり、少々震えるくらいの肌寒さを感じた紅は己の首に巻いていた彼岸花が描かれた灰色の襟巻きを口元まで引き上げながら空を見上げた。

 今日は暗い闇を照らしてくれる月明かりのない、三十日月(みそかづき)の夜だった。

 唯一の夜の闇の中での味方である月明かりがないことは普通の鬼殺隊の隊士であればかなり厄介で危険な夜である。
 だが、紅は月明かりが無いことを確認しながら特に此れと云った困った様な表情を見せることもなく、いつも通りの無表情で静かに空を見上げ、小さく息を吐いた。
 その時だった。紅が背を向けて立っていた藤の花が描かれた門の扉がぎぎぎっと軋んだ音を鳴らしながら内側から開かれた。そして開かれた扉の隙間から黒と緑の市松模様の羽織がチラリと見えたことで紅は今回の任務の同行者である炭治郎が来たことに気がつき、静かな声色で炭治郎の名を呼んだ。

「炭治郎くん」

 名を呼ばれた炭治郎は紅が門の前に立っていることに気がついていなかったのか、バッと紅の声に反応するかの様に声のした方へと顔を向けた。紅へと向けられた赫灼の瞳は零れ落ちそうなほど見開かれ、吃驚したような表情を浮かべていた。
 相変わらず、紅は音も匂いも気配さえも感じさせること無く静かに門の前に立ち、紅玉の様な紅い瞳で炭治郎に視線を向けている。
 辺りは暗く、ハッキリとした灯りなど無いのに紅の紅玉の様な紅い瞳が暗闇で妖しく光っているように感じられた。
 一瞬でも目を離せば空気に溶けてしまいそうな紅の雰囲気に炭治郎は何故か胸が苦しくなり、ハッと息を飲み込んだ。

 門の扉に手を掛けたまま、此方を見て動きを止めた炭治郎に紅は不思議に思い、もう一度炭治郎の名を呼んだ。

「炭治郎くん。もしかしてお昼寝し過ぎちゃって寝惚けてますか?」
「へっ⁉︎……あ、その、うん‼︎大丈夫だ‼︎」

 紅に声を掛けられたことにより、我に返った炭治郎は慌てて紅の方へと小走りで近寄り「待たせてしまったみたいだな。すまない」と謝った。だが、紅は炭治郎の言葉に首を横に振り「大丈夫ですよ」と炭治郎に告げ、少し肌寒い闇の中を静かに紅は歩き始めた。
 炭治郎も紅を追うようにして同じように歩き始めると冷たい風が炭治郎と紅の間を吹き抜けた。

 纏う羽織が風に揺れ、近くに生えた木々が音を鳴らしながら葉を落とす。

 陽は未だ、沈んだばかりである。

     ♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎


「私の鎹烏に失踪した噂の夫婦が住んでいた家の様子を見てきてもらいました」

 横を歩く紅から告げられた言葉に炭治郎は歩きながら顔を紅の方へと向けた。赫灼の瞳が紅の横顔を見つめるが紅は真っ直ぐ前を向いたまま、炭治郎に向けられることはなかった。
 
「家の中は、どうなっていたんだ?」

 炭治郎がそう尋ねると紅は歩みを止めることなく話を続けた。

「えぇ、上野園さんから聞くかぎり、町の住人の証言と同じように部屋の中は何かに荒らされた形跡があったそうです」
「そうか…」

 炭治郎の言葉に紅はコクリと頷きながら、前を見ていた自身の紅い瞳を炭治郎へと向けた。そして、紅は炭治郎と視線が重なると更に言葉を続けた。

「鬼の仕業…それに変わりはないのですが、一番は夫婦が【何処】の【誰】に襲われたのか…が問題ですね」

——外から鬼が来て、二人とも襲われたのか。 将又、夫婦のどちらかが鬼となり片方を食らったのか…

「夫婦の夫の方は笛が上手かったらしいですからね。その情報から考えると」
「…旦那さんの方が鬼となった可能性が、だな?」

 炭治郎の言葉に紅は静かに頷いた。
 昼間に藤の家紋の屋敷の人に尋ねた際、失踪した夫婦の旦那は祭りで披露するほど、笛を吹くのが上手かったと言っていた。
 しかも、この行方不明事件に巻き込まれた子供達は皆、笛の音に釣られるかのように姿を消している。
 つまり、二つの情報を結び合わせると行方不明になった夫婦のうち、夫が鬼となり、急激な飢餓状態からの苦しみから逃れる為に自分の妻を食らったのではないかと云うのが二人の出した考えであった。

「異国には【ハーメルンの笛吹き男】と云う物語があるそうです」
「はーめるん?」

 聞き慣れない横文字に炭治郎は頭に沢山の疑問符を浮かべながら紅へ鸚鵡返しするかのように尋ねると紅はピタリと足を止め、くるりと炭治郎へと身体を向けた。 炭治郎も同じように足を止め、辺りを見渡すと話をしながら歩いていた二人はいつの間にか、昼間とは違う顔色を見せる街の中へと足を踏み入れていたことに気がついた。

 そして二人のすぐ側には昼間、気に留めていた例の【蓋をされているため底が見えない井戸】が異様な雰囲気を漂わせながら静かに設置されたままとなっていた。
 昼間は少ないとは云え、人が居た為に其方の匂いに引っ張られてしまっていたのか、感じ取ることが出来なかった、鬼の嫌な匂いが封をされた井戸の奥から微かに漏れ出ているのが炭治郎の鼻で嗅ぎ取れた。

「今回の事件と似た様な物語なんです」

——笛吹き男が笛を鳴らしながら通りを歩くと子供達が次々と笛吹き男の後に続いて町の外に出て行く。

「そして、笛吹き男も子供たちも二度と町へは戻ってこなかった」

 ね?似ているでしょう。と話す紅に炭治郎は「確かに似ているな。紅は物知りさんなんだな!」とニコッと笑うと紅は炭治郎の態度に不意をつかれたかのようにキョトンとした表情で炭治郎を数秒見つめた後、紅い瞳を炭治郎から逸らし蓋がされた井戸へと向けた。

「その物語では笛吹き男は子供を連れて洞穴へと入って行くんです。 ですが、生憎この辺に大きな洞窟などはない」

——あるのは、誰も使用していない、枯井戸…

「まぁ、井戸の底を掘り進めて、大きな空間でも作れば立派な敵さんの寝ぐらになりますよねー」

と云う間延びした言葉を放ちながら突然、紅は井戸の底を隠す様に蓋をしている木の板を容赦無く、己の足を振り上げ、踵落としを食らわすかの如く足を振り下ろし、打ち抜いたのである。
 バキッと云う木の板が破壊される音が静かな夜に響く。
 紅の唐突に行った行動に炭治郎の赫灼の瞳は眼窩から飛び出そうなほど見開かれており、口はあんぐりと言わんばかりに唖然と開いていた。
 突然の破壊音にびっくりしたのか、炭治郎の背中に背負った木箱の中にいる禰豆子も小さく「ムッ⁉︎」と驚いた様な声を出していたが、紅の耳には届いていないのか、特に炭治郎の方を振り向くことはなく、容赦なく振り下ろした己の足を静かに元の位置に戻すとひょこっと底を確認するかの様に枯井戸を覗き込んだ。
 炭治郎も数秒間、驚きのあまり動きを止めていたが、ハッと我に帰ると紅の側へと近づき、紅と同じように井戸の中を覗き込んだ。

 井戸の中は暗い闇が広がっているが、夜目が効く炭治郎と紅であれば、完全に見えないと云う程ではなかった。
 よく見ると井戸の底の奥は横道の様な通路が広がっている様に見え、二人の予想通りに矢張りこの枯井戸は何処かに繋がっていると云う確信を持つことが出来た。
 蓋が無くなったことにより、微か香っていた鬼の嫌な匂いが先程よりも少し強くなった様な気がして、炭治郎は無意識に顔を顰めた。
 炭治郎の表情に気がついたのか、紅はチラリと紅い瞳を炭治郎へと向けた後、「大丈夫ですか?」と声を掛けた。
 静かな声色で自身を心配してくれる紅の問い掛けに炭治郎はコクリと頷き、自分に視線を向ける紅の紅い瞳に己の赫灼の瞳を合わせた。

 少しの間だが、静かな沈黙が二人の間を通り抜けた。
 そして炭治郎は、ゆっくりと唇を開くと紅の名を呼んだ。

「行こう、紅」
「はい、炭治郎くん」

 二人は苔生した井戸の淵へと手を掛け、身を乗り出すと暗い井戸の中へと飛び込んだのだった。