猫が鳴いていた。
心細げに。
けれど、どこか嬉しげに。



雨に鳴く猫のお話


「ほら。食えよ。」

少し前、1週間ほど雨が続いた日があった。
じめじめして、鬱陶しくて、もう嫌気がさして、傘も差さずにこの雨の中を走り回れたらどんなにすっきりするだろうか、と。
そう考え始めてきた矢先のこと。
お気に入りの星柄の傘を差して、深緑の長靴を履いて、小さな水溜りで遊んでいると、猫の鳴き声と優しい言葉が聞こえてきたんだ。
それは、突然に、耳にすっと入り込んできた。

「食わねェの?」

不思議な着物の着方をした男の人だった。
場所は確か、そうそう、かぶき町の老舗煙草屋さんの横の細い路地裏。

「食わねェんなら、俺が食うぞ。」

“ダメ。それならあたしが食べる。”

何故か、訳も分からずそう心の中で思ったのを覚えている。
自分の気持ちというより、この時はまだあたしの目には見えない小さな生き物の代弁をしていたんだと思う。
気づいた時には、足は男の人の所に向かっていた。
人見知りのくせに、何やってんだろう。
今になってそう思うけど、けれど、その時は吸い込まれるように足が勝手に動いていた。

「貸して。」

小さな小さな子猫が、少し警戒しながらも、近寄ってくる。
男の人から奪ったような形になったパンの切れ端を、掌に乗せてしゃがみ込んで、じっくりと子猫を待つ。
怖がらせないように、息も殺して、男の人の視線を浴びながらも、あたしは子猫を待った。

やっと食べてくれたのは、それから3分くらい経った後のこと。
本当に美味しそうに、小さな身体の小さな口から生えたばかりの小さな歯で、一生懸命に食べていた。
子猫は食べ終わると、何も言わずに素早く路地裏の暗闇へと消えていった。
それを確認してから、漸く隣の男の人が痺れを切らしたようにして口を開いた。

「お前、猫好きなの?」

好きと言えば、好きだし。
大好きと言う訳ではないけれど。

そんな風に曖昧に答えると、男の人は“ふーん”とどうでも良さげに適当に返事をした。

「貴方は?猫好きなんですか?」
「ん?俺?いやぁー、俺ァただパンを落としちまって、たまたまそこにアイツが欲しそうに見てたから食うかなって。」

今度は不思議な答えが返ってきた。
本当に不思議な人。
猫が好きかどうか聞いただけなのに。

煙草屋の屋根から垂れてくる雨の雫が、傘に当たってパタパタと煩く音を立てていた。
雨はますます激しさを増す。

「あぁーあぁー。こりゃ明日も雨だなァ。」
「明後日くらいまでは確実に雨でしょうね。」

黒い傘をさして、本当に鬱陶しそうに曇天を見上げる猫の人。
この時から、あたしの心の中での彼のあだ名は、“猫の人”と決まっていた。
髪の毛は、綺麗な銀色の天然パーマでくるくるしていて、立ち上がってみるとあたしより頭一つ分くらい背が高いのが分かった。
傘と反対の手には、何故かいちご牛乳の500mlの紙パックが握られていて、まだ猫の人のことはよく分からなかったけれど、いちご牛乳がとてもよく似合っていた印象を受けた。

「飲む?」

いちご牛乳に釘付けになっていたのがバレてしまっていたみたいだ。
猫の人は、手に持つそれをあたしに差し出してきた。
飲みたいけれど、さすがに初対面の男の人が口を付けたものを頂いてしまうほど、あたしもふらふら生きてはいない。
首を横に振ると、猫の人はまたどうでも良さげに軽く返事し、そのいちご牛乳を自分で口にしていた。

「好きなんですか?それ。」
「甘いもんがねェとイライラすんの。」
「あ。分かります。」
「アレ?分かっちゃうんだ。もしかしてアンタ甘党?」
「はい。結構甘党なので出掛ける時は必ず甘いお菓子を鞄に忍ばせてます。」

“生憎、今は持ってませんけど。”
そう付け足すと、子どものようにがっくり肩を落とす猫の人。
おそらく、あたしより少し年上なんだろうけど、凄く子どもっぽいところもあって、こういうところに惹かれる女の人も少なくはないんだろうな、と密かに心の中で思った。
よく見ると、意外とがっちりとした身体つきをしているし、優しそうだし、何より一緒に居て楽しそう。
初対面の人にこんな感情を抱くなんて馬鹿みたい。
けれど、あたしはもうこの時には、猫の人に惹かれていたんだ。
一匹の小さな子猫によって巡り合わされた運命のような、そんな気がしてならない。
まだ名前も知らない人なのに、今日別れてもまたいつかここで会えるような、そんな漠然とした確信があった。

「雨止まねェなァ。」
「そうですねぇ。」

何だか、夫婦の会話みたいでドキドキする。
きっと彼は微塵もそんなことを思っていないだろうけど。
だって、曇天を見上げる横顔は本当にどうでも良さそうな顔してる。
でも、あたしの心はそれだけで幸せな気持ちで一杯になる。
口元が自然と緩んだ。
それを引き締めようと躍起になっていると、猫の人はあたしの知らぬ間に少し歩き出していた。

「あ、あのっ…」
「ん?」

咄嗟に口が開いたものの、あたしには彼を引き止める理由が何もないことに気付いてしまった。
“またいつかここで会える”
そんな漠然とした確信は、ここに来て急に姿を変え、恐怖にも似た不安にあたしの心は締め付けられた。
しかし、掛ける言葉が見つからない。
開いた口は行き場を失ったように、閉じかけてはまた開いてを繰り返していた。
猫の人は、どうでも良さそうな顔をしてじっとこちらを見つめるだけ。
“あ。あたしこの人と初対面だったんだ。”と、この時改めて思い直しては、胸が締め付けられて酷く痛かった。



「ニャーニャー…」



そんな途方に暮れていた時だ。
猫が鳴いた。
さっきの子猫だった。
か細く、けれど、それは確かに必死に生きようとしている力強い声。
励ましてくれているのだろうか。
空気を和ませてくれているのだろうか。
猫のことだから、実際にはまるっきり分からない。
けれど、あたしの心はやんわりとほぐれて行ったのだ。
口が開く。
今度はすんなりと言葉が出てきた。

「またいつか、会えますか?」

猫の人は驚きもせずに、一瞬だけ間を置いて少しだけバツが悪そうな顔をして。

「奇遇だな。」

なんて。
答えになってない応えをくれた。

「奇遇?何がですか?」
「俺も。また会えそうな気がしてた。」
「…え?本当に?」
「女の子に嘘は吐きません。」
「…ぷっ。何ですかそれ。」

どうにも笑いを我慢出来なくて、顔が緩みっぱなしだったに違いない。
同じことを思ってくれていたなんて、たとえ嘘だとしてもこんなに嬉しいことはない。

「ニャー。」

子猫は一通り鳴き終えると、また路地裏の暗闇へ戻っていった。



これが、少し前、1週間ほど雨が続いた日のお話。
あたしは、あれからまだ猫の人には会っていない。
今度雨が降ったら、またあの老舗煙草屋の横の路地裏にこっそり行こうと思う。
そうしたら、きっと、どうでも良さそうな顔をして、またパンを道に落としている人が居るに違いない。



2016/5/19


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