凛とした、それでいて甘い、この声が俺は好きだ。



鼓膜に口づけ


例えば、話している内容が、彼女の恋人の野郎の話でも…だ。

彼は一つ年上で、合コンで知り合って、でも誠実で優しくて頭も良くて、でもって、マメなんだとか。
女にとって、“男のマメさ”というのは結構重要だったりする。誕生日とか、記念日とか、そういうのを大事にしたがる女は大勢居る。
しかし、目の前の彼女もそうかと言うと、そうでも無いらしい。
…と言うのも、最近の悩みというのが、その“男のマメさ”についてなのだ。

「それでね。あの人が……ねぇ銀さん、聞いてる?」
「んァ?あぁ。悪ィ悪ィ。ちょっと考え事してた。」
「もうっ!銀さんったら、いつも考え事してるんだから」
「で?それで、何だっけ?」

“女は話に耳を傾けて貰えるだけで満足であって、回答は求めていないのだ”と何かのテレビ番組で言っていたが、まさに的を得ていると思う。
だから、俺はいつも話半分に彼女の声だけを聞く。あまりにもぼーっとしていると、さっきみたいに怒られることもあるけど。

彼女の言うには、誕生日とか記念日とかを特別扱いして欲しくなくて、毎日の日々を大切にしたいのだそうだ。
彼氏よ。
お前も、努力して金も使って喜ばせようとしてんのに、結果彼女の心に響いてねェって、可哀想だねぇ。


ざまあみろ。


「銀さん。あたし大事にされてるのは分かってるの。分かってるんだけど…何て言うか…何も要らないっていうか…。いや、勿論貰えるのは嬉しいんだよ?貰ったもの、ちゃんと使ってるし。でも…何て言うのかな……あーもうっ。分かんないっ!」

ああ。いつものパターン。
分かんない自己完結。

大事にされてんだから、もうそれだけでいいんじゃねェの?分かんねェよ。
俺だって、分かんない自己完結したいっつーの。
なんで、惚れた女の惚気話を聞かなきゃなんないわけ。
どうして、俺は自分を押し殺してまで彼女の話を聞いてんの。

分かんねェ。

「それって、めちゃくちゃ愛されてるってことなんじゃねェの?俺だったら、そんなマメにできねェし、ましてや金も無ェし?そこまで金も掛けて、時間も掛けてでも、名前ちゃんの為に何かしたいって思ってんだよ、その彼氏さんってのはよォ。」
「………。」
「ただ、それを幸せに思う必要は無ェとは思う。彼氏の幸せはそうでも、名前ちゃんの幸せはそうじゃねェんだろ。てことだろ?俺に相談しにきてるってことは。名前ちゃんが思う幸せってェのを、彼氏に伝えてみれば?」

そこまで言うと、彼女は漸く顔を少しだけ明るくさせて、俺の好きな声で“ありがとう”と笑った。

ああ、もう。この、ありがとう、だけで飯3杯はイケるね。こっちが逆にありがとうだわ。
そんなことを思っている間に、彼女はそそくさと持ち場に戻って行った。
持ち場とはコンビニのレジ。
彼女はこのコンビニの店員で、俺はそれの常連客と言ったところか。

俺は一人、彼女の働く、そのコンビニの前で小さく溜息を溢す。
こじんまりとしたコンビニの申し訳程度の駐車場で、少し暗くなってきた空を仰ぎ見る。
彼女の恋人である男は、いつも遅くまで働く彼女を迎えに来るらしい。
ここで待っていれば、その男に会えるだろうが、俺は一度もそいつを見ていない。
それは何故か。
そいつに会いたくないからだ。

そいつは、俺の中のフィクション。

それでいい。




また別の日、彼女から電話が掛かってきた。
例のコンビニまで来いと言う。
いつものことだ、と俺は渋々身支度を始める。
しかし、俺の脚は自分でも驚くほど忙しなく動いた。
電話を切ってからスクーターに乗るまで3分も掛からなかったんじゃないだろうか。
スクーターを走らせること数分で彼女の働くコンビニに着く。
小さな駐車場の隅で、肉まんをちびちび食べていたらしい彼女が、エンジン音で此方に気づき駆け寄って来た。

「銀さん……あの人がね。浮気…してるかも。」

会うなり彼女はそう言った。

「ハァ?」
「あのね。こないだ銀さんに言われて、彼に全部話したの。…プレゼントは嬉しいし、毎日迎えに来てくれるのもとても嬉しい。でも、無理して欲しくないの。毎日会えなくても、何も無くても、お互いが会いたい時に一緒に居れたらあたしはそれだけで幸せなんだよ、って…。…そしたらね…」

彼女がそこまで話して一呼吸置く。
よく分かんねェ感情が、俺の中で渦巻き始めた。

「…彼はこう言うの。俺は毎日会いたいし、プレゼントだって買いたくて買ってる。お前だって喜んでたろ?あれ、全部嘘だったのか?…って。」

まだ顔も見たことねェ野郎をブン殴りたくなったのは、生まれて初めてかもしれない。
俺の好きな声がだんだん弱々しくなってゆく。

「でね。喧嘩になっちゃって、…それから連絡が無いの。で、こないだ謝りに行こうと思って家の前まで行ったら、先客が居て…中から女の人の笑い声が聞こえてきて…。どうしてかなぁ…。あたしったら。タイミング悪いよね……。」

俺の好きな声が徐々に掠れてゆく。
俺は居た堪れなくなった。
彼女を抱き締めて、そんな奴やめて俺にしろよ、って言えたらどんなに良かっただろうか。
しかし、彼女の顔を見るなり、それは叶わなかった。


彼女は、気丈に笑っていた。




次の朝もその次の朝も、目覚めると脳裏に焼き付いて離れない彼女が居た。
泣きそうな声で、笑っている。
触れると砂のように崩れてしまいそうで。
弱々しく儚げなその笑顔が、朝から晩まで、ふとした瞬間に現れては消え、現れては消えを繰り返していた。
そのまた次の朝も、自分でも全くもって情けないくらいに、それが消えることはなかった。
ついに俺は、ジャンプの発売日なのをいいことに、スクーターに跨り、彼女の元へと走った。


「いらっしゃいませー」

声音からして元気がないように感じるのは、俺の気のせいか。
いや、店内に俺が入ってきたことに気づかないところを見ると、本当に元気がないんだろう。
俺は、チラリと彼女を見遣っては、入り口すぐの所にある雑誌売り場へと足を進める。
コンビニに行く目的と言う名ばかりのジャンプを一応探すと、生憎売り切れのようだった。

「おーい。姉ちゃん。ジャンプもう無ェの?今日発売のやつ。」
「あ、すみません。ジャンプはもう売り切れて………銀さん…?」

俺が一般客のフリして話し掛けると、途中で俺だと気づいたのか少しだけ目を丸くして、それから、久しぶりですね、なんて、また同じ顔で弱々しく笑っていた。
コンビニのオーナーのおばちゃんが、気を遣ったのか、彼女を元気づけてやってくれ、と俺に懇願してきた。
彼女は最初こそ戸惑ってはいたが、おばちゃんの勢いに負けて、俺と共に追いやられるようにして店の外に出た。

「……銀さん…」
「あのさ…たまには俺の話も聞いてくんね?」
「…え?」
「イヤ?」
「…ううん。嫌じゃない。そうだね、あたしいつも一方的に喋ってばかりだったね。ごめん。」
「いや、謝るこたァねぇんだけどよ」

数日ぶりにまともに正面から捉えた彼女の目の下には、少しばかり隈が出来ていた。

「ちゃんと風呂浸かってっか?」

俺が自分の目の下辺りを指差しながらそう言うと、隈のことを言われているのだと気づいたらしく彼女は恥ずかしそうに少しだけ下を向いた。そして、またすぐに俺の顔を真っ直ぐ見上げてきた。

「浸かってるよ。心配しないで。それより、銀さんの話は?」

先ほどよりも幾分か明るい顔をして彼女は笑った。
だけど、まだ本調子じゃない。
俺の好きな、あの声じゃない。

「あれからさ…ずっと離れねェんだわ。名前ちゃんが。…泣きそうで苦しそうで、我慢して強がって笑ってる…その顔だよ。」
「……銀さん…?」
「で、考えたわけよ。名前ちゃんがそんな顔をしてんのは、名前ちゃんにそんな顔させてんのは、誰なんだ、って。彼氏か?いや…そうじゃねェ…俺だよ。」
「え…?銀さん?…どうして?銀さんは何も悪くないよ」
「悪いの。我慢してんだろ。泣くの。泣けないのは俺が頼りないから。だろ?…彼氏の家行った時にその女の人は実際に見てんの?本当に彼氏の浮気か?もうちょっと信用して頼ってみてもいいんじゃね?俺と違ってあちらさんは彼氏なんだからよォ。」

背中を押してみることしか、俺にはできない。
俺の好きな彼女の声を聞きたくて、彼女を笑顔にしてやりたいと思っていても、今の俺にはこんな無様なことしかできない。
それくらいに、俺は彼女に惚れていた。
振り回されていたのに、まったく嫌じゃなかった。寧ろ嬉しかった。
それは他でもない。相手が彼女だったからだ。
全くもって、可笑しな話だ。

「……銀さんって太陽みたいだね。他の人にもそんなに優しいの?実は相当モテてるんじゃない?」

ああ、そうだ。
この声だ。

「そうやって女の子落としてるんでしょ。でも、残念。あたしにはもう彼氏いるからね〜。」

凛とした、それでいて甘い。
この声だ。

「その人はね。合コンで知り合って…でも誠実で優しくって頭も良くって…それからねー……。ねぇ、銀さん。聞いてる?」




「…悪ィ。考え事してた。」



ようやく聞きたかったこの声が聞けた。

俺はそれだけで、飯が5杯くらい食えそうな気がした。





2016.12.14
2万打御礼リク。RICO様へ。

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