ベランダの出窓を開けると、雪が部屋の中に入ってきた。
ひらひらと、花びらのように舞うそれは、床に着くとたちまち小さな水滴に変わった。

季節は冬。
私はベランダに出て、雪が積もってはくれないだろうか、と願ってみるが、生憎そこまでは雪も降ってはくれなさそう。
どうせ降るなら、積もるくらい降ってくれた方が良いのに。
道も歩けなくなるくらいに積もって仕舞えば良いのに。

そうすれば、こんな億劫な気持ちをぶら下げてまで、貴方の下に行かなくて済むのに。

天気は神様の気まぐれ。
私の願いなんか、聞いてやくれない。
仕方なく、ベランダから部屋の中に戻って、窓の鍵を閉め玄関へ向かう。
小さな玄関に無理やり入れたような、これまた小さな靴箱の上には、貴方との初めての写真が飾ってある。
出掛ける前は、この写真を見るのがもう習慣になってしまった。

ああ。やっぱり愛しい。

私は、相当貴方に惚れている。
この恋が実ったというのに、それ以外に何がいるのか。
これ以上何を望むというのか。
欲張り、というやつなのではないか。
けれども、分かっていても、心は酷く痛む。

「やっぱり…行きたくないや…。でも…会いたい…でも会いたくない…」

どっちだよ!
って、貴方のツッコミを脳内で再生して、少し心を落ち着けて、漸く私は玄関扉を開けた。

古いアパートのぎしぎし軋む階段を降りて、地に足をつければ、あんなに外に出るのが億劫だったのに、勝手に足は進んでくれる。
昨日貴方の側に居た女の子は、幻覚か錯覚か、それか私の妄想だ。
何も気にすることなんか無い。
そう言い聞かせながら歩を進める。

雪が降っているのにそこまで寒さを感じないのは、こないだ貴方が買ってくれたこのマフラーのお陰だろうか。
私はマフラーを口まで覆って、その心地良さに瞬間目を瞑る。
すぐにまた目を開ければ、そこに見知った人影が入り込んだ。
向こう側から近づいて来るのは、紛れもなくーーー


ーーー「……銀ちゃん…?」
「お。名前さんじゃねーか。」

私が会いたくて会いたくない人がそこに居た。
いつもの着流しの上にもう一枚羽織ものを着て、マフラーを巻いて寒そうに顔を歪めていた。

「どうしたの?今から万事屋行こうと思ってたんだけど…。お出掛け?」
「いいや。待ちくたびれたから、たまにはこっちから迎えに行ってやろうかなー、と思ってよ。」

普通の女の子ならここで、“わぁ!有難う!嬉しい!”とはしゃぐ所なのだろうけど、生憎私にそういう能力はない。
なので、極めて冷静に“有難う。”と言うだけ。
それでも、貴方は怒ったりなんかしない。
寧ろ、照れ臭そうに後ろ頭をがしがし掻いて、短い返事を返してくれる。
二人並んで、目的だった万事屋へと歩き出す。

「名前さん、寒くねェの?」
「…え?銀ちゃんは?」
「俺は寒い…てか俺じゃなくて、名前さんは?」
「…寒い寒い。」
「それ、ぜってー嘘だろ。」

私より二つ年下で、初めましての時から私のことを“さん付け”で呼んでいた貴方は、付き合いだして半年経った今でもそう呼ぶ。

寒いけれど、寒くない。
マフラーも暖かいし、二人で歩いているとそれだけでさらに暖かい気持ちになれる。
でも、やっぱり空気は冷たくて、隣で寒そうにしている貴方を見ていると、寒いと思えてしまう。
そう考えた所で、先ほどの返答だったので、本当かどうか疑われてしまった。
私は感情を表現するのが苦手。
貴方の言葉を借りれば、感情の起伏が乏しい、ようだ。
自覚はあるけれど、それを今更どうこうしようという気はさらさらない。
“わぁ!有難う!”とはしゃぐつもりなんて毛頭ない。
ただ、こういう時にもっと寒そうな表情ができれば、“寒い”に信用性が生まれるだろうとは思う。

「ん。」

言葉にならない声を出しながら、片手を差し出すところが、貴方らしい。
私は、考えるのをやめて、此方を見もしないその人の手を握った。

「名前さんの手、冷てェ。」
「心が暖かいからね。」
「違ェねーな。たまにすっげェ傷つく言葉さらっと言う辺りがな。」
「ふふっ。」
「あ、笑った。」

あれは、万事屋の下の階にお店を構える、スナックお登勢で、貴方と初めて出逢ってから、二度目にたまたま同じ場所で会った時のこと。
「名前さんってあんまり笑わねーから、笑った時すげェ可愛い」なんて、お酒の回った眠たそうな目をしながら、貴方は言った。
当時は酔っ払いの戯言だと思ってたけど、どうやら冗談なんかじゃなくて本当に思ってくれているみたい。

「私だって笑う時くらいあるよ。」というのが、私の実のところの言い分ではあるんだけど。
それでも、貴方が「笑った笑った」と言って自身も嬉しそうに笑っているのを見ると、そんなこと言えない。

「今日の晩ご飯は何にしようか。」
「んー。何でも。名前さんの手料理何でも美味いからなぁ。」
「何でも、が一番困るんだよねー…と言いたいところだけど、万事屋にある食料だったら作れるもの限られるよね。うん、チャーハンにしようか。」
「やっぱりさりげなく傷つくこと言うよな。ま、そういう所も…」

と、そこまで言ってから、貴方は急に立ち止まって動かなくなった。
どうしたんだろうと、不思議に思った私は、貴方の目線の先に一人の女の子が居るのに気づいてしまった。

ああ。やっぱり外に出なければ良かった。
後悔先に立たず、とは言うものだけれど、しまった、と気づいてからだともうどうしようもないのだ。
その女の子は、昨日貴方の側で笑っていた人。
私が外に出るのが億劫だった原因の人。
やっぱり、その女の子は私の妄想でも何でもなかった。
現実に目の前に佇む彼女は、とても可愛らしい格好をしていた。
流行りのミニ丈の着物に、髪型も女の子らしく、髪に刺さる簪もその笑顔もきらきら光っていた。

「銀さぁん!こんにちわぁ!」

彼女はそう言うなり此方に近づいてきた。
此方、と言っても、その目に映るは私の隣の人だけで、私なんかきっとこれっぽっちも気にしていない。
私は、近づいてくる彼女に、何も言わないで固まっている貴方に、そのどちらにも不要だと言われている気がして、慌てて握っていた手を離した。
貴方の体温がすぐにどこかへ消えてゆく。
哀しくって、何だか惨めで、私も一緒に消えてしまいたかった。
貴方に声を掛けることすらできない。
私はじりり、と一歩だけ退いて、前からも後ろからも引っ張られたように、そこから動けなくなってしまった。

雪がもっと降ってくれれば良いのに。
前が見えないくらいに吹雪いてくれれば良いのに。

貴方に話し掛ける可愛い女の子と、へらへら笑いながら応えている貴方を見ながら、私はそんな事ばかり考えてしまっていた。




気づくと、私は一人スナックお登勢の前に来ていた。
何も言わずにあの場から逃げてきていた。
二階にある、貴方が営む何でも屋“万事屋銀ちゃん”の看板が私を見下ろしている。
二階の万事屋には行かずに、スナックお登勢の引き戸に手をかける。

貴方と出逢った場所。
此処にはお登勢さんというスナックのママが居て、私は何か相談があったり困ったことがあったりすると、いつも自然と此処に来ていた。
引き戸を開けると、お登勢さんはいつもの優しい、しかし少しだけ困ったような顔をして。

「なんだィ名前かい。寒いだろ、入んな。」
そう言って、煙草をふかしながら私を招き入れてくれた。

「……ごめんなさい。まだ開店前なのに。」
「開店前だから良いんだろう。アンタの話をゆっくり聞いてやれる。」
「やっぱり、優しいや…お登勢さんは。いつも有難うね。」
「何言ってんだい。熱でもあるのかい?どうせあのロクデナシのことだろう?とりあえず落ち着きな。顔がぐしゃぐしゃだよ。」

お登勢さんはそう言いながら、私にハンカチを手渡してくれた。
言われて初めて分かったことだけど、私の顔はそれはそれは醜く涙に塗れていた。
知らぬ間に目からも鼻からも液体が溢れ出て止まらなかった。
どうしようもなく自分が情けなかった。
あの子が憎かった。
貴方に嫉妬していた。

受け取ったハンカチが、色が変わってぐしゃぐしゃになる頃、私は漸く落ち着いた。
落ち着いてから、お酒を飲んで忘れる、という何とも陳腐な私らしくない考えが浮かんだ。お登勢さんも快くその考えに賛同してくれた。

私なんか、可愛らしい格好もできないし、可愛らしい受け応えもできない。きっと貴方には、あの可愛らしい女の子がお似合い。
私があの場から居なくなっていることにも気づかないんだから。
追いかけてなんか来ないんだから。
これくらい、拗ねたって罰は当たらないよね。

自棄になっていた。
そうやって飲むお酒が、これがまさにヤケ酒だなぁ、と変に冷静な私の脳みそが私自身を嘲笑っているような気がした。
そうして、お酒を煽るように飲んだ。
お登勢さんも止めようとしなかったし、他に誰も私を止める人は居なかった。
お陰で私はお酒が大して強くもないのに、何杯も飲めた。生まれて初めてこんなに飲んだんじゃないか、というくらい。

「お登勢さん…も…いっぱ…い…」
「それくらいにしときな。お迎えだよ。ロクデナシの。」

「婆さん、悪ィ。連れてくわ。」



気づけば、背負われていた。
半年の付き合いの中でも、初めてだった。
貴方の匂いが、私の中を駆け巡って胸を鷲掴みにする。
貴方はさっきから何も言わない。
何も言わないまま、万事屋への階段を上ってゆく。そして、玄関扉の前まで辿り着いて、器用に片手で家の鍵を取り出し錠を開けた。
私は、お酒が回って機能停止しかけている脳みそを必死に動かそうとするけれど、貴方の匂いが鼻を掠める度に蕩けるように瞼が落ちる。
どうしようもなく心地良い。
ああ。もうこのまま眠ってしまおうか。そうして、今日のことはもう忘れてしまおう。
すると、ふと、脳裏の片隅にあの女の子が入り込んで来て、私は慌てて目を開けた。

「そんなにしがみ付かれると名前さんの乳がもろに当たって銀さん困るんだけど。」
「……馬鹿。」
「知ってる。」
「銀ちゃんの馬鹿…」
「俺ァ大バカもんだよ。」
「馬鹿…ばかばかばか…」
「く…苦しいんだけど。そろそろ離してくんない?いや、乳が当たってるのは嬉しいんだけどさ。」
「馬鹿以外言ってやらない。もう今日はチャーハンも作らない。銀ちゃんの馬鹿。」
「名前さんらしくねェの。馬鹿とか普段言わねェよな。」

貴方はそう言いながら、優しい手で私の腕を緩める。
万事屋の玄関扉の前で、私を背中から降ろした貴方の瞳が私の瞳を捕らえた。
それはそれは、今までに見たことのないくらい優しい眼をしていた。

「…ごめんなさい。」
「なんで名前さんが謝ってんの。」
「…………。」
「…あーそんな顔すんなって。俺が悪かった。俺がもっとちゃんと断ってれば名前さんに謝らせることもなかったわけだし?」
「…断る…?」
「あぁ。実はあの女の子に言い寄られちゃったりしちゃってて…。昨日きっぱり断った筈だったんだけど、まだ諦めてくれてなかったみたいでさァ。ホントモテる男は罪だよなァ。…あれ?怒ってる?ねえ名前さん怒ってるよね?どのへん腹立った?ねえ、どのへん?」

途中までべらべらと喋ってから、私の反応が乏しいことに不安になったのか焦りだした、かと思えば、からかうように私に詰め寄ってくる。
そんな姿がまた愛おしくて。

「ふふっ。怒ってないてば。」

笑いが零れた。
貴方は心底安心したような顔で、へらへらといつもの笑顔を私に向けた。

「前言撤回するわ。馬鹿馬鹿言う名前さんも名前さんらしい。感情表現が苦手なくせに、人一倍嫉妬心が強いって…ったく、扱いづれェったらねーよ。」

笑顔のままで後ろ頭をがしがし掻きながら、反対の手で私の手を握ってくれた。
そうして万事屋の玄関扉をゆっくりと開ける。

雪が吸い込まれるようにその中に入ってゆく。
ひらひらと、花びらのように舞うそれは、床に着くとたちまち小さな水滴に変わった。



暖かい雪


「可愛らしい格好してなくても、可愛らしく振舞ってなんかくれなくても、俺にとっちゃァ十分可愛いんだよ。名前さんは。」
「馬鹿。照れることそんなさらっと言わないでよ。」





2017.1.13
2万打御礼リク。みき様へ。

←BACK

ALICE+