帰ってきた酔っ払いは、靴を放り投げるなり、私に寄りかかってきた。
酒臭い。それに重たい。
酔っているせいで重力に対抗する力が弱まっているのだろう。私はふらつきながらも、何とか足を踏ん張った。

「名前ちゃーん。もしかして銀さんの帰り待ってくれてた?」

時刻は、午前0時を回った頃。
そろそろ寝ようかと思いながら、なかなか寝付けなかった私は、結局この酔っ払いの帰宅をこの暗い廊下で出迎えることになった。
「別に銀さんを待ってたわけじゃないよ。なんだか寝付けなくて。」

「またまたァ、素直じゃないねぇ。この子は。」
「そろそろ離してよ。銀さん重たいし足が辛い。」
「え?なになに?足?揉んでやろーか?この銀さんが特別にマッサージしてあげよーか?」
「要らない。」

酔っ払いの戯言は、軽くかわすに限る。ようやく離れてくれた彼、もとい銀さんにさらっと一言返すと、私は廊下を進む。

「なァ、名前ちゃーん。愛しの銀さん帰ってきたんだけど。もうちょい何かねェの?」

「こんな夜中に酔っ払って帰って来た奴が言うセリフか」と心の中だけで私は悪態を吐いた。二つの布団が並ぶ和室に入っても、銀さんはまだしつこく私の名前を呼ぶ。私は目もくれずそのまま布団に潜り込んだ。

「ちぇっ。つれねーの。」

なんて言いながら、銀さんは和室から出て、隣のリビングへとそのふらふらした足を動かし始めた。いちご牛乳でも飲んでから寝るのかと思い、頭だけ上げて目で銀さんを追っていると、どうやらそうでないことに気づく。銀さんはリビングの大きなソファへその大きな身体をダイブさせると、そのまま動かなくなったのだ。

「ちょっと、銀さん。」

慌てて身体を起こしたのは私で、銀さんは、私が近づいても顔を伏せたまま動く気配を見せない。こんなところで寝たら、お酒も入ってるし、風邪をひくに決まってる。

「銀さん。ちゃんと布団で寝ようよ。ねえ、ってば。風邪ひいちゃうよ?」
「心配してくれんの?だいじょーぶ。その時は名前ちゃんにうつすから。」
「大丈夫じゃないよね、それ。」
「解った。名前ちゃんには絶対うつさねーから。」

「そういう問題でもないでしょ」という言葉は胸の奥に飲み込んで、代わりに溜息を吐き出した。その場から離れて、すたすた廊下を歩いて台所に向かう。私は、冷蔵庫からいちご牛乳を取り出し、コップを二つ抱えて銀さんのいるリビングに戻った。
銀さんが寝転ぶソファのすぐそばにはテーブルがあって、その上に持って来たものを全部置いた。二つのコップをいちご牛乳で満たすと、うつ伏せている大きな身体を揺する。

「銀さん。いちご牛乳、いれたよ。飲まないの?」
「あぁー?いれてくれたの?」
「うん。テーブルに置いてるから、飲んだら布団で寝てよ。」

少しだけ身体を捩って此方を見る眼は、いつもの気怠げな眼と変わらないのに、なぜかいつもより幾分か色気があった。これもお酒のせいかと思うと、なんだか吐き気がした。
私は、堪らず銀さんのいちご牛乳だけ置いて、和室に立ち去ろうと思った。けど、それは銀さんの一言によって阻まれる。


「・・・俺のこと、嫌い?」


ソファのそばに腰を下ろしたままで、テーブルの上のコップに伸ばした中途半端な手が、行き場を失った。

「馬鹿じゃないの。」
「馬鹿じゃありません。銀さんです。」

ああ、駄目だ。この人は酔っ払っているのだ。軽くかわさないといけない質問だったのに。
私は、いちご牛乳で満たされたコップに目線を集中させたまま、銀さんが今どんな顔をしているのか想像してみた。先ほどの少しだけ色気のある眼じゃなくて、きっと今度はへらへら笑っているに違いない。きっとそうだと思いながら、私はコップに伸ばしかけた手を引っ込めて、銀さんの方に首を回す。
「嫌いって言ったらどうするの?」

私の予想を覆して銀さんの眼はとてもまっすぐだった。へらへら笑っているどころか、色気のある眼でもない。どこか真剣味を帯びていて、私の心の奥に突き刺さるようにまっすぐな眼だった。
この眼が大好きだったはずなのに、いつの間にかすごく苦手になってしまった。
何を考えているのか、酷く解りづらい。
銀さんの心の中が見えない。

「名前ちゃん、最近俺のこと避けてね?」
「・・・は?私が?」
「そ。だから俺のこと嫌いになっちまったかなぁ、て・・・」
「・・・ホントに、馬っ鹿じゃないの」

テーブルの上のいちご牛乳も置き去りにして、私は和室の布団に再び潜り込んだ。横向きに丸まって頭まで布団を被っても、銀さんの声は奥まで響く。上から銀さんの声が降りかかってくる。聞きたくない。聞きたくない。何にも聞きたくない。

「名前ちゃーん。なァに怒ってんの。俺なんかした?オイオイ勘弁してくれって。名前ちゃんに嫌われちまったら、俺生きてけねェんだって。」

声が近づいてくる。銀さんがしゃがんで後ろに佇んでいるらしい。私の腕の辺りを布団の上から軽く叩いて、宥めようとしている。

「嘘つき。銀さんの嘘つき。私がいなくても生きてけるくせにっ。」

布団の中で、身体を丸めて目をぎゅっと瞑って、暗い暗い世界で、銀さんの声が灯りのように降りかかる。でも、惑わされちゃいけない。気を許してここから出ちゃいけない。

私は銀さんが好きだ。堪らなく好きだ。嫌いだなんて、あり得ない。むしろ、銀さんが私のこと嫌いになってしまったんじゃないかって最近不安だった。今日みたいに酔っ払って夜遅くに帰ってくることが多くなっていたし。銀さんの周りには、強くて美しい女性が沢山いることに気づいてしまったし。
隣に居るのが、私で、本当にいいのかなぁ、と。
私には、もう米粒ほどしか自信がない。

「銀さんの隣には、もっと他に相応しい人がいるんじゃないの?なんで私なの。私に嫌われたら生きてけない?馬鹿じゃないの。私がっ、私がっ・・・」

布団の中だから、息が苦しいわけじゃない。息が詰まるのは、心が苦しいから。涙が込み上げてくるから。どうして、泣いてるの。どうして、こんなに悲しいの。悔しいの。
布団越しに私の上に置かれた銀さんの手は、いつの間にか離れていた。その上、その人は何も言葉を発しないからどこかへ行ってしまったんじゃないか、って少しだけ不安になってしまう。
さらに悲しくなって、苦しくって、喉が詰まる。


「いちご牛乳、飲む?」


その時、声が降りかかってきた。
からかってるような声じゃない。反省して大人しくなってるわけでもない。酔っ払いのへらへらした笑い混じりでもない。
真剣で、それでいて、とても暖かい。そんな声が、私の涙を止めた。

「飲まねェんだったら、俺が飲むけど。」

身体を捩って、銀さんの居る方を向くと、コップを二つ両手に持った優しい顔が視界に入った。
私は、とりあえず落ち着こうと思い、上半身だけ起こして、銀さんからコップを受け取る。少しだけぬるくなったいちご牛乳。ごくりと一口飲んだ。
甘ったるい後味が、今日はなんだか少しだけ不快。

「さっきの嘘じゃねェから。」
「さっきの、って?」
「アレだよアレ。名前ちゃんに嫌われたら生きてけねーっての。」
「あぁ。それ、ホントに本気で言ってるの?」
「ホントもホント。本気だって。なんで信じてくんねェかな。」
「だって・・・。銀さん、最近、帰り遅いし。いつも酔っ払って帰ってくるし。私、本当に銀さんに好かれてるのかな、って。」

私は布団の上で正座をして、胡座をかく銀さんと向かい合って、いちご牛乳をまた一口飲んだ。歪んだいちご牛乳の水面から、銀さんの方に目線をちらりと移すと、当然のごとく目線がぶつかる。
銀さんは少しだけ驚いたような顔で、それから挙句呆れたような表情をして、溜息を吐いた。
「・・・マジか。それで?俺が浮気でもしてんじゃねェか、って不安になって?」

「うん・・・。」
「どうりで避けてたわけだ。」
「避けてはないよ!私が銀さんのこと嫌いになるわけないじゃん。」

言ってしまってから、口に手を当てた。これじゃあまるで、愛の告白だ。なんて恥ずかしいことをこんなにさらっと言ってしまったんだ、と私は私自身を呪った。気まずくなって銀さんから目を逸らしていると、ごくりといちご牛乳を飲む音が聞こえた。

「まあ、なんだ。俺たち、お互いに勘違いしてたってことだろ。俺はお前に避けられてるって思ってた。お前は俺が浮気してるって思ってた。」
「浮気じゃない・・・ってこと?」
「当たりめーだろ。どうして名前ちゃんがいるのに他の女の所へ行きますか。」

今度は銀さんが口を噤んで目を逸らした。そっぽを向いた横顔がほんのり赤いのは、きっとお酒のせいだけじゃない。
私もつられて熱くなって、いちご牛乳の残りを飲み干した。鏡のように銀さんもごくごくいちご牛乳を飲み干した。お互い空になったコップを持って、目を合わせて笑った。
安心したのか、私の目からまた涙が溢れていたみたいで、銀さんが自前の着物の裾で優しく拭いてくれた。

後から聞いた話では、銀さんは吉原の或る花魁から依頼を受けて夜な夜な吉原に出向いていたらしく、そこで色々ともてなしを受けたがお酒を飲むことしかしていないという。
吉原の番人である百華の月詠ちゃんという、銀さんと共通の友だちがいるのだけれど、その子が証言したのだからまず間違いないだろう。
それにしても、銀さんはどうやって妖艶な花魁たちをあしらっていたのか、と想像すると、私は妄想が止まらなくなって仕方がない。

「俺にはもうとっくに女がいるんで。」
噂ではそう言ってたらしいけれど。


私は妄想にうつつを抜かしながら、酔っ払いが帰ってくるのを今日も寝ずに待っている。




酒を涙で割ってみる



2017.6.20
3万打御礼作品。切甘風味。
一度この人、と決めた人ができたら決して裏切らない銀さん。


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