「げっ!」

女は俺の顔を見るなり、まるで気持ち悪い昆虫か、それか、道端に転がる脱け殻のようなマダオを見る目でそう言った。
そして、くるりと、それはもう目にも留まらぬ速さで方向転換して、何事もなかったかのように去って行くのだ。



好きな人と一緒になるということ


俺が追いかけて、女の肩を掴んだ時、女は当然驚いて此方を見るかと想像していたが、違った。
俺が惚れた女はどうやら、一筋縄ではいかないらしい。
女は、俺の手を、これまた目にも留まらぬ動きで払い除け、また何事もなかったかのようにスタスタ歩く。
そこで俺は堪らず、声を上げる。
「おい!!名前!!」と。

女の名は、名前。
背は俺よりも随分と低いが、頭は高い。そして結構な頑固者。こうと決めたら、よっぽどのことか、予期せぬことが起きない限り、根は曲げない。

「今日、晩ご飯俺が作っから!あ、ジャンプも俺が買ってくる!明日の朝のゴミ出しもするし、定春の散歩も行くし、部屋も掃除する。なっ?」
あれ?これって、俺がいつもほとんどやってね?、と根も葉もないことを言ってしまってから思ったが、もうやけくそだ。
しかし、名前の反応はミジンコ以下だ。

「あれ。ダメ?お願いだって、マジで。頼むわ。銀さん、名前に嫌われるとかマジで生きてけねーよ。名前に嫌われるんだったら、昆虫に輪廻転生される方がマシだからね」

そこまで言うと、名前は慣性の法則を無視するような運動神経で、ピタリと足を止めた。こいつ、運動神経はなかなか良いんだよな。
「ん?どした?帰ってくる気になった?」

「…………銀ちゃんが、昆虫になるのは嫌だ。」
「え………………。そこォォ!?」

俺が惚れた女は、どうやら一筋縄ではいかないらしい。


どこで心を許してくれたのかよく分からないが、いや、そもそもこれは許してくれているのか、まったく心が読めないが、名前を家に連れて帰ってくることができた。
名前は、大きいソファにうつ伏せに寝転んで、俺の愛読書“ジャンプ”を手にしている。俺は向かいのソファに腰掛けてはいるが、そわそわと落ち着かなくて、度々腰掛け直していた。
空気はなんとなく重たい。

「名前ちゃーん。ねえ、今何読んでんの。あ。アレか。ギンタマン読んでる?お前好きだもんなアレ。」
「…………銀ちゃんは嫌いなんでしょ。」
「え?いや、まあ……。アレだよ?ギンタマンは否定しても、それを好きな名前を否定してるわけじゃねーよ?」
「……………………銀ちゃん。」

話題が広がればいいな、なんて軽い気持ちで、名前の好きな俺が嫌いな漫画を話題に出したが、それが仇となった感じが否めない。空気はより重くなった。
俺が焦ってフォローを入れると、名前はこれでもかってくらい間を空けてから、俺の方を見た。それまでジャンプを見ていた目が、俺を捉えていることの少しの嬉しさと、これから名前が何を言い出すのか分からない大きな不安が、俺の胸を支配した。


「別に機嫌取りして欲しくて、不機嫌になってるわけじゃないんだよ。」

面食らった、という表現がしっくりきた。俺は、まっすぐに見つめられた名前の両目を、見つめ返すので精一杯だった。何もできずにいる内に、名前はそれまで倒していた身体を上半身だけ起こして、俺と向き合うように座った。

「銀ちゃん。嘘吐いたでしょ。」
「……ん?なんのこと?」
「惚けないでよ。あたし、知ってるんだから。左脇腹と左肩。…………怪我、してるんでしょ。」

なんで、それを知ってるんだ、と驚いたのも事実だったが、それよりも何よりも、名前の今にも泣き出しそうなそれでいて強い眼差しに俺は心を持ってかれた。

「銀ちゃん、あたし、何でも知ってるんだからね。昨日だけじゃない。今まででも、危ない仕事いくつもこなしてきてるのも知ってる。あたしには嘘吐いて誤魔化して隠してるつもりだったでしょ。だからずっと知らないふりしてた。……でも、昨日、大きな包帯を見ちゃった時……どうしてあたしには言ってくれないんだろう、ってちょっとだけ悲しくなった。」

そこまで言ってから、名前は未だに泣き出しそうな顔のまま、少しだけ口角を弱々しく上げた。
そうか。だから名前は家を出ていってしまったのか、と納得しながら、何か言葉を返さねェと、と思って言葉を必死に探すのに、一向に適切な言葉が見つからない。早く見つけねェと、名前の目の淵から雫が溢れ落ちてしまう。そんな気もして、俺は脳みそをぐるぐる回転させるが、結局、何も見つからないままだった。

「……一緒に暮らすって、一緒になるって、どういうことなんだろうね。なにも、銀ちゃんにすべてを曝け出して欲しいわけじゃないの。銀ちゃんのすべてを知りたいわけじゃない。ただ、命を懸けてでもあたしに嘘を吐くなら、そんな優しい嘘は要らない。」

「銀ちゃんは優しすぎるよ」
名前は前にそう言っていた。
その意味がやっと分かった気がした。

「名前……。お前、気づいてたんだな。全部。」
「当たり前でしょ。…………だって、銀ちゃんの奥さんだもん。」
「あぁ、そうだったな。なんか未だに実感湧かねーわ。名前が俺の嫁だってェの。」
「ホントに?もう2ヶ月だよ?そろそろ実感してよ。」
「悪ィ悪ィ。」

俺が惚れた目の前の女は、俺の嫁になった。結婚する前と何ら環境が変わらなさすぎて、ずっと実感が湧かないでいたが。言われてみると俺たちは夫婦なんだな、とまるで他人事みたいに思う。
名前は、もう泣きそうな顔をしていない。今度は、冷蔵庫に取っておいたプリンを俺に勝手に食べられた時のように頬を膨らませていた。かと思えば、急に悲しげな顔をして、俺を見る。

「ねえ。その傷、痛い……?」

「へ?」
「左脇腹と左肩」
「あぁ、まぁ。痛いと言えば痛いし。普通にしてりゃあ別に大したことねーよ。」
「そっか……。慣れっこなんだね。」
「……お前は慣れてねーよな。俺より痛そうな顔してんぞ。」

俺の身体を見つめる名前の瞳は、ゆらゆら揺れていた。彼女はそれを隠すように、またソファに身体を横たわらせ、何事もなかったかのようにジャンプをまた開いて読み始めた。
なんか変なこと言ったか?と俺は首を捻ったが特に理由も思い浮かばない。

「…………銀ちゃんが居なくなったら、あたし、どうやって生きてけばいいか、分かんないよ。」

ああ、こいつは、俺が勝手に危険なところに行って、知らぬ間に死んじまうんじゃねェかって、それを心配してんのか。それほどに、俺は名前を心配させていたのか、とようやく理解できた気がした。

「……苦しいけどっ、ちゃんと、ちゃんと待つからさ。銀ちゃんが帰ってくるの待ってるからさ。嘘吐かないで。…………銀ちゃんの苦しみ、あたしにも分けてよ。ね?」

ジャンプに雫が落ちる音がする。俺はそれを掬ってやることができない。だが、俺はそれを止めることができる、それを止めなければならない。不思議なくらい自然に脳裏に浮かんだ名前の笑顔に、促されるように俺は腰を上げた。

「名前。」

そう名前を呼べば、ゆっくり顔を上げて、赤くなった瞳で俺を見据える。

「嘘吐かねーって、約束するよ。だから……お前には笑って待ってて欲しい。」


「銀ちゃん……。……おととい、あたしのプリン残してたの食べたでしょ。」

俺が惚れた女は、どうやら一筋縄ではいかないらしい。
どこか子どもっぽくて、どこか色っぽくて、俺の大好きな笑顔で、名前は俺に口付けた。





2017.9.2
喜びも苦しみも分かち合いたい。
だって夫婦だもの。


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