ある日突然に、世界は色を持つ。

それはいつもと同じ朝だった。
鳥の囀りでもなければ、車の騒音でもない、悪夢を見たのでもなければ、良い夢を見たわけでもない。ある時間になるとアラームをセットしているわけではないのに、パッと目が開く。
いつもと同じ目覚め方。睡眠時間は多く取っているつもりだが、いつも身体が重たい。

お名前は、大欠伸を一つすると、いつものように、寝惚け眼を擦りながら、台所に立つ。水道水をコップに流し入れると一息に飲み干す。胃の中に冷たいものが流れてゆくのを感じながらも、相変わらず身体は重たいままだ。
それから、おもむろに玄関へと向かう。
蒸し蒸しと暑くて、衣服が湿気を吸っているせいか、身体が余計に重たい気がした。額からはじんわりと汗が滲み出る。
雪駄を履き、玄関戸を引く。ガラガラと鈍い音を立てながら、開かれたその向こうには、今にも雨を降らせてしまいそうな曇天が在った。

「ああー。雨降るな、こりゃ。」

お名前が住む長屋は、かぶき町にありながらも、一本路地を入った所に建てられているせいか、閑静な住宅街という雰囲気があった。
だから、家の前に打ち水をするにも、花に水やりをするにも、この朝一の空を眺める日課も、寝る時のだらしのない部屋着で出るのが当たり前になっていた。
いつもの通り、部屋着のままだったお名前の目には、覆い被さるような曇天が写る。誰が見ても、これは雨が降るだろうと思わずにはいられない空だった。


「ねえ。オネーサン。」

すると、お名前の耳にふと声が聞こえた。驚いて身体を強張らせると、さらに同じ声がお名前に話しかける。
「そんなに驚かなくてもよくね?傷ついちゃうなァ。」

下から聞こえる声を辿ると、足元に人が転がっている。思わず、声にならない悲鳴が喉の奥の方で鳴った。

「ひっ……!」
「死人見るよーな目で見ないでくんない?俺、まだ生きてんだけど。」

そう。男の言う通り、男は生きている。
転がっている、とは大袈裟な比喩であって、実際には、長屋のちょうどお名前の家の壁に背を預けて座り込んでいる。その男は、死んだ魚のような目をして、着物もボロボロで、所々、これは恐らく血だろうとお名前は推測したが、それが身体中に染み付いていて、いかにも死人みたいな形をしている。
それでも息は正常で、見上げてくる男を眺めていても、今すぐに死んでしまうという雰囲気は無い。

「大丈夫ですか……?」

しかし、死人で無いにしろ、自分の家の前で座り込んでいる人間に、この言葉を掛けないでいられるだろうか。
お名前は不審に思いながらも、男に声を掛けた。

「大丈夫じゃねーだろ。見て分かんない?いやー。俺マジでアレだからね。」
「え。マジでアレ、って大丈夫ですか?まさかとは思いましたけど、誰に?誰にやられたんですかっ?」
「えっ?いや、犬……?」
「え?……………………いぬ?」

巷で辻斬りが流行しているとの噂は、お名前の耳にも入っていた。
身体中に血が付いていて、死人のような形をしている男が座り込んでいる、と来れば、辻斬りにやられたと考えるのが普通だろう。お名前もそう考えていたのに、誰にやられたか、と問えば返ってきたのは何とも頓狂な返答。

「まあ、犬っつーか、なんつーか。……まあ、犬と言えば犬なんだけどすんげーでっかいのよ。うちの犬。」

聞いていれば、しばらく動かなかった頭が徐々に回転を始める。
すんげーでっかい犬って、それ、犬?
お名前は、目の前の男が話す飼い犬の話を聞いて、その犬の想像を頭の中で膨らませる。白くて、モフモフしてて、すんげーでっかくて、可愛いけど凶暴、だそうだ。
「そ、その犬にやられたって言うんですか?」

「あ?だから、そうだって言ってんだろ?ねえ、それよりさ、なんか、食いモンねェ?」
「……はい?」
「俺、腹減って死にそうなんだわ。」

飼い犬に襲われて、服に血を付けた男が、まさか空腹で死にかけているとは、誰も思うまい。
お名前の平凡な日々は、この男によってかくも容易く崩される。
これでもかと、混乱を続ける自身の頭をぶんぶん振ると、何だかよく分からない気持ち悪さが身体を逆流する感覚があって、お名前はすぐにそれをやめた。
きっと、今まで平凡に暮らしてきたのに、こんなに頓狂な非日常をいきなり面喰らったせいだ。そうだ。この気持ち悪さもこの曇天も、全部この男のせいだ。
考えてもみろ。人の家の前に腰を下ろして、可笑しな話をして挙句、腹が減ってるから何か食い物はねぇか、と、怪しすぎるではないか。

お名前は、腹を手で抑えるようにして、上目遣いで此方を見上げる足元の男を睨みつけた。
「本当に、腹が減ってるだけですか……?」

「あれ?もしかして俺、疑われてる?ヤダなァ。可愛い顔して冗談キツイぜ。オネーサン、名前なんてーの?いや、そういうのはこっちから名乗るもんだよな。俺は、坂田銀時──」
「………………。」
「──オネーサンは?」
「…………お名前、です。」

坂田銀時と名乗る男は、満足気に笑った。
その笑顔を見た途端に、お名前の心の奥からはよく分からない感情が温泉のように沸いて出てきた。
曇天は相変わらず重たいままだが、お名前の重たい身体は少し軽くなっていた。

「あ。雨。」
「降ってきちまったなァ。」

ふと、肌に冷たいものが当たる感覚がして、空を見ると、曇天から押し出されるようにして雨が降ってきていた。

「ちょ、ちょっと待ってて。たしか、」

お名前はそう言うと家の中へ入って、手に饅頭を抱え銀時の下へ戻る。
その頃にはすでに銀時は雨に打たれて、ふわふわの銀色の天然パーマがしゅんとなっていた。慌てて持ってきた饅頭を差し出すと、銀時はそれをむしゃむしゃと一心に食べてくれた。お名前はほっと胸を撫で下ろしつつも、大きくなってきた雨粒を無視することは出来まい。
また家に戻ると、今度は玄関先に置いていた傘を持ってきて広げた。未だ地に腰を下ろしている銀時を同じ傘の中に入れて、上から様子を伺う。

「うんめぇ。」
生き返る、と大袈裟に喜ぶ銀時を見ていると、本当に腹が減って死にかけていたんだとしみじみ思う。
お名前には、お腹が減った時「お腹すいて死にそう」、と言ってしまう節があったが、銀時の「腹減って死にそう」は、比にならないんだろうと思った。しばらくは、言うのを控えようとさえ思った。

「良かった。仏様のお供え物買っておいて。」
「ん。お名前濡れてんじゃん。ちゃんと入りなさい。」

たしかにこの大雨で、傘一つに大人二人が入れば少なからず衣服は濡れるだろう。しかし、自分の家はここだし、すぐにタオルもあるし風呂にも入れる。今日も今日とて、特に出掛ける予定も無いし、雨に少し濡れたからと言って、特段不快というわけでも無い。お名前は、銀時が自分のことを心配する理由がよく分からないでいた。
「気にしないで」と言おうとしたら、急に腕が下から伸びてきてお名前の傘を持つ腕が引っ張られ、その力のままにお名前は銀時の隣にしゃがみ込む形になった。

「お名前って、一人で住んでんの?」

お名前は急なことに目を丸くした。
死んだ魚のような目なのに、どうしてか吸い込まれるように目が離せなくなる。
初対面の男に腕を掴まれたままだというのに、それすらどうでもよくなってしまうほどに、夢中になってしまった。
綺麗な目だと思った。覇気は無いけれど、ずっとずっと奥の方でゆらりと燃ゆる火のような目。

「彼氏とかいんの?」

気づけば、顔に熱が篭って酷く苦しかった。
「そ……そんなこと聞いてどうするの」

「いや。どうもしねェけど。気になっちまったもんでよ。」
「…………一人ですよ。悪い?」

挑戦的な目を向けたつもりだったが、本当に出来ているか分からない。自信は無かった。何故なら、銀時の目はやんわりとお名前を見つめたまま、決して揺らぐことが無かったから。
お名前は堪らず目を逸らした。どうしてこんなにだらしのない目に勝てないのか、という悔しさ。だがそれよりも、この目に吸い込まれてしまいそうな気がして怖かった。
銀時はそんなお名前を鼻で笑った。
驚いてまた目を向けたが、お名前はすぐに後悔した。

「悪かねェよ。むしろラッキーだろ。」

何故なら、目だけじゃ飽き足らず、心までもを持っていかれてしまったからだ。

銀時は、「あ、それは俺の方か。」と惚けるように付け足すと、お名前の赤くなった頬を見て意地悪く笑った。
ザアザアと降る雨が、煩くて仕方がなかった。





色をくれた代わりに心をあげる

2018.06.11
Dear:ミカ様



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