夏空を見上げて肺いっぱいに酸素を送った。肺に溜まった酸素を吐き出すと、身体の内側に溜まっていた不純物も一緒に、身体から取り除かれてゆく気がする。

夏空は、潔い。胸の内を曝け出して、青年のように挑発的に、少年のように無邪気に、笑いかけてくる。これでもかってほどに自信満々で、私には少しばかり眩しい。

私の隣には、あーだのうーだの、唸ってばかりの人が座っている。

「暑っちぃなァ、オイ」

あーだのうーだの、ばかり言っていた人が、急に言葉を話したので、私はその声に耳を傾けた。「ねー」とほとんど無意識的に口が開いて、そこから声が漏れた。適当に相槌を打つといつも文句を言われるけれど、この時ばかりはこの夏の暑さですでに疲労困憊していたのか、軽く溜息を吐くくらいで終わった。それでも、私に構って欲しいのか、彼はまた言葉を発する。

「今年の暑さは異常だな」

彼はぽたぽたと額から汗を垂らしながら、普段から死んだ魚のような目をさらに酷くしている。どう表現すれば死んだ魚のような目のさらに上をいく生気の無さを伝えられるだろうか。暑さで参ってしまった頭で考えるには、あまりにも陳腐な疑問すぎて、言葉が浮かばない。
これはもはや、“死んだ魚のよう”ではなく、“死んだ魚”だ。

二人とも日傘の影に入れるように持つのって意外と難しい。そもそも日傘って雨傘より小さいのに、一本に二人入ろうとする考えが間違っているんだろう。だから、どちらかが犠牲になるという一択しか無い。つまりは、今私は日傘の影にある程度隠れているが、隣に座る彼はこの日照りの犠牲者となっているわけだ。

代わりにと言えるのかどうか、この間百均で買った冷却タオルが、彼の首からぶら下がっていた。今にも水分を失ってカラカラに乾いてしまいそうだ。
でも大丈夫。ここは公園だから、蛇口を捻ったら水道水を簡単に出せる魔法の道具がそこら中に設置されているはず。
きょろきょろと周りに目をやれば、すぐに見つかり安心した。小さい子どもたちがまるで魔法使いのように、蛇口を捻って水をバシャバシャと掛け合っては、高い声で笑っていた。

「今年は暑いねー。」
「ねー、じゃねェだろ。なんかそれ毎年言ってね?」
「そう?夏の季節の挨拶みたいなものなのかな?今年は暑いですねえ、銀さん。」
「今年は、じゃなくて、今年も、の間違いだろォが。夏は毎年暑いの。」
「んんーそれもそうだね。あ。今年も暑いがやって来ましたねえ、銀さん!」
「暑いがやって来ましたねえ、お名前さん!なんなんだよコレ。余計に暑くね?」
「ふはっ。」

私が笑えば、何だかんだ言ってても、つられるように彼も笑ってくれる。それが嬉しくて嬉しくて、心が弾む。もう、ベンチから夏空に飛んで行ってしまいそうだ。
絵の具のチューブから出てきた空色をそのまま塗りたくったような空。その中にもくもくとした真っ白の雲が楽しそうに浮かんでいる。

「お名前さーん。蝉が鳴き喚いてるよー煩いったらありゃしないよー。」
「それは……銀さんがそういう耳をしてるからだよ。」
「え、何?なんなの?俺の耳が悪いのコレ。」
「いや、どっちが悪いとかじゃなくて。この鳴き声は生きてる音だよ。必死に生きてる音なんだよ。だから、それを煩いとか鬱陶しいって思っちゃう時は、必死に生きることを忘れちゃってる時だよ。」

所在無げにぶらぶらと足を揺らしながらそう言えば、じっと彼の視線が横から突き刺さってくる。私は気にしていないフリをして、公園の中に視線を彷徨わせる。鳩の群れ。芝生に腰を下ろすカップル。汗を流しながら暑い中走っている男の人。私たちと同じように暑さに負けてベンチに座るお年寄り。男前な男性を指で指しながらきゃっきゃっと騒ぐ女子たち。そして最後に、水を掛け合ってはしゃいでいた小さい子どもたちに目をやると、お母さんたちに連れられて帰って行くところだった。

「お前にはどう聞こえてんの?」

蝉の声。
彼は溜息を吐くように言葉を紡ぐ。
その声は私が知る彼の声の中でも、特に私が苦手な色を孕んでいる。私の外と中のすべてを暴いてしまう、名探偵のような超能力者のような。逃げ場が無いというのはまさにこのことだと思う。

「私は…………」

観念したように口を開いて横を向けば、私の好きな赤い瞳が在った。いつもと変わらないその瞳に酷く安堵してしまって、なぜか胸がきゅっと締め付けられるように痛くて泣きそうになる。
あんなに大勢の蝉の声が、一瞬鳴り止んだ。

「私には、煩さすぎて。鼓膜が潰れちゃいそうだよ。」

言いながら声が少し震えて、誤魔化すようにへらっと笑った。笑ったつもりの顔はどんな顔になっていただろう。
私の言葉を待っていたように、蝉がまた鳴き始めた。ミーンミーン。ジージー。
ああ、もう。煩いなあ。

赤い瞳がゆらゆら揺れて、彼の手が私に伸びる。彼もまた、いつものようにへらっと笑っていた。どうしてそんなに優しい顔ができるのか、まったく分からないくらいに、彼の瞳は優しさで溢れている。
伸びた手は私の頭の上に乗った。それだけで彼の優しさが全部私の心に入り込んできたように、満たされて、また泣きそうになる。

「お前はそうやって、自分を追い込みすぎ。蝉の声が煩いからって、必死に生きてないだァ?ンなことあるかよ。必死に生きたいと思ってるから、煩ェの。」

結果必死に生きてるか生きてないかはどうであれ、お前の意思の問題だろーが。
そう付け足して、彼はポンポンと二度軽く私の頭を叩く。
大丈夫。大丈夫。
手の動きに合わせて、そんな優しい声が重なって頭の中で聞こえてくる。

「うわーリア充だ!」
目と目を合わせて暫く頭を撫でられていれば、どこからともなくからかいの声。
まだ年端もいかない女子たちの高い笑い声が、それに続く。終いには「羨ましい」とまで言われてしまって、私たちは目を逸らした。頭の上の手も離れて行く。

小さい嵐が過ぎ去ってから、また私は夏空を見上げる。雲は真っ白で、もくもくとぷかぷかと空に浮かんでいて、その下には、わいわいがやがやと人々の群れが在って、そして蝉は相変わらず煩い。
それでも、その音がさっきとは少し違って聞こえてくるのは、どうしてだろう。


「しっかし暑っちぃなァ、おい」

数分前に聞いたような台詞を吐き出しながら、彼は夏空を見上げて、恨めしそうに目を細めていた。






それでも煩い時は耳を塞いであげよう



2018.08.08
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