雨に濡れた紫陽花に囁くは


まどろみの中から目覚めると、雨の匂いがした。
雨粒が地面を打つ音が聞こえる。
朝はあんなに晴れていたというのに。
昨日の天気予報によれば、午後から低気圧が近づいてくるらしかった。
予報は当たり。
最近外れてばかりだったから、珍しく当たってお天気お姉さんはさぞ喜んでいるに違いない。

雨の匂いと音を十分楽しんでから、アイマスクを外して中庭を眺めているのは、沖田総悟。

今日は非番。
真選組のお仕事はお休みである。
決してサボっているわけではない。
いつもは土方に怒鳴られるところだが、今日は非番の為、そういうこともまず無い。

「あーあ。暇でィ…。」

ぼそりと呟いた声は、雨音に溶けていった。
嗚呼、無情。

せっかくの非番だから、何処かへ出掛けたり、誰かとご飯等行っても可笑しくないのだが、雨だから、と何も予定を入れずにだらだら過ごそうと思っていた。
しかし、いざ、だらだらし出すと時間が物凄く長く感じる。
このままでは今日が永遠に終わらないのでは、という錯覚さえ覚える。
とりあえず、眠ってみたはいいものの、仕事中でも構わず眠っている沖田にとっては、いつも通りで特に休日感を感じることも無い。
こうやって目覚めた後には、変な脱力感が残るばかりである。
眠る前から、結果は予想していたのだが、こうも怠いものだとは。

「あーあ。雨止まねェかなぁ……。」
嗚呼、無情。
雨は先刻よりやや弱くなったような。
錯覚を覚え、上半身を起こし胡座を掻く。

「ちょいと、ぶらぶらすっかねェ。」

おーい。雨やィ。
それ以上強く降らねェでくださいよ。



玄関に向かう途中、あらゆる襖の奥から野郎共の話し声が聞こえたり、女中さんの笑い声が聞こえたりしたが、幸い誰にも会わなかった。
下駄を履いて、傘を手に取る。
玄関戸を開けると、雨の音が鮮明に聞こえた。

カラン。コロン。

ザァザァ。

地面の砂は雨の水を含んで泥水のようになり、それが下駄によって跳ね、着物の裾を汚した。
沖田は、やっぱり外になんか出なければよかった、などと早くも後悔した。

「ちぇっ、せっかくの休みだってのに……。ついてねェや。」

かと言って、屯所に戻る気にもならない。

カラン。コロン。

「とりあえずあそこに行ってみるかィ。」

『あそこ』とは最近かぶき町に出来た真新しい風貌のキャバクラである。
かぶき町には不似合いな地味な外観をしており、店名の書かれた看板は申し訳程度にちょこんと置かれている。
日暮れ時にその看板を毎日外に出している小娘がいる。
その小娘こそ、沖田が気になっている新米ホステス。

一度松平に、近藤や土方らと一緒に連れて来られたことがあるのだが、それ以来店内には入ったことはない。
ただ、その新米ホステスを毎日見るのが日課となっていた。
話しかけることもせず、近づくことすらせず、遠目に眺める。
このほんの数秒が沖田の最近の愉しみであった。

『別に惚れてなんかいませんよ。』

近藤や土方に茶々を入れられると、いつもそう言って濁すのだが、本当のところを知る者は誰一人いない。


「……て言っても、まだ店開くまで随分あるんだよなァ。」

時刻はお昼過ぎ。
夕方まで数時間はある。
沖田の目的は、きっと日暮れ時に現れる彼女を見ることであるから、何処かで時間を潰す必要があるのだろう。

「甘味処でも行くか。」

ふと、甘味処を思いつく。
そこで彼女と会うとも知らず。



甘味処の屋根を被るかたつむりのように、雨宿りをしている彼女を見つけた。
遠目でもはっきりと分かる。
小柄な身長に、紫陽花の形の飾りの付いた簪を挿して、見た目は地味だが色気がある。

まさか、こんな所で見れるとは思っていなかった彼女の姿に、少しの興奮を押し隠して近づく。

「名前じゃねェかィ。」
「はい?ええと」
名前と呼ばれた女は少しの沈黙の後こう続けた。
「沖田さん、でしたっけ?真選組の。」
「当たり。ホステスってェのは、どうして客の名前全部覚えてんのかねェ。」
「うふふ。良かったです。ホステスっていうのはそういう職業なものです。」

数週間も遠目に眺めていただけの女と、こうやって面と向かって話していると、妙な浮遊感がある。
夢の中にいるようで、現実味がない。
一方名前は、数週間も会っていない沖田を相手に、冷静沈着と言ったところか。
ゆっくりとした口調で、沖田の声に応えている。

「下の名前は?」
「え?えー、えーと…」
「いや、いいんでさァ。俺が名乗ってなかったかもしれやせん。」

何処まで覚えているのか試したかった、という少しのS心が疼いただけで名前を追い詰めたいとまでは思っていなかった。
沖田は俯く彼女に申し訳なくなった。

「教えて頂けますか……?沖田さんの下の名前。」

沖田は、俯いてるままだと思っていた隣の女を凝視してしまった。
此方を真っ直ぐに見つめるその眼差しは、沖田が惹かれたーーー恐らくキャバクラ通いの男性諸君も惹かれてしまうであろうーーーその眼であった。
彼女からの頼みに、これもホステスの仕事の内だ、とは思いつつも嬉しさはふつふつと煮えたぎる。
しかし、嬉しさなんて見せてやるものか。
そういう男なのだ。
沖田という男は。

「ちぇっ。そんな顔しても教えてやるもんか。」
「えええ!ごめんなさい。怒ってますか?」
「勘違いすんじゃねェや。怒ってなんかねェでさァ。」
「じゃあ教えて下さい。」

物腰柔らかに名前が催促する。
ふんわりと微笑むと簪の紫陽花が揺れた。

「お願いします。」
「…………。……そうご。」
「はい?」
「総悟、でさァ。覚えててくだせェ。」
「……ありがとうございます。総悟さん。」

また紫陽花が揺れる。
同時に沖田の心も揺れ動く。

甘味処の屋根の下。
雨の音は相変わらずである。
暫く止むことはないだろう。
しかし、そこでピタと2人の間の会話は途絶える。


ぽつり。


名前が何か言ったような気がした。
沖田は隣の彼女を盗み見るけれど、彼女は曇天の空を眺めているばかり。
その横顔もまた見ていて飽きない眺めだなぁと沖田は思う。

「止まないですかねぇ。」

ぽつり、とそれは確かに彼女の口から溢れ落ちた。

「今日は午後からずっと雨ですぜ。お天気お姉さんが言ってやした。」
「あら、どうしましょう。お店まで走りましょうかね。」
「何言ってんでィ。そんなことしたら風邪引いちまいやす。」
「ふふっ。冗談ですよ。ホステスジョークです。」

心底嬉しそうに笑っている。
名前は、笑顔がとても良く似合う女、と沖田は初めて会った時から思っていたのだが、今改めて感じる。
さらに、そんな女がホステスでいろんな男に媚びを売って、自分に向ける笑顔と同じような笑顔を他の男に向けていることを考えると、やるせない気持ちになる。
何故、そういう仕事を彼女はしているのだろう。
自分だけのものにならない歯痒さが憎い。


「バカ言いなせェ。俺の傘に入れてあげまさァ。」
「え。」


沖田の顔を見て、傘を見て、また沖田の顔を見た名前は、暫く固まっていた。

「…いいんですか?」
「名前が嫌なら別にいいんですぜ。」
「いえ!嫌なんてとんでもないです。」

名前は顔の前で両手をぷるぷる振る仕草をしてみせる。
それを見た沖田は、傘を広げニヤリと微笑む。
名前が嫌と言えないのを知っていて、わざとそういう言い方をしたのだ。

「なら、行きやしょう。入りなせェ。」
「え、あ、はい…。失礼します……。」

そう言うと名前は遠慮がちに沖田の差す傘に入る。

「なんでィ。ホステスってェのは、もっとがっつりどぎついモンだと思ってたんですがねィ。」
「へ!?」
「なんていうか、名前はふんわりしてて緩い感じがしまさァ。」
「そうですか?……思ってたホステスと違ってがっかりしました?」
「……………いや」

カラン。コロン。

雨は止むことを知らぬように、降って降って降り続ける。
このまま一生降り続けて欲しいと異常なことを考えてしまうのは、きっと隣にいるのが凄く心地がいい相手であるから。

「……いや、そういうホステスも悪かねェや。」
「え?」
「バカ野郎。一回で聞き取れ。」
「総悟さん…。顔、お紅いですよ?」
「うるせェ。」
「はい。すみません。静かにしてます。」
「…………」

此方は内心で慌てているのに、冷静で笑みまで見せる名前が少し憎らしくなる。
沖田の方からは、彼女の紫陽花の簪がよく見えた。
名前が歩く度にそれも一緒になって揺れる。
その様は、まるで沖田の心を表しているかのように。

雨水を吸った土が、下駄によって跳ね、着物の裾を汚した。
最初は気にしていたが、途中からもう諦めた。
特に会話をすることもなく、雨の音を聞きながら2人は歩く。
どうしてか、会話をしなくても苦にはならなかった。
寧ろ、この方が心地が良い気がする。
知らぬ間に、目的地に辿り着いていた。
後は、お礼を言い、言われ、軽く会釈くらいして、ではまた、と去って行く、そんな別れ方でよかったのだろうに。

「ありがとうございました。では、また…」
「名前。」
「総悟、さん……?」

傘から出ようとする名前の腕を沖田は咄嗟に掴んでいた。

「もう少し。あと1分、いや、30秒でいいんで…」

『行かないでくだせェ』と、まるで母親に縋り付き駄々をこねる子どものように。
そして、困った顔をした母親が我が子を優しく諭すように、名前は沖田の手を握った。

紫陽花が揺れる。
雨の音はもはや聞こえない。
自らの心臓の音しか聞こえないくらい外界をシャットダウンしたような。
世界にこの傘の空間だけしかないような。
つまりは2人しかいないような。
そんな錯覚。




「雨…、止みましたね。」


そんな声に驚き、傘を落とした沖田が空を仰ぎ見れば、雲の隙間から太陽が顔を覗かせていた。

さっきまで永遠に降り止まぬと思っていた雨が。
止んでいた。
音が聞こえないのは、錯覚ではなかったのか。

やがて雲は流れ、太陽の光が直接突き刺さる。

「お店…明日もいらしてください。」
「……アンタ…気づいてやしたんですねィ。」
「うふふ。だって、視線が凄く突き刺さってくるんですもの。太陽の陽のように。」
「……ちぇっ。全然上手かねェや。」


紫陽花は雨に濡れきらきら光る。
眩しい太陽には到底敵わない。
でも、儚く健気に可憐に光る。
その光が自分にだけ届けばいい。
誰も気づいていない内に、自分だけのものにしてしまおう。

紫陽花のすぐ近くの耳にぽつり。
囁くのは愛の言葉。




「俺、アンタのこと、好いてまさァ」




2015/6/25
濡れた紫陽花に囁くは、『愛の言葉』でした。
総悟初です。難しいですね。
ちなみに紫陽花の花言葉は、一般的には悪いイメージばかりです。
冷酷、冷淡、移り気、無情…etc.
ですが、良い花言葉もたくさんあるのだそう。
元気な女性、辛抱強さ…etc.
そしてヒロインの簪に付いていた白い紫陽花の花言葉は、『寛容』です。

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