その人は、紫煙を燻らせながら、いつも難しい顔をしている。

私はその人とは、一度も口を利いたことがなかった。煙草屋とそのお客。それ以上でも以下でもない、何の変哲もないそれだけの関係だった。
だから、私とその人が口を利くようになったのは、あることのきっかけがあったからに他ならない。
そう誰もが思うだろうけど、きっかけなんてものは私が探した限り、何処にも見当たらなかった。
自信はないが一つあえて言うならば、私がその人の煙草を吸う様をいつもじっと見つめていた、ということか。
いや、寧ろそれ以外にありはしない。
私は、初めて会った時からその人に惹かれていたのだ。

その人は、いつも難しい顔をして、腰に刀を差しているお侍さん。真選組、という武装警察のお偉いさんだということは、初めてお見かけしてから数日後に知った。そして、お偉いさんの中でも特に頭のキレる、鬼の副長と恐れられる土方十四郎さんだということは、そのまた数日後に知った。
どれも、風の噂だ。しかし、真選組の証である黒の隊服、その幹部クラスの証であるスカーフ、黒髪に瞳孔が開いた鋭い目。
何度も何度も確認して、やっぱり例の鬼の副長だと確信した。

「名前。」

今では土方さんは私のことをそう呼ぶ。そこまで親しくなれたのだと改めて思うと、嬉しくて我ながら頬が緩む。それを抑えて返事をすると、いつもの銘柄の煙草を要求された。

「はい、どうぞ。今日は一段と眉間の皺が濃いですね。また沖田さんですか?」
「ヤローはいつものことだ。今日も朝からバズーカで殺されかけた。」
「ふふふ、面白い。やっぱり沖田さんとお会いしてみたいわ。」
「ふざけるな。面白いじゃ済まねェんだよ。絶対会わねェ方が身のためだぜ。」
「またまた。そんなこと言っても、沖田さんと仲良いですよね。いつも沖田さんのお話ばかり。」
「ばっ!そんなんじゃねェって言ってんだろォが。」

土方さんには、部下さんが何人もいらっしゃるけれど、その中でも沖田さんはお話の中に出てくる確率が高めだ。何でも、田舎からの付き合いなのだとか。直接お会いしたことはまだ一度もなく、土方さんから聞くお話から想像して、まだ20にも満たない可愛いイタズラっ子、という印象が私の中でどんどん大きくなっていくばかりだった。しかし、何度も会ってみたいと言っても、いつもやめとけと取り合ってくれないのだ。

「普段からそんなに眉間に皺寄せたお人が、さらに皺を濃くするなんて。やっぱり何か厄介な事件でも?」
「まあ色々な。最近攘夷浪士たちによる辻斬りが流行してるみてェだ。お前も巻き込まれねェように気をつけるんだな。」
「ご心配ありがとうございます。けど、大丈夫です。ここ、警察官立寄所ですから。」

土方さんはそれ以降、何も言わなかった。普段から物静かに煙草を吸って、難しい顔をしているだけだから、特に気に留めることもないのだが、何故か胸騒ぎがする。
「土方さん・・・」

その人の名前を呟いても、彼は紫煙を燻らせて、空を見上げるだけだった。
空は暗くどんよりとしていた。
この時初めて気がついたけれど、雨の降る前の湿気を帯びた独特な匂いがする。いや、雨の降る前じゃない。もうすでに、降っていた。

「あ、め・・・」
「チッ、降りやがったか」

華麗な舌打ちが聞こえた。
私としたことが、雨の気配にも気づかなかったなんて。雨は、ポツポツからザアザアに変わった。暫くは止まないだろう。

「通り雨、ですかね。止むまで休んで行かれたらどうです。そうだ、お茶でも出しますよ。いつもお世話になっているし。」

そう言って私が立ち上がると、土方さんは一言「いや、いい。」とだけ言って、此方を見ることはなかった。何だか酷く哀しくなってしまった私は、しょんぼりとまた椅子に腰掛ける。

雨は、普段聞こえなかった音が聞こえてくる。そのくせ、普段聞こえる音が聞こえづらかったりするのだ。厄介なものだな、と私はぼんやり外の曇天を眺めた。

「・・・土方さん、お気をつけて。」

滑るように口から溢れた言葉は、土方さんだけでなく言った本人でさえも驚かせた。
何となく、思ったのだ。
土方さんがこれから討ち入りか何かで、命の危険が及ぶ場所に向かおうとしていることが、私には分かる。だから、こんなにザワザワと胸の中が騒がしいのだ。

「あの、迷惑だとか、野暮だとか、思うかもしれませんが、私にとって、その・・・土方さんは・・・大切な、お客様なので・・・」

本当はこんなことが言いたかったわけじゃないのに、私の中で何かがまた騒ぎ出す。曇天を見上げる横顔は、いつもと変わらず難しい顔をしていた。煙を吐き出したその口元をじっと眺めていても、その人は何も言わなかった。

「・・・行ってらっしゃい、としか言わせてもらえないんですね」
「俺には勿体無ェくらいの言葉だ。」

漸く口を開いてくれたと思えば、今度は背中しか見せてくれない。なるほど、これは鬼の副長の背中だと、女の私にも何となく分かるような気がした。もう振り返ってはくれないのだと、そうもぼんやりと思った。

「行ってくる。」

ポツリと、けれど、雨音の隙間から鮮明に聞こえたその言葉は、私の胸にしっとりと沁み入る。
何か、何でもいい。
何でもいいから。
「ありがとうございました」
「またお越しください」
「あまり吸いすぎちゃダメですよ」
「沖田さんによろしく」
いつもの何気ない一言で、それでいいのに。
ああ。この人は雨の中、傘もささずに、濡れることも構わずに、このまま行ってしまうのだろう。
頭の片隅でそんなことを思う。
そして、背中を見つめながら私は口を開く。

何か、何でもいい。
何でもいいから。


「また明日、お待ちしてます。」
だからきっと、生きて帰ってきてください。

私には図々しいくらいの願い。

その人は紫煙を燻らせながら、雨の中を走って行った。



無言のさよならをちょうだい



2017.3.25

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