鬼はいつも瞳孔を開いて、険しい表情をしている。
隊員たちが何かしでかすと、すぐに「切腹しろ」と命令する。
職権濫用だと騒ぎ立てれば、「うるせぇ」と一喝する。

だが、ただひとり。
その人にだけはとびきり甘い。
その人にだけは瞳孔を閉じて優しい顔を見せる。
鬼の上に君臨するある女にだけは。



鬼退治と行きましょうか


「名前ちゃーん!!名前ちゃん!!大変大変っ!!」

バタバタと廊下を駆ける音が聞こえる。かと思えば、その主は、普段から襖が開けっぴろげなままの部屋に勢い良くダイブした。

「ザキうるさい。書類まったく片付かないんだけど。頭も痛いし、ペンも進まないし、何なのこれ。これ全部ザキのせいよ。」
ダイブの勢いで山崎が顔を擦りむき血を流していることにも動揺せず、眠たそうに書類の束から顔を上げたのは、この部屋の主、名前。

「えぇっ!!?そんなこと言われても…。書類片付かないのは名前ちゃんが悪いんでしょ。昨日万事屋の旦那と飲み歩いてたの知ってるんだからね!副長に言いつけてもいいんだよ?」
「言いつけなさいよ。いいわよ。ザキがあたしのストーカーしてたってその副長に言うから。」

そう、この人こそ、鬼に対抗できる唯一の人。真選組隊士たちにとっては、鬼退治に行く桃太郎的存在である。
名前は、勝ち誇ったような顔をしてから、思い出したように「で、今日はどこなの?」と問うと、山崎が「道場の方。」と答えた。
名前は握っていたペンを置き、決して綺麗とは言えない文机の上を漁り、絆創膏を見つけ出しては山崎へ放り投げる。書類整理と救護班を兼任している彼女は、怪我には目ざとい。だがしかし、些かその絆創膏は山崎の怪我には小さかったようなのだが。
苦笑いをした山崎が顔を上げれば、桃太郎こと名前が鬼を退治しに行こうと凛々しく立っていた。頼もしいこと山の如し。

「よし。行くよザキ。」
「名前ちゃん…!」

恩に着ます!
そう言って、山崎はトコトコと名前の後ろをついて行った。
山崎以外にも、道場の件で名前に助けを求めに来た者が何人かいたようで、廊下に出た途端に名前には従者がうんと増えた。当の本人はそんなこと微塵も気にしていないようで、今は道場がどうなっているのか、ということの方が心配らしい。山崎に詳しい話を聞いている。
その話によれば、新入り隊士たちの教育として、副長が直々に指導をしていたところ、泣き言を言い始めた新入りたちをまたあの鬼副長が「切腹しろ」と言い出したらしい。止めに入った新入り以外の隊士たちも竹刀でしごかれ、道場ははちゃめちゃになっているのだとか。
名前は、怪我人の数と道場の損傷を想像して、小さく溜息を吐いた。

暫く歩くと、すぐに道場の喧騒が聞こえてくる。
バタバタと駆け出し、此方に逃げてくる者。もはや逃げることも叶わず、床に倒れている者。次々となぎ倒されていく隊士たち。その中心に、鬼は居た。そして、その鬼は瞳孔の開いた目を、名前と山崎、その後ろに控えて居た者たちへ向ける。
山崎、およびその後ろに群がる隊士たちは慄き身を縮めるが、一方名前はそれを物ともせず、道場に入っていった。

「いい加減にしてくださいよ、副長。これで今月何回目?」

道場に入るなり、倒れている隊士たちの傷の具合を診ていく名前に、土方は額に青筋を浮かべる。何しろ声は此方に向かって掛けているのに、目はちっとも此方に向けてはくれないのだ。

「オイ!道場には入るな、ってこの前言ったよな?」
「新人いびりは結構ですが、私の仕事を増やさないで、ってこの前言いましたよね?」
「別にこのくらい、手当ても要らねェだろうが。放っときゃあすぐ治る。」
「手当てが必要かどうかが問題じゃないんです。こうやって、わざわざ私が鬼退治しに来なきゃいけなくなるから、言ってるんです。」

そこで、今日初めて土方の顔を正面から見据える名前の顔は、凛としていてとても美しかった。
その場に居た誰もが見惚れた。
土方は、思う。
この女は、喋らなければ可愛いのに、と。
そんな土方の気持ちを知る由もない名前は、またすぐに隊士たちの傷の具合を診てまわる。男だらけのむさ苦しい道場で、名前だけがただひとり異質な存在だった。
名前を見る隊士たちの目は、救世主を見るキラキラしたその目というよりは、むしろ、アイドルを見る厭らしい目という方がしっくりくる。
土方はそれに気づいていて、もしかして隊士たちは名前に手当てをされたくてわざと怪我をしているのではないか、とさらに苛々させられながら、煙草をふかした。

「ふぅ。今日は骨折者居なくて良かったわ。こないだなんか本当大変だったんだから。ねえ、トシ。聞いてるの?」

それに引き換え、名前はまったく隊士たちの厭らしい視線には気づいておらず、それがまた土方の苛々を助長させていた。
名前は、ふたたび土方に向き直り、汗を拭う仕草をしてみせる。粗方、道場内の負傷者の手当てを終えたらしい。

「どうして、いつもいつもそんなに苛々してるのかしらね。笑ってる方が人生楽しいし、大概上手くいくわよ。」

「そうですよ!」と桃太郎に協調してきたのは、山崎で、「お前はうるせぇ!」と鬼に一喝され、怯えきって、他の隊士共々、散り散りにどこかへ逃げて行った。
どうしたって土方の苛々は募るばかり。道場の入り口に凭れて、また、もくもくと煙草をふかす。
名前はそんな土方をまっすぐ見つめて、真顔で固まっている。

救護班という役割から、名前は隊士たちの傷の手当てはもちろんのこと、体調管理などにも口煩かった。例えば、寝不足気味な隊士が目の下に隈を作っていれば、今日は早く寝ろと言い、彼女の見ているところで咳をひとつしようものなら、即座にマスクを支給される。
それなら、ヘビースモーカーの土方を、不健康だと放っておくはずがないのだが、何故か土方の喫煙を言及することは今の今まで一度も無い。
土方も、名前は密かに隠れて吸っている、隠れ喫煙者ではないかと、勝手に想像していたくらいだ。だが、どうも、名前から煙草の匂いなどしたことがないし、喫煙しているという噂すら聞いたことがない。
挙句、土方以外の喫煙者、主に警察庁長官の松平などにはきつく叱っているらしいのだ。

「どうして俺には注意しねェ。」
「なにが?」
「コレだよ、コレ。」
「ああ。それね。煙の匂いは嫌いよ。松平のとっつぁんなんか、それ知っててわざとあたしに向けて吐き出すんだから。こないだ、きつく叱ってやったわ。」

ああ、人から聞いていた通りだったか、と、土方は、松平が名前に叱られているところを想像して、鼻で笑った。
「それじゃあ、答えになってねェだろーが。どうして俺には叱らねェんだ。」

「だから。トシはあたしの方をわざと避けて、煙を吐き出してくれてるからよ。」
「……ったく、お前は本当によく分からねェ女だな。煙草は身体に悪いって教わらなかったのか?」
「ヘビーなスモーカーな人が何言ってんのよ。バカじゃないの。あれ?もしかして、身体の心配して欲しいの?煙草は身体に悪いからほどほどにしてね、って可愛く言われたい、とか?」
「お前は、また俺の苛々を助長させてェのか、コラ。」
「その逆よ。逆。トシには必要でしょ、煙草は。トシの苛々を抑えてくれるなら、貴方の喫煙には目を瞑ろうと思って。これでも心配してんのよ?精神的な面でね。」

最後まで言い切ると、名前は、人懐こい笑顔を見せた。
煙草よりも何よりも、土方の荒んだ心を潤してくれるのは、この笑顔なのかもしれない。
土方は、すでに短くなった煙草をまた咥えてふかすと、鬼らしくない顔でふっと笑った。

「名前。ちょっと来い。」
「あら。それってセクハラじゃないの。」
「うるせェ。誰も見てねェから大丈夫だろ。それとも、煙草の匂い嫌か?」

道場の入り口で待つ土方は、自分の隊服を嗅いでみるが、自分の匂いはよく分からない。首を捻っていると、名前がすぐそばまで近づいて来ていて、くすくす笑い声を立てた。


「ううん。案外、トシの服についた煙草の残り香は好きなの。」


そう言って土方を見つめる名前の目に、もはや、瞳孔を開いた鬼はどこにも居まい。





2017.10.21
鬼退治のお話は、これにて、おしまいおしまい。


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