噛み付いたら痕が残った


大量の書類。怠い腕。墨汁を吸わせた筆。煙草の吸殻の山。
俺は例に漏れず仕事に追われていた。

「副長、失礼します。」

無言は肯定だと判断した女中が部屋に入って来た。
コイツは最近新しく入ってきたという住み込みの女中で、なかなか仕事が出来る優秀な奴だと聞いた。
そう。優秀な奴だと聞いていたから、運びに来たお茶を置いて、すぐに出て行くものだと思っていた。

「副長?少しお休みになられてはいかがですか?」
「……アァ?」

俺の予想は見事に外れた。
そしてこの時、俺は初めて奴の顔を見た。少し目を丸くして、申し訳なさそうに握りしめたお盆を膝に乗せて、小さく正座していた。
恐がらせるつもりは毛頭なかったのだが、そいつの態度を見るところ、狼に睨まれた山羊のように怯えてしまっている。
面倒くせぇ。正直に言ってしまえば、それが本音だった。こっちは、必死でやらなければ終わらないほどの仕事量を抱えていて、一時でも無駄な時間は過ごしたくない。
お茶だけ置いて出て行くと思っていた女中が、いきなり“休んではどうか”と声を掛けてきたから、こっちも驚いて素の声が出てしまっただけだ。それをそっちが勝手に怒っていると勘違いしただけだ。
たまたま間が悪かっただけだ。
それなのに、至極申し訳なさそうに俯く女に、俺は面倒くせぇと思う他なかった。

なのに、だ。


「いつも、仕事ばかりで。休んでいらっしゃるのだろうか、と。副長は、真選組にとって、とても大切なお人ですので、休む時は休んでいただきたいのです。」

“女中として”
最後にそう付け加えた女は、顔を上げて俺をまっすぐに見据えた。
ああ、綺麗だ、と思ってしまった。

後から考えれば、この時もう既に、俺はこの女に惹かれていた。


「俺だって休む時は休んでる。お前が知らないだけだ。」
「……そ、そうですよね、すみません。できる人は切り替えがお上手って言いますものね。さすが真選組の頭脳と言われるお方はやはり違いますね。」
「……お前だって、女中として優秀だって聞いてるぞ。」
「そんな、私なんか。……私は、切り替えが得意ではないので、ちょっとヘマしたりすると数日は引き摺ります。」

そう言うと女は、少し肩を落として、困ったような顔で笑った。
そこまで気負う性格なのか、その後も暫く黙り込んでしまった優秀だと噂の女中。どこが優秀なんだか、俺はまったく良く分からなくなった。さっとお茶を出して、とっとと部屋を出て行くのが女中の仕事じゃないのか。こんな所で油を売っていていいのか。そもそも、俺は仕事が溜まってんだ。早く出て行けなんて、そこまで心が冷たいわけではないが、内心はそんなことを思っていた。

「……はっ。す、すみません。私なんかの話をしに来たのではなくて、ですね。」

そこまで言うと今度は口を結んで、また女は黙り込んだ。何かを言い淀んでいるような、言いたいけれど言い出せないという空気が俺にも伝わってきた。
こういう時は、話し出すのを待つのが正解か、此方が話を出すのが正解か、正直良く分からねェ。面倒くせぇ。

「何もねェんだったら早く出て行ってくれねェか。俺も忙しいもんでな。」

心臓を矢で射抜かれたように身体をびくりと震わせて、女は俺を見つめていた。見つめられている視線は感じたが、俺は女を見ることは無かった。代わりに新しい煙草を取り出して火を点けると、それを合図にするかのごとく、女が立ち上がる。ようやく部屋から出て行くのか、と最初はそう思った。だが違った。

「何、してんだ、」

女は俺の方へと近寄ってきて、一言「失礼します」と断りを入れてから、俺の額に細い手を伸ばしてきた。余りにも唐突で予想外の出来事に対応が遅れた俺は、立ち上がって逃げることも叶わず、上半身を少しだけ仰け反らせることしか出来なかった。

「やっぱり。」

女は俺の額に手を当てて一言呟くと、今度は急に立ち上がり、「失礼します」とまた断りを入れてから押入れを開けた。そこから布団を引っ張り出すと、それを丁寧に床に敷いた。

「寝ててください。」

有無を言わせない雰囲気があった。
凛とした声で、女はそう言うと部屋の出口へと足を向ける。部屋の扉に手を掛けたところで、急に思い出したようにこちらを振り返った。

「申し遅れました。私、名前と申します。すぐに戻って参りますので、しばらくお待ちいただけますでしょうか。」
「あ、ハイ。」

間抜けな返事をしてしまったことを、一人残された部屋の中で後悔した。よく分からない女だ。すぐに戻ると言っていたので、寝ていないとまた怒られてしまいそうな気がして、俺はらしくなく、畳の上に敷かれた布団に大人しく潜り込むことにした。
それにしても、何なんだ一体。名前と言ったか。あいつは本当にあの優秀と噂の女中なのか。あいつのどこが優秀だというのか。
火を点けたばかりの煙草を灰皿に押し潰し、俺は布団の中で悶々とした気持ちを抱えながら、名前という女が帰ってくるのを待った。しばらくすると、足音が聞こえてきて、俺の部屋の前で止んだ。

「失礼します。」

ガラリと開いた扉の向こうに、膝をついた名前が居た。持ってきた桶のようなものを抱え直し、部屋の中に入ってくる。それをちょうど俺の頭の隣くらいに置き、その中からタオルを引き出した。タオルからは水が滴って、パタパタと雫が落ちる音が耳に溶け込む。音が小さくなるまでぎゅっと絞って、名前は俺の顔を見た。

「意外と素直なところもあるのですね。」

“意外と”と言うことは、俺のことを素直な奴じゃないと思っていた、ということで間違いないだろうか。大方想像していた「失礼します。」と言う機械的な言葉ではなく、何とも予想外の言葉に、俺は拍子抜けしてしまって、しばらくぼうっとしてしまう。その間に、名前は俺の額に先ほど水を絞ったタオルをそっと乗せた。呆気に取られて名前の顔をじっと見つめていると、綺麗な口角が上がった気がした。

「そんなに見つめられては、穴が空いてしまいます。」
「あ?……あ、あぁ。すまねェ。」
「熱、ありますよ。」
「誰が」
「副長が、です。自分で分からないんですか?」
「…………いや、まったく。」

名前は呆れ顔で、でも確かに、薄っすら笑みを溢した。俺に熱があるのを悟って、あんなに大胆な言動を取っていたのか、と納得した。やはり、名前は優秀な女中だ。年齢は俺と同じくらいか、下手すればずっと下かもしれない。なのに、綿に包まれているような安心感がある。

頭がぼうっとする。このまま寝てしまおうか。名前の言う通り、本当に熱があるのならそうした方がいいだろう。そうでなくても、少し眠った方が仕事の効率も上がる気がした。俺は目を閉じた。すう、っと地面に沈み込んでゆくような感覚を覚えて、それからすぐに俺は眠りについた。


目を開けると、名前は居なくなっていたが、額の上のタオルは冷たいものに替えられていた。

「副長、おやすみなさい。」
そんな凛とした声が、起きてからもしばらく、俺の頭の片隅でじわりと鳴り続けていた。





fin.
2018.10.06


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