「──これから行く合宿所には、三つの怪談と、一つの怪談がある」
眠気を誘う振動の中、抑揚のない、低い男の声が響く。五十人以上の気配がありながら、誰も声を発することはなく、目の前の男に集中している空間。時間の流れが遅く感じるような、息の詰まる間。
その中で、男はうっすらと口元だけにあるかないかの笑みを佩きながら、口を開く。
「ひとつ。かえしてと咽び泣く女の声。
ひとつ。帰りたいと叫ぶ無数の声。
ひとつ。遊ぼうと誘ってくる子供の声」
ひとつ増えるたびに立てた指が三本に至ったとき、男は更に笑みを深める。目は笑っていない、歪な笑みを。
「この声達に応えてはいけない。どんなに悲哀に満ちていようとも。どんなに無邪気な声であろうとも。応えてしまったら、取り込まれる。取り込まれたらどうなるか。ここで、最後の怪談だ」
立てた三本の指を広げ、殊更ゆっくりと掌を振り、握る。そうして、見せ付けながら立てた人差し指を顔の前に持ってくる。
「男が現れる。その男は巨漢とも言われているし、小柄とも言われている。細身の男とも、筋肉質とも。正体のない男は、声に応えてしまった人間の前に現れ、そして」
立てた人差し指を、五十人の人間に突き付ける。
「──お前らを殺すまで、追いかけ続けるぞ」
作り物めいた笑みから一変。心から愉しくて仕方がないという笑みに顔を塗り替えながら、告げられる。歯が見えるほどに無邪気に、目が皺で埋まるぐらいに全力で。
今まで怪談を話していた男からの、殺人予告。まるで、話に出てきた“男”が突然目の前に現れたかのような口調。乗っ取られた。馬鹿馬鹿しいと思いながらも、浮かび上がってきた結論が頭を過って、離れない。だって、その男は声に応えないと現れない。話は聞いたけど、応えていないのだから、現れるはずがないのだと自分に言い聞かせて、──役にハマりきって怪談を語っていた吾妻が、顔の横に開いた両掌を掲げながら妙に明るい笑顔に切り替えた瞬間、バスの中で漂っていた緊張感が霧散した。
「びっくりしたあああああああ」
「怪談よりも吾妻くんの顔が怖ぇよ!!」
「失礼な。清々しいスポーツマンらしい爽やかな笑顔だったろうに」
「どこが!? 完全に何人か殺した快楽殺人犯の笑顔だったよ!?」
「いやああああ吾妻くんに殺されるうううう」
「これそういう話じゃねーよ! つーか俺は健全な男子高校生です!」
怪談の妙な着地地点に、声を押し殺して笑う。既に腹筋が痛い。何だか喉まで痛くなってきた。途中までは抑揚のない語り口調が吾妻本来の低い声と合わさって、じわじわと滲むような怖さが出ていたのに、本人の性格があまりにも胡散臭すぎた。演技がうまいのも拍車をかけて、快楽殺人犯と言われても頷けてしまう迫力が、解けた緊張感の中では面白すぎる。
吾妻くんに殺されると叫ぶ一年生が固まった席まで制裁に行く吾妻に、コーチが走行中は歩くなと注意したところで、少しずつ喧騒が収まってきた。確かに演技は今までの部長の中でぶっちかりでやばかった。怪談を聞くのは三回目の三年生の言葉に、比較は一人しかいないけど、心の中で盛大に頷く。演技うますぎだわ、太陽くん。
「でも、今から行く合宿所って結構新しめなところなんですよね? 怖い話とかあるものなんですか?」
「元気有り余ってる学生が集まる場所に、古いも新しいもないだろ。合宿所には怖い話が出来るもんだ」
「ほら、それに最近のホラー映画。あれ、何が悪いって原因の一つは土地だったじゃん。そういうことなら、建物がどんなに新しくても意味なくね?」
「地鎮祭仕事して……」
冷静な一年生の言葉に、三年生から嘘か本当か分からない答えが返ってくる。とりあえず、出来る限り一年生を脅かしておきたいのが、意地悪な先輩たちの総意だ。だから、止めない。
ようやく笑いが引いてきたので、前の座席のネットに入れていたペットボトルで、喉を潤す。それを待っていたのか、後ろに座っていた一年のマネージャーが座席の背もたれに両腕を置いて、覗き込んできた。
「怖い話にしては珍しい感じですよね。幽霊に応えちゃいけないーってのはよくあるけど、言ってる声まではっきり指定してされてるのは、なんというか、その」
「現実っぽい?」
「そんな感じで、怖いです」
一年生の加賀美が、怖い話が苦手なのは知っている。すっかり耳が下がった犬みたいな情けない顔をする加賀美は、きっと自分に否定してほしいに違いない。
「まぁ、実際どうなんだろうね? 声を聞いたっていう話は毎年必ず出てくるみたいだけど、応えたって人はいないし」
「でも、俺たちが一年の時の三年の先輩が応えたってちょっと騒ぎになってたかな」
「えっ、ホントですか!?」
「初耳です。それ、どうなったんです? 陽介くん」
通路を挟んで隣側。今は一年生相手に騒いでる吾妻の空席の隣。怖がらせすぎは駄目だよと、語り始める前の吾妻に言っていた寒川が、特に面白いことはないよと言いながら、通路側の席に移したのは、今井や加賀美以外にも周辺の部員たちが立ち上がったり、肘置きに体を置いて通路側に乗り出しているのに気が付いたからだろう。
「合宿中相変わらず声が聞こえるって言ってたけど、男が現れたっていう話はしてなかったよ」
「じゃあ」
「誰かに見られてるような気がするって話はし始めたけど」
「えぇ? 現れたけど見えてないとか、そういうパターン?」
「それ、ビビって勘違いしてるだけじゃね?」
「まぁ、皆そんな感じで流したよね。練習が忙しかったから、後半に進むにつれそんなことを気にする余裕なんてなくなっていくわけだし」
まぁ、でも。一度区切った言葉に、続きを待つ間が出来る。嬉々として怪談を語る吾妻とは違い、言うべきかどうか悩みながらも、後輩の期待に答えるために寒川が続けた。
「合宿が終わってから、部活辞めちゃったんだよね、その先輩」
「インハイ前にっすか」
「怪我とか?」
「いや、何の前触れもなく突然、辞めますって。あの時は二年生が強かったから特に問題はなかったんだけど、レギュラーだったしびっくりしたなぁ」
「その人、今何やってるんすか?」
肘置きに身を乗り出しながら問いかける八坂に、寒川は自分も立ち上がって後ろの座席に声をかけた。
「なぁ、誰か夕張さん今何してるか知ってる人いない?」
「夕張さん?」
「いや、知らねーな。あの人ラインやってなかったし」
「俺も知らねぇわ。転校してからすぐにスマホ変えたのか、メールも電話も出来なくなったから」
「うえっ、転校したんすかその人!」
転校という言葉に八坂の隣で立っていた櫻木が思い切り狼狽える。後ろの加賀美だけじゃない。そこかしこから、困惑した声が上がった。
当時一年生だった三年生の誰もが、夕張という先輩の連絡先を知らず、転校後どうなったのかも分からないことを確認した寒川が、自分の座席に座る。
「転校したのは部活を辞めてすぐって、他の先輩は言ってたかな。それも、部活を辞めたときみたいに突然。元々かなり筆不精な人だったし、ドライな人だから連絡がつかないことに気が付いたのも大分遅くなってからだった」
「うえー……なんか、そっちの方がホラーなんすけど」
「もやっとしますね」
「連れてきちゃったんですかね、合宿所から学校に」
「実咲さん怖いこと言わないでくださいよー!」
わあっと真後ろで喚く加賀美に続いて、情けない声がそこかしこから上がる。行くのも怖いけど、帰るのも怖くなったと叫ぶのは櫻木で、それを三年生が情けないと笑っている。
一年生を相手にしていた吾妻も、信号待ちで止まったのを見計らって、櫻木の頭を情けないと叩きながら戻ってきた。寒川がバレー部恒例部長による怪談話を労い、吾妻はそれを受けながらネットからペットボトルを取り出す。
「太陽くんは、その夕張さん?って人がどうなったのか知らないんですか?」
「うんにゃ、俺も知らんな。陽介の話通り、気が付いたら完全に連絡取れなくなってた」
「うっわぁ、釈然としませんね」
吾妻迫真の演技で告げられた殺人予告が、頭をよぎる。もしかしたら、もう生きていないのかもしれない。そんな可能性が浮かび上がって、今すぐ完璧に消すには不気味な印象がこびり付いてしまった。タチの悪い冗談は言わない寒川の口から出てきたことが、更に怖い。
「ま、どうせ合宿始まったら、そんなこと考えてる暇はねーから安心しとけって」
「それは確かに」
「えっ、それはそれで怖い」
吾妻曰く清々しいスポーツマンらしい爽やかな笑顔を再び浮かべ、ぐっとサムズアップ。ひえっと一年生の辺りから悲鳴が上がったのを聞きながら、吾妻が言う。
「ガンガン扱くからな、お前ら。死ぬなよ?」
一年生曰く快楽殺人犯の笑みで告げられた殺人予告。先程の情けない悲鳴を覆い隠す熱量に溢れた声で答える部員たちに、笑みを隠さずに振り返る。勢揃いする部員たちの顔を見て頷く。全く頼りになる部員たちだ。
予感
ALICE+