「オイ」
ピ、ピ、ピ、ピ。
「いつまで寝てんだ」
黒い液晶に映る緑の曲線はいつもと変わらない。小山の波形を保ち、一定の間隔を守り、微弱な音で流れていく。最初の頃は一向に変化しない規則的なリズムが耳障りだったはずが、今はなまえの存命を確実に感じられる唯一のものとして爆豪に安堵をもたらしている。
頭部の辺を除いた三方をビニールカーテンに護られた身体を見つめる。ガラスの棺の中で眠っているかのような姿に童話のワンシーンを錯覚しそうになるが、その顔は美しいとは程遠い血色、消毒液の色素が沈着しているような土気色をしていた。腕や頭部を包帯で覆われ生命維持のための管に繋がれた姿は、何かのきっかけで瞼を開けそうには到底見えなかった。
「避難させた一般人は全員起きとんだわ。最後まで寝てんのがプロとかクソダセェ」
悪態を吐いて目覚めるわけもない。
分厚いビニール越しでは聞こえるかどうか程度の呟きは、爆豪の口先で空気に溶けた。
「テメェにその気がなけりゃマジで逝っちまうぞ」
病院を訪れるたび、何を問うても「如何せん個性のことだから何の影響があるかわからない」という主旨の返答で締め括った医師の淡々とした表情が蘇った。
眠り続けるなまえに独り言を投げるのは「声をかけ続けることで目を覚ますこともある」と聞かされたからではない。心の重さに耐えきれない唇が勝手に言葉を紡いでいた。
それは数年前になまえと別れた時も同じであったが、今の爆豪は過去の淡い記憶を思い出す余裕など持ち合わせてはいなかった。
「とっとと戻ってこい」
爆豪は左手を持ち上げ、ビニールカーテンの際をくぐらせた。ベッドを這って触れた先の左手はひどく微温く、その温度差に一瞬動きが止まった。
「………なまえ」
爆豪は力のない掌の下に左手を差し入れると指先を折り曲げ、傷や乾燥でざらつく手の甲を親指で摩った。
現場でなまえを抱き留めた瞬間を思い出し、この薄い手でたった1人耐えていたのだと改めて実感する。捕らえたヴィランをもう百発ずつ殴っておけば良かったかと柄にもなく後悔し、そして数週間前まで私怨で動く拙さを馬鹿にしていた己を嗤った。
「逃げんじゃねーぞ」
柔く、それでいてしっかりと包む左手は微温い掌に縋っている。
「テメェはどうか知らねェが、」
「俺は言ってねぇことあんだよ。死ぬなら聞いてから死ね」
液晶に小さな乱れが走り、音が跳ねた。
しかし爆豪は覚醒の予感に気付くことはなく、俯き瞼を閉じたまま、滑り出る独り言を留められないでいる。
「……それともあれか」
ほんの微かに瞼が痙攣した後、睫毛の先がふるりと震えた。
その傍らで瞼を固く閉じ俯く姿はまるで神に祈りを捧げているようで、しかしその眉は怒りが満ちるに任せて強く力が込められていた。
「2度も死に目に遭わせるほど、テメェ、鬼畜かよ。仮にも昔の…、」
ごく薄く上がった瞼から覗く瞳孔はただただ黒く、無に近い。
「………オイ」
しかし、ひどくゆっくりではあるが、次第に光を取り戻し始めた。
まだ音は言葉と結合していないのか、左側から聞こえる低音に反応する素振りはない。
「っなぁ……」
俯いたままの額を右手で押さえ、左手の握力は強くなる。
血色のない指先が更に白くなるほどの強さに引き戻されたのか、空中に漂うなまえの意識は薄く覗く黒い瞳に宿っていく。
おと?、となまえの脳が呟いた。
「目ェ覚ませ………ッ!」
ついに爆豪の喉と瞼から、堪えきれない震えが零れた。
瞳だけを左に動かしたなまえは、ベッドの端に顔を埋める金色の頭と、分厚く骨張った左手に包まれた恐らく自分自身の左手を捉えた。
ひどく低い覚醒レベルのなまえにも、起きなければ、という思いが瞬間的に宿った。しかし重篤な傷を負い深い眠りに数週間落ちていたからか、何が起きているのかを正確に把握できず、脳の働きが戻るのをただ待っているしかできなかった。
声を出すことも動くこともできないまま、震える肩と金色を見つめ、左手を包む体温をぼんやりと感じるしかできない。
そうして蹲る金髪を眺める彼女の脳は徐々に覚醒レベルを上げていき、記憶も戻ってきた。
「か、つ、き」
声もなく呟くと同時、まるでカメラを模した玩具のように、灰色の記憶が静止画となってなまえの脳内で暗転を挟みながら切り替わっていく。
複数の事務所と警察が招集された事件で、なまえのプロ生活の中では最も大きな案件だった。
全てのヴィランの捕縛が完了したはずだった。一般市民の避難確認も終え拠点に戻ろうとしたが、把握していた数から漏れていた残党2名の出現によって阻まれた。先輩の「救援に向かう」との応答が右耳のインカムから返ってきた。しかしヴィランはなまえの想像以上に素早く強く、執拗で、そして残忍だった。
なまえの背後に回り込んだヴィランに捻りあげられ瓦礫に投げ付けられた瞬間、もう1人のヴィランが鋭く伸ばした5本の爪によって腹腔を貫かれ、磔にされた。あまりの痛みに叫び声は上がらず、代わりに温かい鮮血が口から噴出した。「きったねえな」と吐き捨てたヴィランが左手を振り上げ、ずるずると爪を伸ばした。死ぬと悟った。
右腕に腹腔と同じ激痛が走った瞬間、意識がばちりと暗転した。
痛みも音も光も急速に遠退いていくなかで最後に認識したのは、針の先ほどの橙色の光の粒。まるで瞼の裏に透ける陽光のような、遠い光。火球が飛んでくる、ついに迎えが来たか、と思った。
そうして光も触覚も方向感覚も曖昧な空間で響いた、「喋んな血が詰まる」「耐えろ」「死ぬな」。無に帰す意識を引っ張り上げるように声が響き、強い温もりに包まれていたような感覚。
そこまでの記憶を取り戻したなまえの下瞼に涙が迫り上がりはじめた。
あれは何だったのか、などと考える必要はなかった。
救けられたのだ。何度も思い描き、後悔が募り、それでも会う勇気が持てず、同業なのに一切会うことのなかった人。卒業と同時に同じ国の北の果てへ向かった人。
「苦手克服なんて、あの爆豪でもまだ課題はあるんだね」と言った耳郎の言葉が痛くて、そうしてなまえも真似るかのように、南へ向かうことを決めた。
「かつき」
音も無く酸素マスクが白く染まり、そして透明に戻った。
これからずっと後悔して生きていくのだと思っていた。風化してもきっと忘れることはない、あの日の別れ。高校時代の拙くて大切な思い出。
最初の頃は想いが通じて嬉しくて堪らなかった。何をしたって楽しくて、小さな諍いも最後には笑い話にできていた。信頼が増し安定した関係になり、この先ずっと続くのだと信じていた。次第に折り合いがつかないことが増え、それでも許してくれる分厚い掌は温かくて、それなのにますます素直になれず、そうしていつしか決定的な亀裂となってしまった。
何故理解してくれないのかと憤るばかりだったと、今ではよく分かっている。
それでも、胸が裂かれるほど苦しい思い出ではない。やり直せたらと夢想することはあっても、やり直したいと動くことはなかった。その程度の想いであって、だからいつの日か、こんな恋もしたなと微笑んで振り返ることもできるのかもしれないと思っていた。
それでも今日までの数年間ではそんな日はやってこず、日常の中で無視できないほどに見聞きする名前に胸を撫でられるたび、自覚している以上に深く燻っているのだと認めざるを得なかった。
ふと心に浮かんでくる後悔が日々間断なく続くほうが時として一層傷付くこともあるのかもしれないと、自らを宥めていた。
蹲る爆豪を見つめるなまえの下瞼から涙が一筋溢れた時、電子音が明らかに異なるリズムを挟んだ。
瞬間、爆豪の顔が勢いよく上がった。
爆豪はなまえを食い入るように捉えながら、ひどくゆっくり、静かに、パイプ椅子から腰を上げた。その間も左手は握ったままだった。
「なまえ…?」
ビニール越しに覗き込んできた赤い瞳は怯えるようであった。
瞼を開けることはこんなにも力が要ることなのかと思いながらなまえが弱々しい瞳で見つめ返すと、眉間の皺がぐ、と刻まれた。懐かしい、と心の中で呟いた。
「聞こえるか?」と握り込まれた左手が痛みで痺れる感覚に「いたい」と呟くも発声が伴わない言葉は伝わらなかったようで、爆豪は握力を緩めないまま口角をひくりと釣り上げた。
爆豪はビニールカーテンをめくり、ベッドのそばに膝をついた。クリアになった愛しい姿に、また一筋流れた涙がなまえの頬を撫でた。
「起きてんならとっとと言えやクソ馬鹿野郎」
罵倒を発する顔は苦しげに歪み、それでいて涙を流す瞳には安堵の色が浮かんでいた。
両極端な感情を露わにする顔をなまえは驚くまま見つめ返したが、瞬間腹部に痛みが走り、ぎゅう、と瞼を閉じた。
爆豪はなまえの頭部の壁から伸びているナースコールを奪うように掴むと、ガチガチガチ、と3回押した。5秒程して聞こえてきた男性の声に「起きました」と返す低音に、なまえは再び瞼を上げた。
スピーカーからの問い掛けに簡潔に返答する声と、震える掌と口角、こちらを見つめたまま揺らぐ瞳。伝わってくる切実なものに、なまえの心は既に決壊していた。
やりとりを終えた爆豪はなおも左手を握ったまま膝を上げ、そのまま額を寄せてきた。近すぎる距離に表情は窺えないが、喉がひくつくような、ひどく抑え込まれた呼吸音が聞こえてくる。
「待ってた」
合わさった額から骨伝導で伝わる言葉は、触れた体温と共になまえの脳幹に落ちた。波紋のように広がる電気信号に、なまえの意識はみるみる輪郭をはっきりさせていく。
「愛してる」
迷いなく発せられた言葉に涙は止めどなく溢れてくる。その一言を待ちわびていたのだと応えれば、不敵に笑ってくれるのだろうか。
願いを込めたなまえの唇がはくはく、とひどくゆっくり、ごく小さく動いた。酸素吸入の音が変わる様子に爆豪は額を離す。なまえを無言で見つめ返す赤い瞳は潤んだままだったが、揺らぎはぴたりと止まっていた。
酸素マスク越しにやっとの思いで呟いた言葉は、爆豪の震える口角をほんの僅かに上げさせた。
「はやく戻ってこい」
「そしたらもう、離さねぇから」
扉の外で慌ただしい気配がすると、左手を離した爆豪がするりとカーテンから抜け出た。
スライドドアが開く音と共に複数の足音が雪崩れ込んでくる。白い衣服の向こうでじっと佇む姿と左手に残る温度に、戻らなければ、となまえは強く願った。
1人残す勇気もなければ、1人で逝く勇気もないのだから。
消える一秒の隙間で
なつみさま
リクエストありがとうございます。
すっきり綺麗に終われる別れの方が圧倒的に少ないと思っているのですが、「互いにモヤモヤして忘れられない」確率ってさらに低いような気がします。だからこそ互いに想い合っていたのだとわかった瞬間の嬉しさと安堵は堪らないだろうな、と想像して書いてみました。
言葉がなくても伝わるもの、早く言葉で伝えたいこと。2度と伝えられないかもしれない死線を乗り越えたあとは、躊躇いなく伝え合ってほしいなと思いました。
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