「みょうじさん」

左耳に飛んできた声に下腹部がぴくりと痙攣した。
瞬間、目の前のモニターに映るシステムのウィンドウが生きた情報となって一気に雪崩込んできた。瞬きを2つした後なまえが左上を向くと、「大丈夫っすか?」と首を傾げる切島がこちらを見下ろしていた。
かなり近い距離にもなまえは全く気付いていなかった。

「いってきますっつっても全然反応ないから」
「す、みません、ぼーっとしてました。……って、サボりじゃないですからね!」
「わかってます。ずっと画面見てたら疲れますよね」

こちらでの生活も短くない切島のイントネーションは一向に染まらない。だからか、彼の発する心配がより真に迫って聞こえてくるような気がしてならなかった。
そう捉えてしまう自身の心の弱さを認識しながら、一方でメンタルの落ちようを自覚できるくらいにはまだまだ平気だと呟き、なまえは気道が狭くなる感覚を黙ってやり過ごした。
腰掛けたままであることに気付きなまえが立ち上がると、切島が小さく恐縮した。

「あの」
「はい」
「手伝えないのに言うのもアレなんすけど、帰れるなら、早めに帰ってくださいね」

年末が目と鼻の先まで近付き、事務方のスタッフは諸々の申告書類の作成に追われていて、なまえも例に漏れず連日残業をしていた。
向かいの島の同僚達は今日の残業用の間食を買いに出ていて、3脚のワークチェアは全て不在だった。

「お気遣いありがとうございます。でも全然平気です!」

「バックからサポートする俺達が心配さしたらアカン」と気合いを入れていた同僚の顔が浮かび、なまえは心持ち声に張りを持たせて答えた。特に漢気を掲げる切島はまっすぐで、そして誰よりも繊細であることはこの事務所の共通認識であった。
「パトロールいってらっしゃい」と続けても切島は立ち去る様子はなく、こめかみを右人差し指で掻きながら視線を斜め下に落としていた。

「どうかされました?」
「最近のみょうじさん、心配っすよ」
「え?」
「今みたいな時増えたし、でも日中はすっげえ元気だし。落差がデケェっつーか」
「そう、ですか?」
「なにか…、振り切ろうとしてる、感じ」

「違ったらスンマセン」と呟き、八の字に形を変えた赤い眉を捉えたなまえの脳裏に浮かんだのは「しまった」の4文字だった。
切島が特別に鋭敏なのか、それともなまえが自覚できないうちに垂れ流していたのか。
どちらなのかはわからないまま、それでも「何もない」と「何かあった」のどちらを答えるのが最適解かを急ぎ思案し、間が空かないうちに唇を動かした。

「すみません、気をつけてたつもりなんですけど」
「……アー、やっぱ余計なこと…」
「そ、んなことないです!気にかけてくださってありがたいです」

切島のすまなそうな表情が「あの日」の光景とだぶるのはなまえの被害妄想が強いからで、胸に走った痛みも錯覚に違いなかった。そう言い聞かせた。

なまえは切島とはあまり雑談をしたことがなかった。ヒーローの時間を奪いたくないと考えていたから自ら話しかけることはしてこなかったし、切島も特段話しかけてくることはなかった。
だから同僚以外のヒーローに、とりわけ話す頻度の低い切島に自身の状態を指摘されるなど思いもしなかった。
距離を探り合うような会話にさらに沈黙が重なり、なまえは逃げるように視線を下に流したが、晒された腹筋が至近距離で視界に映り慌てて顔ごと床に向けた。

「俺で良かったら、ですけど」

なまえがぱっと顔を上げると、八の字の眉のままこちらを見る切島と目が合った。

「話、聞きます。気の利いたことは言えねーけど、黙って聞くことは…できます」

ぐ、と口角と眉根に力を込めた様子になまえの喉に力が入った。

「そんな思い、みょうじさんにだけは……、して欲しくないんです」

ぶれながら、それでも決意を秘めたように見つめてくる瞳は言葉以上に雄弁で、なまえからあらゆる余地を一瞬で奪い去った。

「あ、あの」
「そういうことです」

気付かないなど白々しい。
予兆など微塵もなかったところからの突然の知らせに、なまえは薄く開いた口で呼吸をするだけだった。視覚と聴覚からくる圧倒的な情報量に脳も心も追いついてこず、言葉を探そうと思うことすらできなかった。

「やだな」

だから発した言葉は本能的なものだった。

「冗談やめてくださいよ」

都合の良い妄想を唾棄しなければなまえの心はかえって崩れ落ちることを、脊髄が、脳以外の全身が理解していたのだ。
なまえは無理矢理視線を外し、デスクの縁に右手を掛け人差し指で表面をなぞった。

「うち男所帯ですし、レッドライオットさんとても忙しくて時間ないかもですけど」
「え?」
「出会える人って限られてるし、ファンに手出せないのもわかってます」
「ちょ、ちょっと待って」
「でもだからって傷心の女狙おうっていうのは」
「待って」

ただひたすらに言い募り切島の遮りも無視していたが、ぴしゃりと短く言い放たれた低音は威圧を含んでいて、なまえの唇は中途半端に開いたまま強張ってしまった。
何かを追い出すように息を吐く気配に顔を上げることもできず、右手に視線を落としたまま鼓膜の裏側を打つ鼓動をカウントしていた。

「訂正してください。冗談じゃねぇっす、本気っす」

頭上から降ってくる声はなまえの知っている切島ではなかった。
「やっぱそうだったのか」とぼそりと呟く声に失態を重ねてしまったことを後悔したなまえは、どどどど、と痙攣する心臓と潤む目頭を抑え込むことに必死になる。

誰かに期待をしてはいけない、裏切る人を見抜けないならば一人で生きていこう、私ならきっと大丈夫。
そう誓ったのは「あの人」が嘲笑を投げて去って行った夕暮れの後、声もなく涙を一晩流し続けた「あの日」で、たった1ヶ月前のことだ。
「あの日」を思い返し今の状況と繋げてしまう自分の浅ましさを再認識したなまえは、身の内から迫り来る感情と今の状況が早く過ぎ去ることを願うことで精一杯だった。

「俺、怒ってますからね」

威圧を含みながらゆっくりと紡がれる言葉の静けさ。

「いつも通り振る舞おうとして振る舞えてないみょうじさんにも、」

静かに滾る熱がなまえをゆっくり取り囲んでいく。

「こんなにした、どこかの男にも」

なまえは何も発せず、俯けた角度のまま、ただただ控えめに頭を振るしかできなかった。



「別れてくれてラッキーなんて思ってないんで」

満たされていた沈黙を破った声は先ほどまでより怒気は収まっていた。
いつの間にか縋っていたスラックスを握る左手の力を緩め、デスクからゆるゆると視線を引き剥がす。おずおずと顔を上げると、声色同様少し落ち着いたように見える瞳と目が合った。

「れっど、」
「そういう類いの告白だと思わないでください」
「…どういう」
「返事とか、別に要らないです。選択肢が増えただけって思ってください」

「俺で良いなら、いつでも言ってください」

赤く力の篭った眼光と有無を言わさない口調に気圧される。
何か言わなければと思うのに言葉が出てこない。
だらんと下げていた両手を握り合わせはくはくと唇を動かすだけのなまえを、切島は無言で見つめ返すだけだった。


いつまでも続くように思われた息苦しさは、突然肩を痙攣させ目を見開いた切島の動きによってあっけなく解かれた。
1度後ろを振り返った切島はかなり慌てた様子で顔を戻し、泣きそうにも見える表情で謝罪を口にしてきた。

「すいませんでした!!こんな困らせるようなことして!!つい…!」
「へっ、え」
「パ、パトロール!!!」
「っはい!?」
「行ってきます!!」
「っい、いってらっしゃ、い……!」

完全に身を翻し、腕を大きく振りながら大股で去っていく背中がパーテーションの向こうに消えた。
すると程なくして天喰の姿が現れた。
しかしなまえは茫然と直立したまま、天喰の帰還の挨拶どころかその存在にすら反応できなかった。
訝しんだ天喰にどうかしたかと顔の前で手のひらを振られてようやく我に返ったなまえは、握り合わせた両手をぱっと離し何でもないことを意識して伝えると、身体を90度ずらしワークチェアに腰を落とした。

仕事に戻るべくゆるゆると上げた視線の先、モニターの向こうの大きなガラス窓には、昼と夜の境の2層の色が広がっていた。




鼓動はフォグブルー

ごまさん
サイトでもtwitterでもいつもありがとうございます。
ごまさん最推しの切島くん、初挑戦しましたが正直とても不安です…。まっすぐ熱い漢の彼がどうアプローチするのかなと私なりに妄想してみましたが、いかがでしたでしょうか。
告白したこと自体は後悔しないもののなんであんな言い方したのか…って悶々として、ふと「好き」ってハッキリ言っていなかったことに気付いてやっぱりやり直してぇ…!って頭抱えてて欲しいです。
これからもよろしくお願いします。

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