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天井まで接地する大きな鏡の前で、洗面台に両手をつき、下着姿の自分と向き合う。
事後の形跡が一切ない身体を見つめていると、昨夜の出来事は夢に見た幻だったのではと思えてしまう。しかし30分ほど前に見た、隣で寝息を立てる後輩の首筋から胸板までの白い素肌が脳裏を過ぎると、鏡の中の自分の頬は羞恥に強張り、事実を認めてしまった。
10年保てていたはずの一線を、昨夜越えてしまった。
何故昨夜だったのかはわからない。
明確なきっかけがあったわけでもない。いつもの通り酒を飲みながら、近況報告から始まり、仕事や生活の不満、愚痴を溢し合っていた。もとい、聞いてもらっていた。
中学生の頃から変わらない人懐っこい笑みに、ついあれこれをくどくどと話し続けてしまうのはいつものことだった。
本当にいつもと同じ、ただただ楽しい時間だった。
恋人がおらず人肌恋しくなった時期などこれまで幾度もあったが、松野を相手に選ぶことは決してなかった。
それだけはあってはいけないことだと、一番に言い聞かせてきた。
それなのに、と鏡の中の自分に小さく舌打ちを溢す。
結局自分が松野に抱き続けていたものは浅ましさでしかなかったのだと、認めざるを得なかった。
──ごめん。
脳にしっかりと刻み込まれた昨夜の情事を思い出し、唇を噛み締める。
切羽詰まったように切実な瞳と声を向けてきながらも激しさは一切なく、泣きたくなるほど柔く慈しむように触れてきた。
なまえの頼みを断れない後輩につけ込んだ行為は、想像以上に心地良すぎて、そのぶん心を抉ってきた。
それでも焦がれ続けた体温に触れてしまえば留める意志はあまりにも脆く、元々なかったかのように溶け去っていた。
──ごめんなさい、傷付けた。
記憶のはるか向こう、霞の向こう側からニッカリと笑う黒髪を思い浮かべる。両の口角から覗く犬歯が印象的で、いつも視線を引きつけられた。
声だけは、もう遥か昔に思い出せなくなってしまった。
──場地が大切にしてたもの、大切に出来なかった。傷付けてしまった。
中学生の頃、喧嘩終わりの2人の手当てをすることがしばしばあった。
「大袈裟なんだよ」と邪険に遇らう黒髪を無視して貼った絆創膏。ほんの微かに会釈をするだけの、愛想のない金髪の頬に浮かぶ青痣。幼馴染と後輩の到底理解できない暴力行為に、生意気に叱責を繰り返していた。
それでも当人達が変わることはなかったし、なまえがその度に手当てをすることも変わらなかった。
心配が故の親切だけではなかった。いつの間にか芽生えた松野への恋心だけでもなかった。
金髪をかき混ぜる横顔は兄、嬉しそうに答える笑顔は弟のようだった。
ガーゼや湿布でも隠しきれない傷を負った2つの顔は満ち足りていて、なまえの存在とは関係なく構築された世界はオレンジ色にきらめいていた。
──ごめん、ごめん、
ただ好きだった。
2人の世界は眩しく映って仕方がなく、温かな光景を眺める時間が好きだった。
場地と松野の笑顔がなまえの世界の前提だった。松野が現れたから場地と再び話すようになり、場地が居たから松野を好きだと思った。どちらかが欠けても成り立たなかった。
だから想いを秘めているつもりは一切なく、笑い合う2人が楽しそうで、ただそこに居られるだけで満足していた。
唐突に慌ただしい音がして、思考が今に引き戻される。
何事かと顔を右に向けるとほぼ同時、バスルームの入り口に松野が現れた。
下着のみ身に付けた引き締まった身体に、咄嗟に自身の身体を抱き込む。呆然と直視してくる無言の剣幕に、なまえも自然と硬くなる。
視界の右端に捉えたタオル掛けのバスタオルを取ろうと視線をずらしかけた時、見開かれた緑の瞳はみるみる緩み、眉が八の字に垂れ下がった。
「よかった、いた」
少し震えた声色には、昨夜と同じ切実さが滲んで聞こえた。
安堵するような吐息の後「焦った」と俯いた顔は長めの前髪と右手で覆われてしまい、その表情は窺えない。
それ以上何を続けることもなく深い呼吸を繰り返す松野の様子に、なまえはひっそりと右腕を伸ばし、バスタオルを2つ手に取った。
湿気った方で身体を覆いながら歩み寄り「使って」と未使用のものを差し出すと、俯いた顔がゆっくりと上がった。
「ごめん」
完全に視線が交わる前に告げる。緑の瞳がブレた気がして、咄嗟に松野の左耳のピアスに視線を逃した。
「話聞いてくれてただけなのに」
「調子乗って飲んで、止めてくれてたのに押し切って、酔っ払って」
酔って醜態を晒すだけならどれほど良かったかと思う。
「あげく、こんな」
酔ってすらいなかった。心地良くなった程度で、脳の何処か一部を必死に稼働させて、打算的な考えを巡らせていた。
松野の表情や言葉、動きに全神経を注いでいた。戸惑いながら、それでも言葉を選びながら拒絶し続ける松野にさらに迫った。
「絶対…後悔、しますよ?」と眉間に皺を寄せた松野の手を取り、はっきりと懇願した。
「ほんとに、ごめん」
なかったことになど出来ない。
そんなことは改めて考える必要がないほどに、何度も心に刻み続けてきたはずだった。
10年堪えられた想いがこんな形で噴出するなど思いもしなかった。自身の抱えているものがこんなにも重く、拗らせたものだとは認識していなかった。
溜息とともにバスタオルが引き取られた。
怖々視線を戻すと、予想通りの険しい顔が俯き加減に床を見つめていて、思わず喉に力が入り気道が引き攣った。
「何回も駄目だって言い聞かせてきました。なまえさんだけは触っちゃ駄目だって」
言い聞かせるような語気の強さになまえは再度小さく謝罪を溢したが、松野は意に介した様子もなく言葉を続けた。
「俺はずっと後輩、だって」
「じゃなきゃ、傍に居れない」
居心地の悪さになまえの目頭には力が入り、両手でバスタオルの合わせ目を握り締めた。
しかし数秒の後、言葉の意味する所に引っかかりを覚えた。
「けどこのまま、これからも同じことが続くのかって、昨日はなんでか絶望……つったら大げさですけど」
苦しげに言葉を紡ぐ姿を、確かめるようにじっと見つめる。
「そしたら、もう、ぜんぜん…」
翳る瞳に確信し、そして昔年の想いのぶん、さらなる後悔がのしかかってきた。
「ちふゆ」
「すみません」
嘲笑混じりの謝罪に口を噤むと、視線がなまえに戻ってきた。嘲りの色を隠そうともしない瞳に、心臓がどくん、と上下した。
「半分くらい、後悔、してないんです」
「なまえさん…、俺、ラッキーって思ってましたよ?」
「最低でしょ?」と鬱陶しそうに前髪を掴む左手の甲には筋が浮かんでいる。
決定的な言葉に乱れる鼓動を感じながらなまえが言葉を発しようとした時、でも、と小さな呟きが落とされた。
「場地さんに顔向けは、できなくなった、スけど」
「………え?」
脈絡なく出た名前に、なまえはぽかんと疑問を返す。
「なんで、ば、じ」
「だってなまえさん」
瞬時にぐしゃりと歪んだ顔が訴える悲痛さに、なまえは目を見開いた。
「好きだったでしょ…?」
力の入った口角は不自然に震え、眉間だけでなく目頭にも深い皺が刻まれた。
思いもしなかった言葉に脳内は混乱し、返答に窮する。
沈黙を肯定と捉えたのか、「気付いてないわけないじゃないすか」と吐き捨てる言葉が続いた。投げやりに顔を逸らす松野になまえは必死に頭を振った。
「好きだったんだよ」
「っだから」
「千冬が」
「………………は?」
「ち、がう、場地じゃない。千冬、だよ」
ひく、と震える喉仏に泣かないで、と思う。
「場地の大切な千冬だから、駄目だって」
「………え?なん、すか」
「ごめん、ほんとごめん」
自分は10年も一緒に居ながら松野の何も見えていなかった。それをたった今自覚したなまえは、溢れてくる想いを整理しないまま、浮かぶ言葉を勢いのまま紡いでいく。
「千冬だけは好きになっちゃ駄目って。場地のぶんまで、大切にしようって」
場地が亡くなった瞬間から、松野となまえの世界は確実に変わってしまった。
2人の前提が失くなった世界で距離感を掴めず、それでいて気にせずにはいられず、離れる勇気も持てなかった。
「わたしがそう、勝手に決めてた?、みたいな」
言い訳だったのだ。
場地の果たせなかっただろうものを勝手に想像し、自らの臆病に都合良く擦り合わせて、松野の傍に居る理由を捏造していた。
「場地が…、かわい、がってて。千冬も嬉しそうなの見て、なんか…いーなって、思ってた」
松野が幸せに笑う姿を見守ろう。
松野の誠実さを知ったうえで歳上風を吹かせた、厚かましくて傲慢な決心だった。
「だから、ちふ、は…っ元気、してるって、伝えなきゃ、って」
そんなもの、松野自身が場地に直接しているだろうことはわかっていた。
なまえとは比にならない頻度で手を合わせに行っていることは知っていて、それなのに場地の元へ向かっていたのは後ろめたさ故か。
「こわしたく、なくて。すきだけど」
世界を壊さないためにどうか見張っていて欲しいと、揺らぎそうな決心に釘を刺すための独り善がりの儀式だったのか。
「でも……結局、千冬とずっと、いた。ご、めん」
きっと、どちらもだった。
「これじゃ、むしろ、場地に、おこ、られる」
松野を真っ直ぐ見つめて傷付く恐怖を思い、霞の向こうに消えた黒髪に未だ頼っていた。
失くなった世界で2人上手く過ごせないくらいならと、物を云わない存在を手段に使った、弱くて狡い行為だった。
いつの間にか松野の足元に落とされていたバスタオルを見つめていると、「なまえさん」と控えめな声が聞こえた。
硬く握り締められた両手は真っ直ぐ、松野の身体に沿わされたままだ。
ゆっくりと辿るように視線を上げると、未だ眉間に皺を寄せた緑の瞳と目が合った。
「いいんすか、俺で」
「…千冬だって、わたしでいいの?」
「そんなの」
言葉を詰まらせた松野の下瞼に盛り上がる透明を、なまえは真正面から見つめる。
透明で温かにきらめく光は、懐かしい色を彷彿とさせた。
傷跡もない両頬を掌で包むと、強張り震える口角から嗚咽が漏れた。
「………っすき、です」
「……、うん」
「つきあって、ください」
「はい」
応えると、松野の両手から力が抜けた。解かれた掌がゆっくりと持ち上がり、なまえの両肩に控えめに乗った。
おずおずと近付いてくる顔に瞼を閉じると、数秒の後掠る程度の感触があった。控えめ過ぎる温度になまえから緩く応えると、ひくりと微かに震えた後、かさついた甘噛みが返ってきた。
しばらくしてどちらからともなく唇を離すと、松野によって身体を抱きすくめられた。なまえの首筋に顔を埋め呻く黒髪を右手で撫でながら、左手で背中を摩った。
触れ合った素肌は温かく湿度を保っていて、くすぐるような心地は心臓を狭くした。
そうして2人の涙は細く、長い時間をかけて流れ続けた。
Absent in the spring
幾度目の春が、ようやくこの手を離れていく