ファム・ファタール
「いつもありがとうございます」
そう言って差し出される袋と、細い指。シックな色の袋にはいくつかの本が入っており、それなりに重さがあるはず。それをわざわざ手渡ししてくれる笑顔のまぶしい彼女に、目を奪われるようになっていた。
「こちらこそ、ありがとうございます。また来ますね」
そんな会話しかできないというのに、彼女は目を細めて、嬉しそうに微笑んでくれる。それがマニュアルに載っている笑顔だとするなら大変素晴らしい経営者だ。客のひとりである私がこんなにも幸せな気分にさせられる。そしてもちろん、それを実行できる彼女も素晴らしいわけだが。
そんなこんなで、この書店を出るときは常に上機嫌。店員も丁寧で品揃えもいい。一般客が多いわけではなく、店内が静かな点も気に入っている。だから私はここに通っているのだ。最初は、本当にそうだったのだ。
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数日後、購入した本を全て読み終え新しい物に出会おうといつもの書店に足を運んだ。今日もいつも通り、買って帰るだけの素朴な時間を楽しもうと意気込んできたのだが。
「いつもありがとうございます、草薙さん」
「えっ」
いつもの挨拶とは違っていた。いつもレジに立っている彼女が、会員カードをこちらに返却するときに名前を呼んだのだ。まぎれもなく、私の姓を。
「……あっ、すみません、失礼でしたね」
「なぜ名前を、」
「その、カードの裏面。ちゃんと名前書いてくれる人って少ないので、印象に残ってて」
会員カードの裏面には持ち主の名前を記入する欄がある。自分のものに名前を書くなど常識のはずだが、どうやらそれを守らない人は多いらしい。不真面目な人の多さを嘆くべきか、彼女に覚えててもらえたことを喜ぶべきか、いろんな感情でぐちゃぐちゃになっていた。
「でも……プライバシーとかありますもんね。勝手に呼んでしまってごめんなさい」
「あ、あの、あなたの名前は?」
「××です。ああ、これでお相子ですね。ふふっ」
彼女が謝罪しているにも関わらず変に質問を投げてしまった。と後悔しつつ、彼女の名前が知れたこと、営業ではない普通の笑顔が見れたことに感激してしまう。店員の姓は胸の部分にあるネームプレート見ればわかるのだが、名まで知っている客なんて一握りだろう。その一握りにいま、私はいるのだ。
そしてなによりこの笑顔。客に見せない、素の彼女。
「××さん……ですね。いつも丁寧な接客でとても好印象だったもので」
「わあ、ありがとうございます!ここ、立地が悪くてあまりお客さん来ないから、常連さんが居てくれて本当に助かってます」
眉尻を下げて困ったように笑う。いつもだったらマニュアル通りの挨拶だけで終わるはずが、こんなに会話が弾んでいる。しかも、女性と。私の中ではとても大きな進展であり、人間としての成長でもあった。
てきぱきと会計を進める彼女に、私は夢中になっていたのだ。おそらく、この時から。
それから何度も通い詰めた。一冊買って、読み終えてはまた買いに向かい。三日ごと、二日ごと、さらには毎日と段々間隔を小さくしながら。それに合わせてか、無意識に薄めの小説や啓発本、詩集などを買うようになっていき、部屋には読み終えて二度と開かれることはないであろう本で溢れかえっている。
「ふふ、この電子書籍時代に毎日紙で読むなんて、珍しいですね」
「紙を捲る感覚が好きで」
「わかります。読んだ後に本が積まれてくのも、自分の成長の元になってる気がしていいですよね」
会計の度、特に意味のない会話もするようになり、このころには自分の気持ちに気が付いていた。
これこそが恋だ、この人が私の運命の相手なのだ、と。
しかし誘うにも口実が見つからない。連絡先も知らないし、それを聞く勇気も……出せないままでいる。恋愛とは難しい、いくら書物で似たような状況の物語を読もうと、現実ではそう簡単にいくはずもなく、結局普段と同じ会話とあいさつで精一杯だ。
「ではまた」
「はい、またお越しください!」
でもそれも、心地よく感じてしまう。これが純愛という、人間の在るべき姿なのだろう。
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ある月曜日のことだった。毎週月曜日は彼女も休みらしく、あの書店に向かうことはない。ただ必要なものを揃えに買い物に来ただけなのだが、普段歩いている表通りが事故により交通規制が掛けられていた。面倒だが仕方ない、と裏道に入ってみれば、ホテルばかりが並んでいる見慣れない景色は朝だというのにどうにもいかがわしく感じ、足早に駆け抜けようとした、のだが。
見つけてしまった。
「もう、私も半分出すって言ってるのに」
「いいんです〜これくらい出させてよ、恋人なんだから」
「む〜……ありがとう」
馴れ馴れしくも彼女の肩を抱き、身を寄せ合って歩く男と。
見たことのない複雑な表情をする彼女を。頬を膨らませてむくれ、文句を言う姿など、私は見たことがない。それはそうだ、だって私はただの客で___ただの客、客と店員?
あんなに名前で呼んだくせに、親しくしてきたくせに、好きにさせたくせに。俺にとっての運命の人なのに。
その後、頭が真っ白になってしまった私は、買い物もせずにまっすぐ帰宅した。6人と共に住んでるあの家に。
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「ありがとうございます、依央利さん」
「これくらいお易い御用! でも驚いたなあ、理解くんがこんなことするなんて」
「……そうでしょうか? 愛のためならこれくらいするものなのでは?」
「うんまあ、僕は遠慮なくやるけど!」
「ふふ、依央利さんに頼んで正解でした。それの片付けもお願いしてよろしいですか?」
「はーい、喜んで!」
赤い液体が地面を濡らしていく。その中心に転がっているのは昨日彼女に汚らわしい手で触れていた男。純真無垢である彼女にこれが近づいていたなんて到底許されることではない。
依央利さんの上着の袖口が少しばかり返り血で汚れているが、彼はそういったことには詳しいらしく、掃除のやり方は心得ているからと積極的に協力してくれた。
「理解、これ、頼まれてたやつ」
「ありがとうございます!さすがふみやさん、行動がはやいですね」
「理解からこんなの頼まれるなんて珍しいから、急ぎで必要かなって」
翌日、20時に部屋を訪ねてきたのはふみやさんだった。2日前に頼んだものをもう持ってきてくれたらしい。さすが、いざというときに頼れる人がいて良かった。渡された2種類の小袋は錠剤が6錠入っているものと粉が入っているものだった。
やはり持つべきものは人望と人脈。そして何より正義の心。己を疑わず、正しいと思ったことを貫くこと。だからこうして皆は優しく協力してくれるのだ。
「にしてもすごいな、この部屋」
「でしょう? 入念に準備を進めていますから」
「みんなにはなるべく近づかないように伝えとくよ」
積まれた本、写真、彼女が喜びそうなぬいぐるみ。あの書店には売っていなかった本もいくつか取り寄せてある。ここに住む彼女が退屈しないように。
私のすることは間違ってなどいない。愛のためにひたすらに、あの子のためにひたむきに、努力を重ねた結果なのだ。
彼女が、××さんが。間違った方向へ進もうとしているのなら正してあげるのが愛というもの。だって貴方の運命の相手はこの草薙理解なのだから。
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「ありがとうございました、またお越しください」
「……なんだか元気がないですね。悩み事でも?」
「あっ、お客様の前ですみません。少し……」
翌々日。彼女の働く書店へ行き数冊本を購入すると、レジの対応をしてくれた彼女は目に見えて落ち込んでいた。声をかけると物憂げに視線を下へそらす。痛々しい様子に寄り添いたいと、誘いを持ち掛けた。
「よろしければ、お仕事の後お茶でもどうですか。ほかの買い物をしてお待ちしてますので」
「えっ? でも」
「貴方の力になりたいという私のわがままですから」
「……じゃあ、この後近くのカフェで少しお時間もらえますか。相談したいことがあって」
「わかりました」
仕事終わりの18時、この書店から近いカフェで待ち合わせをすることになった。本当はここまで迎えに来たかったけれど、彼女が優しさから遠慮していたので大人しく引いておいた。しかし強引にいったほうが女性は喜ぶのだろうか、と買い物をしている間ずっと考えてしまった。
18時、待ち合わせ場所にきた彼女は店員ではなく一人の女性としての振る舞いをしていた。髪も、服も、働いていた時とは違って新しい一面を見た気分だ。「普段着ですみません、制服以外の姿を見られるのってなんだか恥ずかしいですね」と照れている彼女も、とってもかわいらしい。
彼女に席取りをお願いし、カウンターレジにて二人分の注文をした。受け取った彼女の分のカフェラテに、ふみやさんから貰ったものをそっと忍ばせる。何事もなかったかのように持っていけば、純粋なあの子は疑いなく受け取ってくれる。
「お待たせしました」
「ありがとうございます、相変わらずここはレジが混んでますね」
両手でカップを包み込み口を付けながら、うちとは大違いだ……と零す彼女の対面に座り、自分もコーヒーを一口飲んでみた。美味しい、値が高いだけはある。
「では本題に入りましょう。相談したいこと、とは?」
「あ……その、プライベートなことなんですが」
カフェオレを飲み笑っていた彼女はスッと表情をなくし、視線を彷徨わせる。右へ、左へと動いていた眼がゆっくりとこちらを向き、震える声で話し出した。
「ここ数日、恋人と連絡が取れなくて」
「数日ですか」
「はい……あっ、別に強制してるわけじゃないんです。私も数日に一回しか自分からはメッセ送らないし。でも彼は……毎日、ちょっとした近況も報告してくれるような人で。なのに4日前の夜からひとつも……」
「その方のご友人とかは」
「わからないって言われました。ここ数日連絡無しで仕事も来てないって」
「それは……」
考え込むように手で口元を覆った。彼女が不安を拭うようにカップに口をつけるたびに、つい浮かんでしまう笑みを隠すために。彼女を悩みを聞きながら、その悩みを解消できる数時間後のことを考えて。
「それは、心配ですね」
やさしい嘘を、つきながら。
それから数十分、コーヒーを飲み干し話も終え、店を出た。家まで送っていきます、というと彼女はそれを了承してくれた。どうやら信頼してもらえているらしい。
「すみません、途中から愚痴っぽくなっちゃって」
「いえ、誰かに話すことで少しでも気が紛れたのならなによりですから」
「……えへへ、本当に理解さんは優しいですね」
困ったように眉を寄せ、目頭に涙を溜めながら必死に笑っている。その表情をさせているのは私であって、決してあの男ではない。それが心地よかった。
「いっぱい泣いたせいかなんだか眠くなってきました……帰ったら早めに就寝します」
「そうですね、早寝早起きは健康にいいですから」
「……でも、なんか、おかしい気が」
「どうしました?」
彼女の足元がふらふらしている。アルコールにでも酔ったみたいに、力が入り切っていないように不安定で。
「お酒でもないのに、こんな」
「きっとお疲れなんでしょう」
「ちが、こんな、ねむいのおかし」
その言葉は続くことなく、がくんっと脱力し倒れそうになるのを受け止めた。腕の中ですやすやと眠る愛しい人の体温。ああ、やっと触れられた。触れてしまった。私のものに、なってしまった。
「ふふ……ふははっ……やはり貴方は最高だ。天使のような、可愛らしい寝顔、人を信じる心、人を思って涙するその姿。そして私のたった一人の運命の相手」
どうか離れないように、離さないように。貴方が正しい道を進めるように、私が信じる正義の元に。
____秩序 is All Green!____