括
周りにバレない様に、チラリとさり気なく壁に掛かった時計で現在の時刻を確認する。見れば、あと十分もしない内に定時刻であった。
流石に定時になると同時に帰る事は出来ないが、それ程その時刻を回る事はないだろう。
待ち合わせの時刻には無事に間に合いそうだ。
細く、長い息を吐く。
この後の予定の事を思うと、心がソワソワと落ち着かなくなるのだ。
期待しているとか、楽しみだという訳ではない。
単純に、初めてのそれに緊張しているからだ。
「オイ、山口!」
「えっ、アタッ」
突然左耳に飛び込んで来た自分の名字に、慌ててそちらへと顔を向けようとすると、それより早く頭に軽い衝撃。
紙の束が頭に当てられていた事から、どうやらこれで叩かれたのだと知る。
「か、課長」
そこに立っていたのは、私が所属する新宿第一署刑事課の課長である蝶野真一警部だった。
眉間に寄せている皺の深さは彼の機嫌の度合いを表しており、今は些か深い、といったところか。
僅かに機嫌の悪そうなその顔に、慌てて席から立ち上がり、彼と向き合った。
頭に乗っていた紙の束は立ち上がったと同時に私の頭上を離れて、今は彼の手の中だ。
「あの……、な、何か御用で……?」
「“御用で”じゃねぇ。何回呼んだと思ってやがる」
「え、そんな呼びました?」
「あぁ、呼んだ」
私が訊き返すと彼の眉間の皺が深くなる。
なるほど、ずっと私が無視していた状態だった為に機嫌が悪いらしい。
「すみません、気が付きませんでした」
「だろうな。……まぁいい。お前、この後、空いてるか?」
「え」
突然そう言われて固まってしまった。
何を隠そう彼は私の想い人。
好きになったきっかけは覚えていない。
気が付いたら好きになっていたし、この人を嫌いになる要素も機会もなく今日までを過ごしてきた。
日々、その想いは募るばかり。
「なんだよ、何か用事か?」
「え、えぇ……まぁ」
曖昧にそう答えたのは、彼の真意について思考を巡らせていたからだ。
一体彼はどういったつもりで私の今後の予定を訊いているのか。
私の今度の予定は、彼のそれによるところが大きいのだが、彼は私の答えに不思議そうな顔をしているだけだ。
と、その顔が変化した。
「さては、男関係かぁ?」
「ち、違──……」
私をからかう様なその言い方に思わず否定しそうになって、その言葉を飲み込んだ。
彼の読みは決して外れてはいなかったからだ。
今後の私の予定は、確かに男関係である。
それも、いわば不特定多数の。
だが、それを彼に伝えるのはどうだろう。
もしも彼が今後の私の予定を訊いてきたのが艶っぽいものだとしたら、それを伝えるのは躊躇われた。
どう答えるべきか迷っていると、ついに彼がその目的を告げた。
「──チッ、お前が最後の頼みの綱だったのによ」
「え、“最後”?」
比喩的表現ではあるが、その言い方をすると言う事は、何も私でなくても良い用事、という事だ。
「どいつもこいつも、「他で手が一杯」だとよ。ったく、さっさと仕事片付けとけってんだ」
「課長、一体、何の話をしてらっしゃるのか……」
「あ? これだよ、これ」
そう言った彼が、先程私の頭に叩き付けた紙の束をぞんざいに寄せてきた為、思わず受け取ってしまう。
そこに表記されていた内容を読み、なるほど、と一人納得する。
それは今度の定例会で使われる予定の資料だ。
作成の際は私を含め、何人かの手が空いていた刑事が作業に関わったが、その資料にどうも不足分があるということが判明したのが昼前。
どの資料が不足しているのかを、作成時と同じく手の空いている刑事が調査していた筈だがその結果が出たらしい。
そして、今はその資料作りの人手を探している、という事だろう。
確かに、これまでの私は課長の頼みとあらば手が空いていなくても引き受けていた。
その結果、どれだけ自分が大変な思いをしたかも覚えているし、出来ればあんな思いは二度としたくないと思う程には大変であったが、それでも私は「だから引き受けるのはやめよう」ではなく、「だからいつでも彼の頼みを聞ける様に手を空けておこう」という思考になった。
単に「好きな人の力になりたい」という下心から来るものである。
だから今日もほどほどには空けていた。
あと一時間でも早ければ、引き受けていたかも知れない。
しかし、もう定時刻。
この後の予定は自分の為に友人達が企画してくれたものである。
自分が参加しない訳にはいかないし、遅れるのも忍びないのだ。
「すみません……今日はどうしても……」
言いながら資料を手渡す。
思っていたよりも暗い声が出たのは、本当に申し訳なく思っていたからに他ならない。
「分かった分かった。いい。……あー、こうなりゃテメェでやるしかねぇか」
「か、課長が、ですか?」
「あ? なんだよ」
意外だった。
書類仕事が多い課長職ではあるが、こういった資料の作成はいつも下の者に回すのが彼だ。
そんな彼が自らやると言っているのだ。
これは明日は雨かも知れない。
そう思っていたのが顔に出ていたのか彼はもう一度その紙の束を持ち上げて私の頭上に落とす。
「アテッ」
「顔に言いてぇ言葉が出てんだよ、タコ」
「す、すみませっ──」
「……ま、必要な資料なんざ分かりきってたから検討も付いてるし、そんな時間掛かんねぇよ。オレがやる分にはな」
その言葉に感心してしまった。
やはり彼は出来る男。
それを強く思うのは主に帳場が立っている時だが、こういうときでも出来てしまうのが、ムカつく程にかっこいいと思った。
「相変わらず凄い自信ですね」
流石にそれを伝える勇気はなかったので、半ば感心した様な、呆れた様なセリフを吐いた。
そんな私のセリフを彼はまともに受け取ったらしく、したり顔で言う。
「事実だからな」
そう言った後、彼は壁掛け時計を見遣ると、
「オラ、定時だ、帰れ帰れ」
そう言って、シッシッとドアの方へ手で追い払おうとする仕草を見せた。
「え、いや、でもまだ仕事が……」
対して私は、机の上に広げたままの書類を見る。
難航している事件の報告書を作っていたところで、その作成を命じたのは他でもない、今目の前に居る彼本人だ。
「いい、今日は帰れ。……その代わり、明日の朝一で仕上げろよ」
まだ出来ていないのか、と怒られるかと思いきやそんな事言うものだから、私は再び明日の天気を心配する羽目になり、今度も紙の束を頭上に落とされる事となった。
※ ※ ※
「あ、来た来た」
電車に乗って、職場から二駅離れた駅の前には広場があり、待ち合わせに最適だ。
そこで待ってくれていた三人の友人に駆け寄る。
「待たせた?」
「ううん。時間ぴったり。案外定時で帰れるんだね、刑事って」
「違う。帰らせてくれたの、上司が」
私がそう言うと他の友人が言う。
「それって、あの、洋子の好きな人?」
「そう」
「言ったの? 今日の事」
今度はまた別の友人だ。
「言ってない。でも残業頼まれそうで、その時「用事ある」って言ったら「男か?」って訊かれて、違うとは言えず……」
「それ、言ったも同然じゃん」
最初の友人が呆れた顔を向けて来ると、先程と同じ順番で友人達は話し始める。
「でもそれでよくない? そもそも、その人と進展なさそうだから企画した事でしょ? 今日は」
「だけど、彼にそれ教えちゃったら今日がダメだった時に気まずくならないかな?」
「だよね。私もそう思う」
順々に話して最初に戻った彼女達の順番に割って入る。
「そ、それはともかく……」
このまま放っておくと蝶野課長について話し込みそうな友人達の会話を遮り、私はあるお願い事をする。
「あのね、今日はホントにありがとう。でも一個お願いがあってね……。私の職業の話はNGで」
「え、なんで?」
三者三様ではあるが、全員が「なぜそれを黙っていなくてはならないのか」という表情だ。
確かに食い付きの良い話ではある。
特にこの職業はある意味謎に包まれているし、私の所属する部署の話となるとドラマの題材になることも多く、訊きたい事は山程あるだろう。
だが、それ以前に、一般市民の“警察”に対するイメージを考えれば迂闊に話す訳にはいかない。
特に今日の様な場では。
「あのね、話題にはなるけど、守秘義務で大した話も出来ないし、それ以前に警察って嫌われ者だからさ。それだけで敬遠されると思う」
だから私の為を思うなら黙っていて欲しい、という私の言葉に彼女達は顔を見合わせたあと、しかと頷いた。
※ ※ ※
「それでは、カンパーイ!」
男性幹事の掛け声に、私達はビールの入ったグラスを打ち鳴らす。
向かいに座っている見ず知らずの男性とも遠慮がちにではあったがグラスを合わせた。
「じゃあ、まずは自己紹介していこうか」
乾杯の音頭の後に続いたそのセリフはこういった席では良くある、定番のものだ。
まずは男性側から、ということで幹事から順繰りに自己紹介が始まる。
名前、職業、趣味……。
定番のそれを半ば聞き流しながら私はグラスの中身を一口含む、すると隣に座る友人に、前の席に座る彼らには見えない様にであろう、テーブルの下で小突かれる。
真剣に聞きなさいという意味だ。
男性陣の自己紹介は次々に終わり、現在話している向かいの彼が終わればこちら側にその順番が回ってくる。
そう、これはいわゆる合同コンパ。
合コンだ。
目的は私に誰か良い人を宛がう為だが、三人の友人も相手を募集しているらしく、その本気度は高い。
「それじゃあ、今度は私達ね」
そう言って私達側の幹事が自己紹介を始める。
名前と職業、趣味。
粗方、男性陣と同じ内容である。
ただ、若干男性陣に趣味の回答を寄せている様に思うのだが、それはその趣味に近い趣味を持っている人をターゲットにしたという合図なのか。
そんな事を考えてつつ、何を話そうかと考えている間に隣の友人の自己紹介が終わってしまい、順番が回ってきた。
「次は、洋子」
促された私は姿勢を正してそれを始めた。
「えーと、山口洋子です」
刑事になってからは趣味らしい趣味が持てず、過去に持っていた趣味もすっかりしなくなっていた。
休日はほとんど寝ているし、何を話そうか迷ったが、結局それをそのまま伝える事にする。
「休みの日はほとんど寝てます」
呆れた友人の顔が視界に入り、男性陣は失笑気味である。
だが、他に回答が思い浮かばないのだから仕方ない。
「今日は久しぶりのこういった機会なので、楽しみたいと思います。宜しくお願いします」
そう言って席に座るとすかさず男性幹事から質問が飛んできた。
「ハイ、質問です! ズバリご職業は?」
「……しがない公務員です」
「市役所とか?」
「まぁ、そんな所、ですかね」
職業を黙っていて欲しいと友人に依頼しながら、それを誤魔化す術がそれ以外に思い付かず、私は曖昧に誤魔化す事にした。
すると、あまりこの話に触れない方がいいと判断したのか、それとも単に面倒になったのか、それ以上職業の話題に触れられる事はなかった。
途中で席替えが行われ、私は隣に座った男性と話していた。
幹事に誘われて仕方なく参加したという彼は饒舌な方ではなかったが不思議と馬が合うのか会話が弾み、傍から見れば「良い感じ」というやつになっていた。
先日の休日に行ったいう一人旅の詳細を聞いていたが、それが一旦切れた時、私は一言彼に断って席を立った。
目的は他でもなくトイレであり、奥にあるそこへ向かい、用を足すと、席へ戻り始める。
トイレから席へ戻るには真っ直ぐ、他の席を避けて行くだけで良い。
だから全く注意していなかった。
もう少しで自席という時に、横から来た男性と軽くぶつかってしまったのだ。
「あ、すみませ……」
咄嗟に謝罪の言葉を口にして、相手の顔を見た私はその言葉を飲んでしまった。
そして、口をあんぐりと開けて相手の顔を見つめるばかり。
「やっぱりお前か」
そう言ったのは間違いなく、数時間前まで一緒の部屋で働いていた課長であった。
「こ、こんな所で何を……」
「そりゃこっちのセリフだ。似た声がするなと思ってたら、まさか本人だったとはな……」
店内は程々にざわついている。
その中で私の声を聞き分けていた事に単に驚いた。
「お、お一人、ですか?」
「あ? なんだよ、オレが一人で飲みに来ちゃ悪いか?」
「そ、そういう意味じゃないですけど……」
私が慌てて否定したのを見た彼は、私達の席に視線を向ける。
「にしても、てっきり付き合ってる男のところに行くのかと思いきや、合コン、とはねぇ」
「な、なんですか、いけませんか? 私が合コンに参加してちゃ」
「いーやー? 別にー?」
そうは言いながらも、彼はおかしくて仕方ないとでも言いたげな表情をして、その後、友人達と男性陣が盛り上がっている一角へと目を凝らしながら言う。
「で、お前の狙いはどれだよ」
「どれでもいいじゃないですか」
「大事な部下の相手だぜ? 気になるだろ」
“大事な部下”という言葉に、ズキリと心が痛む。
彼にとって自分はただの部下。
そんな事はずっと前から重々承知していた筈なのに、いざそう言われてしまうと悲しい気持ちになった。
それを誤魔化す為に口を開く。
その内容はどうでもよかった。
だから心にもない事を言ってしまう。
「プライベートな事ですから、放っておいて下さいよ」
そう言ってからハッとする。
言葉は知らず知らず刺々しい言い方になっており、気が付けば彼の瞳は驚きの色を持って私を映していた。
「あ、いや、今のは──……」
「……いや。悪かったな、詮索して」
こちらが意味のある言葉を発するよりも早く、彼はバツが悪そうな顔を見せて言った。
その表情に、何も言えなかった。
些かショックを受けている様な彼の様子と、自分の口から飛び出たキツイ声色とセリフに驚いていたし、それらに戸惑っていた。
彼は私の事を部下だと言った。
だから、一部下から何を言われても、彼が何かを思う事はないだろうと思っていたが、それはどうも自分の思い込みであった様だ。
それに、自分が彼にあんな物言いを出来るとは思っていなかった。
意図せずともその下心から、彼には従順に従っていたのに。
「じゃあな、羽目外し過ぎんなよ」
そう言って、止める間もなく立ち去って行く彼の背中に何か声を掛けようと思うものの、先程の彼の表情がそれを止める。
まさか、彼があんな顔を見せるとは思ってもみなかった。
ここで彼に会うまでは、「新しい恋をしてこの恋を忘れる」という手もあるのだと思っていたが、今はもう完全に頭から消え去っていた。
彼のあんな顔を見たからには、そんな事は出来ない。
「あ、洋子、おかえりー。遅かったね」
「うん……」
「どうしたの? 何かあった?」
席に戻ると、隣に座っていた女性側の幹事でもある友人が浮かない顔の私の顔を心配そうに覗き込んで来る。
その顔を見る事は出来ずに、私の視線はテーブルの上を彷徨った。
「課長が居た」
「え」
「飲みに来てた」
「一人で?」
「そう」
「そ、それで、なんか話したの?」」
少し焦った様子を見せるのは、彼女が私の為に合コンをセッティングしてくれたからである。
ここで課長と遭遇したのは全くの計算外だったのだろう。
かくいう私も、まさかこんな所で彼に会う事になるとは思ってみなかった。
「何も。羽目外し過ぎるなよって……」
「そ、それだけ?」
「そう、それだけ」
それだけだ。
それだけ、なのに……。
十分にも満たない彼との会話が、その様子が、表情が、脳裏に焼き付いて離れない。
他の事を考えようにも、結果的にはどうしても彼の顔が浮かび、彼の事を考えてしまう。
だから、その会話が耳に入ってきたのは彼に通じる言葉だったからだろう。
「警察って本当にクソだよな」
斜め左前方向に目をやると、一人の男性が眉間に皺を寄せて心底嫌そうに言っていた。
その横に座っていた友人はというと、私の職業を知っているからだろう、焦った顔をして私の方を見ていたが、その視線に「大丈夫」という意味を込めて一つ頷いておく。
こういう言われ方をするのは今に始まった事ではない。
交番勤務だった頃から聞き慣れた言葉であるし、そう思われて疎まれるからこそ犯罪を未然に防いでいる面もある。
空気感の変わった私達の様子には一切気が付いていないのか、男は話し続ける。
要約すると、見通しの良い直線道路を法定速度を超過して走行していたところ、巡回中の警官に捕まったがその時の対応に不満があるという事らしい。
だが、聞いているこちらに落ち度はない。
彼らはそれが仕事であり、いくら見通しが良いとはいえ、彼がスピード違反をしたという事には変わりがないのだ。
つまり、その件に関しての彼の意見は逆恨み以外の何ものでもない。
普段であれば、口を挟む事はなかっただろう。
世間の警察という職業に対する印象も知っているつもりで、その理由もある種の必要性も理解している。
それでも私が口を挟んだのは、今の私にとって、警察=課長だったからだ。
「……そんな事、ないですよ」
静かに放ったその言葉は、内に秘めた怒りの感情のせいか、空気に染み渡るかの如く広がった。
まるで水を打ったかのようにそれぞれに交わしていた会話も静まり、全員の視線が私に集まった。
「それ、どういう事?」
意気揚々と、如何に警察が最悪な組織であるかを語り始めていた男が、愛想笑いの頬を引き攣らせて言う。
「そのままの意味です。あなたが捕まったのはあなたが法定速度をオーバーして走行していたからで、守っていたなら捕まることもなかったでしょう」
「ちょっ、洋子」
隣に座っていた友人が突然男に意見し始めた私を咎める様に呼ぶ。
それでも私は止まらなかった。
「それに、警察は事件が起これば昼も夜も、休みもなく働く事になります。あなたの様に逆恨みをしてくる人は数多くいますが、そんなあなた達を守るのも警察の仕事です」
「さっきから、なんなんだよ。急に。あいつらの肩持っちゃってさ」
「急ではありません。それに肩を持つのは当然です」
そこで私は席を立ち、スーツのポケットに手を入れるとそこに入っていたものを取り出し、男に見える様に開いて差し向けた。
「私も、警察なので」
そう言った瞬間、男の顔が引き攣った。
他の男性達も一様に驚いている様子を見せたが、友人達の反応はそれぞれだ。
しかし、そのどれもが私の行動を致し方ないものだと思ってくれている様に見えた。
その証拠に彼女達の口元には笑みが浮かんでいた。
「空気、悪くしてごめんなさい」
閉じた警察手帳を元の位置に仕舞ってそう言い、頭を下げると、隣で私を見上げていた友人に目を向ける。
「折角企画してくれたのにごめんね。やっぱり私、課長が好き」
「うん、分かった。こっちは大丈夫だから」
薄く笑った友人に照れた笑いを返して、他の友人二人に視線を向けるとどちらも微笑んでいた。
私と目線が合うと頷いてくれる。
その様子に彼女達が怒っていないと確信した私はもう一度全員に頭を下げ、そして先程まで隣の席に座って話をしていた男性にも頭を下げた。
彼は一連の流れに圧倒されていた様で、私が頭を上げても何の反応も示さない。
その様子に思わず苦笑いを浮かべると、私はその場を後にした。
※ ※ ※
就寝前からソワソワとしていた為か、目覚まし時計よりも早く目を覚ましてしまった。
いつもよりもゆったりと出勤の準備をしてもまだ時間が余っている。
こうやって時間が出来ると考えてしまうのは課長の事だ。
合コンはあの後、程なくして解散となったらしい。
警察批判の彼は私が去った後、怒りのやり場がなくなった為か、それほど知らない筈の私への誹謗中傷へと代わり、気分の悪くなった女性陣が早々にお暇したそうだ。
もう一度謝りたくて送信したメールの返信にてその事を知った私は、彼女達の気分を害する事になってしまった事も合わせて謝罪したが、三人からはそれぞれ「早々にあの男の本性が見えてよかった」と返ってきた。
男性側の幹事にも謝罪のメールを送りたかったが、私達側の幹事である友人が既に私に代わって話をしてくれていた様で、あちらも「こちらこそ申し訳ない」と謝罪合戦になったそうだ。
彼女達から返ってきたメールを読み返していると、いつも家を出る時間よりは早いが、早過ぎるという時間ではなかった為、出勤する事にした。
職場である新宿第一署までは車通勤である。
署の駐車場に車を止め、そこからその建物へ向かった私は、ロビーへと足を踏み入れてエレベーターに乗る為にそこへ近付いている途中で思わず足を止めてしまった。
そこに、彼が居たのだ。
「オウ、早いな」
「お、はようございます」
声を掛けられてしまえば知らん顔をする事は出来ず、その隣に立ち、エレベーターを待つ。
いつもより早いだけで辺りの光景はいつもと違う。
私が出勤する頃はこのロビーにはそれなりに人がいて賑わっているし、エレベーターもそこそこに乗車する人がいるのだが、今は私達以外に人影はない。
各部屋の扉の向こうに人の気配はあれど、そこから誰かが出てくる様子もない。
今、私は彼と二人きりだ。
そう意識した途端、落ち着きがなくなる。
視線を何処に向けていればいいのか、いつもどうしていたのか分からなくなる。
とりあえずそれを落ち着ける先に選んだのは、壁に貼られた交通安全週間を知らせるポスターだった。
「山口」
「はひっ?」
突然声を掛けられて、変な声が出てしまった。
普通に話し掛けられるとは思っていなかった。
昨日、彼にあんな言い方をしてしまった手前、こちらから気軽に話し掛ける事は出来なかったので彼のその行動は大いに私を安心させた。
視線をポスターから彼に移すと、心底怪訝な顔をしてこちらを見ている彼と目が合う。
「す、すみません。ボーっとしてました」
「別に良いけどよ。──……で、どうだった?」
「何がですか?」
「合コン」
思わず辺りを見回した。
あまり言いふらされたくない話題であったからだ。
幸いな事に、先程見た時と状況は全く変わっていなかった。
広いロビーには私達二人だけ。
「ど、どうもないです」
「あ? んなわけねぇだろ」
「それがあるんですよねぇ。……職業バラしたら終わりました」
そう言うと、一瞬目を丸めた課長が呆れた様に笑う。
「バカだな、お前。ああいう席では「公務員」って言っとくもんだ」
「言いましたよ、最初は。なんか色々あって……」
そう言ってから彼の発言を思い返してハッとする。
だが、それを訊くよりも先にエレベーターが到着した為、彼に続いてそこへ乗り込んだ。
刑事課のある四階のボタンを押した彼が壁面にその背中を落ち着けて、フロントポケットに両手をしまういつものスタイルになるのを待って言う。
「っていうか、課長、ああいうの参加したことあるんですか?」
まるで自身の経験を語る様なその言い方が引っ掛かっていた。
私の知る限り、彼は今日に至るまで独身である。
これだけ魅力的な男性なのだから、過去に特定の女性がいた事はあるだろう。
聞きたい様な、聞きたくない様な複雑な思いを抱えている私のなど知ってか知らずか彼は口を開いた。
「若い頃はな」
「あるんだ……」
思わず口から出たその言葉は落胆の色を模していたが、彼にそれを気にした様子はない。
それどころか、私のその反応が気に入らなかった様だ。
「なんだよ、オレが参加してちゃおかしいか?」
「いえ、……でも、イメージは、ないです」
だが彼もれっきとした男性である。
そういう席に居てもおかしくはないし、そういう相手が過去にいても何ら不思議はない。
そうは分かっていても、どこかでショックを受けている自分がいた。
「なんでバラしたんだ?」
軽い調子で訊かれたそれに少し考える。
あの時の自分の行動は、今思えば恥ずかしい。
自分の感情の赴くままに口を開き、空気を悪くするなど、まるで子供だ。
だから言おうか迷ったが、思い切って口にする事にした。
「……参加してた男性に、この仕事、侮辱されたので」
詳しい説明は省いてそれだけ述べたが、どうやら彼はそれで理解してくれたらしい。
「それでバラしちまった訳か」
「お恥ずかしながら」
「刑事たるもの、もっと冷静にならねぇとな」
「はい……」
返す言葉もなかった。
彼の言う通りだ。
もっと冷静に物事を判断しなければならない、特に私のいる刑事課では。
そう思って、自身の行動を反省している私の耳に指定階へ到着したアナウンスが聞こえた。
扉が開けば、こうして彼と会話をする事もなく今日は終わっていくだろう。
あんな態度を取った自分に対しても普通に接してくれる彼に改めて惚れ直していると、そのドアが開いたとき、肩越しに振り返った彼がこう言った。
「でも、それはお前がこの仕事に誇りを持ってるからだろ。それでいいと思うぜ、オレは」
そう言って降りて行った課長の背中をじっと見ていた。
ハッとしたのはそのドアが閉まり掛けたから。
彼の部下である自分も、ここが職場である。
彼の背中を追う様にエレベーターから降りると、降りた所で彼は待ってくれていた。
その優しさにまた胸がキュンと縮まった。
ただ、閉まりかけたドアを手で押し開けて慌てて降りてきた事には呆れている様ではあったが。
「何やってんだ?」
「いや、職業バラした時、結構場の空気悪くして反省してたので、それでいい、って言われたのがなんだか嬉しくて」
「なんだそりゃ」
ハッと笑った彼のその笑顔にも胸がときめく。
朝からこれほどまでに心を締め付けるのは彼以外には存在しない。
「まぁ、さっさと男作れよ」
そして、────落とすのも彼だけだ。
「……っ、刑事に恋愛は無理ですよ」
「んなことねぇだろ。お前はまだ若いからな。その内、見つかるんじゃねぇか?」
「それは、いつなんでしょう?」
「さぁな」
「んな、無責任な」
何気ない振りをして会話を交わして刑事課へ向けて歩いてはいるが、心はショックから冷たくなっていた。
自身がその対象であるとは微塵も思っていないからこそ、彼は私に「男を作れ」などと言えるのだ。
「蝶野課長は、作らないんですか?」
「あ? オレ?」
突然自分に向けられた質問に彼は歩きながら片眉を上げる。
「いいよ。オレは」
「なんでです?」
「そんな歳でもねぇしな」
「そんな事ないでしょう」
決して若いとは言えないかもしれない。
それでも私から見れば、彼は魅力的な男性だ。
「課長は充分、魅力的です」
「んな煽てても、なんも出ねぇぞ?」
「煽ててませんっ」
そう言って足を止めた私を振り返り、彼は不思議そうに見ていた。
「私は……」
「………………」
ごくりと唾を飲み込んで、伝えるのなら今しかないと思った。
彼自身の事を訊いたのは、彼にもその可能性がある事を知って欲しかったから。
下がってしまう視線を上げて、赤くなりつつある顔を誤魔化す事も隠す事もせず、真っ直ぐに彼の目を見つめて言い切る。
「私は、蝶野課長が好きです。……男性として」
それを付け足したのは、彼に知らしめ、逃げ場を塞ぐ為だった。
そしてそれは自分の逃げ場も塞ぐ事になる。
男として見ている事を明確にする事で、上司としてとか、人間としてといった好きの方向性を塞いだ。
彼は何も答えない、いや、答えられない様であった。
大きく見開かれた目と、少し開いた唇が彼の驚きを表していて、それを見た私は、寂しい気持ちを抱えていた。
本当に彼は、私をそういう対象として見ていなかったのだと思い知ったからだ。
何も答えない彼の横をすり抜けて私は一人、刑事課へ向かう。
否、向かおうとした。
「オイ、言い逃げして行くな」
先程まで硬直していた筈の彼の右手が私の左腕を掴んで引いていた。
僅かに頬に赤みが差している様な気がするのは気のせいではない。
「は、離してくださ──」
「離さねぇ」
彼に掴まれたところから伝わる彼の熱と、力強さに思わずこちらも更に顔を火照らせてしまい、そのままで数秒の時が過ぎる。
突然耳に届いたのはエレベーターが目的階に到着した音だった。
その直ぐ後に、話し声と笑い声が続く。
それを私と同じ様に聞き付けたらしい彼は一つ舌打ちをすると、資料室と書かれたプレートの下にあった鉄製のドアノブを捻って押し開け、私の腕を引いたまま、自身の身体をそちらへ運んだ。
ガチャン、と音を立ててそこが閉まってしまえば、私は彼と再び二人きり。
部屋の中は薄暗く、全く辺りの状況が見えない。
暫くそのままじっとしていると、先程の話し声と笑い声が部屋の前を通り過ぎて行った。
その動きと声質から、私達と同じ刑事課の人達であったのだろうと推測する。
見つからなくて良かったとホッと胸を撫で下ろした後、何度か瞬きをして暗さに目を慣らすと現在の状況が分かったが、それを知った瞬間、私は更に赤面する事となった。
かなりの至近距離に彼の姿があったのだ。
扉は彼が空いていたその右手で押して閉めたらしく、その手は未だドアに押し当てられていて、私はそんな彼とドアの間に挟まれていた。
左腕は部屋に入ると同時に離されてはいたが、視界のすぐ左に彼の右腕があり、すぐ目の前には彼のネクタイの結び目がある。
「行ったな……」
そう零した彼の吐息が額に掛かる。
その事実に目線を上げる事が出来ず、俯いて硬直した。
これほどまでに、彼に近付いた事があっただろうか。
この距離は普段の生活ではありえないものである。
そう意識すると、掴まれていた左腕がどうも落ち着かない。
その腕を守る様に身動ぎすると、彼の目線が下がるのを感じた。
「……悪ぃ」
その距離にか、はたまた私をドアに追い詰めている事か。
彼はそう言って、少し後退するとその両手をポケットにしまった。
「い、いえ」
小さく私がそう言うと、暗い室内に暫く沈黙が流れる。
目線を床に泳がせていると、彼が一つ息を吸った。
「さっきの──」
その言葉に身を固くする。
彼の言う“さっきの”とは、恐らく私が「好き」と言った事であろうと予測したからだ。
そしてその予測は当たった。
「本気か?」
茶化している様子はない。
そんな彼の声色を察して、私は静かに頷いた。
すると、少し高い所から溜息が落ちて来る。
それがどういった意味を持ったものなのか直ぐに察して、ズキリと心が痛んだ。
「歳、離れてんだぞ?」
「……知ってます」
振られるだけじゃなく、お説教までされるのかと陰鬱な気持ちになる。
しかも、こんな朝っぱらから。
いや、そもそもこんな朝っぱらから告白などという行為に及んだのは私の方だ。
そんな私に彼の行為をどうこう言う権利はない。
「もっと若い奴がいんだろうが」
「……いますけど、いるだけです。好きにはなれません」
そんな事にまで意見されるとは思っていなかった為、少々面食らってしまった。
彼はあまり口うるさい方ではないと思っていた。
だというのに、こういう時に限って饒舌になるとは。
「た、ただでさえ凹んでるんで、これ以上、お説教で凹まさないで下さい……」
懇願する様に弱々しくそう言うと彼が黙り込んだ。
そして、たっぷり間を取って口を開く。
「説教なんてしてるつもりはねぇよ」
それきり、彼がまた黙ってしまったので再び室内は沈黙が支配する。
重苦しいそれが耐え難く、かといって背後の扉から逃げる勇気もない私は、冷えた鉄製の扉に背を付けて凭れた。
これで、突然外から開けられる心配はない。
とはいっても、この資料室をわざわざ訪ねて来る人はいない。
現に、こうして中に籠るのは初めての事だ。
この新宿第一警察署に異動になり、その勤務初日に一応案内はしてもらったが、その時も部屋の前で簡単な説明を受けただけであった。
その時の事を思い出していると、再び溜息が聞こえた。
彼を朝から疲れさせ、そして呆れさせている現状が申し訳なくなるのは当然の事で、ここは一つ謝って全てをなかった事にしてもらおうと思った私は顔を上げてそれを口にしようとした。
しかし、それは彼の発言によって飲み込む事となった。
「……腹括るか」
「…………?」
それは完全な独り言であった。
その意味を、その理由を考えていた私の顔の両側に彼の手が付かれ、再び背後のドアと正面の彼に挟まれる。
腰を屈める様にして、私と視線を合わせた彼の目に真正面から見つめられて、思わずその目をじっと見つめた。
一度あったそれは離す事が出来ず、吸い込まれる様な感覚に陥り掛けた頃、ようやく彼が動いた。
彼の顔が更に近くなる。
それに驚いて、反射的に顔を横に背けると、背けた側に付かれていた彼の手がドアを離れて私の顎を捉え、自身の方へ向き直させた。
その手は今度は顎を掬う様にして私の顔を上に向ける。
カチリと合った目線が閉じられた。
次の瞬間。
瞬きの一瞬で事は起こっていた。
唇に感じる温度を持ったそれに驚き、それが何かを理解して戸惑っている頭と、苦しい程に締め付ける心臓と、小刻みに震えて力の入らない手足がまるで自分の物でない様な錯覚に陥った。
バラバラなそれらはバラバラに自分の現状と心情を伝えて来て、頭は混乱を極める。
時間にすれば、恐らく数秒。
たった数秒のその出来事で起きた混乱に、私の目からは自然と涙が溢れ出た。
「な、なんで──……」
唇を手で押さえて、涙を流す私の姿を見た彼は床に視線を投げ掛けて舌打ちする。
「分からねぇとは言わせねぇぞ」
その言葉に首を横に振り、分からないという意味を示す私を横目で見た彼は眉間に皺を寄せると苛立ちをぶつける様に、その右手を握り拳にして私の顔の左側に力強く付いた。
ダンッと音がして、扉が振動する。
その音と振動に驚いて肩をビクつかせた私の顔を再び覗き込んだ彼は、しっかりと私の目を見つめて言った。
「腹括ってやるよ」
不本意そうなその言い方。
だがその内容を考えて、ある答えに行き着くと、私の胸は暴れ出し全身の体温が上昇する。
嬉しくて頬が緩んでしまう。
「笑ってんじゃねぇ」
それを見た彼の眉間に皺が寄った。
「すみません……。でも、本当にいいんですか?」
彼自身が言った通り、私と彼の間に横たわる問題はそこそこ多いだろう。
まずは十個は離れている年齢。
それに伴う世間の反応。
そして、仕事が忙しい事。
他にもまだまだ見えていない問題はある筈だ。
それらを分かった上で、彼は「腹を括る」と言ってくれているのだ。
だけど、確認しておきたかった。
「腹括るっつっただろうが」
「私が告白したから気を遣っているだけという可能性も……」
「ねぇよっ」
照れている様な反応ではあったが、これまでの彼の私に対する発言や態度を思い返すと、やはり信じられない。
これまで、何度も私の事を恋愛対象外だという様な発言をされてきた。
その度に「この想いが通じる事はない」と悲しい気持ちになっていた。
だからこそ「なのにどうして」という気持ちがどうしても拭えない。
「だったら、どうして告白を受けてくれる気に……?」
おずおずと尋ねたその言葉に、彼は目を丸くした。
そして、暫く経つとそれが怪訝そうなものに変化する。
「……お前、分かってねぇのか?」
「な、何をですか……?」
再び彼を呆れさせてしまった事に戸惑っていると、彼はまたもや溜息を吐く。
「腹括るってのはな──……」
そこで言葉を切った彼は、再度私の顔を覗き込む様に腰を屈める。
そして、こう続けた。
「これまで考えない様にしてた事を受け入れて、それに付随する諸々を受け入れるって事だ」
「はい、それは、分かるんですが……」
「だったら分かんだろ」
「えっと……自分に都合のいい考えなら……」
そう、考え着くのは一つ。
だがそれはかなり私に都合がいい。
だからこそ口にするのは踏みとどまってしまう。
自分なりに彼の先程の発言を考えると、どうしてもこう考えてしまう。
彼は以前から私に好意を持っていて、だけどそれを告げたところで色々な問題が発生する為に黙って押し込めていた。
ところがそんな事を露ほども知らない私が先に想いを告げた為、彼は腹を括ってそれを受け入れる事にした、と。
「でもそんなのあり得ないですよね……」
「わざと鈍いフリをしてんのか、それとも天然か、どっちだ?」
「えっ」
「分からねぇなら、教えてやる」
「あ、あのっ────」
それ以上、言葉を発する事は出来なかった。
再び唇に熱を感じたからだ。
彼の右手がドアを離れて、私の後頭部の髪の間に差し込まれると、そこに力が加えられて私の背中はドアから離れる。
角度を変えて啄ばむ様に落とされるそれに息が詰まる。
そこから「愛おしさ」を感じてしまった私の視界は再び滲んでいく。
息苦しさに耐え切れなくなって彼の胸元に手を当てて、軽く押し返したが彼はそれを止めず、何度か小さく啄ばんだ後、最後の一つは長めに啄ばむと、名残惜しそうに離れていった。
「ちょ、うの、さん……」
素早く酸素を取り込む為、はぁはぁ、と息を切らして、初めて彼にキスをされた時と同じく足に力が入らなくなった私は半ば彼にその身体を預けていた。
抗議するつもりで彼の名を呼んで見上げたが、何故か彼の方が不服そうな顔をしていた。
「んな顔してんじゃねぇよ」
それに疑問を抱く前に彼が私を抱き締めてしまった為、その表情を伺い知る事は出来ない。
「止められなくなんだろうが」
だが、忌々しげに吐かれたその言葉から、容易に彼の表情は想像出来た。
きっと苦々しい顔をしているに違いない。
想像した彼の表情に思わず笑ってしまいそうになったが、ピタリとくっついたこの状態では直ぐに笑った事がバレてしまう。
奥歯を噛み締めて、それが表に出ない様にと耐えていると、幸いな事にそれは上手くいったようで、彼は私の耳元で小さく息をついて言った。
「先に言っとくぞ。特別扱いはしねぇ。だから勤務外で会う時間はあんまりねぇ」
「…………っ、はい」
言葉に詰まったのは、決して彼の発言に不満があったからではない。
彼の「腹を括る」という発言が、私の考えの通りであったと思い知ったからだ。
「それから、まだ話さなきゃならねぇ事はあるが……」
彼は私の身体を離し、左腕に嵌めた腕時計に目をやった。
「それはまた今度、だな」
そう言った彼はその文字盤が私に見える様に腕を返してそこを指差す。
時刻は間もなく八時半。
勤務開始時刻である。
「や、やば……」
思わずそう呟いて彼を見上げると、あちらはなんて事なさそうに立っていた。
「なんでそんな余裕なんですかっ!?」
「課長だからな」
「職権乱用だ……」
「オレと居たって言やいいだろ」
「絶対疑われますから。おかしいですから。一緒に出勤する事自体おかしいのに」
「疑われて困んのかよ?」
「困ッ……りはしませんけど……」
「ならいいじゃねぇか」
飄々とした態度は崩さず、彼は資料室のドアノブを捻るそこを開ける。
彼と付き合う事になったのは事実であるし、それを嬉しく思っているのも事実ではあるのだが、それでも課内の全員にバレるのは些か恥ずかしい。
更に「一緒に出勤」となると、あらぬ想像を駆り立てる事になるだろう。
そうなればコンビを組んでいる相棒からも、それ以外の人達からも質問攻めに遭うのは目に見えていた。
課内の誰もが、資料室のドアを開けて待っているこの人に事の真相を訊こうともしないことは明白であった。
「さっさと来ねぇと遅刻扱いにするぞ?」
「い、行きますっ!」
慌てて資料室を飛び出し、彼の隣に並ぶ。
私が先に行かない事を不思議に思ったらしい彼はその眉根を寄せて「何故先に行かないのか」と言いた気だ。
そんな彼に私は胸を張り、はっきりと言う。
「私も腹を括る事にしました」
彼だけに色々な覚悟をさせる訳にはいかない。
私も彼と同じ様に、悩み、考えるべきだと思ったからこその発言と意気込みだったのだが、彼は一瞬真顔になった後、吹き出した。
「な、何がおかしいんですか?」
おかしな発言はしていない筈だ。
なのに彼は非常に愉快そうである。
「そんなに気張んなよ。……腹を括る、なんて大げさだったか」
半ば自分に言う様な彼の言葉に、私は首を振る。
「言葉の選択はともかく、課長にとって私と付き合うっていう選択肢が簡単なものじゃないって事でしょう? それをしてくれる事、嬉しく思います。ありがとうございます」
彼は真剣な表情になって私の言葉を聞いていた。
その表情を真っ直ぐ見据え、私は言葉を続けていく。
「色々と大変かと思いますが、よろしくお願いします」
「…………おう」
僅かに彼の唇が弧を描き、それを見た私の顔も自然と笑顔になった。
──が、それも束の間、始業開始を告げるベルが鳴り、私は慌てふためいた。
「って、鳴っちゃった!」
「鳴ったな」
「い、行きましょうっ、課長」
「おぅ」
これから刑事課に彼と連れ立って入るのかと思うと、思わず顔が引き攣ってしまうのだが、彼の方にはそういったものは見られない。
「……課長は余裕そうですね」
「腹括るっつったろ」
「な、なるほど……」
どうやら私と彼では覚悟の質が違う様である。
涼しい顔で刑事課へ向けて足を進める彼と、今後の事を想像して冷や汗をかいている私。
とうとう刑事課の前に着いた。
扉を開けた先にある顔を想像してみる。
きっと皆、一様に驚いた顔をするのだろう。
そんな想像が簡単に出来てしまって、眉間に皺が寄った。
ドアノブに手を掛けて、一つ息を吸う。
思い切ってドアノブを回し、それを押す様にして開けた扉の先の顔がこちらを向くと、私と課長の姿を見比べていたそれらはあっという間に想像通りの表情を作ったのだった。
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