秘め事
 下らない世間話が聞こえてくる。聞きたくもないそれは雑音にしかならず、読んでいる本の内容が頭に入ってこない洋子は眉間に皺を寄せた。
 窓際、前から三列目の席に座る洋子の斜め右前にいる男子生徒、二階堂大和は人気者だ。男子からも女子からも良く声が掛かっている。今も彼は椅子に座ったまま三人の男子生徒に囲まれている。席替えでこの配置になってからというもの、いつも彼を訪ねにくる生徒とその話し声で一日の読書量が落ちていた。今読んでいる本は当初二日の予定だった前後編だったのに、まだ後編でもう三日目だ。
「おい、嘘吐くなよ!」
 そう言って、先ほどまで話をしていた男子生徒を別の男子生徒が突き飛ばした。それはじゃれあいの範囲ではあるが、突き飛ばされた男子生徒はよろめいて洋子の机にガタンと当たる。
「あ」
 クラスで目立つ方ではない洋子を男子生徒は一瞥する。
 そして問題ないと判断したらしく洋子にはなにも言わず「危ねぇだろー」と輪の中に戻って行ってしまった。
 せめて「ごめん」でしょーが。そう思っても口にはしない。睨みもしない。なにもなかったかのように一つも頭に入ってこない本へと意識を戻す。
 チャイムがなった。名残惜しそうな言葉を口々にした斜め前の集まりは解散する。ある者は自分の席へ、ある者は別のクラスへ。洋子も本を机の中へ。
「山口さん」
 突然声が掛かって慌ててそちらに顔を上げた。大和が声を掛けたからだ。
 まさかこの人気者が声を掛けてくるとは思わなかった洋子は「な、なに?」と上擦った声を出した。
「さっき、ごめんな。ツレが机に当たっただろ?」
「う、うん」
「大丈夫だった?」
「平気。別に怪我してない」
「よかった」
 彼はそう言って微笑んだ。
 普通に話しているつもりなのに、洋子の言葉はユラユラと揺らめいていた。それは単に緊張からくるそれだ。
 二階堂大和、彼は間違いなくこの学校一のモテ男。
 単純に見た目がいい。なのに誰彼なく、洋子のように目立たない者にも分け隔てなく話し掛けて笑う。
「謝るように言っとくから」
「い、いいよ。そんな、わざわざ……」
「そう? ごめんな。ありがと」
 そう言って前を向いた二階堂との会話が終わると洋子は人知れず溜息を吐いた。
 緊張した。でもそれは彼の見目によるものでも、彼に行為を抱いているからでもない。
 怖い。それが洋子が彼に抱く印象だった。だから溜息は感嘆のものではなく、安心からくるものだった。
 二階堂大和を怖いと思ったのは入学してしばらく経った頃だった。二年の今も、一年のその頃も洋子と大和は同じクラスだった。
 誰とでも楽しそうに話す彼は誰ともほとんど話をしない洋子とは対照的で、だからこそよく観察した。父がよく言っていたのだ。「人を観察するように」と。父のことは嫌いでも、その教えは洋子を助けていた。人を観察していると細やかなところに気が付いた。仲良く話していながらさして仲良くない女子三人。大して好きでもないのに付き合っているカップル。一人だと怖いからなのか、誰かの輪に入りたがる男子。想いを寄せる女子、男子とその相手。
 そして、誰とでも話しながら一定の距離を取る二階堂大和。
 それに気が付いたとき驚いた。それに気が付くまでにかなりの時間を要したからだ。洋子がそれに気付いたのは一年も終わりの頃で、一瞬での出来事だった。
 そのとき彼らは家庭のことを話していた。あのときも先ほどと同じように聞くとなしに彼らの会話が聞こえてきたのだが、順番に家のことを話していて、大和の番になったとき、その声が冷気を帯びた。一瞬の、凍るような声色は誰も気が付かなかったのか、それとも気が付いていて無視したのか、とにかくその一瞬で洋子は二階堂大和≠ノ興味を持った。
 それは男女の意味を持つ興味ではない。彼の隠された事情に興味を抱いたのだ。
 もちろんそれを尋ねることはなく、日々は過ぎていき、幸か不幸か二年も同じクラスになった。恐らく大和の方は洋子を意識していないだろう。彼が洋子の名字を口にしたのも、必死に思い出したからに違いないと洋子は考えていた。
 知りたい。好奇心からくるその気持ち。二階堂大和が家庭に一体どんな思いを抱いているのかが知りたい。知ってどうこうするつもりはない。ただ、知りたかった。



 その日は晴れの予報だった。制服はすっかり夏服になっていて、もう一月もすれば夏休みに入る。ジメジメとした梅雨はまだ続いているが梅雨の中休みといったところだろうか。
 だからそれまで活躍していた折りたたみ傘を玄関に置いて出掛けた。帰りに本屋へ寄って新しい本を二つ三つ見繕う気だったからだ。荷物は少ない方が良い。
 放課後、本屋へ寄ってご機嫌な洋子だったがポタッ、ポタッと嫌な音がしたかと思うと空から大粒の雨が降っていた。
 こんなことならば傘を持ってくるんだったと後悔しながら家路を走る。さっき買った本はビニール袋に入っているから無事だろうが、洋子自身は無事ではない。タオルの類いもないし、今は夏服のセーラー服でこのまま雨に濡れ続けると透けてしまう。なるべく早く帰らなくては。
 急いでいながら安全確認は怠らない。大通りに合流する細い道から車が来ないかを確認しようと雨差しにしていた左手をそのままにそちらに目をやったときだった。
「二階堂くん?」
 細い道のど真ん中で傘も差さず、雨に降られるまま曇天を見上げているのは間違いなく二階堂大和だった。
 大和は洋子の声に反応する。
「山口?」
「なにやってるの? 風邪引くよ?」
 慌ててそちらへ駆け寄った。しかし、彼は動かない。それどころかまた空を見上げてしまった。
「にか――」
「早く帰れよ。風邪引くぞ」
 先ほど洋子が大和に送った言葉をそのまま返してくる。
 拒絶された。
 そう感じた洋子は怯む。彼に対する恐怖が顔を出す。このまま「じゃ」と帰っても彼は洋子を恨まないし、このことについて誰かと話すこともしなかっただろう。
 二階堂大和は怖い。
 そう思いながら、洋子は気が付けば彼の腕を取っていた。
「走って」
 それだけ言うと彼の腕を握ったまま走り始めた。意外なことに、大和は洋子の後を付いてきた。
 この機会を逃せば一生彼に触れることはない、彼のことを知ることはないと察しての行動だった。そして、それは事実だ。
 しばらく走って、ある大きな家の和風門下へと飛び込んだ洋子はそこでようやく大和の腕を解放した。
 そこに付いた格子戸を洋子は遠慮なく開ける。
「入って、二階堂くん」
 そういえば、一瞬目を丸くした大和が門の内側へと足を進める。飛び石を歩いている間は再び雨に降られたが玄関に着くと当然ながら雨は当たらない。
 洋子は濡れて色の変わった鞄から鍵を取り出した。そしてそれを玄関戸の鍵穴へと差し込むと捻った。カチリと音がしてそこが開いたことを告げる。
「とりあえず上がってよ」
 洋子が玄関へ入るのに続いて、躊躇いがちに大和がそこへ。彼が何かを発する前に洋子は雨を吸って重たくなった革靴を脱いで式台に上がった後、そのまま靴下もそこで脱いで遠慮なく磨き上げられた板張りの廊下を歩いて行った。
 セーラー服の裾から雫が垂れている。それが洋子が通った道を付けている。
 洗面所へ赴いた洋子はそこの備え付けの棚から何枚かのタオルを取り出して戻ろうと振り返った。
「わっ!」
 玄関に居たはずの大和が洋子と同じ様に制服の裾から雨雫を垂らして素足そこにで立っていた。
「待っててくれたらよかったのに」
「上がってって言われたから」
 そう言われて、そういえばそう言ったな、と洋子は思い出した。でもあの上がって≠ヘ玄関に≠ニいう意味であって家に≠ニいう意味ではない。
 まぁどちらにしろ廊下は洋子が濡らしたし、上がってはもらうつもりだったからいいかと思い直し、タオルを何枚か彼に渡した。
「制服、ここで脱いで。すぐ代わりの服持ってくるから、今度は待っててね」
 大和はなにも答えなかった。それを了承の返事だということにして洋子はタオルでスカートの裾を包んで絞った後、洗濯カゴにそのタオルを入れてから洗面所の扉を閉めてそこを立ち去る。
 冷たい廊下を素足で歩きながら制服を緩めて行き、ながらく使っていなかった二階のある部屋を目指した。
 掃除はされているはずだ。問題はそこのクローゼットの中身。無事だといい。彼に着せる服はそこにしかない。
 二階へ上がり、目的の部屋着くと扉を開ける。予想通り、掃除の行き届いた部屋だった。クローゼットを開けて中を探ると幸いなことに新しいワイシャツとベージュのチノパンが見つかった。きっとサイズは合うだろう。最悪大きくてもいい。彼が帰るまでの間だけの話だ。その下に新しい下着が入っているのが見えた。一応これも持っていこう。洋子はそれらを手にそこを後にする。一時は捨てようかと思ったりもしたが捨てなくてよかったと思いながら。
 洗面所の前まで戻ってきた。扉を軽くノックする。
「二階堂くん、ここに着替え置いとくね」
「おー、ありがとう」
 教室でいつも聞く彼の声だった。どうやら洋子が着替えを取りに行っている間にスイッチを入れたらしい。
 いつ彼が出てくるか分からないため、足早にそこを離れる。今度は自分の着替えだ、と再び二階へ上がろうとしたとき、洗面所の扉が開く音が聞こえた。
 自室で制服を脱ぎ、部屋着に着替えた。パイル地のパーカーとショートパンツだ。着替えてから、ふと鏡に映った自身の姿を見て不安になる。こんな格好で同級生の、それも異性の前に出てもいいものか。そう思ったが、彼が自分に何かするとも思えない。変に固い服を着た方が意識している気がしたのでそのまま彼の前に姿をさらすことにした。
 濡れた制服を手にしながら濡れている床を拭きながら階段を下りて洗面所へ向かう。洗面所への廊下を曲がったとき、その前に立っている大和に気が付いた。
 その立ち姿に一瞬見惚れる。ただなんてことない服を着て立っているだけなのにかっこよく見えた。しかも首には白いタオルが掛かっている。それなのにかっこいいのは狡い。
「さ、サイズ、大丈夫だった?」
 一瞬戸惑ってそう聞くと、こちらに気付いた大和がパンツの裾を気にしながら言う。
「大丈夫だったよ。親父さんの?」
「うん。そう」
「勝手に使ってよかったのか? 怒られたり……」
「しないしない。死人に口なし」
 そう言った瞬間、大和の動きが止まった。
「あ、いやだった?」
「そうじゃなくて、……悪かったな、軽々しく」
「あぁ、大丈夫。結構前のことだから。それより制服、乾燥機に掛けていい?」
「縮まね?」
「縮むかもね。でも濡れたまま持って帰りたくないでしょ?」
「それもそうだな。じゃあ頼むわ」
「おっけー」
 大和の脇を抜けて洗面所へ入り、自分の制服と大和の制服をドラム式洗濯機に入れて乾燥を掛け始める。
 床を拭いたタオルは洗濯カゴへ入れ、また新たにタオルを出すと湿った髪を拭く。
 ふと、洗面台に出した下着が置いてあるのが見えた。下着は無事だったのか、それとも嫌がったのかは分からないが履き替えなかったようだ。
 あらかた拭き終わるとそのタオルを首に掛けてそこを出る。
「終わるまであっちに居ようか」
 そう言って洋子は廊下に立っていた大和を先導する。
 玄関にほど近い、物置と化している紙だらけの和室。廊下と部屋を隔てる襖を開けて大和を入れる。縁側へと続く障子は閉じられていて外の様子を伺うことは出来ないが雨足は強くなっているようで、雨音が聞こえていた。
 そこに大和を案内した後、「ちょっと待ってて」と言い残し、今度は一階の廊下を先ほど髪を拭くのに使ったタオルで拭いて回る。玄関から洗面所へ続く廊下を適当に拭いた後、洗面所へ再び入り、それもカゴに放り込んだ。大量にタオルの入ったそれを見て、少しだけ使いすぎたか、と思ったが緊急事態だったからやむなし、と思い直して今度は台所に立った。暖かいお茶を入れるためだった。お湯を沸かしている間、とうとう洋子は我に返る。
 私、二階堂くん連れ込んじゃった。
 今思うとなんという大胆なことをしたのか。そうは思っても、もう彼はあの和室に居るし、彼の制服もうちの乾燥機で回っている。
 とにかく乾燥機が終わるまでだからと自身に言い聞かせた洋子は煎茶を入れ始めた。
 急須と、湯飲みを二つ盆に載せて運ぶ。
「お待たせ」
 そう言って和室に入ると、彼は畳にあぐらをかいて座っていた。その手には、その部屋に置かれていた紙の束。
「これ、山口が書いたのか?」
 大和は表紙を指先でトントンと叩いて示す。
「う、うん。でも没になったやつだよ」
「没って、あんた本当に脚本書いてんのか?」
「ううん。見てもらってるだけ。採用してもらったのは数えるほど。それもラジオとかのちょっとしたやつ」
「へー。すごいじゃん」
「すごくなんか……」
「卑下しなさんな」
「すごいの、かな?」
「凄い凄い」
「あ、ありがとう……」
 照れながら礼を言うと大和が微笑む。それは本物の笑みに見えた 
「あ、暖かいお茶入れてきた」
「さんきゅ」
 急須から湯飲みに煎茶を注ぎ入れると湯気が立つ。一つを大和に、一つを自分の前に置き、表面に息を吹き掛けて少し冷ますとそれを飲む。暖かさがじわりと身体に染みていく。
同じ様にして何度か湯飲みを傾けている洋子に対し、大和はまだ飲まない。
「二階堂くんも飲めば? 暖まるよ」
「おー」
 そういった彼は洋子と同じ様に表面に息を吹き掛けてそこを冷ます。が、なかなか終わらない。
「長くない?」
「うっせーな。……猫舌なんだよ」
「……うそ」
「こんなことで嘘なんか吐くか」
 少しすねた様子の大和に洋子は目をしばたかせると、一気に笑い出した。
「二階堂くん、似合わない」
「笑うなよ。俺だってなりたくてなったわけじゃねぇんだから」
 今にも笑い転げそうな洋子に、大和は更にすねた態度を示す。
 意外な同級生の姿が洋子は面白くて仕方なかった。
 一分程掛けて表面を冷ました大和は意を決した様子で煎茶を啜る。
「熱ッ……」
「えー」
「火傷した」
「氷入れる?」
「それじゃ意味ないだろ」
 不思議だ。あの二階堂大和とにこやかに話している現状が。
 不思議だ。今は彼に恐怖を感じない。だからうかつに聞いてしまった。
「二階堂くん」
「ん?」
「さっきなにしてたの?」
「さっき?」
「ほら、路地で」
 その瞬間、彼の纏う空気が変わったのが分かった。これだ、この感じ。凍てつくような、刺さるようなこの感じだ。
「空、見てた」
「ふーん」
 自分から言い出してたものの、洋子はもうこの話題を終わらせたかった。こんな空気のまま小一時間彼と同室にいるのは嫌だと思った。
「山口は? なにしてたの? 下校してから結構経ってると思うけど」
 身体の後ろに両手をついてそちらに体重を乗せた大和が洋子に話題を振る。空気が少しだけ和やかになる。それにホッとしつつ洋子は答えた。
「本屋に行ってたの」
「本屋?」
「うん。新しい小説を見に行ってて悩んでたら結構掛かっちゃった」
「へー、なに買った?」
「知ってるかな? タイトルはね――」
 そう言って本のタイトルを告げる。それは最近映画にもなった本で、主演はあの日本を代表する名優・千葉志津雄だ。作品自体も渋いので若い人は知らないだろうと思ってのことだった。
 さっき一瞬和やかになった空気がまた凍った。何かまずい発言をしただろうかと不安になる。だがそれに見当が付かない。それもそのはず、大和と洋子がちゃんと話すのはこれは初めての事だ。
 彼の髪先から垂れた雫が首に掛けたタオルに染み込む。
「二階堂くん、髪濡れてるよ」
 大和はなにも答えない。機嫌を損ねてしまったようだ。まるで猫のようだな、と思いながら洋子は戸惑いを隠せない。
「二階堂くん?」
 今や彼は下を向いて黙り込んでいる。前髪で隠れてその目元が見えないため、なにを考えてるのかが分からない。
「にかいど――」
「大和」
「え」
「大和って呼んで」
 突然の彼の申し出に洋子は混乱する。なぜ名前呼びを強請られるのかが分からない。
「な、なんで私が二階堂くんのこ――」
「大和。言ってみ?」
 彼の目が洋子を射貫く。鋭いその眼光に息を飲む。また一つ雫が垂れる。
 いつの間にか口内に溜まっていたつばを飲み込む。唇を舐めて湿らせる。どうしてここまで緊張するのか。彼の名前を口にするだけだ。
「早く」
「や、やま、と、くん」
「ん。もっかい」
「やまとくん」
「うん」
 さっきまであんなピリリとした空気を纏っていたのに洋子の瞳に突然彼が弱々しく映った。髪から垂れる雫も、彼のそれに拍車を掛けているように思えた。
「髪、拭いた方がいいよ。やまとくん」
 ぎこちなく、彼の名前を呼ぶ。どうして、ついさっきまで単なるクラスメイトだったのに、どうして名前で呼ぶことになってしまったのか。
 戸惑っている洋子に大和は更なる要求を繰り出す。
「山口が拭いて」
「えっ」
「風邪引くから、早くな」
 そう言って大和は首に掛けたままだったタオルを片手で取り去って頭に乗せ、その頭頂部を洋子に向けた。なぜそんなことをさせられそうになっているのか全く理解が追い付かない。
 今や大和の纏ってる空気や、言葉が洋子に有無を言わせない。その証拠にしばらく固まっていた洋子だったが、怖ず怖ずと彼の頭に乗っているタオルを手に取るとそれを広げてそこに掛ける。
 大和の正面に膝立ちになり、ゆっくりと彼が痛くないように気を付けて頭を拭き始めた。
 彼が使っている洗髪剤の匂いか、それともワックスか、甘いような香りが鼻孔を擽る。それを意識しないようにしながらワシワシと頭を擦り続けた。
 急に大和が洋子の腕を掴んだ。思わず身体をびくつかせてしまう。ぞっとするほど冷えた手だった。
「ありがと」
「手、冷たいよ。……お風呂入る?」
 これだけ冷たいということは寒いのではないか、そう思ってそう提案した。なのに――。
「それは、お誘い?」
「なっ!」
 大和のセリフに驚き、後ろに倒れそうになった洋子の腕を大和が掴んだまま引いたため、彼女は倒れずに済んだ。だが、その代わりに大和との距離が近くなる。引かれた手がその勢いで大和の頭を追い越した為、彼に倒れ込みそうだった。そうならないようにと慌てて手を付いたが、付いた先は大和の肩でその角張った感触と彼の体温に思わず赤くなる。手とは違い、彼のそこは暖かい。
 洋子から二十センチほどの近さに彼の額があった。その距離と感触、そして体温に戸惑っていると、大和が顔を上げて少し上目遣いに洋子の目を見た。真正面、至近距離。こんな近さで他人と接触するのは初めてのことだ。
 洋子の目を見たまま彼は言う。それはどこかがっかりしたような、からかうような声だった。
「なんだ、違うの。期待したのに」
「に――やまとくん、そういう冗談言うんだ」
「冗談に聞こえる?」
「ッ」
 まさか。
「……寒い。――……なぁ、あんたが暖めてくれよ」
「冗談はやめっ――」
「冗談じゃない」
 そう言って、大和は肩に掛かった洋子の腕にツイっと頬を寄せた。
「暖めて。洋子」
 一気に全身の血が沸騰した。なぜ彼は自分の名前を知っている? なぜ、今それを呼ぶ?
 こういうとき、男の子はなにを考えていて、なにを求めているのか。
 観察しろ、想像しろ。
 二階堂大和がなにを求めているのかを。自分がどうするべきかを。先の一手を。
「洋子……」
 吐息混じりに名前を呼ばれる。そうされて彼を無視出来る人がいるなら連れてきて欲しい。そう頭の中で誰かに愚痴りながら洋子は捕まれていた手を彼の頭に伸ばしていく。柔らかな彼の髪に触れたその手に力を入れて、彼の頭を自身の胸元へ引き寄せた。そして空いている方の手を彼の首の後ろに回し、頭を抱き締めた。甘い香りが強くなる。
「…………暖めて、ってこういう意味じゃないんだけど」
「分かっているよ。……でも、これがいいかなって」
 洋子は自分と大和の距離を測る。
 互いに雨に降られた、ただのクラスメイト。同じ部屋にいて、同じ茶を飲むほどに近いが彼との距離はまだ遠い。そういうことはもっと近くにいる人とするべきだ。
「なんだそれ、意味わかんねぇ」
 抽象的な言葉を並べたせいか、彼にはそう切り捨てられてしまったが、彼自身も何か思うところはあったのだろう。突き放すことはせず、洋子にされるがままだ。
「今は、これで我慢して。――それに、」
「……それに?」
「やまとくん、なんか、辛そうだから」
 名字ではなく名前で呼ぶように頼んだ大和が洋子の目には弱々しく映った。
 教室で見る限り、彼は飄々としている。それでいて人望を集めてしまうのは彼の容姿もそうだが、最もたる理由は彼の地頭の良さだろう。
「何があったか知らないし、詮索もしない。でもずっと我慢してたら疲れちゃうよ」
 洋子の言葉は実際のところ思いつきだ。なんとなくそう思った。それだけでその言葉達を繰り出していた。
 もしかすると、彼はこのまま自分を突き放してしまうかも知れない。でも、それでもいい。空を見上げて雨にされるがまま立っていた大和を見てから、洋子は自分が、どこかいつもと違うのを感じていた。具体的に述べろといわれたら、どこかは分からないが。
「ホント、意味わかんねぇ」
 不意に大和がそう言った。言った後、だらりと下げていた腕を持ち上げたかと思うと、それを用いて洋子の腰を抱き締める。二人の距離がゼロになる。
 互いの体温を確かめるようにしばらくの間そうしていた。洋子は時々大和の髪を手櫛で梳き、大和は時々頭の位置を変える。
 時間が流れていく。強かった雨足の音が段々小さくなっているのに気が付いていながら、離れる気にならなかった。先ほどまで外からの雨音で気にもならなかった壁に掛かった振り子時計の針を刻む音が聞こえるほどの静寂が部屋を支配している。そこで聞こえるのは、時計と、二人が動いたときにする衣擦れの音と、その息遣い。
 どれがどちらの体温か、どれがどちらの匂いか分からなくなった頃。遠くで洗濯機が乾燥を終えたアラーム音がした。
「終わったね」
 そのままにしては皺になるかも、という思いから洋子はしばらく閉じていた口を開いて言った。
「だな」
 それに対して、大和も同じように久しく閉じてた口を開く。
 お互いに息を吐いて、どちらからともなく離れていった。さきほどまでくっついていたところが離れ、そこに空気が入り込み、僅かに冷える。
「雨、止んだかな」
 言いながら洋子は立ち上がって縁側を開けた。何事もなかったかのように接するのは、どうしていいか分からなかったからだ。お互いに一時の気の迷い≠ノしておいた方がいいかも知れないと思った。
 手入れの行き届いた、苔むした庭。父のお気に入りだったそこを打っていたであろう雨は遠くへいったようだ。
「止んだっぽいね」
「そっか。今何時?」
「今は――」
 立ち上がって洋子の隣に並び、庭を眺めながら言った大和の言葉を受けて、洋子は壁でコチコチと時を刻む時計に目をやる。既に時刻は六時を回っていた。
「六時過ぎ」
「んー、そろそろ帰るかな」
「じゃあ、制服取ってくる」
「よろしく」
 まだ庭に目を向けている大和をそのままに、洋子は廊下へ出て、洗面所を目指す。運転を停止している洗濯機を開けて二人分の制服を取り出すと女子と男子の物に分けて畳み、男子の分だけを手にして和室へ戻る。
 大和は開けた障子の桟に凭れてまだ庭を見ていた。
「やまとくん、制服」
 洋子が声を掛けると彼が振り向く。
「おう。ありがとう。縮んでた?」
「ちょっとだけ」
 その場を離れて大和が近付いてきたので洋子は畳んだ制服を差し出した。畳むときに少し縮んでいるような手触りがしたので伝えておく。
「まぁ着てりゃ伸びるだろ」
「着替えて帰る?」
「そうすっかな」
「じゃあ、出てるね。終わったら呼んで」
 返事を待たずに部屋を出て襖を閉める。その場で待っているのも気が引けるので再び洗面所へ行き、お風呂へと続くドアを開き、お湯を溜めることにした。
 それから台所へ寄り、冷蔵庫を開けて整然並ぶ大きめのタッパの一番上を取り出すと、それをレンジに入れて温め始める。この家の家政婦・幸恵が作った洋子の夕飯だった。
 洋子は和室に戻る。
「入ってもいい?」
 そう聞くとやや間があって、「どーぞ」と返事があった。襖を開ける。そこにはいつもと少しだけ違うが教室で見る二階堂大和が立っていた。違うのは制服が少し縮んでいる点と少し広がった髪の毛となにも履いていない足。
「靴下も乾燥機に入れたらよかったね」
「すっかり忘れてた」
「そっちはビニールに入れて持って帰る?」
「貰ってもいいか?」
「うん。取ってくる」
 再び台所へ行き、すでに活動を終えたレンジの扉を開けてアラート音が鳴らないようにしてからビニール袋が入っている引き出しを開けて二枚取り出した。
「お待たせ」
 言いながら大和に袋を手渡す。「なんで二枚?」と聞かれ、「重ねるかなと思って」と答えた。その方が安全だろうと思ってのことだったが、大和はそれにも礼の言葉を述べた。
「すっかり世話になったな」
「いいよ。私が勝手に引っ張ってきたんだし」
 洋子の言葉に大和は小さく笑った。そしてからかう口調で言う。
「まぁそれもそうだな。……いやー、お前って以外と大胆なんだな」
「大胆かな?」
「大胆だろ。誰もいない家に男連れ込むなんて。初めてだよ」
 その言葉を洋子は慌てて否定する。
「そ、そんなつもりで入れたわけじゃっ」
「分かってるって」
 必死な様子の洋子を見て大和は楽しそうにしている。その様に、洋子は内心驚いていた。これほど屈託なく笑っている二階堂大和を見るのは初めてのことだった。しかも、そうさせているのは、なんと自分だ。
「なんだよ」
 まじまじとその顔を見ていた洋子を彼は不審に思ったらしい。
「いや、なんていうか。そういう風に笑うんだなって思って」
「……いつも笑ってるでしょ。教室で」
「うん。そうなんだけど。なんていうか……嘘がない感じ?」
 一瞬の沈黙。
「そんなこと初めて言われたわ」
「あ、ごめん。失礼なこと言った」
「別に。……当たってるかもな」
「え」
 小さくて聞き取れなかった大和の言葉を聞き返した洋子を無視して、彼は大きく息を吐く。
「さて、と。そろそろ本当に帰ろうかと思うんだけど。――それとも、俺に泊まって欲しい? 今度は何もしない自信ないよ」
「ひっ!」
 突然、色気のあるセリフを言われて洋子は小さく悲鳴を上げた。
「なんだよ、その反応。普通照れるとこだろ?」
 そうは言いながら、ここでも大和は楽しそうだった。
「そ、そういう経験はないので……」
「ほー。まぁ、そうじゃねぇかな、とは思ってたけども。……なんだったら俺が色々教えてやろうか?」
「け、結構です。別の方でどうぞ」
 それは本心だった。大和と自分では共通点がなさ過ぎる。今回はたまたまこういった状況になったが、本来であれば会話を交わすことも、視線が交わることもなかっただろう。だから今は奇跡のような時間だと洋子は考えていた。
「げ、玄関までお送り致します……」
 突然色気のある発言をし始めた大和に戸惑いながら洋子は言った。半身をずらして玄関を手のひらで指し示す。
「はいはい、じゃあ案内お願いします」
 笑いながら言った大和が足を襖に向けて退出を図る。洋子の前を通るとき、彼の発言に恥ずかしさを覚えて俯いていた彼女の顎を大和の指が掬った。上を向かせられてバッチリと目が合うと、大和の顔が半ば呆れたような笑みを作り、
「顔、真っ赤」
 慌ててもう一度俯いて、早足に玄関へ向かう。バクバクと心臓が全身に血液を送り始める。洋子は身体が熱くなるのを感じた。恥ずかしい。なんとか顔の火照りは収めようと手でパタパタと風を送ってみるが、なかなか上手くいかない。
 それほど距離があるわけではないのであっという間に玄関に着いた。
 濡れた男物の大きな革靴。それに掛かっている靴下は大和のものだ。洋子自身も同じ様に濡れた革靴に引っかけている。あとで洗濯カゴに入れなくては。
 その傍らには濡れた通学鞄が置かれている。一つは大和、一つは洋子の物だ。
 こちらも後で乾かさなくてはならない。そういえば、買った本を入れたままだった。あとで無事か確認しよう。そんなことを思ってふと気付く。
 本が好きだ。出来ればずっと読んでいたい程に。なのに、あの時は大和を優先した。もちろん、間違いではないだろう。だが、そんな自分の行動が意外に思える。
 大和は式台の上に乗って先ほど洋子が渡したビニール袋に靴下を入れていた。袋はきちんと二枚重ねたらしい。通学鞄にそれをしまってから肩に掛けると、彼は濡れた革靴に素足を突っ込んだ。
「っ、冷てっ」
「濡れてるもんね。風邪引かないようにね」
「おう。お前もな」
「私は今から入るから」
「へぇ。じゃあ、洋子ちゃんの入浴シーン、想像しながら帰るわ」
「なっ、何言ってんの!?」
 焦って思わず彼の肩をバシンと叩く。大和が一段低い位置にいた為、簡単にその肩を叩くことが出来たが叩いた後で不安になる。こんな親しげな行動を取れる間柄ではないというのに。
「いって」
 だが彼は洋子のその行動を受け入れていた。ほんの数時間前はただのクラスメイトだった。その彼と今こうして親しげな会話を交わしている。人生何があるか分からないものだ、と洋子は痛感していた。
「あ、そうだ、やま――」
 彼に呼び掛けようとしてはたと気付いた。先ほどはその場の雰囲気で彼を名前で呼んだが、彼と親しくなったわけではない。呼び名を戻すべきか、否か。
 そう考えて洋子は前者を選んだ。
「二階堂くん」
「大和でいいよ。俺も洋子≠チて呼ぶから」
「で、でも――」
「あぁ……ただ、学校では二階堂≠ナよろしく。俺も名字で呼ぶし」
「わ、分かりました」
「なんで敬語よ」
 学校では呼び名が違う、なんてまるで彼と秘密の関係にあるようだ。そう思って洋子はまた恥ずかしくなった。
 でも実際はなにもない。ないと言って良いだろう。ただ洋子は大和の頭を抱き締めただけで、大和も洋子を抱き締めただけだ。
「なんか、イケないことしてるみたいじゃね?」
 ニヤニヤと大和がそう言ったので、洋子はもう一度、今度は無言で大和の肩を叩いた。
「いってーな、もう。――それで? なんか言いたかったんじゃないの?」
「あ、そうだ。忘れるところだった」
 大和にからかわれてすっかり頭から追いやられていた。
「あのね、私が話作ってること内緒にしてて欲しいの。何があるってわけでもないけど、恥ずかしいから」
 話されて迷惑するわけではない。誰も尋ねては来ないだろう。それでも洋子にも羞恥心というものがある。まだまだ未熟な身だ。だから伏せておいて欲しかった。
「分かった。これも二人だけの秘密、な」
「うん、お願い」
「他には? ないのか、秘密にすること?」
「他? 特にないかな」
「そう? ホントに?」
 念を押す大和を不審に思う。
「俺と抱き合ったことはバレてもいいんだ」
「……っ!」
 ニタリと笑って言った大和を今度は叩けなかった。忘れていた大和の体温や匂い、それに感触を思い出して、せっかく逃げていた熱が戻ってくる。
「あははっ、安心していいよ。誰にも言わないから」
「ほ、ホント?」
「言わない言わない。俺もそこまでして何もしなかった根性なしだと思われたくないからな」
「根性なし……」
「……それとも、した方がよかった?」
 その言葉に腕を振りかぶると大和が防御の姿勢を取って謝ってきたので洋子はそれを下ろした。代わりに言葉の刃を向ける。
「やまとくんって意地悪なんだね。知らなかった」
「そう。俺って結構意地悪だよ。……だけど、俺も知らなかったな」
「何を?」
「洋子ちゃんが、意外と巨乳だってこと。着痩せするタイプ?」
 言いながら大和が顎に手を当てて洋子の胸に厭らしい視線を送る。慌ててそこを両手で庇って「セクハラ!」と言った洋子は大和が笑っているのを見るや否や、慌ててその手で大和の肩を掴み、くるりと回転させるとその背中を押す。
「ほら、帰って帰って!」
「ひでー。追い返すの?」
「セクハラ、お断りなんで!」
「洋子ちゃんだって、さっきまでノリノリだったじゃん」
「違います!」
 玄関にあった適当なつっかけを履いて大和を玄関戸まで押し出す。
 雨は上がっていたが、外は先ほどの雨で不快なほどに蒸しており、辺りには雨の匂いと湿気た緑の匂いが立ち込めている。
 夏が近くなってきたとはいえ、天候のこともあり辺りは暗い。
「気を付けて帰ってね」
 いくら彼が男でも危なさに変わりはないと思い、洋子は大和にそう言った。対する大和はさして気にも止めていない様子で返事をする。
「おー。また明日な」
「う、うん。また明日」
 こうして誰かと翌日に通じる挨拶をするのは久しかった。だから戸惑った。その相手が二階堂大和であることもその要因の一つだった。
 洋子の戸惑いを感じたらしい大和は笑い声を出して笑うと、一切振り返ることなく表へと通じる和風門を抜けて敷地から出ていった。それを見送っていた洋子は、しばらくそこを動かずにいたが、一つ大きな息を吐くと玄関の方へ身体を向け、その中へ足を進めた。
 湯飲みを下げる為に先ほど大和といた和室へ入る。杉の木で出来たデーブルの上に湯飲みが二つ置いてある。
 それを下げながらふと目を向けたのはこの部屋に置かれている紙の束達。
 それらは洋子が書いた脚本だ。脚本といっても完成したものばかりではなく、パソコンで打ったものをただ印刷しただけのものが大半であり、これらをテレビ局の関係者に見せて気に入られれば採用となり、企画会議に掛けられる。その時点で合格となれば今度はゲラが手元に届く。テレビ局側である程度編集されたものになるが問題ないかの確認を洋子に求めてくるのだが、基本的に洋子がNGを出したことはない。どんな形であれ、採用されることに意味があるからだ。
 それは洋子の生業だった。これがなくてはご飯も食べられないのである。
 ただ、実際のところ、それほど切羽詰まった生活をしているわけではない。それでも洋子はそう考えていた。だから脚本作りに真剣でいられるのだ。
 洋子が脚本を書いているのを知っている人間はこれで二人になった。もちろんテレビ局関係者を除いて、であるが。その二人目がまさか同じクラスの、それも男子生徒、更に言えばあの二階堂大和になるとは思ってもみなかった。
 あのとき大和が手に取っていた脚本を確かめるために洋子は盆をテーブルに置くとそちらに近付いてそれを取った。
 その表紙に目を走らせた時、「あぁ、なるほど」と納得した。
 そこには脚本のタイトル、作成時の日付の他に作者名が記載されている。もちろん洋子の名前だが、それで不自由しなかったため、そこには本名が綴られているのだ。
 これで大和が洋子の名前を呼べた理由が分かった。彼はこの名前を見たのだ。そうとしか考えられない。洋子と大和は真反対に位置するような存在だ。そんな人が自身の名前を覚えているわけがないと洋子は思っていたのだ。
 それと同時に、こんな単純な解があることを見逃していた自分に驚いた。大和が自身の名前を呼んだとき、洋子は大層驚いた。だが分かってしまえばタネは簡単で、なんてことはなかった。裏を返せば、それだけ動揺していたということにはなる。
 ただのクラスメイト。接点のない男子生徒。掴めない二階堂大和。
 関わることなどないと思っていた彼の名前を呼び、そして呼ばれる関係になるなど、誰が想像できただろう。だから、動揺しても仕方がない。そう洋子は自分を納得させる。
 脚本を元あった紙のタワーの最上部に積んで、今度こそ盆に持ち替えて部屋を後にした。
 これから温めた夕飯を食べて、お風呂に入らなくては。明日も学校がある。
 どんな顔をすればいいのか分からなくなった、学校が。/swing/novel/4/?index=1